長いものには巻かれない

通行人C「左目が疼く…!」

深夜勤務




 がくり、眠気に持っていかれそうな体を叱咤して立て直す。
 カタカタとキーボードを叩く音だけが響く無機質なオフィス。
 窓の外は真っ暗で、外からの音は一切聞こえない。



 そんな静寂しじまのなか。
 蛍光灯の明かりが、この部屋だけを照らしていた。だから外からはここがぽっかり浮いて見えている事だろう。



 しかし、そんなところに目などくれてやるいとまもない。
 俺の目はブルーライトを放つ電光板にのみ向けなければならないものだから。



 カタカタカタカタ、無機質に鳴り続ける多重奏。
 その中で、ようやく生まれた声があった。



「砂上さん、これもお願いします。」


「おぅ、そこ置いといてくれ。」



 生まれた、とは言ってもその会話はそんなもの。
 ただの業務連絡で、そのまま途絶える。
 あとはどうせまた静寂に呑まれるのだと、そう思っていた。



 しかし、そこで途絶えるはずだったそれは続くことになる。
 理由は目の前に置かれた書類に視線をくれて思うところがあったから。
 続く声は俺の喉から吐き出された。



「あ、これはいらん。てめーの仕事だろがよ。」


「ちっ、ばれたか。」



 置かれた書類の中から無造作に掴んだひと束を突き返すとよく知るその人は舌を打った。



 巧妙にも自分の仕事を押し付けようと目論んだ矢鎚は、渋々と言った様子で束を受け取る。
 その拗ねたような顔を俺は呆れを孕んだ目で見据えた。



「バレるわ。俺が何年社畜やってると思ってんだ。エリート社畜なめんじゃねえ。」


「くぅ!これが何年か後の私の姿だというのっ!」



 悔しそうに歯噛みして頭を抱える矢鎚。
 数年後の自分の姿に絶望しかないようである。憐れなことだ。



 してやったりと笑ってみせると、矢鎚は大袈裟に涙をためた目でこちらを睨んだ。
 そして、何かに気づいたのか俺のデスクの上をひょっこり覗き見る。



「あ、お弁当ですか? うらやまし〜。」


「あぁ?」



 周りに気を使ってか囁くような小さな声で矢鎚がそう耳打ちした。
 一瞬意図が掴めず首を傾ける。



 その目が映しているのは食べかけの弁当箱だった。
 それなりに整頓されたデスクの上で、唯一露わになっている机の上板うわいたの部分。
 そこに開いたままになっている使い古したプラスチックの箱だ。



 間食する時間なんてないからな。せめてと仕事の合間につついていたのだ。
 確かに時計をみやれば夜勤を始めてもう大分時間が経っている。



「あー…、もしかして腹減ってんのか? そこのコンビニで買って来るぐらい許してやるよ、行ってこい。」



 親切心でそう言ってやる。
 空腹のまま、長い一夜を明かすのはさぞ辛かろう。拗らせて途中で倒れられても困るし。



 しかし、それを受けた矢鎚はこれ見よがしにため息をついて見せたのだ。
 なんだよ折角気を使ってやったのに…、胸の内で毒づく。



「あ、いや夜食ならあります。昼買いました。」


「ん? そうなのか?」



 なんだ、買い忘れた訳じゃないのか。
 それならいいやとパソコンに向き直って、そのままピクリとも動かない影を怪訝に思う。



 もう一度その影に視線だけやると、未だ矢鎚はそこに立っていた。



 まだ、机の上を見つめている。



 藍色のあの人の作った、その箱を…。





「そうじゃなくて〜、手作りって愛が詰まってるじゃないですかぁ。」




 やっぱり小声でそう言ってふくふくと笑う。
 いつも通りの柔和な笑み。その横顔に毒気などかけらもない。


 それなのに。


 …何の気なしにに言ったその言葉が、俺の胸を突き刺した。



「んでもってぇその相手はかの美人ちゃんなわけでしょぉ〜? もううらやましいったら…。」



 ふにゃふにゃと夢見るような顔でそう続けて両手で頰を包む。
 その中に僅かに冷やかすような色を混ぜて。



 俺も視線をそこに落とした。
 …本当は昼に食べるはずだったもの。
 食べる気がしないとか言って、詰めてもらったものだ。
 そして、行き側に傷ついた目をしていた人の、作った…、それ。



 ふと、今日のことが脳内で再生される。
 別に対して冷たいことはしてなかったはずだ。むしろいつもより、優しく対応した気さえする。のに、



 俺はかぶりを振るう。
 今の今まで、どこかに放り出してかき消していた何か。それがまた首をもたげてきそうだったから。
 今は仕事に集中しなきゃいけない時だというのに、邪魔臭くて仕方がない。



 隣でにこにこと笑う矢鎚は、そんな気は無いのだろうけど…。
 俺の身体を締め上げるその影のせいで…、まるで責められてる気分だ。


 だから…、



「そんないいもんかな、これ。」


「?」



 呟いたのはそんな言葉。


 ぱちくりと不思議そうに首を傾げる矢鎚。
 俺は無表情のままそれに続くものを吐き捨てた。



「いや確かにコレもうまいけど、コンビニのでもうまいだろ。」


「えー。そういうこと言っちゃいます?」



 矢鎚は俺の言ったセリフに怪訝そうに眉をひそめた。
 俺は大きく欠伸をしながら応える。



「言うよ、…貰っても困るだけだ。」



 ぶっきらぼうに顔を背けた。
 馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、止めてはいけないそんな気がして。
 毒のような言葉を、選ぶ。



「困るもんですか?」


「困るもんだよ。」



 俺はそう皮肉っぽく笑って、応えた。
 笑っている、そう笑っているはずなのに奥歯がギリッと音を立てた。



 その様子を眺めていた矢鎚が目を細める。
 どこか呆れたような、そんな表情だ。



「嬉しいじゃないですか、自分のためだけに作られたものって。」


「別に大して。…これ、好きじゃないんだ。」



 弁当の中身の適当なのを一つ箸でつまみあげてみる。
 それが、以前矢鎚と話した時にも入っていた惣菜で。
 その事実が、厭に心臓を締め付けた。



「ゼータク者。」


「男は貪欲な生き物なのー。」



 一歩も引かない俺が面白くないのだろう。矢鎚は頰を膨らませてそう言った。
 俺も無理矢理に作った笑顔で返す。



 部屋の中にあるのは俺と矢鎚の投げやりな会話だけ。そのほかといえばカタカタと鳴るキーボードを叩く音が続いている…。
 もう何も聞こえない機械的な無音に還ってしまいたかった。何も、聞きたくなかった。
 それなのに、





「いつも美味しそうに食べてるくせに。」





 矢鎚の平坦な声が、やっぱり俺を責めた。
 振り向いて見たそいつの顔はいつもの、毒気のない、普通の顔。
 色があるとしたら不思議そうなそれだけだ。
 首を傾げて、こちらを見つめている。



 なんでそんなに片意地張ってるのかってことだろ?
 意地だって張りたくなるさ。こんなの…、



 俺は深く長く息をつく。
 全部を吐き出したくてそうしたつもりなのに、肺の中にまだどろりとした液状の何かが残っている。
 きっと何度吐き出しても、同じ。



 ああ、無性にイライラする。
 何がこんなに胸を掻き乱すのかを、……知ってるから尚更。



「…別にお前にゃ関係ないだろ。」


「でも、」


「矢鎚、手ェ止まってんぞ。」



 そんな作業的な一言で会話をぶった切って強制終了させる。
 機械的な無音に混じり、俺もその多重奏に加わった。


 何か言いたそうにしていたが、矢鎚も小さな返事を最後に元の席に戻って行く。
 それにどこか安堵して、それでも戻らない平穏がやっぱり息苦しくて。



 耐えきれずに口に放り込んだ弁当の中身の惣菜は…、何の味もしなかった。










 ………………幕間………………








 家を出てからずっと、閉じ込めてなかったことにしていた影がある。
 時間が時間で、人の少ない電車に乗り込んだ時も、降りた時も。
 ようやくついた会社に足を踏み入れた時も、自分のデスクに座った時も。



 今の今まで、ずっとずっと。



 どろどろ、どろどろと、蜷局とぐろを巻くそれが気味悪くて仕方がなかった。
 どうにかして、見えないように感じないように蓋をして、鍵をかけて、閉じ込めていたんだ。



 …それなのに、矢鎚の言葉でそれか再び頭をもたげてきた。
 再び頭も胸も何もかもを掻き乱して無茶苦茶にした。



 身体中を渦巻くそれを捨て去ってしまいたくて。
 …早くそれから逃げ出したくて。
 そんな子供じみた理由で、拗ねたようなそれを言葉にした。
 全てから目を背けて、自分でも心にも無いとわかるセリフを吐きだした。



 馬鹿馬鹿しいってわかってたよ。そんなこと。
 逃げられるはずもないってことも。



 それでも止めるわけにはいかなかった。
 なんでもいい、脳裏にちらつくものを振り払いたかったんだ。



 なのに…。
 そうできる言葉を選んでる、そのはずなのに。
 言葉にすればするほど、舌に乗せれば乗せるほど、まとわりつく霧は濃くなる一方で。



 どくどくと鳴る心臓も、溢れる罪悪感に似た感情も、やむことはなかった。
 ちらつく藍色の影も、振り払うことは叶わなかった。



 あのとき…俺はどんな顔をしていたんだろう。
 きっとひどい顔だったんだ、ルシアが傷ついたような表情だったから。



 今までどんな言葉もつるりと受け流して、なんだかんだ強気で強情な彼女だった…。
 俺が突き放すために意識的にそんな言葉を選んでたっていうのに、器用に躱しては笑っていたな。



 そんなルシアが見せた、あの顔が心臓の奥を灼いていた。



 あのとき…、ルシアが俺にキスしたその時───。
 別に元いた恋人に大して未練もないけど、昼間の夢のせいもあってだろう。


 その唇が触れ合った瞬間に…俺が考えていたのはこんな事だ。












 ああ、なんであいつじゃないんだろ。





          

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