時計屋 ~あなたの人生をやり直してみませんか?~
命を選ぶ夫
夫は不満だった。
苛々の矛先は妻である。もう丸三日、口もきいていない。
それ以前だってオハヨウとオヤスミがやっとだった。
家事はすれども、定食のような食事が冷蔵庫に入れられているだけだ。家政婦だってもう少し人間味があると思う。
ただの同居人――もう二年間、こんな生活が続いている。
理解を示さないわけではない。妻は病気なのだ。
心を病んでいる。
そこに同情はしている。要因には自分も大きくかかわっているだろうから。
だけど、もう二年になるのだ。なのにまだウジウジと悩んで臥せっている。いい加減にしてほしい。こちらが病みそうである。妻の態度はじっとりと絡みつく真夏の髪の毛みたいに、夫の首を絞め、責めたてているようだった。
自分が選択をした癖に。
夫は不満だった。
と――
「ご注文、ありがとうございます」
「わあ!」
唐突に現れた黒衣の女に、夫は飛び上がった。
年は妻よりもいくつか下。まだ若い女だが、それでもなお、その髪型はちょっと幼く作りすぎているのではないかと思えた。病的に白い肌に華奢な体躯、胡乱な目つきは、妻よりもよほど病人じみている。
妻の友人――と一瞬だけ考えたが、すぐに改める。妻とは、今でこそ他人以下の仲であるが、幼馴染である。自分が知らない付き合いは無く、結婚後、転勤してすぐに事が起こり、引きこもりになった妻に、このような若い友人が出来るわけもない。
それに先ほど、ずいぶん大きな声を出したはずなのに、妻は隣室から出てこない。
「わたしが来てからの、わたしの声もあなたの声も、他人には聴こえませんよ」
女は言った。そして、
「わたしは時計屋でございます」
そう続けた。
亜郷と名乗る時計屋の話を、完全に信じたわけではない。だが言い知れぬ昂揚感を覚え、夫はその時計屋に身の上を語ることにした。誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
もしもこれがなにもかも虚構で、妻に言葉を聞かれたとしても、それで良かった。むしろ聞かせたいくらいだ。
「二年前、子供が死んだのです」
夫の声に、あまり悲しみの色はなかった。それを自覚したのか、「もう二年前ですからね」と続けた。
「生きて生まれてなかった子です。死産というのが正しいのでしょうね。妻は臨月で、そして全く自覚もなく、重い病にかかっていました。いよいよ産気づいたとき、初めて僕たち、妻と夫と医者は、妻が子供を無事に産めない心臓の持ち主だと知ったのです」
時計屋の女は、とくにそれらの話を必要としていないようだった。
「で?」
と、促す声には、続きを催促しているのではなく、いますぐ話をおえて時計を買えという意図が明白である。夫はかまわず続けた。
「妻は完全に意識を失い、会話ができなくなりました。そこで医者は、夫であり父である僕に尋ねたのです。妻と子、どちらの命を取るか?と。
僕は妻をとりました。もちろん、迷いが無かったわけじゃない。僕だって子供は楽しみにしていた。名前は僕が考えてたんだ。男の子が生まれたら望歩、女の子だったら希実。生まれたのは、いや、妻の腹から出てきた死体は男児でした。ノゾム、ノゾムと抱いて泣きましたとも。でもそれは妻が望んだこと――もしもの時、母体を選ぶようにと、妻がそう言っていたから僕は従ったのです。
妻のために、妻の言葉通りに、妻の命を選んだ。なのに、あの女は!」
夫は語気を荒げ、妻のいる部屋を強く睨んだ。
「あの女は、目を覚まし展開を知ってから、僕を責めた。それから泣き通し、いつのまにか心を病んで、二年たつ今もこの調子だ。なにが『赤ちゃんが残念なことになっても、母体が生きていないと次につながらない。死んだもう一度この世に生まれてきたいって思ったとき迎えられるように、お母さんは生きなきゃね』だ。夫婦の会話すらなくなったじゃないか。自分で選んだくせに、嘘つき! 嘘つきめ!!」
「で?」
激昂する夫に全く引きずられることなく、時計屋の女は淡々と、確認した。
「時を戻すのは二年前でいいのね? それとも妊娠をする前、三年ほど?」
「二年前でいい。あの選択をする日だ。たしか、12月5日だ」
「それで、今度は赤ちゃんのほうを選ぶのね」
「いいや、今度こそ、妻にきちんと選ばせる。言質を取るんだ」
「ふうん。まあ、お好きにどうぞ」
女は、手に持った銀盤を空中に軽くほうり上げ――そして。
夫は、妻の病室でその傍らにいた。あまり顔色の良くない妻がベッドに横たわっている。薄いシーツ越しに、大きく膨らんだ腹部が見て取れた。
妻が目を開けた。
「ああ……あなた、飲み物買ってきてくれたの。ありがとう。もう大丈夫。まだ10分間隔なの。いま、治まったわ」
軽く身を起こし、腹部をさする。
「ねえーノンちゃん。あなたが出てくるのはもうすこしかかりまちゅかね」
「奈美恵。話がある。ちょっと、落ち着いて、聞いてくれ」
夫は話し始めた。
「先ほど、医者が君の体の異変に気付いたと伝えてきた。医者は君には教えないでくれと言ったが、僕は伝えるべきだと思い、勝手に話すことにした。もし医者に確認してもごまかされるだろうが、信じてほしい。
君の心臓や血管はとてもか弱くて、出産に耐えられない。今まさに破裂しようとしている。君を助けるための手術と、帝王切開は同時には出来ない。自然出産はもちろん、帝王切開でも、胎児を選べば母体は死ぬ。つまりは母体か胎児か、どちらかの選択をしなくちゃいけない」
妻は、無言だった。
「ムズカシイ話は、あとで、お医者様がちゃんと話してくれるだろう。正直僕にもよくわかってないんだ。でもとりあえずこの選択だけは、間違いなく、動かしようがない。どちらかが死ぬ。わかったね?」
妻は、無言で、うなずいた。
夫は言った。
「君は以前、こういったね。たしか一緒に、バラエティの実録ドラマを観ていた時だ。『赤ちゃんが残念なことになっても、母体が生きていないと次につながらない。死んだもう一度この世に生まれてきたいって思ったとき迎えられるように、お母さんは生きなきゃね』。そうだね?」
「そうね。そう言った気はするわ」
妻はうなずいた。
「……よし、肯定したね? では、君が意識を失っているとき、僕に、医者が選択を投げたなら、僕はそのようにするよ。君が言ったとおりに、望んだとおりに、選んだとおりにしてあげるから」
「待って、護さん」
夫の動きが止まった。
「だめよ。それは変更するわ。赤ちゃんを選んで」
「な! ……な、なんだって? 奈美恵、だっておまえ」
「その話、もう何年も前、まだコドモだったときにの話よ? 今とは考え方が違うわ。わたしは結婚して、夫であるあなたの子をもう10か月も宿してきたの。あのときとは実感が違う。昔の話は忘れて頂戴」
「じゃあ……じゃあ、君は、自分よりも赤ちゃんを選ぶのか? 死ぬんだぞ君は」
「ええ。でも、生まれる子の半分はわたしだもの。そして残り半分はあなた。なにも怖くないわ」
「死ぬ……死ぬのか。奈美恵」
「はい。殺してください、あなた」
夫はその場にへたり込んだ。
そして、無言のまま時を過ごした。妻は何度目かの痛みを訴え、ついにナースコールを押す。医者が駆けつけ、異変を察する。そのころには妻は意識を失っていた。病院は大騒ぎになり、夫は別室に呼ばれた。そして、
「奥様と、赤ん坊、どちらかを選んでいただくことになります」
夫は震える唇を開いた。
そして――
妻は目を覚ました。開いた双眸に、夫の顔がうつる。妻は笑った。
「なあに、ひどいカオ」
「ごめんなさい」
夫は、涙で水浸しになった頬を、妻の手に押し当てた。その皮膚を、脈動を、体温を、瞼で感じ取るように。
「ごめんなさい。ごめんなさい。僕は、選べなかった。君が命を賭して産もうとした子供を、望歩を選んであげられなかった。ごめんなさい。君が選んだ道を、僕は否定してしまった。ごめんなさい……」
夫はとうとう声を上げて泣いた。あとからあとから零れてくる涙と嗚咽で呼吸すらままならない。妻は優しく夫の髪を撫でた。夫は叫んだ。
「選べないよ!!」
夫は叫んだ。
「殺せないよ! 死ぬなよ! 生きてくれよ! 無理だよ、君を殺すなんて。奈美恵。ごめんよ。ごめんなさい。どっちを選ぶなんてできない、だけど、そのとき僕の目の前には君が生きていた。殺せないよ……僕は奈美恵に生きてほしいよ。僕は君を選ぶ。誰が何と言おうと、僕は君を選ぶよ。ノゾム、ごめんよぉ。僕があの子を殺したんだよぉ」
「泣かないで護さん」
妻は微笑んだ。
「ありがとう。これで、いいの。ねえ。もしもあなたがね、ただわたしの言うままに子供を殺す選択をしたとしたら、わたしは父としてのあなたに失望したでしょう。そしてあなたの、『自分で選んだくせに』という思いを感じ取って、自分を責めて、心を病んでしまうでしょうね。
だけど、あなたは自分の意志で、わたしを選んでくれた。これで、いいの。赤ちゃんのことは、悲しいけれど」
妻の瞳から一筋の涙がこぼれる。
「わたしたち、これからも仲良く暮らしていきましょう」
夫は妻を抱きしめ、夫婦は二人でおいおい泣いた。
大人とは思えない、幼い、感情を剥き出しにした泣き声だった。
その泣き声にかき消されるように、かすかに、かほそく、幼い声が、病室で上がった。
「おお。奇跡だ」
医者は、人工呼吸器につながれた赤ん坊を、慎重に抱き上げた。
「……突然の展開だったのに、旦那さんの理解がやけに早く、説明の時間が数秒省かれ、速やかに処置にかかれたことが、生死を分けた。それくらい難しい局面で叶った誕生だ。これを奇跡と言わず何と言おう」
「さあ、ご夫婦に教えて差し上げよう。まだ脳波はあるといったのに、旦那さん耳に入らなくて、死んだと決めつけていたようだったしな」
「神様っているのね。それとも天使? なんて素敵なプレゼント」
時計屋は――中空で頬杖をついて、ガラス越しにそれぞれの部屋を観ていた。
やぶにらみ気味の双眸から視線を虚空へと投げやる。そして、つぶやいた。
「うざ」
くるりと身をひるがえし、天へと消えた。
 
苛々の矛先は妻である。もう丸三日、口もきいていない。
それ以前だってオハヨウとオヤスミがやっとだった。
家事はすれども、定食のような食事が冷蔵庫に入れられているだけだ。家政婦だってもう少し人間味があると思う。
ただの同居人――もう二年間、こんな生活が続いている。
理解を示さないわけではない。妻は病気なのだ。
心を病んでいる。
そこに同情はしている。要因には自分も大きくかかわっているだろうから。
だけど、もう二年になるのだ。なのにまだウジウジと悩んで臥せっている。いい加減にしてほしい。こちらが病みそうである。妻の態度はじっとりと絡みつく真夏の髪の毛みたいに、夫の首を絞め、責めたてているようだった。
自分が選択をした癖に。
夫は不満だった。
と――
「ご注文、ありがとうございます」
「わあ!」
唐突に現れた黒衣の女に、夫は飛び上がった。
年は妻よりもいくつか下。まだ若い女だが、それでもなお、その髪型はちょっと幼く作りすぎているのではないかと思えた。病的に白い肌に華奢な体躯、胡乱な目つきは、妻よりもよほど病人じみている。
妻の友人――と一瞬だけ考えたが、すぐに改める。妻とは、今でこそ他人以下の仲であるが、幼馴染である。自分が知らない付き合いは無く、結婚後、転勤してすぐに事が起こり、引きこもりになった妻に、このような若い友人が出来るわけもない。
それに先ほど、ずいぶん大きな声を出したはずなのに、妻は隣室から出てこない。
「わたしが来てからの、わたしの声もあなたの声も、他人には聴こえませんよ」
女は言った。そして、
「わたしは時計屋でございます」
そう続けた。
亜郷と名乗る時計屋の話を、完全に信じたわけではない。だが言い知れぬ昂揚感を覚え、夫はその時計屋に身の上を語ることにした。誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
もしもこれがなにもかも虚構で、妻に言葉を聞かれたとしても、それで良かった。むしろ聞かせたいくらいだ。
「二年前、子供が死んだのです」
夫の声に、あまり悲しみの色はなかった。それを自覚したのか、「もう二年前ですからね」と続けた。
「生きて生まれてなかった子です。死産というのが正しいのでしょうね。妻は臨月で、そして全く自覚もなく、重い病にかかっていました。いよいよ産気づいたとき、初めて僕たち、妻と夫と医者は、妻が子供を無事に産めない心臓の持ち主だと知ったのです」
時計屋の女は、とくにそれらの話を必要としていないようだった。
「で?」
と、促す声には、続きを催促しているのではなく、いますぐ話をおえて時計を買えという意図が明白である。夫はかまわず続けた。
「妻は完全に意識を失い、会話ができなくなりました。そこで医者は、夫であり父である僕に尋ねたのです。妻と子、どちらの命を取るか?と。
僕は妻をとりました。もちろん、迷いが無かったわけじゃない。僕だって子供は楽しみにしていた。名前は僕が考えてたんだ。男の子が生まれたら望歩、女の子だったら希実。生まれたのは、いや、妻の腹から出てきた死体は男児でした。ノゾム、ノゾムと抱いて泣きましたとも。でもそれは妻が望んだこと――もしもの時、母体を選ぶようにと、妻がそう言っていたから僕は従ったのです。
妻のために、妻の言葉通りに、妻の命を選んだ。なのに、あの女は!」
夫は語気を荒げ、妻のいる部屋を強く睨んだ。
「あの女は、目を覚まし展開を知ってから、僕を責めた。それから泣き通し、いつのまにか心を病んで、二年たつ今もこの調子だ。なにが『赤ちゃんが残念なことになっても、母体が生きていないと次につながらない。死んだもう一度この世に生まれてきたいって思ったとき迎えられるように、お母さんは生きなきゃね』だ。夫婦の会話すらなくなったじゃないか。自分で選んだくせに、嘘つき! 嘘つきめ!!」
「で?」
激昂する夫に全く引きずられることなく、時計屋の女は淡々と、確認した。
「時を戻すのは二年前でいいのね? それとも妊娠をする前、三年ほど?」
「二年前でいい。あの選択をする日だ。たしか、12月5日だ」
「それで、今度は赤ちゃんのほうを選ぶのね」
「いいや、今度こそ、妻にきちんと選ばせる。言質を取るんだ」
「ふうん。まあ、お好きにどうぞ」
女は、手に持った銀盤を空中に軽くほうり上げ――そして。
夫は、妻の病室でその傍らにいた。あまり顔色の良くない妻がベッドに横たわっている。薄いシーツ越しに、大きく膨らんだ腹部が見て取れた。
妻が目を開けた。
「ああ……あなた、飲み物買ってきてくれたの。ありがとう。もう大丈夫。まだ10分間隔なの。いま、治まったわ」
軽く身を起こし、腹部をさする。
「ねえーノンちゃん。あなたが出てくるのはもうすこしかかりまちゅかね」
「奈美恵。話がある。ちょっと、落ち着いて、聞いてくれ」
夫は話し始めた。
「先ほど、医者が君の体の異変に気付いたと伝えてきた。医者は君には教えないでくれと言ったが、僕は伝えるべきだと思い、勝手に話すことにした。もし医者に確認してもごまかされるだろうが、信じてほしい。
君の心臓や血管はとてもか弱くて、出産に耐えられない。今まさに破裂しようとしている。君を助けるための手術と、帝王切開は同時には出来ない。自然出産はもちろん、帝王切開でも、胎児を選べば母体は死ぬ。つまりは母体か胎児か、どちらかの選択をしなくちゃいけない」
妻は、無言だった。
「ムズカシイ話は、あとで、お医者様がちゃんと話してくれるだろう。正直僕にもよくわかってないんだ。でもとりあえずこの選択だけは、間違いなく、動かしようがない。どちらかが死ぬ。わかったね?」
妻は、無言で、うなずいた。
夫は言った。
「君は以前、こういったね。たしか一緒に、バラエティの実録ドラマを観ていた時だ。『赤ちゃんが残念なことになっても、母体が生きていないと次につながらない。死んだもう一度この世に生まれてきたいって思ったとき迎えられるように、お母さんは生きなきゃね』。そうだね?」
「そうね。そう言った気はするわ」
妻はうなずいた。
「……よし、肯定したね? では、君が意識を失っているとき、僕に、医者が選択を投げたなら、僕はそのようにするよ。君が言ったとおりに、望んだとおりに、選んだとおりにしてあげるから」
「待って、護さん」
夫の動きが止まった。
「だめよ。それは変更するわ。赤ちゃんを選んで」
「な! ……な、なんだって? 奈美恵、だっておまえ」
「その話、もう何年も前、まだコドモだったときにの話よ? 今とは考え方が違うわ。わたしは結婚して、夫であるあなたの子をもう10か月も宿してきたの。あのときとは実感が違う。昔の話は忘れて頂戴」
「じゃあ……じゃあ、君は、自分よりも赤ちゃんを選ぶのか? 死ぬんだぞ君は」
「ええ。でも、生まれる子の半分はわたしだもの。そして残り半分はあなた。なにも怖くないわ」
「死ぬ……死ぬのか。奈美恵」
「はい。殺してください、あなた」
夫はその場にへたり込んだ。
そして、無言のまま時を過ごした。妻は何度目かの痛みを訴え、ついにナースコールを押す。医者が駆けつけ、異変を察する。そのころには妻は意識を失っていた。病院は大騒ぎになり、夫は別室に呼ばれた。そして、
「奥様と、赤ん坊、どちらかを選んでいただくことになります」
夫は震える唇を開いた。
そして――
妻は目を覚ました。開いた双眸に、夫の顔がうつる。妻は笑った。
「なあに、ひどいカオ」
「ごめんなさい」
夫は、涙で水浸しになった頬を、妻の手に押し当てた。その皮膚を、脈動を、体温を、瞼で感じ取るように。
「ごめんなさい。ごめんなさい。僕は、選べなかった。君が命を賭して産もうとした子供を、望歩を選んであげられなかった。ごめんなさい。君が選んだ道を、僕は否定してしまった。ごめんなさい……」
夫はとうとう声を上げて泣いた。あとからあとから零れてくる涙と嗚咽で呼吸すらままならない。妻は優しく夫の髪を撫でた。夫は叫んだ。
「選べないよ!!」
夫は叫んだ。
「殺せないよ! 死ぬなよ! 生きてくれよ! 無理だよ、君を殺すなんて。奈美恵。ごめんよ。ごめんなさい。どっちを選ぶなんてできない、だけど、そのとき僕の目の前には君が生きていた。殺せないよ……僕は奈美恵に生きてほしいよ。僕は君を選ぶ。誰が何と言おうと、僕は君を選ぶよ。ノゾム、ごめんよぉ。僕があの子を殺したんだよぉ」
「泣かないで護さん」
妻は微笑んだ。
「ありがとう。これで、いいの。ねえ。もしもあなたがね、ただわたしの言うままに子供を殺す選択をしたとしたら、わたしは父としてのあなたに失望したでしょう。そしてあなたの、『自分で選んだくせに』という思いを感じ取って、自分を責めて、心を病んでしまうでしょうね。
だけど、あなたは自分の意志で、わたしを選んでくれた。これで、いいの。赤ちゃんのことは、悲しいけれど」
妻の瞳から一筋の涙がこぼれる。
「わたしたち、これからも仲良く暮らしていきましょう」
夫は妻を抱きしめ、夫婦は二人でおいおい泣いた。
大人とは思えない、幼い、感情を剥き出しにした泣き声だった。
その泣き声にかき消されるように、かすかに、かほそく、幼い声が、病室で上がった。
「おお。奇跡だ」
医者は、人工呼吸器につながれた赤ん坊を、慎重に抱き上げた。
「……突然の展開だったのに、旦那さんの理解がやけに早く、説明の時間が数秒省かれ、速やかに処置にかかれたことが、生死を分けた。それくらい難しい局面で叶った誕生だ。これを奇跡と言わず何と言おう」
「さあ、ご夫婦に教えて差し上げよう。まだ脳波はあるといったのに、旦那さん耳に入らなくて、死んだと決めつけていたようだったしな」
「神様っているのね。それとも天使? なんて素敵なプレゼント」
時計屋は――中空で頬杖をついて、ガラス越しにそれぞれの部屋を観ていた。
やぶにらみ気味の双眸から視線を虚空へと投げやる。そして、つぶやいた。
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