時計屋 ~あなたの人生をやり直してみませんか?~
あと五分で死ぬ老人
高砂がそこに現れたとき、老人は死を迎える五分前だった。
  そこは、死の床としてはあまりにも豪奢であった。一般的家庭の家一軒ぶんほどの広さに、緋色の絨毯が敷き詰められている。
  天井には巨大なシャンデリア。しかし寝室にはまぶしすぎるので明かりを消して、老人は、ベッドヘッドに備え付けられたダウンライトで、己の行動範囲のすべてを照らしていた。
  なにせ、彼はもうベッドから動くことが出来ない。
  巨大なベッドの真ん中に仰臥して、あと五分で死を迎える彼は静かに、己の死を待っている。
  「なんか、いろいろと無駄な部屋だなあ」
  そんな声は、突然にすぐそばで聞こえた。老人は視線だけでそちらを向く。
  一人で暮らすこの豪邸に、たしかに鍵はかかっていなかった。それでも、玄関口には雇いの警備員がいたはずである。しかしその男は突如、主の枕元に現れた。
  年の頃は二十歳ほど、長身の美男子である。その頭髪は老人の痩せた髪の色よりもなお白い。純白の髪に対し、甘く垂れた目は漆黒。しなやかな体躯に、簡素な黒い洋服。
  老人は小さく嘆息した。
 「なんじゃい。死神というのは男なのか。どうせなら小股の切れあがったたらちね豊満な美女の死神にお迎えにきてほしかったのう」
 「小股ってどのへんだ?」
  男は仏頂面で聞いた。
  そして彼は老人の目の前に、手のひらほどの金属盤をぶら下げた。振動でかすかに揺れるそれをつきつけ、宣告する。
 「俺の名は高砂。死神じゃない、時計屋だ。おまえの人生を、二時間だけ時間を戻せる時計を売っている」
 「ほう。時計屋さんとな」
  老人は身を起こした。高砂から時計を受け取り、まじまじとその細工をみる。ふぅむ、と低い声を出した。
 「これは……なんと。不思議な細工じゃ。実に興味深い。開けてみてもいいかね?」
 「は? い、いや、それはちょっと」
 「なに決して壊しゃしないぞ。ワシは同業ゆえ。おっと申し遅れたのう。ワシの名前は俵武佐男、老舗時計ブランド俵商店の創始者。ブランドTAWARAーMのデザイナーだと言うたほうがわかりよいか? 一昔前にはスーパーモデルのマリアベルがジュリージーンの表紙で付けて、逆輸入で爆発的に流行した。いまなら俳優の四宮ユズキがCMをやっとるあれじゃ、聞いたことはあるじゃろう、DDパークが歌うのにあわせて手首をあげて、『男の腕は、どうして強く出来ているのだろう、すこし立ち止まって考えてみた』――」
「なにひとつ知らねえが、要するに、タワラムじいさんも時計屋なのか?」
「そのとおりじゃ。いや、ワシの名はタワラとムサオで切るのじゃが」
「ふうん、わかりにくい名前だな」
「……94年生きて初めて言われたのう……」
高砂とは、会話を成立させるのは難しい。
白髪の麗人は老人に、己の制作した時計の概要を説明する。老人はただ黙ってそれを聞いた。
「……二時間か……」
つぶやく老人。
高砂がうなずいた。
 「あと五分で死ぬじいさんが、二時間人生を巻き戻して何ができるのか、俺は知らん。だがじいさん自身が望んだはずだ。あと二時間あればアレができたコレをこうしたのに、と」
彼は長い足をわずかに開き、斜に構えて老人を見下ろす。老人はにやりと笑った。
「ワシは何もかも手に入れた。誰よりも幸福に生きてきたと自負があるぞ。いまこうして一人でいるのは、死の際には一人でいたいとワシが願ったからだ。それだけ長生きもした。薬も効いている。今何も苦しくない。ワシはあと五分で、眠るように死んでいく。こんなワシが、もう少しぜいたくを言うのを許すというのかね?」
「なんだそれ、許すも何もそんな権限あるかよ。俺はただの時計屋だっつってんだろ。そういうことは女神に聞け」
横柄な言葉遣いに、老人は声を立てて笑った。かれこれ数十年、こんな口を聞かれたことはなかった。
「では、その時計を買うよ。ちょっと自慢してもよいぞ。この俵がまったく他者の作った時計を欲しがるなど、85年ぶりなのだから」
高砂はあまり興味のなさそうな顔で時計を宙へと軽く放った。ぱりんと堅いものが砕ける音、老人を襲う酩酊感。
――そして。
あと二時間と五分で死ぬ老人は、ベッドから身を起こした。
ナイトテーブルに置かれた固定電話に手を伸ばす。メモをみるでもなく、ダイヤルプッシュすると、受話器を耳に当てて静かに待った。
「――はい、もしもし?」
やがて受話器の向こうから、若い女の声がした。あと二時間と三分で死ぬ老人は明るい声をあげた。
 「やーあハナちゃん。タワラのスケベじいさんじゃよ」
「……? あ。ああ、あーはいはい、えっと、もう5年も前に店にきてくれたおじいちゃん。そういやケー番教えたっけ……」
「そうそう。せっかくもらったのに一度もかけやせんで失礼をしたね」
「いや別に……ごめん、あたし店もう辞めたんだよね。切っていいかな」
あと二時間と一分で死ぬ老人はほほえんだ。
「あのころのワシは、商談のために高級クラブをハシゴしていてな。そつのないホステスの接待にも雑味のない酒にも辟易しておった。そこでなんとなく、小汚い店で安酒を飲んでみたくなった」
「……はあ。まあ、いい店じゃなかったけど。なんなの」
「あんたの元気が気に入った。配分の間違えた水割りが、やけに美味かった。楽しかった」
 「……」
 「ありがとう――」
返事に困り、黙ってしまった女に別れの挨拶をして、電話を切る。
そしてまた、別の番号をおし始めた。
あと一時間五八分で死ぬ老人は、
「――もしもし、木下か? 俵じゃよ。生きておったか?」
受話器の向こうにある、老いた男の声に向かって話す。
「……おまえが定年で抜けてから苦労をしたぞ、メンテナンスは木下さんでなくちゃあなんて顧客をどれだけなだめたか。TAWARA――Mの株はおまえに支えられたようなものじゃ。どうもありがとう――」
電話を切る。そしてかける。
「――毎度。やさか酒造さん。ええー、製造の責任者の方はおられるか? ああ、沢辺さん……どうも、はじめまして。ワシは長く事業をやっておるものなんだがね。毎年、ある従業員から中元にともらうあなたのところの酒がたまらなく美味い。本当ならうちでも仕事の取引用に取り寄せなんなり使うべきだったのだろうが、なんとなく、ワシ個人の楽しみにとっておきたくてのう。くれる社員にすら話さなかった。今思えば、そちらの商売に還元するべきだったんだがのう。いやすまんよ。……ああ、何が言いたいかって? そう、注文はもう出来ないんだよ、じきに死ぬ年寄りなので――ただ、ありがとう。あなたはすばらしい仕事をしておられる。それだけを。ありがとう」
電話を切る。またかける。
「もしもし――霞ヶ丘高校? 校長先生、どうもはじめまして。ワシの曾孫が去年そちらを卒業した、アルバムを送ってみせてもらいました。丁寧に掃除の行き届いた美しい学校に、みんな楽しそうに写っておりました。離れて暮らす曾祖父はこういったものでしか曾孫の生活を見ることはできないが、幸せそうでなによりじゃ。あんな写真が出来たのはあなたの采配でしょう。日々、きちんとしたお仕事をなさっている……ありがとうございます」
 
切る。かける。
「――もしもし。どうもありがとう――」
 
あと二十分で死ぬ老人は、ダイヤルをおしたあと、ふるえる手から受話器を取り落とした。
ベッドサイドに転がったそれを、時計屋の青年が拾って手渡してくれる。
「ありがとう」
老人はそう短く言って、ちょうどつながった回線に話し始めた。
あと十九分で死ぬ老人を、高砂はすぐそばにたたずんで、見下ろし続ける。
「ありがとう。楽しかったよ」
あと八分で死ぬ老人は、ふるえる手で受話器を置く。それきり、もう受話器を持つことができなくなってしまった。プラスチックの固まりがこんなにも重い。
高砂がそれを助けた。
ダイヤルを聞き、老人が口頭で言った数字をプッシュする。
ややあって、コール音が途切れた。
「はい、もしもし?」
受話器から中年男性の声がした。
あと七分で死ぬ老人は、唇をぱくぱくと動かす。しかしその言葉はもう声として発することができず、高砂の掲げる受話器のマイクも、彼の言葉は拾えない。
「もしもし? なに? いたずら? ……もしもしっ?」
 
受話器の向こうで男が焦れている。高砂は黙って、老人の口元に受話器を添え、ただ佇んでいた。
あと六分で死ぬ老人は、ちらりとすがるような目を高砂へ向けた。青年は首を振って、
「……俺は、依頼主以外の人間と会話出来ないんだ」
老人は、ぐぐぐ、と喉をふるわせた。
それは、受話器の向こうの男に聞き取れたかどうかはわからない。
だが確かに、老人は言った。
「ありがとう――」
そして。
あと五分で死ぬ老人は、巨大なベッドに仰臥して、天井を見上げていた。
その横に時計屋の青年が腰掛ける。
「……すこし休めば、もう一件くらい掛けられるかもな」
そう言うと、老人は小さくうなずく。そして目を閉じた。
きっかり四分間、その目は閉ざされていた。
あと一分で死ぬ老人は、静かに目を開けた。
視線が時計屋を見つめる。彼はいつでもそれに応じられるよう、受話器に手をかけていた。その彼に向けて、あと40秒で死ぬ老人はささやく。
「ありがとう時計屋さん――」
高砂は受話器を掴んだまま、目を見開いて、老人を見下ろした。
「……ありがとう……あなたのおかげで、ワシの人生に、もうなんの悔いもなくなった……」
あと二十秒で老人は死ぬ。
高砂は黙って老人を見ている。
「あなたの仕事は、すばらしい。会えてよかった。居てくれてよかった。時計屋になってくれてありがとう。あなたが居てくれてワシは幸せだ。
ありがとう。ありがとう」
高砂は、黙って老人を見ていた。
時計屋の見つめる下で、老人はゆっくりと言葉を閉ざしていく。
「ありがとう……」
そして、老人は死んだ。
高砂はそのあとしばらくそこに留まって、老人の死体のそばにいた。
豪奢なベッドの横に腰掛けて、無言で死体に寄り添う。そうして待っていればもう一度言葉が聞こえてくるかもしれないと、待つ。
時間が経過して、やがて事前に手配されていたらしい、家族と医者がともに入室してきた。形骸的なやりとりを行った後、車が呼ばれて、老人の死体が運び出されていく。
このあと、老人の死体がどうなるのか、高砂は知らなかった。なにか治療が加えられるとは思えなかったし、それで復活するわけもなかった。
老人の死体がなくなって、無人になった静寂の寝室で、高砂はまだそこにいた。
ふと、彼は、自分がなにをしているのだろうかと疑問に思った。首を傾げながら窓へと向かう。ガラス戸を開けることもなく壁に身を沈めて、庭園の芝生を一度だけ踏み切って、宙へと身を翻した。
風が頬をなぶる。
やけに冷たい風だと思ったら、それは己の頬が濡れているせいだった。
「……なんだこれ」
湿った顔面を乱暴にぬぐって、高砂は昴へと昇っていった。
  そこは、死の床としてはあまりにも豪奢であった。一般的家庭の家一軒ぶんほどの広さに、緋色の絨毯が敷き詰められている。
  天井には巨大なシャンデリア。しかし寝室にはまぶしすぎるので明かりを消して、老人は、ベッドヘッドに備え付けられたダウンライトで、己の行動範囲のすべてを照らしていた。
  なにせ、彼はもうベッドから動くことが出来ない。
  巨大なベッドの真ん中に仰臥して、あと五分で死を迎える彼は静かに、己の死を待っている。
  「なんか、いろいろと無駄な部屋だなあ」
  そんな声は、突然にすぐそばで聞こえた。老人は視線だけでそちらを向く。
  一人で暮らすこの豪邸に、たしかに鍵はかかっていなかった。それでも、玄関口には雇いの警備員がいたはずである。しかしその男は突如、主の枕元に現れた。
  年の頃は二十歳ほど、長身の美男子である。その頭髪は老人の痩せた髪の色よりもなお白い。純白の髪に対し、甘く垂れた目は漆黒。しなやかな体躯に、簡素な黒い洋服。
  老人は小さく嘆息した。
 「なんじゃい。死神というのは男なのか。どうせなら小股の切れあがったたらちね豊満な美女の死神にお迎えにきてほしかったのう」
 「小股ってどのへんだ?」
  男は仏頂面で聞いた。
  そして彼は老人の目の前に、手のひらほどの金属盤をぶら下げた。振動でかすかに揺れるそれをつきつけ、宣告する。
 「俺の名は高砂。死神じゃない、時計屋だ。おまえの人生を、二時間だけ時間を戻せる時計を売っている」
 「ほう。時計屋さんとな」
  老人は身を起こした。高砂から時計を受け取り、まじまじとその細工をみる。ふぅむ、と低い声を出した。
 「これは……なんと。不思議な細工じゃ。実に興味深い。開けてみてもいいかね?」
 「は? い、いや、それはちょっと」
 「なに決して壊しゃしないぞ。ワシは同業ゆえ。おっと申し遅れたのう。ワシの名前は俵武佐男、老舗時計ブランド俵商店の創始者。ブランドTAWARAーMのデザイナーだと言うたほうがわかりよいか? 一昔前にはスーパーモデルのマリアベルがジュリージーンの表紙で付けて、逆輸入で爆発的に流行した。いまなら俳優の四宮ユズキがCMをやっとるあれじゃ、聞いたことはあるじゃろう、DDパークが歌うのにあわせて手首をあげて、『男の腕は、どうして強く出来ているのだろう、すこし立ち止まって考えてみた』――」
「なにひとつ知らねえが、要するに、タワラムじいさんも時計屋なのか?」
「そのとおりじゃ。いや、ワシの名はタワラとムサオで切るのじゃが」
「ふうん、わかりにくい名前だな」
「……94年生きて初めて言われたのう……」
高砂とは、会話を成立させるのは難しい。
白髪の麗人は老人に、己の制作した時計の概要を説明する。老人はただ黙ってそれを聞いた。
「……二時間か……」
つぶやく老人。
高砂がうなずいた。
 「あと五分で死ぬじいさんが、二時間人生を巻き戻して何ができるのか、俺は知らん。だがじいさん自身が望んだはずだ。あと二時間あればアレができたコレをこうしたのに、と」
彼は長い足をわずかに開き、斜に構えて老人を見下ろす。老人はにやりと笑った。
「ワシは何もかも手に入れた。誰よりも幸福に生きてきたと自負があるぞ。いまこうして一人でいるのは、死の際には一人でいたいとワシが願ったからだ。それだけ長生きもした。薬も効いている。今何も苦しくない。ワシはあと五分で、眠るように死んでいく。こんなワシが、もう少しぜいたくを言うのを許すというのかね?」
「なんだそれ、許すも何もそんな権限あるかよ。俺はただの時計屋だっつってんだろ。そういうことは女神に聞け」
横柄な言葉遣いに、老人は声を立てて笑った。かれこれ数十年、こんな口を聞かれたことはなかった。
「では、その時計を買うよ。ちょっと自慢してもよいぞ。この俵がまったく他者の作った時計を欲しがるなど、85年ぶりなのだから」
高砂はあまり興味のなさそうな顔で時計を宙へと軽く放った。ぱりんと堅いものが砕ける音、老人を襲う酩酊感。
――そして。
あと二時間と五分で死ぬ老人は、ベッドから身を起こした。
ナイトテーブルに置かれた固定電話に手を伸ばす。メモをみるでもなく、ダイヤルプッシュすると、受話器を耳に当てて静かに待った。
「――はい、もしもし?」
やがて受話器の向こうから、若い女の声がした。あと二時間と三分で死ぬ老人は明るい声をあげた。
 「やーあハナちゃん。タワラのスケベじいさんじゃよ」
「……? あ。ああ、あーはいはい、えっと、もう5年も前に店にきてくれたおじいちゃん。そういやケー番教えたっけ……」
「そうそう。せっかくもらったのに一度もかけやせんで失礼をしたね」
「いや別に……ごめん、あたし店もう辞めたんだよね。切っていいかな」
あと二時間と一分で死ぬ老人はほほえんだ。
「あのころのワシは、商談のために高級クラブをハシゴしていてな。そつのないホステスの接待にも雑味のない酒にも辟易しておった。そこでなんとなく、小汚い店で安酒を飲んでみたくなった」
「……はあ。まあ、いい店じゃなかったけど。なんなの」
「あんたの元気が気に入った。配分の間違えた水割りが、やけに美味かった。楽しかった」
 「……」
 「ありがとう――」
返事に困り、黙ってしまった女に別れの挨拶をして、電話を切る。
そしてまた、別の番号をおし始めた。
あと一時間五八分で死ぬ老人は、
「――もしもし、木下か? 俵じゃよ。生きておったか?」
受話器の向こうにある、老いた男の声に向かって話す。
「……おまえが定年で抜けてから苦労をしたぞ、メンテナンスは木下さんでなくちゃあなんて顧客をどれだけなだめたか。TAWARA――Mの株はおまえに支えられたようなものじゃ。どうもありがとう――」
電話を切る。そしてかける。
「――毎度。やさか酒造さん。ええー、製造の責任者の方はおられるか? ああ、沢辺さん……どうも、はじめまして。ワシは長く事業をやっておるものなんだがね。毎年、ある従業員から中元にともらうあなたのところの酒がたまらなく美味い。本当ならうちでも仕事の取引用に取り寄せなんなり使うべきだったのだろうが、なんとなく、ワシ個人の楽しみにとっておきたくてのう。くれる社員にすら話さなかった。今思えば、そちらの商売に還元するべきだったんだがのう。いやすまんよ。……ああ、何が言いたいかって? そう、注文はもう出来ないんだよ、じきに死ぬ年寄りなので――ただ、ありがとう。あなたはすばらしい仕事をしておられる。それだけを。ありがとう」
電話を切る。またかける。
「もしもし――霞ヶ丘高校? 校長先生、どうもはじめまして。ワシの曾孫が去年そちらを卒業した、アルバムを送ってみせてもらいました。丁寧に掃除の行き届いた美しい学校に、みんな楽しそうに写っておりました。離れて暮らす曾祖父はこういったものでしか曾孫の生活を見ることはできないが、幸せそうでなによりじゃ。あんな写真が出来たのはあなたの采配でしょう。日々、きちんとしたお仕事をなさっている……ありがとうございます」
 
切る。かける。
「――もしもし。どうもありがとう――」
 
あと二十分で死ぬ老人は、ダイヤルをおしたあと、ふるえる手から受話器を取り落とした。
ベッドサイドに転がったそれを、時計屋の青年が拾って手渡してくれる。
「ありがとう」
老人はそう短く言って、ちょうどつながった回線に話し始めた。
あと十九分で死ぬ老人を、高砂はすぐそばにたたずんで、見下ろし続ける。
「ありがとう。楽しかったよ」
あと八分で死ぬ老人は、ふるえる手で受話器を置く。それきり、もう受話器を持つことができなくなってしまった。プラスチックの固まりがこんなにも重い。
高砂がそれを助けた。
ダイヤルを聞き、老人が口頭で言った数字をプッシュする。
ややあって、コール音が途切れた。
「はい、もしもし?」
受話器から中年男性の声がした。
あと七分で死ぬ老人は、唇をぱくぱくと動かす。しかしその言葉はもう声として発することができず、高砂の掲げる受話器のマイクも、彼の言葉は拾えない。
「もしもし? なに? いたずら? ……もしもしっ?」
 
受話器の向こうで男が焦れている。高砂は黙って、老人の口元に受話器を添え、ただ佇んでいた。
あと六分で死ぬ老人は、ちらりとすがるような目を高砂へ向けた。青年は首を振って、
「……俺は、依頼主以外の人間と会話出来ないんだ」
老人は、ぐぐぐ、と喉をふるわせた。
それは、受話器の向こうの男に聞き取れたかどうかはわからない。
だが確かに、老人は言った。
「ありがとう――」
そして。
あと五分で死ぬ老人は、巨大なベッドに仰臥して、天井を見上げていた。
その横に時計屋の青年が腰掛ける。
「……すこし休めば、もう一件くらい掛けられるかもな」
そう言うと、老人は小さくうなずく。そして目を閉じた。
きっかり四分間、その目は閉ざされていた。
あと一分で死ぬ老人は、静かに目を開けた。
視線が時計屋を見つめる。彼はいつでもそれに応じられるよう、受話器に手をかけていた。その彼に向けて、あと40秒で死ぬ老人はささやく。
「ありがとう時計屋さん――」
高砂は受話器を掴んだまま、目を見開いて、老人を見下ろした。
「……ありがとう……あなたのおかげで、ワシの人生に、もうなんの悔いもなくなった……」
あと二十秒で老人は死ぬ。
高砂は黙って老人を見ている。
「あなたの仕事は、すばらしい。会えてよかった。居てくれてよかった。時計屋になってくれてありがとう。あなたが居てくれてワシは幸せだ。
ありがとう。ありがとう」
高砂は、黙って老人を見ていた。
時計屋の見つめる下で、老人はゆっくりと言葉を閉ざしていく。
「ありがとう……」
そして、老人は死んだ。
高砂はそのあとしばらくそこに留まって、老人の死体のそばにいた。
豪奢なベッドの横に腰掛けて、無言で死体に寄り添う。そうして待っていればもう一度言葉が聞こえてくるかもしれないと、待つ。
時間が経過して、やがて事前に手配されていたらしい、家族と医者がともに入室してきた。形骸的なやりとりを行った後、車が呼ばれて、老人の死体が運び出されていく。
このあと、老人の死体がどうなるのか、高砂は知らなかった。なにか治療が加えられるとは思えなかったし、それで復活するわけもなかった。
老人の死体がなくなって、無人になった静寂の寝室で、高砂はまだそこにいた。
ふと、彼は、自分がなにをしているのだろうかと疑問に思った。首を傾げながら窓へと向かう。ガラス戸を開けることもなく壁に身を沈めて、庭園の芝生を一度だけ踏み切って、宙へと身を翻した。
風が頬をなぶる。
やけに冷たい風だと思ったら、それは己の頬が濡れているせいだった。
「……なんだこれ」
湿った顔面を乱暴にぬぐって、高砂は昴へと昇っていった。
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