時計屋 ~あなたの人生をやり直してみませんか?~
純情片思いに焦がれる娼婦
娼婦は火照っていた。
赤いヒールをアスファルトに鳴らし、深夜の歓楽街を颯爽と歩く。
ふだんは街頭に立ち、通行人に身をくねらせる彼女だが、今夜はその気になれなかった。真冬の冷気がむき出しの肩へと降り注ぐ。それでも、寒いとは思わない。年中こんな格好で慣れているから、というのもある。だが今夜は特に、肚の中からポカポカと熱が上がってきて、熱いコーヒーすら欲しいと思えない。
冷たい水が飲みたい。いや、それよりも、ずっとずっと昔、学生時代、かぶるように飲み下した甘酸っぱいスポーツドリンクがいい。今日はそんな気分だった。
まだ男の子と手をつないだこともなかったあのころに、咽喉だけでも戻れたら――――
と。視界がふっと暗くなった。視線を上げると、長身の男が目の前に立ちふさがっている。
「あ、ごめんなさいね」
横によけようとしたが、彼は体をずらして、再び女の帰路をふさいだ。こういった男の行動に、娼婦はもちろん慣れていたが、それでもずいぶん驚いた。
男はかなり若く、麗人であった。
二十歳前後だろうか、精悍な男の面差しに、かすかに幼さがのぞく黒い瞳。純白に染めた髪に黒づくめという格好は、この歓楽街でさほど目立つものではない。
ホストだろうか? だとしたら相当な売れっ子のはずだ。よほどトークが拙くても、これほどの美形なら看板だけで客が付く。
 
「……なあに、お兄さん、わたしを買うの? こう言っちゃなんだけど、お兄さんならわたしみたいな年増にお金を出さなくても不自由ないでしょ」
 
逆に女から金をとれるだろう、という言葉までは自重した。
男は言った。
「俺は時計屋だよ。名前は高砂。お前はなんていうんだ?」
「……わたし? 名前?」
娼婦は驚いた。街頭で、男から名前を聞かれたことはない。まず一番は「いくらだ?」。つぎに「どこまでできる?」。次いで、店に所属しているのか、年はいくつだ、日本人か、などだろうか。
「……ふふっ。名前か。宮野頼子。でも、ミリィで通してるわ」
「みやのよりこ。面白い名前だな」
「そっちで呼ぶの?」
しかも、何が面白いのかわからない。娼婦は笑った。思わず素になって、けらけらと明るい笑い声が出てしまう。変わった男だ。普段なら、それこそ無料ででも抱かれてみたいほどいい男だが、今夜はこのまま帰りたい。
娼婦は化粧の剥げた己の顔を指さした。
「悪いね、今日は店じまい。早上がりなんだ。そうね、気が向いたらまた明日きてよ。大体毎日この辺にいるからさあ」
「俺はお前の客じゃないぞ。時計屋だと言っただろう。お前が客だ」
「時計屋?」
男は静かに手のひらを突き出した。黒金の懐中時計である。なにやら3つも4つも歯車だか計器盤だかがついていて、しかもそれぞれがデタラメに針が進んでいる。時計と言ったが何時何分というのがまったく読めず、用途はよくわからない。
「なあにこれ。細工のいいものなのはわかるけど、なんであれわたしは買わないわよ。年増のたちんぼなんて、バイトのキャバ嬢よりもずっと貧乏なんだから」
「金はもらわないよ。それに、これは時刻を知るための時計じゃない。時間を遡り、過去をやり直すためのものだ」
「なんですって」
男はにっこり笑った。成人男性がこれほど無邪気に笑えるものなのかと、娼婦は思った。美しい面差しに幼児の笑みを浮かべて、男は時計屋という仕事の中身を話した。
それはもちろん、にわかには信じがたいものではあるが――なぜか娼婦には、男がうそを言っているように思えなかった。
  娼婦は呟いた。
「もしも――時を、本当に戻せるというなら、2時間前に……さっきのお客様に。あのひとに、もう一度抱かれたい。こんな仕事をしているわたしが、絶対に言ってはいけない、望んではいけないことだけど。わかっているけど、叶うならわたし……好きな人に抱かれてもいい? 神様――」
「俺は時計屋だと言ってるだろう?」
男は笑って、黒金の時計を中空に軽く投げた。ばりん! と金属の砕ける固い音。そして――
深夜の街頭。娼婦はホットコーヒーを飲んでいた。白い息が夜空に吐きだされる。彼女は煙草を喫まないが、こうして夜を白く汚すのはとても好きだった。面白がってハフハフ吹いていると、その濁流を、ふいに長身の男が遮った。
「あら。えっと、なんだっけ。時計屋さん、たかさご?」
「どうした、みやのよりこ。俺はさっき帰ったのに、また呼ばれたぞ。なにか不満があったのか」
よくわからないことを言う時計屋。とりあえず語尾の質問だけを拾って、
「うーん。いやあ……なんというか。うん、せっかくあなたに時計もらったんだけどね」
「相手と会えなかったのか?」
「ううん、ちゃんと会えた。で、今度は娼婦としてじゃなくて、ちゃんと話しかけたんだよ。一目ぼれしました、付き合ってくださいってさ。ストレートすぎるけどソレ以外にいいようがなかったし」
「それで?」
「振られた。カノジョがいるんだって。それじゃあ今夜一晩だけそばに居させてって言ってみた。でもそれもダメだった」
「ふうん」
「なんかよくわかんないよね。お金出して娼婦を買うのはいいけども、無料で女を抱くのはダメなんだ。カノジョに対してじゃなくて、ただ単に自分がつまらないんだって。なんかよくわかんないよね。全然わからないわ……」
娼婦はしゃがみこみ、10秒間泣いた。
「結局わたしは、娼婦でなきゃ触れてもらえないし、娼婦であれば愛してもらえないんだわ」
そして10秒で立ち上がった。
「ま、しょうがないわね」
時計屋は少し、驚いたようだった。端正な顔をやや剽軽に歪ませて、なにやら考え事をすると、
「俺は2時間ぶんの時計しか作ってないんだけど、同僚には、5年とか10年とか遡れるものを作ってるやつがいるんだ。そのぶん2倍年をとるんだが、それは量産用に手抜きしているだけでな。手間暇かければちゃんと肉体も戻る時計は出来る。……俺が頼んでやろうか? アサトのほうはわかんねえけど、ガレオンなら頼まれてくれると思う。それで、どんだけ前か知らねえけど、お前が娼婦になる前――その理由ができる前に戻って、ぜんぶやり直してみるというのはどうだ」
「そしたら、それはもうわたしじゃないでしょ」
娼婦は笑った。
「わたしはわたし。しょっちゅうひどい目にあうこんな仕事だから、ちょっと男前なだけですぐ好きになっちゃうし、ちょっと優しくされたら大好きになっちゃう。誰からも愛されなくってもね、いろんな人を愛しているわたしのこと、わたし自身は気に入ってるのよ」
「そうかい」
男も笑った。
「俺もわりかしあんたのこと好きだぜ」
娼婦は、ごめんなさいね時計屋さんの儲けになれなくてと謝った。代わりにサービスしてあげようかというのを苦笑で制し、時計屋はふわりと空に舞う。
漆黒の青年の帰路を、娼婦はしばらく見上げ、手を振り続けていた。
 
赤いヒールをアスファルトに鳴らし、深夜の歓楽街を颯爽と歩く。
ふだんは街頭に立ち、通行人に身をくねらせる彼女だが、今夜はその気になれなかった。真冬の冷気がむき出しの肩へと降り注ぐ。それでも、寒いとは思わない。年中こんな格好で慣れているから、というのもある。だが今夜は特に、肚の中からポカポカと熱が上がってきて、熱いコーヒーすら欲しいと思えない。
冷たい水が飲みたい。いや、それよりも、ずっとずっと昔、学生時代、かぶるように飲み下した甘酸っぱいスポーツドリンクがいい。今日はそんな気分だった。
まだ男の子と手をつないだこともなかったあのころに、咽喉だけでも戻れたら――――
と。視界がふっと暗くなった。視線を上げると、長身の男が目の前に立ちふさがっている。
「あ、ごめんなさいね」
横によけようとしたが、彼は体をずらして、再び女の帰路をふさいだ。こういった男の行動に、娼婦はもちろん慣れていたが、それでもずいぶん驚いた。
男はかなり若く、麗人であった。
二十歳前後だろうか、精悍な男の面差しに、かすかに幼さがのぞく黒い瞳。純白に染めた髪に黒づくめという格好は、この歓楽街でさほど目立つものではない。
ホストだろうか? だとしたら相当な売れっ子のはずだ。よほどトークが拙くても、これほどの美形なら看板だけで客が付く。
 
「……なあに、お兄さん、わたしを買うの? こう言っちゃなんだけど、お兄さんならわたしみたいな年増にお金を出さなくても不自由ないでしょ」
 
逆に女から金をとれるだろう、という言葉までは自重した。
男は言った。
「俺は時計屋だよ。名前は高砂。お前はなんていうんだ?」
「……わたし? 名前?」
娼婦は驚いた。街頭で、男から名前を聞かれたことはない。まず一番は「いくらだ?」。つぎに「どこまでできる?」。次いで、店に所属しているのか、年はいくつだ、日本人か、などだろうか。
「……ふふっ。名前か。宮野頼子。でも、ミリィで通してるわ」
「みやのよりこ。面白い名前だな」
「そっちで呼ぶの?」
しかも、何が面白いのかわからない。娼婦は笑った。思わず素になって、けらけらと明るい笑い声が出てしまう。変わった男だ。普段なら、それこそ無料ででも抱かれてみたいほどいい男だが、今夜はこのまま帰りたい。
娼婦は化粧の剥げた己の顔を指さした。
「悪いね、今日は店じまい。早上がりなんだ。そうね、気が向いたらまた明日きてよ。大体毎日この辺にいるからさあ」
「俺はお前の客じゃないぞ。時計屋だと言っただろう。お前が客だ」
「時計屋?」
男は静かに手のひらを突き出した。黒金の懐中時計である。なにやら3つも4つも歯車だか計器盤だかがついていて、しかもそれぞれがデタラメに針が進んでいる。時計と言ったが何時何分というのがまったく読めず、用途はよくわからない。
「なあにこれ。細工のいいものなのはわかるけど、なんであれわたしは買わないわよ。年増のたちんぼなんて、バイトのキャバ嬢よりもずっと貧乏なんだから」
「金はもらわないよ。それに、これは時刻を知るための時計じゃない。時間を遡り、過去をやり直すためのものだ」
「なんですって」
男はにっこり笑った。成人男性がこれほど無邪気に笑えるものなのかと、娼婦は思った。美しい面差しに幼児の笑みを浮かべて、男は時計屋という仕事の中身を話した。
それはもちろん、にわかには信じがたいものではあるが――なぜか娼婦には、男がうそを言っているように思えなかった。
  娼婦は呟いた。
「もしも――時を、本当に戻せるというなら、2時間前に……さっきのお客様に。あのひとに、もう一度抱かれたい。こんな仕事をしているわたしが、絶対に言ってはいけない、望んではいけないことだけど。わかっているけど、叶うならわたし……好きな人に抱かれてもいい? 神様――」
「俺は時計屋だと言ってるだろう?」
男は笑って、黒金の時計を中空に軽く投げた。ばりん! と金属の砕ける固い音。そして――
深夜の街頭。娼婦はホットコーヒーを飲んでいた。白い息が夜空に吐きだされる。彼女は煙草を喫まないが、こうして夜を白く汚すのはとても好きだった。面白がってハフハフ吹いていると、その濁流を、ふいに長身の男が遮った。
「あら。えっと、なんだっけ。時計屋さん、たかさご?」
「どうした、みやのよりこ。俺はさっき帰ったのに、また呼ばれたぞ。なにか不満があったのか」
よくわからないことを言う時計屋。とりあえず語尾の質問だけを拾って、
「うーん。いやあ……なんというか。うん、せっかくあなたに時計もらったんだけどね」
「相手と会えなかったのか?」
「ううん、ちゃんと会えた。で、今度は娼婦としてじゃなくて、ちゃんと話しかけたんだよ。一目ぼれしました、付き合ってくださいってさ。ストレートすぎるけどソレ以外にいいようがなかったし」
「それで?」
「振られた。カノジョがいるんだって。それじゃあ今夜一晩だけそばに居させてって言ってみた。でもそれもダメだった」
「ふうん」
「なんかよくわかんないよね。お金出して娼婦を買うのはいいけども、無料で女を抱くのはダメなんだ。カノジョに対してじゃなくて、ただ単に自分がつまらないんだって。なんかよくわかんないよね。全然わからないわ……」
娼婦はしゃがみこみ、10秒間泣いた。
「結局わたしは、娼婦でなきゃ触れてもらえないし、娼婦であれば愛してもらえないんだわ」
そして10秒で立ち上がった。
「ま、しょうがないわね」
時計屋は少し、驚いたようだった。端正な顔をやや剽軽に歪ませて、なにやら考え事をすると、
「俺は2時間ぶんの時計しか作ってないんだけど、同僚には、5年とか10年とか遡れるものを作ってるやつがいるんだ。そのぶん2倍年をとるんだが、それは量産用に手抜きしているだけでな。手間暇かければちゃんと肉体も戻る時計は出来る。……俺が頼んでやろうか? アサトのほうはわかんねえけど、ガレオンなら頼まれてくれると思う。それで、どんだけ前か知らねえけど、お前が娼婦になる前――その理由ができる前に戻って、ぜんぶやり直してみるというのはどうだ」
「そしたら、それはもうわたしじゃないでしょ」
娼婦は笑った。
「わたしはわたし。しょっちゅうひどい目にあうこんな仕事だから、ちょっと男前なだけですぐ好きになっちゃうし、ちょっと優しくされたら大好きになっちゃう。誰からも愛されなくってもね、いろんな人を愛しているわたしのこと、わたし自身は気に入ってるのよ」
「そうかい」
男も笑った。
「俺もわりかしあんたのこと好きだぜ」
娼婦は、ごめんなさいね時計屋さんの儲けになれなくてと謝った。代わりにサービスしてあげようかというのを苦笑で制し、時計屋はふわりと空に舞う。
漆黒の青年の帰路を、娼婦はしばらく見上げ、手を振り続けていた。
 
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