時計屋 ~あなたの人生をやり直してみませんか?~

とびらの

三人の男A

 男は泣いていた。

 年のころは四十前後か。質素な衣服は薄汚れており、不潔に垂れた前髪の隙間から、たるんだ瞼と目がのぞく。痘痕で爛れた頬にはとめどない涙で濡れている。
 だらしない口元から、言葉が漏れた。

「恵理子。恵理子……。俺が悪かった。俺が悪かったんだ」

 小さな部屋だった。六畳一間のアパート――それでも、生活感のない男一人のくらしには寒々しい空間。
 家具も魂もがらんどうの部屋に、男の声だけが響いている。

「俺が悪かったんだ……」

 その手元には、一枚の写真があった。
 若い男女ふたりのスナップである。お世辞にも美男美女とは言えないが、仲睦まじくどちらも幸せそうに微笑んでいた。
 観ているほうが照れくさく、幸せな気持ちになってしまうような写真を手に、男は号泣していた。

「もし、時間がもどせたら。あの頃に戻れたならば――」

「ご注文、ありがとうございます」

 声はすぐ近くで聞こえた。
 顔を上げる。

 まだ若い女だ。十五歳かそこら——と、思ったのは、極端に華奢な体型と、いまどき珍しい黒髪を頭の高い位置で二つに分けた、幼い髪型のせいらしかった。一度、瞬きをすれば、もう少女には見えない。
 黒髪には艶もなく、小柄なのはただ単に痩せているだけだ。やぶにらみ気味の三白眼に薄い唇。愛想のない細い顎。美人ではない。まして美少女では全くない。

 男は言った。

「お嬢さん――その髪型、似合ってないよ」

 女は言った。

「わたしは時計屋です」

 女は、衣装もまたあまり似合っていなかった。ちいさな体に乗せたような漆黒のトレンチコートから、銀色の円盤を差し出す。
 素直に受け取ってみる。
 手のひらより少し小さい円盤に、歯車のようなものが四つついている。よく見るとそれはなにかの計器になっており、それぞれがまったく別の方向へ針が向いていた。
 誇れるほどの学はない男には、それは特殊な仕事で使う懐中時計、のように思えた。

「これは……なんだって? 時計?」
「はい。これで、時を巻き戻す――あなたの過去をさかのぼることが出来ます」
「俺の、過去を?」
「はい。人生をやり直せます」
「人生を――恵理子を、取り戻せる? 俺は……」
「はい。あなたの忌まわしい過ちをなかったことにして、もう一度」
「恵理子を――俺は、今度こそ、幸せにしてやりたい」

 女は笑った。

「お買い上げありがとうございます」

 男の意識が遠のいた。
 遠くで、女の声がする。

「契約詳細をお伝えいたします。
 本日は当店『時計屋』をご利用いただき、ありがとうございます。職人、亜郷あさとより、『運命戻しコース・10年バージョン』をご案内させていただきます。
 それでは、よい過去を」


 男は目を開けた。

 明るい部屋だった。
 広くはない。だがそれは色とりどりの雑貨や家具が空間を占拠しているせいらしかった。
 淡い黄緑色のラグマットに、仰向けになって転寝していたらしい。すぐ眼上にはクリーム色のソファ。
 そして、ほそい女の足首があった。

「恵理子!!」

 男はその足にすがりついた。おどろいた彼女―――妻が、くすぐったいと嬌声をあげて男をたしなめる。
 構わず、男は妻を抱きしめた。

 「恵理子。恵理子…すまなかった。もう君を傷つけたりしない。幸せにするよ。今度こそ間違えない。
  幸せになるんだ」

 男は妻を大切にした。
 今度こそ、二人で幸福になりたかった。

 妻に、きちんとプロポーズをした。
 三日間失踪などしなかった。

 すぐに妻の両親のもとへあいさつに行った。
 当日に逃げ出したりなどしなかったし、殴られて殴りかえしなどしなかった。

 籍を入れ、妻の子を認知した。
 しらばっくれて逃げはしなかった。あげくに彼女の不貞を疑ったり、ましてやその腹を殴ったりなど絶対にしなかった。

 ささやかな結婚式を挙げ、質素ながら指輪まであげた。
 腹ボテの穀潰しが、着飾ってなんになるんだみっともねえなどと責めやしなかった。

 少しふくよかになった妻を、美しいよと優しくなでた。
 醜い豚と罵って蹴り飛ばしなどしなかった。

 生まれた子供を抱きしめた。
 冷たい床に放置して、出かけたりなどしなかった。

 明るく、温かく、笑顔の絶えない家庭であった。

「幸せだね恵理子」
「幸せね、あなた」

 微笑む夫婦のまんなかに、子供が入って、けらけら笑った。


 生活は、「過去」よりもなお苦しくなった。


 妻に着飾らせてやりたかった。無事に生まれてすくすく育つ息子にも不自由をさせたくなかった。
 だから、奴らに施し続けた。
 そうして金が足りなくなった。
 つまらない仕事を、以前に増して行わなくてはならなくなった。
 罵られても殴られても、辞めることは出来なくなった。
 奴らのために、奴らのせいで。

 男はとても苦しい日々を送った。

 妻子が出かけているときに、ちょうど隣人から、肉と酒をおすそ分けされた。
 何年飲んでいないのだろう。
 妻子が返ってきたら、家族で分けなくてはいけない。肉も酒も余るほどはない。
 男一人で満腹になるかどうかだ。
 男はひとり、それを堪能した。
 帰ってきた妻は、男を責めはしなかった。ただじっと彼を見て、微笑み、言った。

「まったく、意地汚いわねえ」

 男は妻を殴り飛ばした。
 妻は謝罪した。
 子供が飛びついて泣き叫んだ。
 男は子を蹴り倒し、踏みつけた。
 妻と子は謝罪した。


 それからは、男の人生はもっと幸福になった。

 妻がいる。子がいる。家庭と家族がそこにある。
 それでいて、男は働かなくてもよくなった。
 何を言っても妻はそこにいた。どれだけ蹴っても子は生きていた。

「お前らのせいで俺の人生はめちゃくちゃだ。このクズが。死ね。クズめ。死んでしまえ。今すぐ死んで見せろ。
 クズクズクズクズ――――ゴミクズどもが!!!」

 妻がいる。子がいる。家庭と家族がそこにあり、鮮やかな色彩の雑貨と家具で狭い部屋に、明るい電燈がともっている。


 男は幸せだった。


 幸福な月日は流れ、ちょうど、あの時――
 あの、時計屋と名乗る黒髪の女と出逢った、あの日が来ていたことを、男はふと思い出した。

 そうだ、あの日のひと月前に、「過去」の妻は失踪した。男は絶望していた。時計屋の女が現れなければ、その日のうちに自害する気でいたのだ。
 彼女は救世主だ。男の人生は変わった。家族がそばにいるんだ――――


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 幸福そうに微笑む男の後ろで、妻は子供にひっそりと耳打ちした。


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