ラトキア騎士団悲恋譚
最期の夜①
腰まで伸びた髪を飾り、腰帯はリボンの形。
  薄布でこしらえた貫頭衣は、豊かな乳房の形をくっきりと写し、歩くたびにいちいちたわむ。その下にはシャツもズボンも穿いていなかった。
 (……失敗した)
  一枚布の脇から白い腕を、深いスリットから腿まで足を覗かせて、アレイニはまっすぐ、帝都を歩いて進んでいた。
 (気合いいれすぎた……)
  と、いうのは、軍人たちの視線を感じてのことである。帝都はほぼ完全なる男社会だ。彼らが飢えているか否かは関係なく、ただ単純に、女の存在が珍しい。
  軍服を着こんでいてすら目立つアレイニ。それが私服、さらにこの露出度は、さすがに不適切だったと今更痛感していた。
 (……テンション馬鹿になってた。私は休みでも、みんな働いてるんだ。ココは職場だった……)
 「すげーユッサユッサだ」
 「走ったらこぼれるんじゃないか」
  時に飛んでくる下品なヤジ。アレイニが、やっとの思いで騎士団敷地へとたどりつくと、見知った後姿を見つけた。
  寮の入り口すぐそばである。緑の髪の男はしゃがみこみ、なにか銀色の物体を弄んでいる。
 「おはようございますバンドラゴラ、なにをしてるんですか?」
 「ん? ああアレイニか、おはよう――」
  と、顔を上げたバンドラゴラが、一瞬だけ眉をひそめる。だがすぐに立ち上がり、いつもの笑みを見せた。
 「『エアライド』の整備をしてたんだよ。おれ明日からシェノクと一緒に出向だから」
  彼は珍しく、上半身が半裸という格好だった。
  汚れる作業をするために脱いだのだろう。薄着一枚になると、その体つきがよくわかる。バンドラゴラは大きな男であった。柔和な顔立ちに不似合いな、隆起した戦士の体。
  立ち上がったついでに大きく伸び。そして、腰を自分でトントン叩いた。
  紳士の顔に戦士の体、年寄りくさい所作をいっぺんに見て、アレイニは笑ってしまった。
 「ふふ。エアライドって、なんですかこれ、乗り物?」
 「初めて見るかい? ミラーステルスフィールド付きの空上バイクだよ。陸上バイクほどのスピードは出ないし燃費も悪いけど、空からの潜入や追跡には役に立つ」
  言われて、アレイニはその物体をのぞき込んだ。確かに、二輪車によく似た形をしている。一人用だろう。機械には興味がなく、科学者としてはギリギリ及第点といった程度アレイニは、とりあえずフゥンと相槌をうった。
 「町で見たことはないわ。騎士の装備にはこんなものもあるのね」
 「いやいや、これはおれの私物。オーリオウル製の直輸入品なんだ。たとえ騎士でも、王都を走るのはやっぱり法律違反。自分ちの庭で乗り回すんだ」
 「……高そう。バンドラゴラ、けっこう道楽者ね」
 「独身男の一人遊びだ、大目に見てくれ」
  笑うバンドラゴラ。アレイニは苦笑いを浮かべた。堅実な彼のことだ、借金してまでつぎ込んだわけじゃなかろうが、こういうものはえてして維持費の方が金を食う。
  晴れて既婚者となった彼、いつまでこの道楽を続けてられるかは時間の問題だろう。
  そんなアレイニの思考を読んだのか、バンドラゴラは銀色のパーツを掲げて見せた。
 「このごろちょっと調子悪くてさ。どうしよっかなーっと思ってたところに出向命令がきて。任務にも便利だから持って行こうかなと」
 「……もしかして、あわよくば軍施設で無料で整備させようと?」
 「ばれたか! でも残念、道具だけ貸すから自分でやれってよ。シェノクってケチだよな」
 「下心を見透かされたからでしょ」
 「前騎士団長らの時は許されてたの。クーガ騎士団長だって、シェノクが補佐につくまではなんだかわからんからオッケーってユルユルだったのに。マジメな軍人は早死にするよーって、誰かあいつに言ってやってくれ」
  アレイニは呆れて、彼の鼻先が汚れているのは教えてやらないことにした。これで、悪口を言われたシェノクの敵討ちにしておこう。
 「うーん、ココの稼動部が……ああ、サビて歪んでるんだな。これ直せるのか? ……この機会に二人乗り買おうかな。でも経費で出ないしなぁ」
  懲りないなあという言葉は出さず、アレイニは笑う。
 「そういえば、テオのお母さんは金属加工の仕事をしているそうよ。乗り物の整備はは専門外でしょうけど、サビ落としやユガミ直しなら相談に乗ってくれるかも」
 「おお、じゃあ訪ねてみようかな。――ところで、アレイニはこれからどこに?」
 「事務に私信の手紙が届いてるって聞いて、取りに来たんです」
 「そうか。じゃあそこ、塀のところにおれのジャケットが掛けてあるだろ、持っていきな。腕寒いだろ」
 「……そうですね。ありがとう、お借りします」
  実に彼らしい気遣いに、アレイニは素直に頷いた。
  ずいぶん前から脱ぎ置かれていただろう、バンドラゴラのジャケットは、羽織るとひんやり冷たかった。じきにアレイニの体温を吸い、暖まってくる。
  寮棟へ入ったとき、ふとアレイニは眉をひそめた。
  アレイニよりもふた周り大柄なバンドラゴラーーその衣装が体に馴染まないのは致し方あるまい。だが、それよりも。
 (……男の匂いがする)
  それが、決定的に受け入れられなかった。
  バンドラゴラは、マメで清潔な男だった。軍服も洗濯されており、客観的に、不潔な状態では決してない。
アレイニはこれまで、バンドラゴラを臭いなどと思ったことはないし、今もこの匂いを、悪臭だとは思わない。
  アレイニはバンドラゴラが好きだった。人柄もよく紳士で、結婚するならこんな男が理想だとすら思っていた。個人的な恩義もたくさんある。大切な友人――それは、何も変わってはいないのに。
 (……どうして? 気持ち悪い……)
  肌が粟立つような、嫌悪感――アレイニは身震いしながら、それでも堪えて、騎士団寮廊下を歩いて進んだ。
  事務室カウンター、いつもの愛想のない事務員をベルで呼び出す。アレイニの名乗りを受け、彼が持ってきた封筒には送り主の名がなかった。
  しかしやけに質のいい紙である。糊ではなく、わざわざ蝋で封がしてあるのが厳めしい。
  女の字だろう。きれいな筆致で「アレイニ様」と宛名があった。
 (……いやな予感がする……)
  この手紙は開けたくない。いやなことが書かれている気がした。
  受け取りたくなかった。
 (……どうしよう。開けたくない。ひとりで見るのが怖い……!)
 「おいアレイニ、なにやってるんだよ!」
  不意に、飛んできた声に顔を上げる。前方に数名の騎士のおり、一人がこちらへ駆けてきた。
 「あ、テオ」
  アレイニは思わず、手紙を隠した。だが到着したティオドールは、腰帯に挿した手紙のことなど見向きもしなかった。彼の目線はそこではなく、指先を隠すほどにぶかぶかの、男の軍服を睨みつけて。
 「……その服、誰のだ」
 「バンドラゴラの……今さっき、そこで借りたんです。ちょっと寒い格好で出てきちゃったので」
  問答無用、みなまで言わさず、テオはジャケットを脱がしにかかった。あっという間に奪い取ると、今度は自分が脱ぎ始める。
 「俺のやる。それは俺が返しとく」
 「え……」
 「つか、初めからそういう格好してくんなよ。アホか。職場だぞ。遠目からでもめちゃくちゃ浮いてたわ。普通に叱られるレベルだ」
 「……ごめんなさい」
  アレイニは素直に謝った。
  叱られる、という理屈はよくわからなかった。
  学校では皆、似たような恰好をしていたし、研究所でのキリコは何も言ってこなかった。しかしラトキア騎士団では不適切だったのだろう。浮いているのは実感していた。
  しおらしい返事が意外だったのか、テオは気勢をそがれ、後ろ頭をかいた。
  自分のジャケットをアレイニに着せながら、ボソリと呟く。
 「あぶなっかしいことやめてくれ。いつも俺が通りがかる訳じゃないんだから」
 「……はい」
 「……あと、バンドラゴラも……いや、あっちはたぶん、なにもそういうのじゃないだろうけど」
 「はい?」
 「まあ。同僚だからな。しゃべるのはしょうがないし、イイヤツだし、頼りになるし友達だし――けど。……俺よりは仲良くすんなよ」
  アレイニは目を丸くした。思わず大きな声が出る。
 「へー! 意外ー。そういうこというのねテオ」
 「うるせえ! 仕事中だ、俺もう戻るからな!」
  と、叫んで一度立ち去ってから、テオは戻ってきた。アレイニの耳元へ顔を寄せて、
 「今日は夜勤番だ。帝都を離れられそうにない」
  なんだそれは、とアレイニは苦笑した。そんなことをわざわざ言いに戻るなんて、まるで、毎晩うちに来るのが当たり前になってるみたいじゃないか。
  あっそう誰も待ってませんよーーと、いう、言葉を吐きかけて。ふと、アレイニは悪戯をしてみたくなった。
 「じゃあ私がテオの部屋へいこうかな」
  テオは目を全身を猫のように震わせた。慌てて身をはなし、それこそ逃げだしながら、
 「や、わ、寮はだめだぞ寮は! そんな格好で――ダメだからな!」
 「でも借りたジャケットも返さなくちゃだしぃ」
 「俺が取りに行くから、あれだ、寄宿舎、あっちで待ってろ。シェノクに言えば鍵もらえるはずだから!」
  あらまあとアレイニは軽い声を出す。ほんの冗談だったのに、完全に本気にされてしまった。
  ――まあ、いいか。
  ほほえみがこぼれる。それを隠すようにして、アレイニはテオのジャケットに顔を埋めた。鼻先まで、テオのジャケットに包まれて、アレイニは去りゆく後ろ姿に呼びかける。
 「テオー。この服あせくさーい」
 「やかましいっ! 我慢しろ!」
  背中越しに怒鳴られて、アレイニは腹を抱えて笑った。
  団長執務室に向かって歩く。
  シェノクの部屋はもちろん別にあるが、たいていの場合彼はそこにいた。
  階段を上る、アレイニの足取りは軽く、明るく。
  鼻歌までこぼれてきそうだった。
団長不在の執務室で、やはり書類仕事をしていたシェノクに、アレイニは用件を伝えた。
 「――寄宿舎の鍵? それならすぐ出せるけど、まだ荷造りできていないんだろう。あそこは寮じゃなく個人宅扱いだから、ろくな家具がない。キッチンとベッドくらいだけどいいのか」
  シェノクはあまり愛想よくはないが、その実、面倒見のいい先輩だ。アレイニはにこやかに手を振った。
 「大丈夫です、今夜は泊まるだけですから。……あ、ほら、荷物運ぶ前に置き場所のサイズとかはかりたいし」
  シェノクは少し、怪訝な顔をしながらも、キャビネットから鍵束を出してきた。
  手を出したアレイニに、銀色の鍵と、金色の金属板を手渡してくる。
  一瞬、判子はんこかと思った。しかし違った。アレイニの名前が浮き彫りにされた、真鍮製のネームプレートである。
 「これは……ドアに張ればいいんですかね?」
  うなずくシェノク。
  さすが高級軍人の宿舎、入居者のプレートまでこさえてくれるとは剛毅なことである。なかなか凝った細工だなあと、ひっくり返してみようとして――その手を、シェノクに捕まれた。
 「……アレイニ。本当にいいんだな?」
 「え……?」
 「これで、おまえは正式に、ラトキアの騎士になる。その覚悟はあるな? ……まあ、この扱いからもわかるように、それなりに配慮された待遇にはなる。日々も科学研究所への勤務が多いだろう。……戦闘力は期待していない。だが――」
  シェノクは、小さな男だ。重ねられた手は、アレイニのものと大差がない。小さくて柔らかい手だった。しかし何度も爪が割れ、傷だらけになってきたのが見て取れる。
  アレイニは唇を結び、強く頷いた。
 「はい。力の限り務めさせていただきます」
  そうか、と、シェノクは頷き、笑った。
  赤い瞳を細め、とても嬉しそうにして。
 「じゃあ、これから俺たちは仲間だ。ようこそラトキア騎士団へ。……一緒に、クーガ騎士団長を支えていこう。よろしくアレイニ」
 
  寄宿舎は、騎士団寮から三十分程度、歩いていった先にあった。
  研究所と騎士団寮との、ちょうど中間地点にあるそこには、三十人余りの高級軍人が入っている。
  アレイニがこの建物を訪れるのは、およそ五年ぶりのことだった。かつて、キリコ博士を訪ねたとき、その豪華さに息をのんだものだ。
  しかし、実際に入ってみたアレイニの部屋は、もっとずっと簡素なものだった。なんのことはない、寄宿舎にもランクがあって、いち新人騎士であるアレイニは一番下の部屋。キリコのところと違い、ふた周りは安物の設備だった。部屋の広さも段違いだろう。
  玄関、リビング兼ダイニング、その奥に寝室というよくある作り。王都の家よりほんの少し広い程度だ。
 「まあ、そりゃそうよね」
  それでも、クリーニングが行き届いていたのはさすがである。ベッドの状態だけ確かめて、アレイニは再び玄関の方へと戻っていった。ネームプレートを付けようと、ドアノブへ手を伸ばして――
「あっ。そうそう、これ」
  声を上げる。ここのポストにも手紙が入っているのだ。もう何日も放置していた。
  取り出してみると、宛名には確かにアレイニの名前。だが送り主の署名はない。
  きれいな筆致、高級な封筒、蝋の封印――
アレイニはその場で、その手紙を開いてみた。
  中の文章で、送り主はすぐに明かされていた。
  内容も簡潔であった。
  怪文書などではなかった。
  アレイニは悲鳴を上げた。
  ――アレイニ様。
  貴方の兄上、シルビア様の訃報をお知らせいたします。
  先日、この『光の塔』へ戻られ、当主としてのおつとめに励んでおられたシルビア様ですが
ご乱心のすえ、私室の窓から投身されました。
  ご遺体は損傷が激しく、こちらで密葬を済ませてあります。
  アレイニ様はどうかすみやかにご帰還くださいませ。
 「い……いや――っ!」
  手紙を投げ捨て、アレイニは部屋へ駆け戻った。壁に額を付け、引きつけを起こして硬直する。
  ――身投げ。自殺。死――
アレイニが震え上がったのは、哀れな兄への哀れみなどではなかった。
  かわいそう、という気持ちはみじんもわかなかった。悲しくもなかった。それよりも、おだやかに添えられた最後の一文が、何よりアレイニの肺腑を抉っていた。
 「ひい……っ、う……ぃ、いや……いや……」
  血の気が引き、汗が溢れる。急速に冷え込み、震えが止まらない。己の身を抱きしめると、ほんの少し、あたたかな気持ちがわき上がった。
  鼻孔をくすぐるテオの匂い、彼の気配を握りしめると、涙が一気にあふれ出した。
 「テオ……テオ……!」
  大粒の滴が勝手に溢れ、どんどんこぼれてくる。それを袖で乱暴に拭い、洟をすすり、アレイニは泣きじゃくった。
 「テオ……私、わたし……」
  腰帯に、もう一通の封書を差し込んでいた。。
  ――先ほど事務所で受け取った、昨日、届いたばかりの『塔』からの手紙。
  どうして忘れていたのだろう。
  この封筒は、蝋につけられた刻印は、あの『光の塔』のものであった――
窓の向こうは、いつも白い煙があがっていた。
 「あれはなあに、おとうさま」
  アレイニが尋ねると、父はいつも悲しい顔をした。母は叱りつけた。
  光の塔の当主、天皇は、兄シルビアが跡を継ぐ。雌体優位で生まれたアレイニには知らなくていいことだと。
  そう言い聞かされ、アレイニはずっと不満だった。第二子として、そして女として生まれてきたことを恨めしく思った。
  十五で塔を出たのは、そのあてつけもあったのかもしれない。
  どうせ天皇になれないなら、せめてふつうの町娘として青春を謳歌したっていいじゃないか。
  そう提言したとき、親族がすんなりと同意したのは意外であった。
  ――シルビアは優秀な男だ。雌体優位の第二子などごくつぶしでしかない。
  ――いらない子だ。下手に塔をうろつかれて、シルビア様の気を惑わすよりも、外に出したほうがよい――
アレイニ当人の目の前で、彼らはそう言った。
 「ちょっとお待ちなさい、私は反対です」
  その声に、アレイニは振り向いた。だが発言者は両親ではなかった。優しさでもなかった。
 「今は心身ともに健康であらせられるシルビア様も、万が一ということがあります。天皇の正統な血筋で、子供を生めるものはもうおりません。スペアはあったほうがいいのでは?」
  ――スペア。
  そう言った叔母を、両親は強い口調で説きふせた。
 「アレイニは劣等生よ。こんな出来損ない、雄体化しても当主になどなれないわ」
 「欠陥品が子を生んでも、さらに歪むだけだ。次期当主シルビアを大事に育てればそれでいいだろう」
  そして、父はアレイニを見下ろした。
  透き通るような青い瞳。
  美しい顔をした天皇は、眉を寄せ、冷たい声で言い捨てた。
 「さあ、出ておゆき。世界を知り、好きなことを学び、愛する人の子を産めばいい」
  ――捨てられた。
  アレイニは愕然とした。
  ごめんなさい、出ていきたいなんて嘘なのだと、泣いてすがってしまいそうだった。捨てないでくれと、舌の根元まで言葉が出かかった。
  それでも、アレイニは飲みこんだ。
 (……見返してやる)
  自室でひとり、荷造りを進める。何が必要で、何が不要なのかはよくわからなかった。とにかく詰め込んでいく。
 (いいわ。おにいさまよりもずっと優秀になってやる。光の塔の傘がなくたって、ラトキアの誰もが私を求めるように)
 (女だろうが、第二子だろうが、私が当主にふさわしいというくらいに――)
  一人で暮らしていける自信はあった。
  炊事ならお手の物。キッチンしか遊び道具のない自室で、アレイニはなんだって手作りしてきた。
  アレイニは料理が好きだった。一度作ったことのあるものなら、たいていのレシピは記憶している。
  勉強だって、そうしたものがもっとも得意だった。順序を記憶し、その通りに従えば、思い通りのものが出来上がる科学が楽しかった。
  そんなことを考えながら、ちょうど手に持った本を見下ろす。
  自宅で出来るおくすり化合――そんなタイトルの書籍は、アレイニのお気に入りだった。
  ――そうだ。科学の道に進もう。
  決意して、荷物の一番上に入れた。
  両親の死を知ったのは、アレイニが十八歳の時。
  兄シルビアが二十歳になり、天皇譲位の権利を持った、その翌日のことだった。
  連絡を受けたアレイニは、すぐに塔へと戻った。
  出迎えた叔母に、両親の骸に会いたいと願う。彼女は無言のまま、アレイニの手を引いて歩き出した。
  進む先に、『塔』があった。
  アレイニ達家族が暮らす塔ではない。並んで立った、巨大な煙突だった。
  頂点からは、白い煙。
 「……あそこは……あの塔は、火葬場、なの……?」
  呆然とつぶやくアレイニ。
  はい、と、叔母は頷いた。そこへと向かう歩みを止めずに続ける。
 「あれこそが真の『光の塔』。自殺という、この世で最も邪悪な行為を行った犯罪者の骸を焼き、神のもとへ送り届ける聖なる炎なのです」
 「じ、さつ――」
  それが、両親の死因と知った。
  叔母は唾でも吐き捨てるように、続けた。
 「これが天皇の役目です。天なる神は、自ら命を絶つものを決して許さない。だからあなたがた現人神が、この地における神の子が、神に代わって裁くのです。
  愚かなる自殺者を。安楽死の選択者を。親と医者によって、生まれなかったことにされた嬰児えいじたちを――」
  塔は、もう目前だった。
  その時、アレイニは何か、異様な音を聞いた。
  オウオウと鳴き声のような風の音。あるいは、風の音のような人の声。
  オウオウ。オウ。――オウ。オオオオ――
「これは救いなのです」
  アレイニは震えた。
 「こんなことが……ヒトに、許されるの……?」
  叔母は笑った。何を、可笑しなことをと、朗らかに楽しげに笑った。
 「天皇はヒトではありませんよ。現人神だから許される――だから現人神なのです」
  オオオオゥウオオオオ――
「ひっ――い、いやああああっ――!」
  アレイニは叫び、耳をふさいで逃げ出した。
  彼の声が聞こえぬよう、全力でその場を離れる。
 「嫌! いや――いや――!」
  自分の声で塗りつぶそうとしても、兄の声はどこまでも追いかけてきた。
  兄の泣き声。
  それは呪いの声だ。
  両親の遺骸を焼く兄の悲鳴。
  現人神になったばかりの青年が、泣き叫ぶ呪いの声だった。
  ――薄暗い、寄宿舎の部屋に座り込んで、アレイニは泣きじゃくっていた。
  こぼれつづける涙。いちいち拭うことはせず、アレイニは裾に顔を押し付ける。
  テオのにおいがするジャケット。
  そのぬくもりは、まるで彼本人に抱かれているような錯覚をさせてくれる。
  しかし、アレイニの涙は止まらなかった。
 「……ごめんなさい。テオ。私……わたし……」
  封書を開く。
  文は、先のものに増して簡潔であった。
  アレイニは笑った。
  ――近日、お迎えにあがります――
笑いが止まらない。涙も止まらない。
  天を仰ぎ、笑い声と涙を同時にこぼして、アレイニは脱力していった。
 力をなくした喉から、言葉が――己を打ちのめす呪詛が漏れる。
  アレイニは言った。
 「私、もうだめだ」
  薄布でこしらえた貫頭衣は、豊かな乳房の形をくっきりと写し、歩くたびにいちいちたわむ。その下にはシャツもズボンも穿いていなかった。
 (……失敗した)
  一枚布の脇から白い腕を、深いスリットから腿まで足を覗かせて、アレイニはまっすぐ、帝都を歩いて進んでいた。
 (気合いいれすぎた……)
  と、いうのは、軍人たちの視線を感じてのことである。帝都はほぼ完全なる男社会だ。彼らが飢えているか否かは関係なく、ただ単純に、女の存在が珍しい。
  軍服を着こんでいてすら目立つアレイニ。それが私服、さらにこの露出度は、さすがに不適切だったと今更痛感していた。
 (……テンション馬鹿になってた。私は休みでも、みんな働いてるんだ。ココは職場だった……)
 「すげーユッサユッサだ」
 「走ったらこぼれるんじゃないか」
  時に飛んでくる下品なヤジ。アレイニが、やっとの思いで騎士団敷地へとたどりつくと、見知った後姿を見つけた。
  寮の入り口すぐそばである。緑の髪の男はしゃがみこみ、なにか銀色の物体を弄んでいる。
 「おはようございますバンドラゴラ、なにをしてるんですか?」
 「ん? ああアレイニか、おはよう――」
  と、顔を上げたバンドラゴラが、一瞬だけ眉をひそめる。だがすぐに立ち上がり、いつもの笑みを見せた。
 「『エアライド』の整備をしてたんだよ。おれ明日からシェノクと一緒に出向だから」
  彼は珍しく、上半身が半裸という格好だった。
  汚れる作業をするために脱いだのだろう。薄着一枚になると、その体つきがよくわかる。バンドラゴラは大きな男であった。柔和な顔立ちに不似合いな、隆起した戦士の体。
  立ち上がったついでに大きく伸び。そして、腰を自分でトントン叩いた。
  紳士の顔に戦士の体、年寄りくさい所作をいっぺんに見て、アレイニは笑ってしまった。
 「ふふ。エアライドって、なんですかこれ、乗り物?」
 「初めて見るかい? ミラーステルスフィールド付きの空上バイクだよ。陸上バイクほどのスピードは出ないし燃費も悪いけど、空からの潜入や追跡には役に立つ」
  言われて、アレイニはその物体をのぞき込んだ。確かに、二輪車によく似た形をしている。一人用だろう。機械には興味がなく、科学者としてはギリギリ及第点といった程度アレイニは、とりあえずフゥンと相槌をうった。
 「町で見たことはないわ。騎士の装備にはこんなものもあるのね」
 「いやいや、これはおれの私物。オーリオウル製の直輸入品なんだ。たとえ騎士でも、王都を走るのはやっぱり法律違反。自分ちの庭で乗り回すんだ」
 「……高そう。バンドラゴラ、けっこう道楽者ね」
 「独身男の一人遊びだ、大目に見てくれ」
  笑うバンドラゴラ。アレイニは苦笑いを浮かべた。堅実な彼のことだ、借金してまでつぎ込んだわけじゃなかろうが、こういうものはえてして維持費の方が金を食う。
  晴れて既婚者となった彼、いつまでこの道楽を続けてられるかは時間の問題だろう。
  そんなアレイニの思考を読んだのか、バンドラゴラは銀色のパーツを掲げて見せた。
 「このごろちょっと調子悪くてさ。どうしよっかなーっと思ってたところに出向命令がきて。任務にも便利だから持って行こうかなと」
 「……もしかして、あわよくば軍施設で無料で整備させようと?」
 「ばれたか! でも残念、道具だけ貸すから自分でやれってよ。シェノクってケチだよな」
 「下心を見透かされたからでしょ」
 「前騎士団長らの時は許されてたの。クーガ騎士団長だって、シェノクが補佐につくまではなんだかわからんからオッケーってユルユルだったのに。マジメな軍人は早死にするよーって、誰かあいつに言ってやってくれ」
  アレイニは呆れて、彼の鼻先が汚れているのは教えてやらないことにした。これで、悪口を言われたシェノクの敵討ちにしておこう。
 「うーん、ココの稼動部が……ああ、サビて歪んでるんだな。これ直せるのか? ……この機会に二人乗り買おうかな。でも経費で出ないしなぁ」
  懲りないなあという言葉は出さず、アレイニは笑う。
 「そういえば、テオのお母さんは金属加工の仕事をしているそうよ。乗り物の整備はは専門外でしょうけど、サビ落としやユガミ直しなら相談に乗ってくれるかも」
 「おお、じゃあ訪ねてみようかな。――ところで、アレイニはこれからどこに?」
 「事務に私信の手紙が届いてるって聞いて、取りに来たんです」
 「そうか。じゃあそこ、塀のところにおれのジャケットが掛けてあるだろ、持っていきな。腕寒いだろ」
 「……そうですね。ありがとう、お借りします」
  実に彼らしい気遣いに、アレイニは素直に頷いた。
  ずいぶん前から脱ぎ置かれていただろう、バンドラゴラのジャケットは、羽織るとひんやり冷たかった。じきにアレイニの体温を吸い、暖まってくる。
  寮棟へ入ったとき、ふとアレイニは眉をひそめた。
  アレイニよりもふた周り大柄なバンドラゴラーーその衣装が体に馴染まないのは致し方あるまい。だが、それよりも。
 (……男の匂いがする)
  それが、決定的に受け入れられなかった。
  バンドラゴラは、マメで清潔な男だった。軍服も洗濯されており、客観的に、不潔な状態では決してない。
アレイニはこれまで、バンドラゴラを臭いなどと思ったことはないし、今もこの匂いを、悪臭だとは思わない。
  アレイニはバンドラゴラが好きだった。人柄もよく紳士で、結婚するならこんな男が理想だとすら思っていた。個人的な恩義もたくさんある。大切な友人――それは、何も変わってはいないのに。
 (……どうして? 気持ち悪い……)
  肌が粟立つような、嫌悪感――アレイニは身震いしながら、それでも堪えて、騎士団寮廊下を歩いて進んだ。
  事務室カウンター、いつもの愛想のない事務員をベルで呼び出す。アレイニの名乗りを受け、彼が持ってきた封筒には送り主の名がなかった。
  しかしやけに質のいい紙である。糊ではなく、わざわざ蝋で封がしてあるのが厳めしい。
  女の字だろう。きれいな筆致で「アレイニ様」と宛名があった。
 (……いやな予感がする……)
  この手紙は開けたくない。いやなことが書かれている気がした。
  受け取りたくなかった。
 (……どうしよう。開けたくない。ひとりで見るのが怖い……!)
 「おいアレイニ、なにやってるんだよ!」
  不意に、飛んできた声に顔を上げる。前方に数名の騎士のおり、一人がこちらへ駆けてきた。
 「あ、テオ」
  アレイニは思わず、手紙を隠した。だが到着したティオドールは、腰帯に挿した手紙のことなど見向きもしなかった。彼の目線はそこではなく、指先を隠すほどにぶかぶかの、男の軍服を睨みつけて。
 「……その服、誰のだ」
 「バンドラゴラの……今さっき、そこで借りたんです。ちょっと寒い格好で出てきちゃったので」
  問答無用、みなまで言わさず、テオはジャケットを脱がしにかかった。あっという間に奪い取ると、今度は自分が脱ぎ始める。
 「俺のやる。それは俺が返しとく」
 「え……」
 「つか、初めからそういう格好してくんなよ。アホか。職場だぞ。遠目からでもめちゃくちゃ浮いてたわ。普通に叱られるレベルだ」
 「……ごめんなさい」
  アレイニは素直に謝った。
  叱られる、という理屈はよくわからなかった。
  学校では皆、似たような恰好をしていたし、研究所でのキリコは何も言ってこなかった。しかしラトキア騎士団では不適切だったのだろう。浮いているのは実感していた。
  しおらしい返事が意外だったのか、テオは気勢をそがれ、後ろ頭をかいた。
  自分のジャケットをアレイニに着せながら、ボソリと呟く。
 「あぶなっかしいことやめてくれ。いつも俺が通りがかる訳じゃないんだから」
 「……はい」
 「……あと、バンドラゴラも……いや、あっちはたぶん、なにもそういうのじゃないだろうけど」
 「はい?」
 「まあ。同僚だからな。しゃべるのはしょうがないし、イイヤツだし、頼りになるし友達だし――けど。……俺よりは仲良くすんなよ」
  アレイニは目を丸くした。思わず大きな声が出る。
 「へー! 意外ー。そういうこというのねテオ」
 「うるせえ! 仕事中だ、俺もう戻るからな!」
  と、叫んで一度立ち去ってから、テオは戻ってきた。アレイニの耳元へ顔を寄せて、
 「今日は夜勤番だ。帝都を離れられそうにない」
  なんだそれは、とアレイニは苦笑した。そんなことをわざわざ言いに戻るなんて、まるで、毎晩うちに来るのが当たり前になってるみたいじゃないか。
  あっそう誰も待ってませんよーーと、いう、言葉を吐きかけて。ふと、アレイニは悪戯をしてみたくなった。
 「じゃあ私がテオの部屋へいこうかな」
  テオは目を全身を猫のように震わせた。慌てて身をはなし、それこそ逃げだしながら、
 「や、わ、寮はだめだぞ寮は! そんな格好で――ダメだからな!」
 「でも借りたジャケットも返さなくちゃだしぃ」
 「俺が取りに行くから、あれだ、寄宿舎、あっちで待ってろ。シェノクに言えば鍵もらえるはずだから!」
  あらまあとアレイニは軽い声を出す。ほんの冗談だったのに、完全に本気にされてしまった。
  ――まあ、いいか。
  ほほえみがこぼれる。それを隠すようにして、アレイニはテオのジャケットに顔を埋めた。鼻先まで、テオのジャケットに包まれて、アレイニは去りゆく後ろ姿に呼びかける。
 「テオー。この服あせくさーい」
 「やかましいっ! 我慢しろ!」
  背中越しに怒鳴られて、アレイニは腹を抱えて笑った。
  団長執務室に向かって歩く。
  シェノクの部屋はもちろん別にあるが、たいていの場合彼はそこにいた。
  階段を上る、アレイニの足取りは軽く、明るく。
  鼻歌までこぼれてきそうだった。
団長不在の執務室で、やはり書類仕事をしていたシェノクに、アレイニは用件を伝えた。
 「――寄宿舎の鍵? それならすぐ出せるけど、まだ荷造りできていないんだろう。あそこは寮じゃなく個人宅扱いだから、ろくな家具がない。キッチンとベッドくらいだけどいいのか」
  シェノクはあまり愛想よくはないが、その実、面倒見のいい先輩だ。アレイニはにこやかに手を振った。
 「大丈夫です、今夜は泊まるだけですから。……あ、ほら、荷物運ぶ前に置き場所のサイズとかはかりたいし」
  シェノクは少し、怪訝な顔をしながらも、キャビネットから鍵束を出してきた。
  手を出したアレイニに、銀色の鍵と、金色の金属板を手渡してくる。
  一瞬、判子はんこかと思った。しかし違った。アレイニの名前が浮き彫りにされた、真鍮製のネームプレートである。
 「これは……ドアに張ればいいんですかね?」
  うなずくシェノク。
  さすが高級軍人の宿舎、入居者のプレートまでこさえてくれるとは剛毅なことである。なかなか凝った細工だなあと、ひっくり返してみようとして――その手を、シェノクに捕まれた。
 「……アレイニ。本当にいいんだな?」
 「え……?」
 「これで、おまえは正式に、ラトキアの騎士になる。その覚悟はあるな? ……まあ、この扱いからもわかるように、それなりに配慮された待遇にはなる。日々も科学研究所への勤務が多いだろう。……戦闘力は期待していない。だが――」
  シェノクは、小さな男だ。重ねられた手は、アレイニのものと大差がない。小さくて柔らかい手だった。しかし何度も爪が割れ、傷だらけになってきたのが見て取れる。
  アレイニは唇を結び、強く頷いた。
 「はい。力の限り務めさせていただきます」
  そうか、と、シェノクは頷き、笑った。
  赤い瞳を細め、とても嬉しそうにして。
 「じゃあ、これから俺たちは仲間だ。ようこそラトキア騎士団へ。……一緒に、クーガ騎士団長を支えていこう。よろしくアレイニ」
 
  寄宿舎は、騎士団寮から三十分程度、歩いていった先にあった。
  研究所と騎士団寮との、ちょうど中間地点にあるそこには、三十人余りの高級軍人が入っている。
  アレイニがこの建物を訪れるのは、およそ五年ぶりのことだった。かつて、キリコ博士を訪ねたとき、その豪華さに息をのんだものだ。
  しかし、実際に入ってみたアレイニの部屋は、もっとずっと簡素なものだった。なんのことはない、寄宿舎にもランクがあって、いち新人騎士であるアレイニは一番下の部屋。キリコのところと違い、ふた周りは安物の設備だった。部屋の広さも段違いだろう。
  玄関、リビング兼ダイニング、その奥に寝室というよくある作り。王都の家よりほんの少し広い程度だ。
 「まあ、そりゃそうよね」
  それでも、クリーニングが行き届いていたのはさすがである。ベッドの状態だけ確かめて、アレイニは再び玄関の方へと戻っていった。ネームプレートを付けようと、ドアノブへ手を伸ばして――
「あっ。そうそう、これ」
  声を上げる。ここのポストにも手紙が入っているのだ。もう何日も放置していた。
  取り出してみると、宛名には確かにアレイニの名前。だが送り主の署名はない。
  きれいな筆致、高級な封筒、蝋の封印――
アレイニはその場で、その手紙を開いてみた。
  中の文章で、送り主はすぐに明かされていた。
  内容も簡潔であった。
  怪文書などではなかった。
  アレイニは悲鳴を上げた。
  ――アレイニ様。
  貴方の兄上、シルビア様の訃報をお知らせいたします。
  先日、この『光の塔』へ戻られ、当主としてのおつとめに励んでおられたシルビア様ですが
ご乱心のすえ、私室の窓から投身されました。
  ご遺体は損傷が激しく、こちらで密葬を済ませてあります。
  アレイニ様はどうかすみやかにご帰還くださいませ。
 「い……いや――っ!」
  手紙を投げ捨て、アレイニは部屋へ駆け戻った。壁に額を付け、引きつけを起こして硬直する。
  ――身投げ。自殺。死――
アレイニが震え上がったのは、哀れな兄への哀れみなどではなかった。
  かわいそう、という気持ちはみじんもわかなかった。悲しくもなかった。それよりも、おだやかに添えられた最後の一文が、何よりアレイニの肺腑を抉っていた。
 「ひい……っ、う……ぃ、いや……いや……」
  血の気が引き、汗が溢れる。急速に冷え込み、震えが止まらない。己の身を抱きしめると、ほんの少し、あたたかな気持ちがわき上がった。
  鼻孔をくすぐるテオの匂い、彼の気配を握りしめると、涙が一気にあふれ出した。
 「テオ……テオ……!」
  大粒の滴が勝手に溢れ、どんどんこぼれてくる。それを袖で乱暴に拭い、洟をすすり、アレイニは泣きじゃくった。
 「テオ……私、わたし……」
  腰帯に、もう一通の封書を差し込んでいた。。
  ――先ほど事務所で受け取った、昨日、届いたばかりの『塔』からの手紙。
  どうして忘れていたのだろう。
  この封筒は、蝋につけられた刻印は、あの『光の塔』のものであった――
窓の向こうは、いつも白い煙があがっていた。
 「あれはなあに、おとうさま」
  アレイニが尋ねると、父はいつも悲しい顔をした。母は叱りつけた。
  光の塔の当主、天皇は、兄シルビアが跡を継ぐ。雌体優位で生まれたアレイニには知らなくていいことだと。
  そう言い聞かされ、アレイニはずっと不満だった。第二子として、そして女として生まれてきたことを恨めしく思った。
  十五で塔を出たのは、そのあてつけもあったのかもしれない。
  どうせ天皇になれないなら、せめてふつうの町娘として青春を謳歌したっていいじゃないか。
  そう提言したとき、親族がすんなりと同意したのは意外であった。
  ――シルビアは優秀な男だ。雌体優位の第二子などごくつぶしでしかない。
  ――いらない子だ。下手に塔をうろつかれて、シルビア様の気を惑わすよりも、外に出したほうがよい――
アレイニ当人の目の前で、彼らはそう言った。
 「ちょっとお待ちなさい、私は反対です」
  その声に、アレイニは振り向いた。だが発言者は両親ではなかった。優しさでもなかった。
 「今は心身ともに健康であらせられるシルビア様も、万が一ということがあります。天皇の正統な血筋で、子供を生めるものはもうおりません。スペアはあったほうがいいのでは?」
  ――スペア。
  そう言った叔母を、両親は強い口調で説きふせた。
 「アレイニは劣等生よ。こんな出来損ない、雄体化しても当主になどなれないわ」
 「欠陥品が子を生んでも、さらに歪むだけだ。次期当主シルビアを大事に育てればそれでいいだろう」
  そして、父はアレイニを見下ろした。
  透き通るような青い瞳。
  美しい顔をした天皇は、眉を寄せ、冷たい声で言い捨てた。
 「さあ、出ておゆき。世界を知り、好きなことを学び、愛する人の子を産めばいい」
  ――捨てられた。
  アレイニは愕然とした。
  ごめんなさい、出ていきたいなんて嘘なのだと、泣いてすがってしまいそうだった。捨てないでくれと、舌の根元まで言葉が出かかった。
  それでも、アレイニは飲みこんだ。
 (……見返してやる)
  自室でひとり、荷造りを進める。何が必要で、何が不要なのかはよくわからなかった。とにかく詰め込んでいく。
 (いいわ。おにいさまよりもずっと優秀になってやる。光の塔の傘がなくたって、ラトキアの誰もが私を求めるように)
 (女だろうが、第二子だろうが、私が当主にふさわしいというくらいに――)
  一人で暮らしていける自信はあった。
  炊事ならお手の物。キッチンしか遊び道具のない自室で、アレイニはなんだって手作りしてきた。
  アレイニは料理が好きだった。一度作ったことのあるものなら、たいていのレシピは記憶している。
  勉強だって、そうしたものがもっとも得意だった。順序を記憶し、その通りに従えば、思い通りのものが出来上がる科学が楽しかった。
  そんなことを考えながら、ちょうど手に持った本を見下ろす。
  自宅で出来るおくすり化合――そんなタイトルの書籍は、アレイニのお気に入りだった。
  ――そうだ。科学の道に進もう。
  決意して、荷物の一番上に入れた。
  両親の死を知ったのは、アレイニが十八歳の時。
  兄シルビアが二十歳になり、天皇譲位の権利を持った、その翌日のことだった。
  連絡を受けたアレイニは、すぐに塔へと戻った。
  出迎えた叔母に、両親の骸に会いたいと願う。彼女は無言のまま、アレイニの手を引いて歩き出した。
  進む先に、『塔』があった。
  アレイニ達家族が暮らす塔ではない。並んで立った、巨大な煙突だった。
  頂点からは、白い煙。
 「……あそこは……あの塔は、火葬場、なの……?」
  呆然とつぶやくアレイニ。
  はい、と、叔母は頷いた。そこへと向かう歩みを止めずに続ける。
 「あれこそが真の『光の塔』。自殺という、この世で最も邪悪な行為を行った犯罪者の骸を焼き、神のもとへ送り届ける聖なる炎なのです」
 「じ、さつ――」
  それが、両親の死因と知った。
  叔母は唾でも吐き捨てるように、続けた。
 「これが天皇の役目です。天なる神は、自ら命を絶つものを決して許さない。だからあなたがた現人神が、この地における神の子が、神に代わって裁くのです。
  愚かなる自殺者を。安楽死の選択者を。親と医者によって、生まれなかったことにされた嬰児えいじたちを――」
  塔は、もう目前だった。
  その時、アレイニは何か、異様な音を聞いた。
  オウオウと鳴き声のような風の音。あるいは、風の音のような人の声。
  オウオウ。オウ。――オウ。オオオオ――
「これは救いなのです」
  アレイニは震えた。
 「こんなことが……ヒトに、許されるの……?」
  叔母は笑った。何を、可笑しなことをと、朗らかに楽しげに笑った。
 「天皇はヒトではありませんよ。現人神だから許される――だから現人神なのです」
  オオオオゥウオオオオ――
「ひっ――い、いやああああっ――!」
  アレイニは叫び、耳をふさいで逃げ出した。
  彼の声が聞こえぬよう、全力でその場を離れる。
 「嫌! いや――いや――!」
  自分の声で塗りつぶそうとしても、兄の声はどこまでも追いかけてきた。
  兄の泣き声。
  それは呪いの声だ。
  両親の遺骸を焼く兄の悲鳴。
  現人神になったばかりの青年が、泣き叫ぶ呪いの声だった。
  ――薄暗い、寄宿舎の部屋に座り込んで、アレイニは泣きじゃくっていた。
  こぼれつづける涙。いちいち拭うことはせず、アレイニは裾に顔を押し付ける。
  テオのにおいがするジャケット。
  そのぬくもりは、まるで彼本人に抱かれているような錯覚をさせてくれる。
  しかし、アレイニの涙は止まらなかった。
 「……ごめんなさい。テオ。私……わたし……」
  封書を開く。
  文は、先のものに増して簡潔であった。
  アレイニは笑った。
  ――近日、お迎えにあがります――
笑いが止まらない。涙も止まらない。
  天を仰ぎ、笑い声と涙を同時にこぼして、アレイニは脱力していった。
 力をなくした喉から、言葉が――己を打ちのめす呪詛が漏れる。
  アレイニは言った。
 「私、もうだめだ」
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