リノンくんが世界を滅ぼすまで

ノベルバユーザー200950

第88話

ベリオール・ベルの中央に建つ摩天楼。夜中は全身に照明をまとって煌々とそびえ立つ黒塔が、日が昇ってからは静まり返って派手さを失い、何やら墓石のように不気味である。
そのてっぺんは見上げても伺えない。全部で何十階になるのだか、こうした塔のような縦長の構造自体はそう珍しい様式ではなかったが、これほどに高く、またその内容が“居住や商業、病院のための複合施設になっている”例は世界を見渡しても二つとなかった。
まさに、異質尽くしの淫蕩の都を象徴する無二の建造物だと言って良い。
「病院は地下だ」
俺たちは今、その天を衝く黒塔の足元に立って、遥かに空を仰いでいた。早朝は、この都が最も静かな時間帯である。日の入りは彼らにとって、一日の終わりを告げる合図に過ぎない。十分に休息を取らなければ、忙しく目まぐるしいベリオール・ベルの夜には耐え切れないのだ。
「地下にあるのか、病院が」
「医者は一人だ。規模で言えば病院というより、診療所だな。そんなだから、多数の病室や診察室を確保することもしていない」
道中、魔法の触媒である盾だけは拾ってきたアールエンが、これから侵入することになる病院と、その主についての説明をしてくれる。
なんでも、この都で唯一の医者ルーフェン・シュアは、自分が医者となって病院を開くに当たって、元々からいた医者の全てを排したそうだ。
そうすることで、自分の価値を最大限に高め、法外な料金でしか客を受け付けなくする。実際、薬師くすしとしての腕は確かなもので、彼にかかって治らない病気はないとまで言われていたから、その値段についても一部には正当性がある、と言っても良いのかも知れなかった。
「しかし、そんな凄腕がこんな場所で、ねえ」
「どこに行っても重宝されそうな人間が違法な形態で医療を行う。不思議か?」
「だって、普通にやったって儲かるって話だろ、そりゃ。モグリなんてのは、普通じゃやっていけない医者のすることじゃないのか?」
「やつぐらいになると話が逆さまなんだろう。既存の枠組みに収まらない天才は独立した方が金になる。そして、世の中には枠に収まり切らない、どうにもならない事情が山ほどある」
すると、需要と供給が成り立つのだ。異常に立ち向かえるのは、同じく異常に身を浸して狂わずにいられる人間だけ。セイバー対魔者の構図において、非セイバーが戦力としては蚊帳の外に置かれてしまうのと同義である。
一介の医者には手に負えぬ奇病、難病。法外な金を取られるとあっても助かりたい者などいくらでもいるに違いない。
「ここは、そういうやつらの駆け込み教会でらってわけか」
「今まではゴングの連中が守っていたが、やつらも全滅した。警備もない」
「じゃあ、突入するか」
昼食をどこのお店で食べようか、その吟味を散々にした後にこれと決めて入っていくかのように、俺には緊張感が欠けていた。
いよいよ黒幕、大ボスの拠点へ乗り込もうという気構えではないのだ。ゴングにヴィントにスケアリーランス、尋常でない争いを立て続けに制してから向かうのが、単なる医者では。もはやこれ以上の衝撃など待ってはいまいと軽く考えてしまっても無理からぬ話だろう。
俺よりマシとはいえ、それはティアフも似たようなものなのか。顔つきからこわばり、弛緩せず神経を尖らせているのはアールエンだけだった。
そんなアールエンを先頭にしていよいよ踏み入る。塔の名はヒンガ・イェムと言って、古代語で“隠れ家”というらしい。都の外からでも一番に目に入る巨大な塔を隠れ家と呼ぶ皮肉。だが、その中にルーフェンが引きこもっていることからも分かる通り、ベリオール・ベルを象徴するこのヒンガ・イェムまてんろうこそが、同時に最大の暗部なのである。
だから隠れ家。ここは、公然と悪が潜む奈落の中枢なのだ。
「とはいえ、静かなもんだな」
ゴングの連中が生きていれば警備の対象だったろうに、肝心の人出がないのでは守りようもない。
巨大な両開きの扉を押し開いてくぐると、まるで王城にでも入ったかのように広々とし、贅を尽くしたエントランスホールが出迎えてくれる。地下への階段は赤絨毯の先、真正面に堂々と口を開いて待っていた。
「一応、注意は忘れるな。敵の本拠地だ」
例え警備がいたとしても、柵も扉もなく通路が解放されているのは不用心が過ぎるように見えた。むろんルーフェン・シュアという人間は、その見かけ通りの不用心ではないはずだった。この無法の都に踏み入って確固たる地位を築いた手腕。結果として、ここまで一度も表に現れず、予定とは違ったのだろうがヴィントを殺し、シスターを殺すことにまで成功した強運、あるいは仕掛けた策謀の確かさ。言ってみれば、俺たちは最初からルーフェンと戦っていたようなものなのに、その実体を拝む機会にはついぞ恵まれなかったのだ。それこれも入念に、盤上の駒を動かすことだけに拘り続けてきた敵側の成果。その執念を鑑みれば、一見不用心な階段も下りた矢先に罠が発動して全員死ぬ、なんてどんでん返しの伏線である可能性は、十分に考慮しなくてはならなかった。
となれば、先頭も自ずから決まろうというものだ。
「離れて歩けよ、巻き添え喰ったんじゃばからしいからな」
俺の言葉をティアフもアールエンも素直に聞き入れる。未知の領域、敵の懐、まず飛び込むのは不死の俺だ。毒見役だろうと、持てる特性は存分に生かさなくては意味がない。
しかしながら、緊張感にいまいち欠ける俺の足取りと言えば慎重さのかけらもなく、見知った近所を散歩するようにどんどんと下っていった。そうしてあっさりと、階下へと到達する。
何しろ、大方の期待を裏切って罠がなかったのだからスムーズに事が運ぶのは仕方がない。その素振りすらなかったのだ。これでは、アルマリクでティアフが隠れ住んでいた食器棚の仕掛け扉奥の地下室の方がよほど厳重に秘されていたではないか。
これがルーフェン・シュアという男の本性なのか?
自分の価値を高めるために既存の医者を全て排し、序列最低だった地下組織に手を貸してベリオール・ベルの実権を握り、タダで治癒魔法を振舞うというだけで場末の修道女まで抹殺しようとし、挙句それらの謀略を裏から操って最後まで直接手を下さなかった慎重な男の足元が、こんなにも手薄なものだろうか?
「……それじゃ、話がうますぎる」
階段を下りた先ではとうとう陽の光が届かなくなり、薄暗くなってくる。少しだけ寒い思いがするのは、肩透かしがかえって身を引き締めているからだ。階下の正面は塗装も装飾もされていない石の壁が立ちはだかる。折り返し、階段の脇を通って裏側の方へと進まなければならなかった。
照明はわざと落としているのか、奥へと伸びる一本の廊下もまた、歩くに足る最低限の灯りだけが提供されて薄暗いまま。一つ上の階とはまさに天と地、王宮から一転して廃虚へと迷い込んだかのような不気味さであった。
「趣味が悪いな」
「まあ、派手でない分、病院らしいと言えば病院らしいけど」
廊下の突き当たり、頼りない灯りの中に扉が浮き上がってくる。ほとんど同時に、無臭だった空間に何らかの臭いが漂い始めた。
薬品だ。それも、おそらくは様々な種類が入り混じった複雑な香り。
香気と呼べる類ではないものの、決して不愉快なわけでもない。吸い込むだけで体内を冷まし、意識を覚醒させるような独特の作用はいっそ清々しいとさえ言えた。しかしながら、馴染みのない異質なものであるにも違いなく、例えるなら正体不明の何かに接触する時のような、恐怖と緊張の入り混じった感覚もまた同時にある。
「……あたしは、この臭い、あんまり好きじゃないんだよ」
「奇遇だな、わたしもだ」
即ち、病院嫌い。子どもかこいつらは。
「おまえにゃ分かんねーよ、医者いらずめ」
全くその通りである。が、好き嫌いは置いておいて、先に進まないことには仕方がない。
いざとなり、扉を開けるのも俺の役目だった。もっとも、一本道の狭い廊下に逃げ場などなく、万が一にもトラップが仕掛けてあれば揃って致命傷にもなりかねない配置である。並び順は前から俺、ティアフ、アールエン。正面切って殺しに来る罠であれば俺が、背後から襲い掛かって来る罠であればアールエンが防ぐという段取りだ。
取っ手に手をかけ、ゆっくりと引く。向こうの伺えない曇りガラスをはめ込んだ木製のフレームが、ぎい、と鳴いた。
やはり、取り越し苦労。うまい話は案外と落ちているものだ。
「あれが……」
扉の向こうには、やはり照明をほとんど落とした部屋があった。椅子に、机に、簡素なベッド。薬品や、おそらくは道具類が入れてあるのだろう棚がいくつか。それらを収めるだけの空間を確保した、何の遊びもない一室である。
「おまえが、ルーフェンだな」
アールエンの声の先に、その男はいた。
椅子に座り、こちらに背を向ける細長い白衣。机に置かれた小さな照明だけが、その痩せぎすの黒幕いしゃの容貌を暗闇に切り取って見せている。
きききき。ねずみか何かが鳴くような音を立てて椅子が回転し、男がこちらに向いた。
「アールエン・セイルグリュン。会いたかったよ。死んだ後の君にね」

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