リノンくんが世界を滅ぼすまで

ノベルバユーザー200950

第48話

待ち伏せはなかった。それは、ハンドベルのアジトを出た時もそうだったし、こうして教会の前に来てもそうだった。人工の灯りと喧噪とに包まれた中心街から離れるに従い、夜が本来の明るさと静けさを取り戻していく。廃棄区画に入る頃にはもう、同じ都の中とは思えないほどにしんと落ち着いた空気に入れ替わっていた。生きた街から死んだ街へ。実際、廃棄区画と名前がつけられているぐらいなのだ、教会のたたずむ都の片隅は、それ全体が墓場のようなものだった。
並ぶのは、死体か、墓標か。いかにも墓石らしく十字架を掲げる教会は、一見すると俺が出て行く前と何ら変わらぬように見えた。襲撃があったとすれば、外観に何の異常も認められないのは不自然である。あのアールエンなら、戦えないシスターや怪我人のティアフを庇って外を戦場に選ぶはずで、その跡が辺りに見られるはずだった。
しかし、それがない。リーダーの予想が外れて、教会は襲撃を受けなかったのだろうか。考えてみると、その可能性は十分に有り得た。ここ数日教会が平和だったのは、ルーフェンがシスターへの興味を失って、手を出す必要性を感じなくなったという線もある。希望的観測だが、ゼロではないだろう。
もっとも、俺はそういう、良い方向に事が運ぶという自らの考えをあまり信用していなかった。風の音さえ聞こえない暗闇の中では、自然と悪いことばかりに目がいって、思考が囚われてしまう。夜や闇といった属性は本来から、人を不安にさせるものだ。
教会に近づいて見ても、これといった異常は見当たらなかった。中で騒がしくしている様子もない。正面玄関は閉め切られていた。飾り気のない木製の扉は、教会の建屋より幾分新しかった。どこかのタイミングで取り換えたのだと、アールエンが話していたのを思い出す。石造の本体は雨風に晒されてなお頑健だが、木造の扉はそうもいかないようだった。これをくぐれないほどに大きな人などいないだろう、というような背の高い門扉だが、しかし見た目の重厚さに反して、軽く力を込めて押すだけで抵抗なく開いていく。良く手入れがなされている証拠だった。
「――――」
灯りはない。けれど、何が起こったのか、何が残っているのか、それらが見渡せる程度に月明かりの入り込む礼拝堂は明るかった。真正面、大きな女神像の更に奥の壁、目をつむって微笑む頭の向こうに見えるステンドグラスが割れている。月明かりはそこから入って、教会の中にじわりと広がっていた。空気中にただよう銀色の煌めきは、おそらく埃や塵の類。門扉から女神像の足元に向かってまっすぐ伸びる中央通路、その両脇に並べて置かれた長椅子のいくつかが壊されていた。大理石の地面にも穿ったような穴が数個も見える。教会を支える柱の内にもひびが入り、また完全に折られているものが見受けられた。柱と言っても、ほとんど装飾みたいな柱である。一、二本が用を成さなくなったからといって今すぐにでも倒壊するわけではないから、損傷という点から見れば大したことではなかった。
ただ、それほどの戦闘が行われたのだと一目に分かる証拠としては、十分だった。
「アールエン」
礼拝堂の中央、分厚い鎧を全身にまとった女騎士が倒れている。差し込む月明りにライトアップされる絶妙な位置で、うつ伏せになって動かない。剣と盾は側に放られ、その鎧の胴体部、脇腹の辺りが粉々に砕かれていた。割られた内側の肉体も当然無事ではなく、左脇腹は完全に潰されているという有様だ。辺りを血の池にする一目に分かる尋常ではない出血も、その怪我の有り様を見ればさもありなんといった様子である。
この、神様の代わりに騎士様が横たわる礼拝堂に、他の人影はなかった。足蹴にしてアールエンの身体を仰向けにしてやる。全面、血塗れだった。顔や鎧に降りかかったそれらは返り血なのだろう。一人で何人も殺したと見える壮絶な戦いが伺えるものの、結局は、彼女も生き長らえることはなかったわけだ。
「つまり、襲撃が成功した。くそ、やつらはどこに行った?」
教会にはもう、俺と死体のアールエンしかいないと見るべきだろう。シスターやティアフが奥まったところに隠れている可能性はあったが、そんなことは襲撃者にだって考え付くはず。教会を根こそぎ家探しされていれば、狭い教会内である、隠れ切ることは不可能と言って良かった。
連れていかれたか、あるいは殺されてそこらに放っておかれているか。がらんどうの礼拝堂を眺め、俺はもう一度、くそ、と自分を罵った。そうすることが最善だと信じての選択だったとはいえ、自分が教会を留守にしたことを後悔せずにはいられないり空けてさえいなければ、俺とアールエンとで襲撃にも対応できたのだ。ハンドベルの話を聞きに行くことなく素直に籠城していれば、こんなことには……。
「がふ、……」
「ん?」
誰かの咳込むような声が聞こえて、警戒しながらも周囲を見渡す。しかし、何も変わった様子はなかった。難を逃れたティアフやシスターが、何か音を立ててしまったのか? それとも、壊された長椅子の瓦礫に誰かしら埋まっているのだろうか? そういえば、この礼拝堂には明らかに死体が足りていない。アールエンはもしや、一矢報いることもなく殺されてしまったのだろうか。それほど圧倒的な強さだったのか、敵方は。それとも、守るだけなら落とされはしないというアールエンの言葉が嘘だったのか。
確認しようと歩き出した直後に、またも咳込むような声がした。それは、血を吐いているらしい、痛々しい嗚咽だった。二度も聞けば、位置は分かる。俺は、周囲を見渡すことを止めて、足元に目をやるのだった。
「……は、あ」
アールエンのまぶたが開き、鉄紺色の瞳が覗く。口の端から一筋の血が流れ、大理石に落ちていく。確かに、彼女は俺を見ていた。
「驚いた。生きてるのか、おまえ」
思わず左脇腹の怪我に目をやる。鎧を貫通し肉体を激しく損傷させているには違いないが、良く見れば既に出血は止まっていた。身体の下に広がる血溜まりは既に流れ出た後のものだったらしい。死ぬほどの怪我ではなかったので、流血もひとまずは収まっていたと……何? 死ぬほどではない? 既に流れ出ている血液の量を正確に測るような器用な技は持っていないが、しかし、見た目にはとっくに致死量を超えていそうな大きな血溜まりである。もし、この血溜まりだけがあったなら、これだけ流血した当人はまず生きてはいまいと誰もが判断を下すような量だ。
そんな疑問を呈すると、アールエンは辛そうにしながら、頑丈なんだ、とだけ答えてみせた。生きているだけでも驚愕だが、彼女は怪我もそのままに、今度は身体を起こし始めている。辛いとか頑丈なんてレベルの話ではない。この女、本当に人間なのだろうか。百歩譲って生きていることは良しとしても、脇腹をぺしゃんこに潰されて動けるものなのか、普通の人間って。
何にせよ、呆れた生命力である。とうとう立ち上がったアールエンの表情は決して平常ではなかったが、かといっておぼつかない様子でもなく、その立ち姿は意外なほどにしゃんとしていた。生死の境から間一髪で戻って来たというよりは、単に痛みや大量出血に耐え切れず気を失っていただけ、という風である。
アールエンは自分の足元に広がる血の池を睨んで、こう告げた。
「アルは連れていかれた。ティアフちゃんも」
まあ、そうなのだろう。悔しさを滲ませるアールエンの言葉に、俺はそれほど驚かなかった。むしろ安堵を覚えているぐらいだった。連れていかれた、つまりは、少なくともこの場で殺されたわけではないと、そう伝える意図が含まれていたからだ。
「すまなかった。守るだけなら凌げると確信していたが、慢心だったようだ」
頭を下げるわけでもなかったが、しかし、その謝罪が真摯であることに疑いようはない。アールエンのシスター・アルモニカへの入れ込み様は半端ではないのだ。それは、四日も一緒に過ごしてみれば誰だって分かるぐらいに露骨な好意だった。そこまで想うシスター・アルモニカを守れなかったのである。今のアールエンの心には、自分を押し潰してしまうほどの自責の念が、津波や雪崩のように押し寄せてきているに違いなかった。ともすれば、ここで急に切腹したっておかしくない、それぐらいの悲愴が彼女の表情……ぎりと眉をひそめ、唇を噛む様子からは見て取れる。ティアラの安否はついでだったのだろうが、そこまで思い詰めた彼女を責め立てる理由はどこにもなかった。
それに、アールエンは実際のところ切腹していない。こうして生き、立ち上がり、今や投げ出されていた剣と鎧を改めて手に取っている。それの意味するところは語るまでもないだろう。
「けど、どこに連れていかれたんだ?」
「分からない」
淀みなく、正直に、アールエンが答えた。教会に倒れていたということは、去っていった襲撃者の追跡はできていない、ということ。おそらく、連れ去られるところまでは確認していたが、その後に気を失ってしまったのだろう。これだけの大怪我を負いつつ、シスターたちのとりあえずの安否は確認していたわけだ、見上げた根性である。
「どうする? 都中を無暗に探すのか?」
「いや、足跡を辿る」
「足跡って……」
言われて、俺は周囲の床を探してみた。が、床が砕かれて散らばった大理石の破片や、誰のものとも分からない血痕があるばかりで、それらしき跡は見当たらない。大体、相手は獣と違うのである。そんなに分かりやすく足跡を残していくはずがなかった。早々に痕跡を探すことを諦めてアールエンに目をやると、彼女は目をつむって、何やらぶつぶつと呟いていた。側にいても良く聞こえないほどの小声だったが、何らかの魔詞らしかった。そう長くもない詠唱が終わると、ふわり、と空中に光が浮かび上がって来る。そこだけ月明りが濃くなったような、真白で半透明の光だ。それは頼りないながらも薄く細い筋を形成し、目で辿ってみれば、その筋の先は割れたステンドグラスを抜けて外へと出ていくのであった。
初めて見る魔法だ。しかし、見た目にも分かりやすい魔法であった。

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