混じりけのない白より好きな色
3.二匹の違い
「チャッカ、無理しないのよー!」
腕が取れてしまいそうなほど大きく手を振って、りすのリリが去って行きます。それに応えるようにしっぽを一振りして、メスのオオカミ――チャッカは足に丁寧に巻かれた葉を見つめていました。
こうなったのは不注意が原因でした。
ずいぶんと狩りができておらずいら立っていたこともあって、大きなヘビを見つけた瞬間、何も考えず飛び付きました。ですがそのヘビのいた場所というのが枝を集めてできた巣の中で、勢いそのままに飛びこんだためにとがった枝の先が足に刺さったのです。当然ヘビをとらえることもできず、痛みに足を引きずって、だれにも見られないこの場所まで移動してきたのでした。
だれにも見つからないはずだったのに。チャッカは何とも言えない気持ちです。
森のボスとも言えるウォールに見つかり、そのウォールがりすを引き連れ、そのりすが自分のケガの手当てをしたのです。
これまで思ってもみなかったことが一度に起きて、恥ずかしさやら感謝やら情けなさといった感情が心の中でうず巻いています。
それにしてもりすのリリをよく連れて来られたものです。オオカミを見れば気絶して倒れてしまいかねません。けれどウォールが彼女を連れてきた時、二匹はすでに打ち解けていたようでした。とは言ってもリリが一方的に話していただけではありますが。
そのウォールはどこへ行ったのでしょう。そういえばリリには名乗ったチャッカでしたが、ウォールにはまだです。リリに頼んだと一言告げていなくなってからずっと戻ってきていません。
もう自分のねぐらに帰ったのかもしれない、チャッカはそう思います。これでは恩を着せられたようなものだ、と考えつつも気がかりなのは、お礼のひとつも言えなかったことです。
がさり、とそばの茂みが動きました。警戒に身体を強張らせるチャッカの前に現れたのは、またしてもウォールでした。
「なんだ、戻ってきたのかい」
次に会ったら一番にお礼を言おうと考えていたのに、いざ目の前にすると上手く言葉が出てきません。失礼な言葉をかけてしまいました。
ウォールは先ほどと様子が違います。口の周りを赤くして、その先にヘビをくわえていました。それをどさりと下に落とすと、鼻先でチャッカの方へ差し出します。
「食え」
「え、あたしにかい?」
「他にだれがいる。ケガをしたらよく食わなければ治らない。あいにくこの程度だが、食わないよりはましだろう」
差し出されたヘビを見てみると大ぶりで、きれいに食べれば十分お腹がいっぱいになるでしょう。しかもそのヘビはチャッカがケガをした原因のヘビと同じ柄をしていました。
顔を上げると、ウォールはどこか違う方を向いていました。遠くを見ているのかもしれませんし、何かの音を聞き取っているのかもしれません。すっと伸びた喉の辺りはどこの毛よりも白く澄んで、心地良さそうに見えました。
「食わないのか」
「……っ! い、今から食べるんだよ!」
いきなりこちらを向いたウォールと目が合って、チャッカはあわててヘビの腹にかぶりつくのでした。
* * * * *
チャッカがすっかり食べ終わった頃、やっとウォールはチャッカの名前を知ることになりました。
「チャッカだな、覚えた」
「普段だれかと一緒にいることもないし、こんなに名前を呼ばれたのは初めてかもしれないな」
リリと、ウォールと。だれかの声で自分の名前を聞くのは不思議な気分です。自分がだれかの名前を呼ぶのもまた、気恥ずかしいような気分でした。
チャッカの言葉を聞いて、ウォールは背筋を伸ばして座ったまま、少し後ろの彼女を見やります。
「お前はどうして一匹で行動している?」
聞かれて、どう答えようかと考えて、うそなんてむだだと思いました。それにウォールは親切にしてくれました。理由は分からなくても親切にしてもらった以上、悪いことをして返すのはいけないことです。
「特別な理由なんてないんだ。気がついたらあたしは一匹で、それをずっとそのままにしてきただけのこと」
「親はいないのか?」
「そうだね、これも気がついたらいなかった。顔も毛並みも分かんないんだ。昔聞いたのは人間にやられたかもしれないってことだけ」
「そうか、すまない」
「何で謝るのさ。なあんにも覚えてない親なんか最初からいないのと同じさ、痛くもかゆくもないんだから」
だから謝るんじゃないよ、とチャッカが言って、ウォールは頷きます。
「しかし、一匹でさみしくないのか?」
「ずっとこうだからね。さみしさがどんなものかも忘れちまったよ」
何でもなさそうに言う彼女に、思ったまま言葉を返していました。
「お前は強いのだな」
チャッカはしばらく黙っていましたが、すねたような口調で、そこらのメスと一緒にするんじゃないよ、と呟きました。
ウォールが言ったのはそういう意味ではありませんでした。だれかと比べてではなく、チャッカ自身を強いと思っていました。
一匹で生きるというのはとても難しいことです。ウォールでさえそう感じています。彼も一度は一匹だけで暮らしていた頃がありました。子分ができたのは彼らがどうしても付いていきたいとせがんだことが理由でしたが、今ではこうして共に過ごせる仲間がいることを心強く思っています。必要なのは力の点で助けてくれることではなく、悩む時にとなりにいてくれることです。
なのでチャッカは強いと思います。だれにすがることもなく一匹で生き抜いてきたチャッカは、自分よりもずっと強い、とウォールは思っているのです。ただ、それ以上は言いませんでした。
チャッカが寝息を立て始めたからです。
* * * * *
チャッカが目を覚ましたのは夕日が山の向こうに隠れてからでした。
森の中は暗くなるのが早いですが、特にここは木や草に隠れているので一層暗く、そして寒く感じます。大きな音を立てながら通りすぎていった風に耳を立てて、その冷たさに身体を丸めると、辺りに何の気配もしないことに気がつきました。目を開けるとそこには倒れた草が見えるだけで、眠る前までいたオオカミの姿はありません。
思わず身体を起こすと足が痛み、元通りに身体を横たえます。やはりどこにもウォールはいないようです。
「夢だったのかな」
そんなはずがありません。痛む後ろ足にはりすのリリが巻いてくれた細長い葉がそのまま残っています。ずっと満たされなかったお腹も当分は食べなくても良さそうなほど膨れていて、口の中はまだヘビの青臭い味が残っています。初めて間近で見たウォールの美しさを覚えていますし、ウォールが自分の名前を呼んだ声もすぐに思い出せました。今日あったことはすべて、本当にあったことなのです。
「もう、来ないだろうな」
ウォールの重みで形を残す草を見ながら、チャッカは呟きます。
食料を持って来てくれたのは恐らく気まぐれでしょう。彼が言っていた通り、傷を早く治すためにそうしてくれたに違いありません。そうであれば、もうここには来ないでしょう。ウォールは十分、チャッカを助けてくれました。
身体の中にまで冷たい風が入り込んでくるような気がします。
自分以外のだれかがそばにいて話をするというのは、思えば大きくなって初めてのことでした。ウォールとは違うオオカミの群れにも出くわしたことがありましたが、遠巻きに見るだけで近づいてもきませんでした。そしてチャッカはそれを、この毛色のせいだと考えます。
この森に住むオオカミはすべて、ウォールのようなきれいな白色の毛をしています。もちろん顔が違うのでどのオオカミもウォールのように美しいと思うわけではありませんが、チャッカのような濃い灰色の毛が混じっているオオカミは一匹もいません。そのせいで幼い頃は、同じ年頃のオオカミたちによくからかわれたものです。
「……うらやましくなんかなかったけど」
ウォールの姿を見て、自分もああだったらと思ったのは事実です。この毛色では森のオオカミの中に混じることも、雪の中にまぎれることもできません。ウォールのとなりに並んだ自分はいつもより汚く見えるのだろう、とそんなことを考えました。
足の痛みに頭の痛みも加わったような気がして、チャッカはもう一度眠ってしまうことを決めました。
腕が取れてしまいそうなほど大きく手を振って、りすのリリが去って行きます。それに応えるようにしっぽを一振りして、メスのオオカミ――チャッカは足に丁寧に巻かれた葉を見つめていました。
こうなったのは不注意が原因でした。
ずいぶんと狩りができておらずいら立っていたこともあって、大きなヘビを見つけた瞬間、何も考えず飛び付きました。ですがそのヘビのいた場所というのが枝を集めてできた巣の中で、勢いそのままに飛びこんだためにとがった枝の先が足に刺さったのです。当然ヘビをとらえることもできず、痛みに足を引きずって、だれにも見られないこの場所まで移動してきたのでした。
だれにも見つからないはずだったのに。チャッカは何とも言えない気持ちです。
森のボスとも言えるウォールに見つかり、そのウォールがりすを引き連れ、そのりすが自分のケガの手当てをしたのです。
これまで思ってもみなかったことが一度に起きて、恥ずかしさやら感謝やら情けなさといった感情が心の中でうず巻いています。
それにしてもりすのリリをよく連れて来られたものです。オオカミを見れば気絶して倒れてしまいかねません。けれどウォールが彼女を連れてきた時、二匹はすでに打ち解けていたようでした。とは言ってもリリが一方的に話していただけではありますが。
そのウォールはどこへ行ったのでしょう。そういえばリリには名乗ったチャッカでしたが、ウォールにはまだです。リリに頼んだと一言告げていなくなってからずっと戻ってきていません。
もう自分のねぐらに帰ったのかもしれない、チャッカはそう思います。これでは恩を着せられたようなものだ、と考えつつも気がかりなのは、お礼のひとつも言えなかったことです。
がさり、とそばの茂みが動きました。警戒に身体を強張らせるチャッカの前に現れたのは、またしてもウォールでした。
「なんだ、戻ってきたのかい」
次に会ったら一番にお礼を言おうと考えていたのに、いざ目の前にすると上手く言葉が出てきません。失礼な言葉をかけてしまいました。
ウォールは先ほどと様子が違います。口の周りを赤くして、その先にヘビをくわえていました。それをどさりと下に落とすと、鼻先でチャッカの方へ差し出します。
「食え」
「え、あたしにかい?」
「他にだれがいる。ケガをしたらよく食わなければ治らない。あいにくこの程度だが、食わないよりはましだろう」
差し出されたヘビを見てみると大ぶりで、きれいに食べれば十分お腹がいっぱいになるでしょう。しかもそのヘビはチャッカがケガをした原因のヘビと同じ柄をしていました。
顔を上げると、ウォールはどこか違う方を向いていました。遠くを見ているのかもしれませんし、何かの音を聞き取っているのかもしれません。すっと伸びた喉の辺りはどこの毛よりも白く澄んで、心地良さそうに見えました。
「食わないのか」
「……っ! い、今から食べるんだよ!」
いきなりこちらを向いたウォールと目が合って、チャッカはあわててヘビの腹にかぶりつくのでした。
* * * * *
チャッカがすっかり食べ終わった頃、やっとウォールはチャッカの名前を知ることになりました。
「チャッカだな、覚えた」
「普段だれかと一緒にいることもないし、こんなに名前を呼ばれたのは初めてかもしれないな」
リリと、ウォールと。だれかの声で自分の名前を聞くのは不思議な気分です。自分がだれかの名前を呼ぶのもまた、気恥ずかしいような気分でした。
チャッカの言葉を聞いて、ウォールは背筋を伸ばして座ったまま、少し後ろの彼女を見やります。
「お前はどうして一匹で行動している?」
聞かれて、どう答えようかと考えて、うそなんてむだだと思いました。それにウォールは親切にしてくれました。理由は分からなくても親切にしてもらった以上、悪いことをして返すのはいけないことです。
「特別な理由なんてないんだ。気がついたらあたしは一匹で、それをずっとそのままにしてきただけのこと」
「親はいないのか?」
「そうだね、これも気がついたらいなかった。顔も毛並みも分かんないんだ。昔聞いたのは人間にやられたかもしれないってことだけ」
「そうか、すまない」
「何で謝るのさ。なあんにも覚えてない親なんか最初からいないのと同じさ、痛くもかゆくもないんだから」
だから謝るんじゃないよ、とチャッカが言って、ウォールは頷きます。
「しかし、一匹でさみしくないのか?」
「ずっとこうだからね。さみしさがどんなものかも忘れちまったよ」
何でもなさそうに言う彼女に、思ったまま言葉を返していました。
「お前は強いのだな」
チャッカはしばらく黙っていましたが、すねたような口調で、そこらのメスと一緒にするんじゃないよ、と呟きました。
ウォールが言ったのはそういう意味ではありませんでした。だれかと比べてではなく、チャッカ自身を強いと思っていました。
一匹で生きるというのはとても難しいことです。ウォールでさえそう感じています。彼も一度は一匹だけで暮らしていた頃がありました。子分ができたのは彼らがどうしても付いていきたいとせがんだことが理由でしたが、今ではこうして共に過ごせる仲間がいることを心強く思っています。必要なのは力の点で助けてくれることではなく、悩む時にとなりにいてくれることです。
なのでチャッカは強いと思います。だれにすがることもなく一匹で生き抜いてきたチャッカは、自分よりもずっと強い、とウォールは思っているのです。ただ、それ以上は言いませんでした。
チャッカが寝息を立て始めたからです。
* * * * *
チャッカが目を覚ましたのは夕日が山の向こうに隠れてからでした。
森の中は暗くなるのが早いですが、特にここは木や草に隠れているので一層暗く、そして寒く感じます。大きな音を立てながら通りすぎていった風に耳を立てて、その冷たさに身体を丸めると、辺りに何の気配もしないことに気がつきました。目を開けるとそこには倒れた草が見えるだけで、眠る前までいたオオカミの姿はありません。
思わず身体を起こすと足が痛み、元通りに身体を横たえます。やはりどこにもウォールはいないようです。
「夢だったのかな」
そんなはずがありません。痛む後ろ足にはりすのリリが巻いてくれた細長い葉がそのまま残っています。ずっと満たされなかったお腹も当分は食べなくても良さそうなほど膨れていて、口の中はまだヘビの青臭い味が残っています。初めて間近で見たウォールの美しさを覚えていますし、ウォールが自分の名前を呼んだ声もすぐに思い出せました。今日あったことはすべて、本当にあったことなのです。
「もう、来ないだろうな」
ウォールの重みで形を残す草を見ながら、チャッカは呟きます。
食料を持って来てくれたのは恐らく気まぐれでしょう。彼が言っていた通り、傷を早く治すためにそうしてくれたに違いありません。そうであれば、もうここには来ないでしょう。ウォールは十分、チャッカを助けてくれました。
身体の中にまで冷たい風が入り込んでくるような気がします。
自分以外のだれかがそばにいて話をするというのは、思えば大きくなって初めてのことでした。ウォールとは違うオオカミの群れにも出くわしたことがありましたが、遠巻きに見るだけで近づいてもきませんでした。そしてチャッカはそれを、この毛色のせいだと考えます。
この森に住むオオカミはすべて、ウォールのようなきれいな白色の毛をしています。もちろん顔が違うのでどのオオカミもウォールのように美しいと思うわけではありませんが、チャッカのような濃い灰色の毛が混じっているオオカミは一匹もいません。そのせいで幼い頃は、同じ年頃のオオカミたちによくからかわれたものです。
「……うらやましくなんかなかったけど」
ウォールの姿を見て、自分もああだったらと思ったのは事実です。この毛色では森のオオカミの中に混じることも、雪の中にまぎれることもできません。ウォールのとなりに並んだ自分はいつもより汚く見えるのだろう、とそんなことを考えました。
足の痛みに頭の痛みも加わったような気がして、チャッカはもう一度眠ってしまうことを決めました。
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