冬の女王と秘密の春
6.ほどける白に咲いた花
「揺り起こして目覚めたその人は旅人で、ここに来る途中盗賊に襲われ手持ちの金と食料をすべて奪われたのだ、と話しました。
実際に偽りとは思えない衰弱ようでしたし、持っているのはぼろぼろの紙の束と、衣類が一組入った麻布の手提げ鞄だけでした。無視することなどできるはずもなく、私はその人を家に上げ、作れるだけの食事を用意しました。お風呂も入れましたし、洗濯もしました。疲れているだろうと思い父が使っていたベッドもお貸ししてその日は休んでもらいました。
何を聞くこともなく世話したのが良かったのか、翌朝様子を見ると大変元気になっておられました。素性を怪しまなかったことも喜ばれたようです。その人は自分のことを洗いざらい話してくれました」
その人は名をロッドといいました。
すでにお話した通り旅人です。かつて他国との戦いに破れて祖国を失い、それ以来、第二の故郷を探す旅をして世界中を回っているそうです。金色の小麦畑を誇りとしていた祖国のような、繰り返し見たくなる風景を持った国をずっと探しているのです。
彼が初めに持っていた紙の束は、これまで回った国の風景を見よう見まねで描いたものでした。決して上手いとは言えませんでしたが、それらの国が沢山の魅力に溢れていることは感じ取れました。
ここリボルブ国にきたのも当然それが理由でした。特に春の街の公園の風景を見るために赴いたようです。
「私はそれを聞いてとても嬉しくなりました。春の間塔にいる私にはもう見られない景色を、こんな風に求めて来てくださる方にお会いしたのは初めてでしたから、余計かもしれません。どれほど楽しみにして来たのかを聞いて私まで胸が踊りました。私の迎える春が、国の者以外にも喜びをもたらすと考えるだけで、女王である幸福を感じました」
ですが季節は夏を迎えています。公園は爽やかな新緑に包まれていましたが、春の景色の優美さを知っている人は遠く及ばないと誰しも言います。
この国では女王が季節を司り、そして春の季節はもう過ぎたことを教えると、彼は心底残念がりました。盗賊に襲われなければ間に合っただろうと悔しがってもいました。
しかし驚くことに彼の立ち直りは早く、季節は廻るものなのだから次の春まで待とう、とその場で決心していました。辛抱強く待って見る景色はなおいっそう美しいはずだ、と瞳を輝かせていました。
「一文無しの旅のお方を宿に渡すのは双方に申し訳なく思えたので、春までの間私の家で過ごすよう提案しました」
「……年頃の女の家に男を泊める方が感心しないな」
「カクタス様、お気遣いありがとうございます。もちろんこのことをすぐに決められたわけではありませんが、彼は悪い人には見えませんでしたし、私はこれでも武術の心得がありますので、念のため警戒していることは暗に伝えておきました」
「お、おう。ならいいが」
それから彼との生活が始まりました。
ひとりで長く旅をしてきたからか彼は働き者で、家のことをよく手伝ってくれました。それ以外の時には一緒にハーブティを飲んだり、盗賊に襲われないための護身術をお教えしたり、彼が風景を描く練習をしているのを隣で眺めたり。
そんな、とても普通で他愛ない、穏やかな日々を過ごしていきました。友と呼んでもいいほどには関係を築けていると私は思っています。
けれど。
「一度隠した秘密を打ち明ける機会を、私は故意に逃し続けました」
何度も打ち明けようとしました、私が春の女王であることを。けれどもその度思い出してしまうのです。私が塔に入り春を迎えれば、次に出てきた時に彼はもうここからいなくなってしまうということを。
毎日を過ごしていると、目の前にいる彼が何のためにここに来たのかを忘れてしまいます。そして私自身が女王という立場を得ていることも忘れてしまう……。
打ち明けても打ち明けなくても、その日は確実にやってきます。けれど何も告げずに家を離れるのは失礼だと思いました。ただ、告げた瞬間から彼が変わるのはもっと見たくありませんでした。
また明日、明日こそ。そう思っている間に過ぎていく日々。この素晴らしいお役目を頂いていることを不自由だと感じていることに気がついた時、自分が恋をしていることに思い至りました。
「彼を好きになっていました。
女王であることを知られるのが怖いと思うほどに。誰もいない家に帰ることを想像するだけで苦しくなるほどに。
……すべてを投げ捨てて、ただのヴィーシュナとして彼と生きたいと願うほどに」
それが許されないことは分かっていました。私はこの国の女王で、彼は先のある旅人です。彼をここに留めておくことはできません。春を迎え、塔の上から彼の前途を祈るしかないのです。
それなのに想いは募る一方で、私はどうしようもなくなって偶然家にやって来たハイデにこのことを打ち明けました。誰にも言えなかった気持ちを話し出した途端、様々な感情が涙と共に流れ始めました。
ハイデはじっと私の話を聞いてくれました。そして私が話せることをすべて話終えると、まるで答えが初めから決まっていたようにはっきりとこう言ったのです。
「『春を迎えなければいい』と」
そんなことできるはずがないと思いました。けれどハイデは、自分が塔から出なければいいだけだと言います。私は女王の役目を果たそうとしてもできないのだと示していればいい、そうすれば上手くいく、と。
「カクタス様にひとつ、申し上げておかなければならないことがあります。
数度お返しした文ではすべて偽りを記しておりました。私は一度も塔へ出向いてはおりませんでした。文の内容も、初めにハイデが残してくれた手本通りに書いてお送りしておりました」
「やはりか……」
「気づいておいでで?」
「まぁ、何となくな」
「王の目は誤魔化せませんね。ハイデ相手だから、と言った方がよろしいでしょうか。私もそんな風に……失礼しました」
ハイデの言葉で、私もそれでいいような気がしてしまったのがそもそもの間違いでした。女王として、個人的な感情ではなく国や国民のことを第一に考えるべきだったのに。私はそれを放棄しました。
そうしている間に冬を終え、春が来るべき季節にもまだ冬は続いています。
国民がハイデに対して悪い感情を抱いていることには当然気がついていました。口に出したくないような言葉を耳にしたこともあります。それなのにハイデは私のために耐えてくれました。どれほど自分が悪く言われようと、私の気持ちを優先してくれました。ここまでしてくれる友に、凍えるような冬の中で胸が熱くなりました。
ですがやっと、今になってやっと分かったのです。塔の上でじっと耐えているハイデを思い、春の景色を待ち望んで不安げな表情を見せる彼を見て、やっと気がついたのです。
「私は、春の女王です。私がもたらすのは、喜びの季節です。そして出会いと、別れの季節なのです。
出会いがあれば別れもまた、等しくある。けれどそれはすべてが悲しみではないのです。彼と生きられることは叶わなくとも、これまで過ごした一年という月日はいつまでも私の心に留まり続けるのです。
多くを犠牲にしてまで得る喜びは、喜びではありませんでした。ただ痛くて、悲しくて、とても寂しかった。
長くかかってしまいましたが、私は春の女王としてあるべき場所に帰りたいと思います」
こうして、ヴィーシュナの長い長い告白は終わりました。
すべてを語り、ひとつの恋を捨てると決めた彼女でしたが、切なげではあるものの凛とした眼差しをして、王に深く頭を下げました。
「改めまして、これまでのご無礼と私の身勝手に国中を巻き込んでしまったことを深くお詫び致します。これからは誠心誠意、女王として国のために仕えることをここに誓います」
雪の上に座ったまま真摯に語る彼女を、カクタスはじっと見つめています。
その様子にハイデは意見したい気持ちを抑えこみました。ヴィーシュナを厳しく責めるかもしれないという危惧はありましたが、幼馴染みとしての立場から言えばそれはないという確信めいたものの方が強くあるのです。
カクタスばかりがハイデを見ていたわけではありません。カクタスが誰よりも優しく人の情に厚いことを、ハイデもまたよく知っているのです。
カクタスが遂に、口を開きます。
「ヴィーシュナ、本当にそれでいいのか?」
彼女は王からの気遣いの言葉に、浮かびそうになる涙を堪えながら答えます。
「誇るべき、女王ですから」
「ヴィーシュナ……あんたは馬鹿よ。本当に馬鹿なんだから」
ハイデは言って、自分も同じく膝を濡らしながらヴィーシュナをきつく抱き締めました。愛しい友の決意を支えたいと思います。ヴィーシュナもその気持ちが嬉しく、背中に両腕を回しました。
カクタスはふたりの姿を微笑ましく見ています。ヴィーシュナがこれからずっと笑っていられるように、王としてまた友として、自分も助けになろうと思っています。
城で心配しているだろう執事のために手を振ってやろうかとそちらを振り返ると、ひとつの人影が、雪に足を取られながらも懸命にこちらに向かってくるのが見えました。見慣れない顔で、着の身着のままで家を飛び出したような、寒々とした格好をしています。
「あい、あれ……」
「……ロッド……!」
それが、ヴィーシュナが想いを寄せる旅人ロッドでした。
ロッドは声の届くところまで近づくと、何度もヴィーシュナの名を呼び始めます。ハイデがそっと離れると、引き寄せられるようにヴィーシュナも駆け寄っていきます。
「ヴィーシュナ、ヴィーシュナ!」
「ロッド、あなたどうしてここに……?」
風に跳ねた紫苑色の髪を直しながらヴィーシュナが問うと、ロッドは気まずそうに眉を垂らしました。
「昨日、帰っていく女王様たちに、君のことを聞いたよ。春の女王なんだってね?」
「……ええ、黙っていてごめんなさい。それに、あなたが待ち続けていた春を遅らせて、本当にごめんなさい」
「俺のことはいいんだよ。……本当は薄々気がついてはいたんだ」
ヴィーシュナが戸惑いの声を上げます。ロッドはその震える瞳に映る情けない表情の自分に喝を入れながら、言葉の真相を打ち明けます。
「あの街にいれば誰でも気づくよ。ヴィーシュナはどうしているのか、ヴィーシュナは冬の女王様に脅されているのではないか。街の人がそんな風に言っているのを聞いていたから、もしかしたらそうなんじゃないかって思っていた」
「そんなこと一言も……」
「そうだね。君が言えなかったように、俺も聞くのが怖かったんだ」
ロッドは言います。君を愛してしまったから、と。
ヴィーシュナが春の女王ではないかと考え始めた頃、ロッドも彼女と同じように自分の立場について考えていました。
たった一年前にこの国に辿り着いたしがない旅人である自分が、国の女王に想いを寄せるなど認められるでしょうか。国の規則も取り決めも知りません。聞くことはできませんが、結婚相手が決まっているかもしれない、それも王族の、女王という立場にふさわしい相手がすでにいるかもしれない。それならどうして想いを語ることができるでしょう。大切に思うからこそ困らせたくはありません。
想いを打ち明けないまま春が来てもここにいたらどうだろう、と考えたこともありました。ですがやがて彼女が誰かの元にいくのを見るのはきっと耐えられません。彼女の友でいるなど無理なのです。そうであれば春の景色を見たらすぐに出ていかなければなりません、この国を目指した時の思いの通りに。
「いつまでも終わらない冬を見ながら、隣に座る君を見ながら、このまま春が来なければいいと思った。
春が来ないままただ君の隣にいられたら、それで十分だと思っていたよ」
ヴィーシュナの唇が震えます。想いを通わせていたことが嬉しく、同じく悩んでいた彼のことが愛しくてたまりません。
ロッドは続けます。
「でも君が出ていったのに気がついて、仕方ないことだと言い聞かせながら旅の支度を始めた時、初めて荷物の多さに気づいたんだ。
この国に来て君が助けてくれてから、何も無くなっていた俺の手元には袋ひとつでは収まりきらない量の大切なものが増えていた。でもそんな大荷物では旅に出られない。だけどどんなに考えても減らしようがないんだ。
だってどれも、君との思い出が詰まりすぎているから」
ロッドがそっとヴィーシュナの両手を取り、優しく引くと、彼女の足は自然と進みます。今にも触れてしまいそうな距離でロッドが深い笑みを向けました。
「何より、君自身と離れたくないんだ」
「でも、でも、春の間私は塔で過ごさなくてはいけないのよ?」
「春の間だけじゃないか。夏も秋も冬も、ずっと一緒に過ごせるよ。春の公園の景色を描いて君に見せてあげる」
「だけど、あなたは新しい故郷を探しているのでしょう? ここで足止めするなんて」
できない、と言おうとした彼女の赤い耳を暖めるようにロッドが触れました。離れるための言い訳ばかりを言い募るヴィーシュナでしたが、ロッドの心はすでに決まっています。
「ヴィーシュナ。俺はここでもう見つけたんだ、いつまでも守りたい美しい景色を」
「でもまだ春は」
「君だよ。君のどんな表情も美しくて、愛おしい。
ずっと帰る場所を探していたけれど、俺はここで、あの家で、君の帰る場所になりたい」
泣き崩れそうになったヴィーシュナをロッドは抱き止め、ふたりは隙間なく抱き締め合いました。
初めて交わす抱擁は雪に濡れて冷たく、けれど互いの体温が優しく暖めていくのでした。
やがて、ヴィーシュナは塔に向かって歩き始めます。ロッド、ハイデ、カクタスがそれを見送ります。
すっかり毒草の取り払われた扉はいつも通りです。春の女王が手を翳すだけで、扉は簡単に開きました。
ヴィーシュナが振り返ります。
「ハイデ」
「何?」
「ごめんね。それに、ありがとう。あなたは大切なことに気づかせてくれた」
「……薬の調合に塔が最適だっただけよ」
ハイデは少し恥ずかしそうに視線を外しました。
「カクタス様」
「カクタス、でいいよ」
「いいえ、尊敬する王ですから。もうあなた様も国も苦しめたりはしません。できる限りの力でこの春を良いものに致します」
「気負わなくていい。ただ、笑っていればいいと思う」
カクタスは彼女の友としての朗らかな調子で、彼女を励ましました。
「……ロッド」
「あぁ」
「あなたの目にこの国の景色がどんな風に映るのか、とても楽しみ。随分遅れてしまったけど、気に入ってくれたら幸せ」
「君が愛した、君のつくる景色だ。きっと大好きになる。……帰ってくるのを、待ってるよ」
止まったはずの涙がまた流れていきます。こんなにも幸福を感じたことは今までなかったでしょう。そして今度はそのお返しをする番だ、とヴィーシュナは思います。そして声高らかに宣言しました。
「四季の国リボルブに、幸多き春の季節を!」
扉が閉じる瞬間まで見えた、彼女の涙に覆われた満面の笑みは、どんな花よりも美しく咲き誇っていたのでした。
おわり
実際に偽りとは思えない衰弱ようでしたし、持っているのはぼろぼろの紙の束と、衣類が一組入った麻布の手提げ鞄だけでした。無視することなどできるはずもなく、私はその人を家に上げ、作れるだけの食事を用意しました。お風呂も入れましたし、洗濯もしました。疲れているだろうと思い父が使っていたベッドもお貸ししてその日は休んでもらいました。
何を聞くこともなく世話したのが良かったのか、翌朝様子を見ると大変元気になっておられました。素性を怪しまなかったことも喜ばれたようです。その人は自分のことを洗いざらい話してくれました」
その人は名をロッドといいました。
すでにお話した通り旅人です。かつて他国との戦いに破れて祖国を失い、それ以来、第二の故郷を探す旅をして世界中を回っているそうです。金色の小麦畑を誇りとしていた祖国のような、繰り返し見たくなる風景を持った国をずっと探しているのです。
彼が初めに持っていた紙の束は、これまで回った国の風景を見よう見まねで描いたものでした。決して上手いとは言えませんでしたが、それらの国が沢山の魅力に溢れていることは感じ取れました。
ここリボルブ国にきたのも当然それが理由でした。特に春の街の公園の風景を見るために赴いたようです。
「私はそれを聞いてとても嬉しくなりました。春の間塔にいる私にはもう見られない景色を、こんな風に求めて来てくださる方にお会いしたのは初めてでしたから、余計かもしれません。どれほど楽しみにして来たのかを聞いて私まで胸が踊りました。私の迎える春が、国の者以外にも喜びをもたらすと考えるだけで、女王である幸福を感じました」
ですが季節は夏を迎えています。公園は爽やかな新緑に包まれていましたが、春の景色の優美さを知っている人は遠く及ばないと誰しも言います。
この国では女王が季節を司り、そして春の季節はもう過ぎたことを教えると、彼は心底残念がりました。盗賊に襲われなければ間に合っただろうと悔しがってもいました。
しかし驚くことに彼の立ち直りは早く、季節は廻るものなのだから次の春まで待とう、とその場で決心していました。辛抱強く待って見る景色はなおいっそう美しいはずだ、と瞳を輝かせていました。
「一文無しの旅のお方を宿に渡すのは双方に申し訳なく思えたので、春までの間私の家で過ごすよう提案しました」
「……年頃の女の家に男を泊める方が感心しないな」
「カクタス様、お気遣いありがとうございます。もちろんこのことをすぐに決められたわけではありませんが、彼は悪い人には見えませんでしたし、私はこれでも武術の心得がありますので、念のため警戒していることは暗に伝えておきました」
「お、おう。ならいいが」
それから彼との生活が始まりました。
ひとりで長く旅をしてきたからか彼は働き者で、家のことをよく手伝ってくれました。それ以外の時には一緒にハーブティを飲んだり、盗賊に襲われないための護身術をお教えしたり、彼が風景を描く練習をしているのを隣で眺めたり。
そんな、とても普通で他愛ない、穏やかな日々を過ごしていきました。友と呼んでもいいほどには関係を築けていると私は思っています。
けれど。
「一度隠した秘密を打ち明ける機会を、私は故意に逃し続けました」
何度も打ち明けようとしました、私が春の女王であることを。けれどもその度思い出してしまうのです。私が塔に入り春を迎えれば、次に出てきた時に彼はもうここからいなくなってしまうということを。
毎日を過ごしていると、目の前にいる彼が何のためにここに来たのかを忘れてしまいます。そして私自身が女王という立場を得ていることも忘れてしまう……。
打ち明けても打ち明けなくても、その日は確実にやってきます。けれど何も告げずに家を離れるのは失礼だと思いました。ただ、告げた瞬間から彼が変わるのはもっと見たくありませんでした。
また明日、明日こそ。そう思っている間に過ぎていく日々。この素晴らしいお役目を頂いていることを不自由だと感じていることに気がついた時、自分が恋をしていることに思い至りました。
「彼を好きになっていました。
女王であることを知られるのが怖いと思うほどに。誰もいない家に帰ることを想像するだけで苦しくなるほどに。
……すべてを投げ捨てて、ただのヴィーシュナとして彼と生きたいと願うほどに」
それが許されないことは分かっていました。私はこの国の女王で、彼は先のある旅人です。彼をここに留めておくことはできません。春を迎え、塔の上から彼の前途を祈るしかないのです。
それなのに想いは募る一方で、私はどうしようもなくなって偶然家にやって来たハイデにこのことを打ち明けました。誰にも言えなかった気持ちを話し出した途端、様々な感情が涙と共に流れ始めました。
ハイデはじっと私の話を聞いてくれました。そして私が話せることをすべて話終えると、まるで答えが初めから決まっていたようにはっきりとこう言ったのです。
「『春を迎えなければいい』と」
そんなことできるはずがないと思いました。けれどハイデは、自分が塔から出なければいいだけだと言います。私は女王の役目を果たそうとしてもできないのだと示していればいい、そうすれば上手くいく、と。
「カクタス様にひとつ、申し上げておかなければならないことがあります。
数度お返しした文ではすべて偽りを記しておりました。私は一度も塔へ出向いてはおりませんでした。文の内容も、初めにハイデが残してくれた手本通りに書いてお送りしておりました」
「やはりか……」
「気づいておいでで?」
「まぁ、何となくな」
「王の目は誤魔化せませんね。ハイデ相手だから、と言った方がよろしいでしょうか。私もそんな風に……失礼しました」
ハイデの言葉で、私もそれでいいような気がしてしまったのがそもそもの間違いでした。女王として、個人的な感情ではなく国や国民のことを第一に考えるべきだったのに。私はそれを放棄しました。
そうしている間に冬を終え、春が来るべき季節にもまだ冬は続いています。
国民がハイデに対して悪い感情を抱いていることには当然気がついていました。口に出したくないような言葉を耳にしたこともあります。それなのにハイデは私のために耐えてくれました。どれほど自分が悪く言われようと、私の気持ちを優先してくれました。ここまでしてくれる友に、凍えるような冬の中で胸が熱くなりました。
ですがやっと、今になってやっと分かったのです。塔の上でじっと耐えているハイデを思い、春の景色を待ち望んで不安げな表情を見せる彼を見て、やっと気がついたのです。
「私は、春の女王です。私がもたらすのは、喜びの季節です。そして出会いと、別れの季節なのです。
出会いがあれば別れもまた、等しくある。けれどそれはすべてが悲しみではないのです。彼と生きられることは叶わなくとも、これまで過ごした一年という月日はいつまでも私の心に留まり続けるのです。
多くを犠牲にしてまで得る喜びは、喜びではありませんでした。ただ痛くて、悲しくて、とても寂しかった。
長くかかってしまいましたが、私は春の女王としてあるべき場所に帰りたいと思います」
こうして、ヴィーシュナの長い長い告白は終わりました。
すべてを語り、ひとつの恋を捨てると決めた彼女でしたが、切なげではあるものの凛とした眼差しをして、王に深く頭を下げました。
「改めまして、これまでのご無礼と私の身勝手に国中を巻き込んでしまったことを深くお詫び致します。これからは誠心誠意、女王として国のために仕えることをここに誓います」
雪の上に座ったまま真摯に語る彼女を、カクタスはじっと見つめています。
その様子にハイデは意見したい気持ちを抑えこみました。ヴィーシュナを厳しく責めるかもしれないという危惧はありましたが、幼馴染みとしての立場から言えばそれはないという確信めいたものの方が強くあるのです。
カクタスばかりがハイデを見ていたわけではありません。カクタスが誰よりも優しく人の情に厚いことを、ハイデもまたよく知っているのです。
カクタスが遂に、口を開きます。
「ヴィーシュナ、本当にそれでいいのか?」
彼女は王からの気遣いの言葉に、浮かびそうになる涙を堪えながら答えます。
「誇るべき、女王ですから」
「ヴィーシュナ……あんたは馬鹿よ。本当に馬鹿なんだから」
ハイデは言って、自分も同じく膝を濡らしながらヴィーシュナをきつく抱き締めました。愛しい友の決意を支えたいと思います。ヴィーシュナもその気持ちが嬉しく、背中に両腕を回しました。
カクタスはふたりの姿を微笑ましく見ています。ヴィーシュナがこれからずっと笑っていられるように、王としてまた友として、自分も助けになろうと思っています。
城で心配しているだろう執事のために手を振ってやろうかとそちらを振り返ると、ひとつの人影が、雪に足を取られながらも懸命にこちらに向かってくるのが見えました。見慣れない顔で、着の身着のままで家を飛び出したような、寒々とした格好をしています。
「あい、あれ……」
「……ロッド……!」
それが、ヴィーシュナが想いを寄せる旅人ロッドでした。
ロッドは声の届くところまで近づくと、何度もヴィーシュナの名を呼び始めます。ハイデがそっと離れると、引き寄せられるようにヴィーシュナも駆け寄っていきます。
「ヴィーシュナ、ヴィーシュナ!」
「ロッド、あなたどうしてここに……?」
風に跳ねた紫苑色の髪を直しながらヴィーシュナが問うと、ロッドは気まずそうに眉を垂らしました。
「昨日、帰っていく女王様たちに、君のことを聞いたよ。春の女王なんだってね?」
「……ええ、黙っていてごめんなさい。それに、あなたが待ち続けていた春を遅らせて、本当にごめんなさい」
「俺のことはいいんだよ。……本当は薄々気がついてはいたんだ」
ヴィーシュナが戸惑いの声を上げます。ロッドはその震える瞳に映る情けない表情の自分に喝を入れながら、言葉の真相を打ち明けます。
「あの街にいれば誰でも気づくよ。ヴィーシュナはどうしているのか、ヴィーシュナは冬の女王様に脅されているのではないか。街の人がそんな風に言っているのを聞いていたから、もしかしたらそうなんじゃないかって思っていた」
「そんなこと一言も……」
「そうだね。君が言えなかったように、俺も聞くのが怖かったんだ」
ロッドは言います。君を愛してしまったから、と。
ヴィーシュナが春の女王ではないかと考え始めた頃、ロッドも彼女と同じように自分の立場について考えていました。
たった一年前にこの国に辿り着いたしがない旅人である自分が、国の女王に想いを寄せるなど認められるでしょうか。国の規則も取り決めも知りません。聞くことはできませんが、結婚相手が決まっているかもしれない、それも王族の、女王という立場にふさわしい相手がすでにいるかもしれない。それならどうして想いを語ることができるでしょう。大切に思うからこそ困らせたくはありません。
想いを打ち明けないまま春が来てもここにいたらどうだろう、と考えたこともありました。ですがやがて彼女が誰かの元にいくのを見るのはきっと耐えられません。彼女の友でいるなど無理なのです。そうであれば春の景色を見たらすぐに出ていかなければなりません、この国を目指した時の思いの通りに。
「いつまでも終わらない冬を見ながら、隣に座る君を見ながら、このまま春が来なければいいと思った。
春が来ないままただ君の隣にいられたら、それで十分だと思っていたよ」
ヴィーシュナの唇が震えます。想いを通わせていたことが嬉しく、同じく悩んでいた彼のことが愛しくてたまりません。
ロッドは続けます。
「でも君が出ていったのに気がついて、仕方ないことだと言い聞かせながら旅の支度を始めた時、初めて荷物の多さに気づいたんだ。
この国に来て君が助けてくれてから、何も無くなっていた俺の手元には袋ひとつでは収まりきらない量の大切なものが増えていた。でもそんな大荷物では旅に出られない。だけどどんなに考えても減らしようがないんだ。
だってどれも、君との思い出が詰まりすぎているから」
ロッドがそっとヴィーシュナの両手を取り、優しく引くと、彼女の足は自然と進みます。今にも触れてしまいそうな距離でロッドが深い笑みを向けました。
「何より、君自身と離れたくないんだ」
「でも、でも、春の間私は塔で過ごさなくてはいけないのよ?」
「春の間だけじゃないか。夏も秋も冬も、ずっと一緒に過ごせるよ。春の公園の景色を描いて君に見せてあげる」
「だけど、あなたは新しい故郷を探しているのでしょう? ここで足止めするなんて」
できない、と言おうとした彼女の赤い耳を暖めるようにロッドが触れました。離れるための言い訳ばかりを言い募るヴィーシュナでしたが、ロッドの心はすでに決まっています。
「ヴィーシュナ。俺はここでもう見つけたんだ、いつまでも守りたい美しい景色を」
「でもまだ春は」
「君だよ。君のどんな表情も美しくて、愛おしい。
ずっと帰る場所を探していたけれど、俺はここで、あの家で、君の帰る場所になりたい」
泣き崩れそうになったヴィーシュナをロッドは抱き止め、ふたりは隙間なく抱き締め合いました。
初めて交わす抱擁は雪に濡れて冷たく、けれど互いの体温が優しく暖めていくのでした。
やがて、ヴィーシュナは塔に向かって歩き始めます。ロッド、ハイデ、カクタスがそれを見送ります。
すっかり毒草の取り払われた扉はいつも通りです。春の女王が手を翳すだけで、扉は簡単に開きました。
ヴィーシュナが振り返ります。
「ハイデ」
「何?」
「ごめんね。それに、ありがとう。あなたは大切なことに気づかせてくれた」
「……薬の調合に塔が最適だっただけよ」
ハイデは少し恥ずかしそうに視線を外しました。
「カクタス様」
「カクタス、でいいよ」
「いいえ、尊敬する王ですから。もうあなた様も国も苦しめたりはしません。できる限りの力でこの春を良いものに致します」
「気負わなくていい。ただ、笑っていればいいと思う」
カクタスは彼女の友としての朗らかな調子で、彼女を励ましました。
「……ロッド」
「あぁ」
「あなたの目にこの国の景色がどんな風に映るのか、とても楽しみ。随分遅れてしまったけど、気に入ってくれたら幸せ」
「君が愛した、君のつくる景色だ。きっと大好きになる。……帰ってくるのを、待ってるよ」
止まったはずの涙がまた流れていきます。こんなにも幸福を感じたことは今までなかったでしょう。そして今度はそのお返しをする番だ、とヴィーシュナは思います。そして声高らかに宣言しました。
「四季の国リボルブに、幸多き春の季節を!」
扉が閉じる瞬間まで見えた、彼女の涙に覆われた満面の笑みは、どんな花よりも美しく咲き誇っていたのでした。
おわり
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