僕と妻の結論
僕と妻の結論
ぼんやりとテレビのニュースを見ながら、お気に入りのスーツに着替えていた。奮発して買ったブランドもので、ここぞという時に着るようにしている。
ネクタイもなかなかに高級なモノだが、昔からどうにも上手く結べなくていつも四苦八苦してしまう。
「ほら、結び目のとこ曲がってるよ」
見かねた妻が僕の首もとに手を伸ばす。
不意に高校時代を思い出し、顔が綻んだ。
あの頃もよくこうして直してもらったっけ。
「もう、なに笑ってんのよ……」
「いやなに、昔を思い出してさ。いつも悪いね」
「……まったく、イッくんはホント不器用だよね」
そう言うと、妻は僕のワイシャツの襟をピシッと整える。
手先が器用な彼女は、昔から何かと僕の世話を焼いた。
彼女は生まれた時からそばにいた。
保育園に通っていた頃は、彼女は僕より半年ほどお姉さんなのだと言って、いつでも僕の手を引いて歩いていた。
小学生の頃は、一緒に遊んでは手を繋いで並んで帰った。
中学生になって少しだけ疎遠になりかけたが、彼女が数学を教えてくれと僕に泣きついてきて、勉強を見ることになった。
同じ高校に入った。
彼女は僕のネクタイを直し、僕は彼女にキスをした。
パン、という音と共に、僕の頬に紅葉ができた。
「順番は守りなさい!」
告白もせずにキスしたのは悪かったと思ってる。
でもまさか思いっきり頬を張られるとは。
なんて、今ではすっかり笑い話だが。
妻はついこの前も息子に「まったくもう、あれだけ言っても順番守らないなんて」とプリプリ怒っていた。妻にとって順番を守るというのは大事なことなのだ。
あり得ないことだが、仮に妻が浮気するとしたら……事前に僕に事情を説明して離婚して、と手順を踏んだ後に相手と結ばれるのだろうな。
そこまでいくと既に浮気とは呼べないような気がするけど。
ま、そんな風に性格にクセはあるものの、妻は非常に出来た人間だし、かなりの美人だ。
僕みたいな平々凡々な男が捕まえるには、幼馴染というアドバンテージをフル活用するくらいしか手はないほどに。
「また昔のこと思い出してたの?」
「まあね。サヤちゃんは、よくこんな冴えない男を好きになったなって」
「しょうがないじゃない、先にキスされちゃったし」
「根に持つなぁ……もう順番は間違えないよ」
「当然っ!」
ニッと笑う妻は、大きな向日葵柄のワンピース姿だ。
明るい彼女に似合っていて、彼女もお気に入り。
息子を生んで10年経つというのに、今でも可愛い笑顔だ……なんて思えるのは、とても幸せなことなのだろう。
僕は彼女に笑いかける。
彼女の方から身を乗り出して、唇を合わせた。
少し照れ臭そうに頬を掻く。
「……春樹に見られたかな?」
「さすがにもう寝てるさ」
息子の方に視線を移す。
パッと見て眠っているかどうかなんて分かるはずもないけど、まぁ仮に見られていたとしても呆れ顔で許してくれるさ。
早めの声変わりが始まった掠れ声で「まったくお父さんとお母さんはいつも……」なんて言うに決まってる。
息子の春樹は優しい子だ。
春の天気の良い日、身重の妻と木陰で休んでいるときに陣痛が来て、生まれてきた。その時の木漏れ日を吸い込んで育ったかのような、穏やかで争いを好まない性格の子。
ただ、その優しさ故に、一年ほど前までいじめを受けていたらしい。
らしい、というのは、現場を見たわけでも息子から聞いたわけでもないからだ。
担任の女教師も校長も「いじめなどない」と言う中、こっそり教えてくれたのは息子のクラスメイトだ。
いじめっ子のリーダーは、とある有名な政治家の息子だった。
いじめは息子自身が頑張り、自分の手で終わらせた。
主犯の少年やその仲間達はいじめの事実を認めなかったが、もう終わった話を蒸し返しても仕方ないだろう。
それに、彼らもいささか想像力が足りないだけで根っからの悪人というわけではなく……ついこの前会った時には、四人揃って目に涙を浮かべながら僕と妻に謝ってきたっけ。
「もう、順番が違うわ。息子に直接謝るのが先でしょ」
なんて言って、妻は彼らの謝罪を笑い飛ばしたのだけれど。
まぁ、許す許さないは息子に任せるとしても、反省するのは悪いことではないからね。
優しい息子だから、本当に心からの謝罪であれば受けとるだろうなとは思っている。
そういえば一度、彼女に聞いたことがある。
なぜそんなに順番を守ろうとするのか、と。
「うちのお婆ちゃんの兄弟が、戦争で亡くなったらしいのよ」
お婆ちゃん子だった彼女は特によく聞かされたらしい。
残された家族のなかでも特に母親(祖母の母)は、言葉では言い表せないほど酷い状態だったそうだ。穏やかだった女性が、物を投げ、酒に溺れ、まだ生きている我が子に目を向けなくなる。
それを見ていた妻の祖母は、自分の子や孫たちに言い聞かせるようになったそうだ。
「親より先に死ぬな、順番を守れ」
いつしか妻の家族は、順番というものを非常に重視する家庭内文化を築くようになった。といっても、常に父親優先!のようなギスギスしたモノではなく、家族愛に根差したルールだから微笑ましい。
まぁ、それでも妻の場合は若干行き過ぎの気があるから、天国のお婆さんも苦笑いだろうけどね。
さて、昔の話に戻るけど。
高校卒業後、僕は大学へ。彼女は調理師の専門学校へ通った。
なんかテレビで男性アイドルグループが料理する番組の、手元の撮影だけよく学校でやってたみたい。
もちろん料理はプロの料理人がやるようで――そりゃ、普段芸能活動に忙しい彼らが、揃いも揃ってプロ顔負けの料理上手な訳はない。
脱線したけど、そんな学校で習っていたからか、今でも妻の料理の腕はピカイチだ。
少し早めに社会人になった彼女とはまぁいろいろあったけれど、僕の大学卒業後すぐに結婚した。
ちなみに、もちろん出来ちゃった婚ではない。
僕は本音を言うとどっちでも良かったんだけど、順番にうるさい彼女が結婚前に子どもを作るなんて言うはずもなく。
「幸せになろうね」
ウェディングドレス姿でそう言った彼女の美しい顔は、今でもしっかりと目の奥にやきついている。
最期の瞬間は彼女の手を握って、この顔を思い出しながら逝けたら幸せだろうな。
なんて言ったら、縁起でもないなんて怒られたけどさ。
「私の方が半年お姉さんなんだから、逝くときは私が先か同時かじゃないと認めないわ」
なんて順番主義も口にしていた。
本当に、良い妻と結婚できて幸せだと思う。
『ここで臨時ニュースです――』
アナウンサーの声に、現実に引き戻される。
テレビには森が映し出されていた。
ニュースによると、行方不明だった四人の少年が森で木に縛り付けられている状態で見つかったらしい。
うち一人は死亡が確認され、一人は重体。残りの二人は重傷の上ひどく衰弱しており、会話は困難だとか。
詳細は伏せられているが、少年たちはずいぶんと酷い状態――それこそ、いっそ死んだ方がマシだいう状態で見つかったため、警察は怨恨の線で捜査を進めるそうだ。
犯人は二人以上と推定される。
少年たちを縛っていた縄の結び目が、明らかに二種類――すごく几帳面な人が結んだものと、すごく不器用な人が結んだものが、明確に混在しているらしい。
さすが日本警察は優秀である。
有名な政治家が映し出された。
生き残ったうちの一人は、その政治家の息子なのだ。
「一人死んじゃったのね……」
妻の顔には残念そうな色が浮かんでいる。
僕は妻を慰めるように、肩を軽く叩いた。
妻は僕を見て、優しく微笑む。
「仕方ないわよね、そろそろ行こっか」
「そうだね。愛してるよ、サヤちゃん」
「私も愛してる、イッくん」
僕は妻にキスをして、その首にロープをかける。
妻もまた僕の首にロープをかける。
息子の遺影を二人で握る。
妻のウェディングドレス姿を思い浮かべ、もう一度キスをする。
向こうでまた息子に会えるだろうか。
僕は足元の踏み台を、思い切り蹴飛ばした。
ネクタイもなかなかに高級なモノだが、昔からどうにも上手く結べなくていつも四苦八苦してしまう。
「ほら、結び目のとこ曲がってるよ」
見かねた妻が僕の首もとに手を伸ばす。
不意に高校時代を思い出し、顔が綻んだ。
あの頃もよくこうして直してもらったっけ。
「もう、なに笑ってんのよ……」
「いやなに、昔を思い出してさ。いつも悪いね」
「……まったく、イッくんはホント不器用だよね」
そう言うと、妻は僕のワイシャツの襟をピシッと整える。
手先が器用な彼女は、昔から何かと僕の世話を焼いた。
彼女は生まれた時からそばにいた。
保育園に通っていた頃は、彼女は僕より半年ほどお姉さんなのだと言って、いつでも僕の手を引いて歩いていた。
小学生の頃は、一緒に遊んでは手を繋いで並んで帰った。
中学生になって少しだけ疎遠になりかけたが、彼女が数学を教えてくれと僕に泣きついてきて、勉強を見ることになった。
同じ高校に入った。
彼女は僕のネクタイを直し、僕は彼女にキスをした。
パン、という音と共に、僕の頬に紅葉ができた。
「順番は守りなさい!」
告白もせずにキスしたのは悪かったと思ってる。
でもまさか思いっきり頬を張られるとは。
なんて、今ではすっかり笑い話だが。
妻はついこの前も息子に「まったくもう、あれだけ言っても順番守らないなんて」とプリプリ怒っていた。妻にとって順番を守るというのは大事なことなのだ。
あり得ないことだが、仮に妻が浮気するとしたら……事前に僕に事情を説明して離婚して、と手順を踏んだ後に相手と結ばれるのだろうな。
そこまでいくと既に浮気とは呼べないような気がするけど。
ま、そんな風に性格にクセはあるものの、妻は非常に出来た人間だし、かなりの美人だ。
僕みたいな平々凡々な男が捕まえるには、幼馴染というアドバンテージをフル活用するくらいしか手はないほどに。
「また昔のこと思い出してたの?」
「まあね。サヤちゃんは、よくこんな冴えない男を好きになったなって」
「しょうがないじゃない、先にキスされちゃったし」
「根に持つなぁ……もう順番は間違えないよ」
「当然っ!」
ニッと笑う妻は、大きな向日葵柄のワンピース姿だ。
明るい彼女に似合っていて、彼女もお気に入り。
息子を生んで10年経つというのに、今でも可愛い笑顔だ……なんて思えるのは、とても幸せなことなのだろう。
僕は彼女に笑いかける。
彼女の方から身を乗り出して、唇を合わせた。
少し照れ臭そうに頬を掻く。
「……春樹に見られたかな?」
「さすがにもう寝てるさ」
息子の方に視線を移す。
パッと見て眠っているかどうかなんて分かるはずもないけど、まぁ仮に見られていたとしても呆れ顔で許してくれるさ。
早めの声変わりが始まった掠れ声で「まったくお父さんとお母さんはいつも……」なんて言うに決まってる。
息子の春樹は優しい子だ。
春の天気の良い日、身重の妻と木陰で休んでいるときに陣痛が来て、生まれてきた。その時の木漏れ日を吸い込んで育ったかのような、穏やかで争いを好まない性格の子。
ただ、その優しさ故に、一年ほど前までいじめを受けていたらしい。
らしい、というのは、現場を見たわけでも息子から聞いたわけでもないからだ。
担任の女教師も校長も「いじめなどない」と言う中、こっそり教えてくれたのは息子のクラスメイトだ。
いじめっ子のリーダーは、とある有名な政治家の息子だった。
いじめは息子自身が頑張り、自分の手で終わらせた。
主犯の少年やその仲間達はいじめの事実を認めなかったが、もう終わった話を蒸し返しても仕方ないだろう。
それに、彼らもいささか想像力が足りないだけで根っからの悪人というわけではなく……ついこの前会った時には、四人揃って目に涙を浮かべながら僕と妻に謝ってきたっけ。
「もう、順番が違うわ。息子に直接謝るのが先でしょ」
なんて言って、妻は彼らの謝罪を笑い飛ばしたのだけれど。
まぁ、許す許さないは息子に任せるとしても、反省するのは悪いことではないからね。
優しい息子だから、本当に心からの謝罪であれば受けとるだろうなとは思っている。
そういえば一度、彼女に聞いたことがある。
なぜそんなに順番を守ろうとするのか、と。
「うちのお婆ちゃんの兄弟が、戦争で亡くなったらしいのよ」
お婆ちゃん子だった彼女は特によく聞かされたらしい。
残された家族のなかでも特に母親(祖母の母)は、言葉では言い表せないほど酷い状態だったそうだ。穏やかだった女性が、物を投げ、酒に溺れ、まだ生きている我が子に目を向けなくなる。
それを見ていた妻の祖母は、自分の子や孫たちに言い聞かせるようになったそうだ。
「親より先に死ぬな、順番を守れ」
いつしか妻の家族は、順番というものを非常に重視する家庭内文化を築くようになった。といっても、常に父親優先!のようなギスギスしたモノではなく、家族愛に根差したルールだから微笑ましい。
まぁ、それでも妻の場合は若干行き過ぎの気があるから、天国のお婆さんも苦笑いだろうけどね。
さて、昔の話に戻るけど。
高校卒業後、僕は大学へ。彼女は調理師の専門学校へ通った。
なんかテレビで男性アイドルグループが料理する番組の、手元の撮影だけよく学校でやってたみたい。
もちろん料理はプロの料理人がやるようで――そりゃ、普段芸能活動に忙しい彼らが、揃いも揃ってプロ顔負けの料理上手な訳はない。
脱線したけど、そんな学校で習っていたからか、今でも妻の料理の腕はピカイチだ。
少し早めに社会人になった彼女とはまぁいろいろあったけれど、僕の大学卒業後すぐに結婚した。
ちなみに、もちろん出来ちゃった婚ではない。
僕は本音を言うとどっちでも良かったんだけど、順番にうるさい彼女が結婚前に子どもを作るなんて言うはずもなく。
「幸せになろうね」
ウェディングドレス姿でそう言った彼女の美しい顔は、今でもしっかりと目の奥にやきついている。
最期の瞬間は彼女の手を握って、この顔を思い出しながら逝けたら幸せだろうな。
なんて言ったら、縁起でもないなんて怒られたけどさ。
「私の方が半年お姉さんなんだから、逝くときは私が先か同時かじゃないと認めないわ」
なんて順番主義も口にしていた。
本当に、良い妻と結婚できて幸せだと思う。
『ここで臨時ニュースです――』
アナウンサーの声に、現実に引き戻される。
テレビには森が映し出されていた。
ニュースによると、行方不明だった四人の少年が森で木に縛り付けられている状態で見つかったらしい。
うち一人は死亡が確認され、一人は重体。残りの二人は重傷の上ひどく衰弱しており、会話は困難だとか。
詳細は伏せられているが、少年たちはずいぶんと酷い状態――それこそ、いっそ死んだ方がマシだいう状態で見つかったため、警察は怨恨の線で捜査を進めるそうだ。
犯人は二人以上と推定される。
少年たちを縛っていた縄の結び目が、明らかに二種類――すごく几帳面な人が結んだものと、すごく不器用な人が結んだものが、明確に混在しているらしい。
さすが日本警察は優秀である。
有名な政治家が映し出された。
生き残ったうちの一人は、その政治家の息子なのだ。
「一人死んじゃったのね……」
妻の顔には残念そうな色が浮かんでいる。
僕は妻を慰めるように、肩を軽く叩いた。
妻は僕を見て、優しく微笑む。
「仕方ないわよね、そろそろ行こっか」
「そうだね。愛してるよ、サヤちゃん」
「私も愛してる、イッくん」
僕は妻にキスをして、その首にロープをかける。
妻もまた僕の首にロープをかける。
息子の遺影を二人で握る。
妻のウェディングドレス姿を思い浮かべ、もう一度キスをする。
向こうでまた息子に会えるだろうか。
僕は足元の踏み台を、思い切り蹴飛ばした。
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