瀬戸際の証明、囚われたジャンキー

些稚絃羽

7.柴山の動機

 柴山は部屋に入るとサングラスを外した。外は曇っているが余程用心深い性格らしい。剥き出しになったその目は先程よりもぼんやりとしている。泣いたようには見えなかったが、充血しているのが分かる。親友を失った心痛はかなりのものだろう。頭を抱えて苦しげに呟いた姿を思い出す。

「ベッドにでもお掛けください」

 頷いて応じる柴山。そろそろと近付き、ベッドの感触を確めるようにしてから控え目に腰掛けた。顔がこちらを向き、第一の質問を促すように頷く。彼はどうやら前向きらしい。
 田浦に聞いたのと同じように年齢と職業を訊ねる。

「歳は四十二歳。職業は……今は無職、と言ったらいいだろうか」

 迷うようにそう口にして後ろ首を撫でる。四十代前半ならまだまだ働き盛りと言ってもいいだろう。何があったかは分からないが、その年齢で無職というのは生活はどうしているのだろうか。
 その疑問は脇に置いておいて、話を続ける。

「北川さんとは歳が近いんですね?」
「大学の同級生だ。もう二十年来の付き合いになる」
「ということは美大出身なんですね? 柴山さんも絵を?」

 そう聞くと少し間を置いて、いや、と返って来る。

「私は特定の何かを決めていた訳ではなかった。絵を描くこともあったし彫刻をすることもあった」

 思わぬ返答が返ってきた。勝手な推測で同じく絵を描いていたのだろうと思っていたが、見当違いだったらしい。真面目で一見お堅そうな雰囲気があるが、意外に好奇心旺盛なタイプなのかもしれない。

「好きなことをして過ごしたくてあの大学に入った。とにかくその時したいことをしていたな、そういう意味では自由な学科だった。
 それでも一番は好きな写真を撮っていたくて、カメラを持ってキャンパス内をうろついているのが常だった」

 正直なところ、柴山がカメラを構えるところが想像できなかった。北山さんがカメラを趣味にしていたと聞いた時は妙にしっくりきたが、これもあの人の持つ雰囲気のせいかもしれない。

「そうしてたまたま北川が絵を描いてるところに遭遇した。その絵に惹きつけられて、それからはずっと彼のところに入り浸っていた」
「それが出会いだった訳ですね。……それじゃあ、北川さんがカメラを趣味にするようになったのは、柴山さんの影響だったんですね?」

 身近に写真を撮る人間が居れば興味を持つのは自然だ。まして彼のように特出した才能がある人なら余計にそうだったのではないだろうか。
 柴山が、知っていたのか、と言うのを聞いて田浦との写真を見せる。

「田浦さんから伺いました。この写真も北川さんが撮ったものだと。
 こちらは、お二人のどちらが撮られた写真ですか?」

 出された手に柴山との写真を渡す。丹念に隅々まで眺めてからようやく、僕へと視線を向ける。

「これは確か、北川が撮ったものだ」
「いつ頃の写真でしょう? 大分お若いような」
「アトリエが建った頃だったと思う。記念に写真を撮ったんだ。だから……もう十三年になるか」

 そんなに前の写真だったのか。違いと言えば柴山の髪が少し多いくらいなもので、十三年の月日はあまり感じさせなかった。
 その写真を見て、どんなことを考えているのだろう。立った位置からはその表情を見ることはできなかった。

「柴山さんは、北川さんが凉原奏として成長する姿をずっと見てこられたんですね」

 僕は言うと、柴山は俯いたまま何度か頷いた。そうだな、と呟いて顔を上げる。返された写真を僕は受け取った。

「私は凉原奏を一番近くで見てきた。
 二人で大学の窓から外を眺めて名前を決めた。賞を逃す度に一緒に落ち込んで、個展が決まった時には小さなアパートで祝杯を上げた。誰にも言えない秘密をずっと共有してきた。
 ……私は他の誰より、凉原奏をよく知っている」

 その目は僕を見ているようで、過去を振り返るような遠い目をしていた。彼との時間を思い出しているのだろうか。
 ふと今はどこで何をしているのか分からない友人の顔が幾つか頭を掠めた。二十年という時間がどれほどのものか、あまり上手く想像できない。しかしずっと一緒に居続けるのは、その実簡単なことではないように思う。秘密が関係を強める場合もあるのかもしれない。
 たった一人、凉原奏の全てをこの人は知っている。そして同時に北川廉太郎の大部分をも知っている。柴山の存在がどれほど重要になってくるかは、考えるまでもなく明らかだった。

「柴山さんから見て、北川さんはどんな人でしたか?」
「どんな……私にとって彼は、眩しくて、手の届かない存在だ」

 膝に乗せた両手の掌に視線を落とす柴山。節くれだった無骨な指が重なる。
 眩しくて手の届かない存在だと、最も近くで彼を見てきた柴山がそう言う。分かる気がした。彼は真っ直ぐで、白すぎるのだ。だから近付きたくても近付けないような、そんな神秘性があった。
 柴山は実際にその手を伸ばしたのだろうか。傍に居て、画家として羽ばたいていくその背をどんな思いで見つめてきたのだろうか。

「北川は、優しすぎる。なつ子さんはああ言っていたが、彼がなつ子さんを招き入れたのは本当に心配したからだ。放っておけなかったと言っていた。そういう奴なんだ」

 彼自身がそう言っていたなら間違いない。北川さんが紛れもなく感じた通りの人でほっとする。

「どうやってもこちらからは追いつけないのに、容易にこちらに近付いてくる。挑む気持ちにさえさせてくれなかった」

 この時初めて、柴山の笑みを見たような気がする。写真の頃より歳を重ねたその笑みに自虐的なものはなく、ただ懐かしむような色だけが浮かんで見えた。

「……私にはなれない類の人間だった。だからずっと、羨ましかった」

 天を仰いで瞼を下ろす。最後の呟きが耳に残った。
 柴山も田浦と同じように、彼を羨望の目で見ていたようだ。絵によって惹きつけられただけでなくその人自身に、柴山もまた魅了されていた。

 愛され慕われる人はどうしてこうも短命なのか。かつての女性は自ら死を選び、この人は向かう死を受け入れた。そのどちらも必要のなかった死だ。それなのに……。
 死は決してリセットボタンではない。生きることはゲームではないのだから。迎えるのはただ終わりだけ。死を選ぶことを優しさだと、僕は思いたくない。

 切なさが込み上げて胸が苦しい。どんなに間違いだと感じても、それを強く語ることはできない。そこに託された思いを知ってしまえば、非難することはできなかった。まして目の前に居ない人にどう伝えても意味はないのだ。



<お茶でも淹れようかしらね>

 突然声が耳に届く。柴山は動かない。アトリエで久留米が言ったのだと気が付いた。

<勝手に使っていいのか? ……まぁ、怒る人も居ねぇか……>

 北川さんの不在を口にしてまた悲しみに襲われているのが、降りた沈黙から分かった。コツン、と軽いヒールの音が鳴る。

<好きに使ってもいいって言ってくださっていたのだけど、有効期限はいつまでかしら>
<……さぁな>

 久留米の疑問は独り言のように聞こえた。もしくは今は亡き友人への純粋な問い掛け。
 田浦は相変わらず冷めた風を装っていたが、答えの返ってこない寂しさを補ってあげるかのような荒い一言が少し暖かく聞こえた。
 ヒールの音が続いてドアが開く。キッチンに入ったようだ。
 重く踏みしめる足音が大きくなって、通り過ぎた。どさりと音がしたのは、田浦がソファに座った音だろう。



「最近、北山さんに何か変わった様子はありませんでしたか?」

 感情に呑み込まれている場合ではない。聞こえた会話が現実に引き戻してくれた。
 僕の声に反応して、柴山が瞼を開く。虚ろなその目を向けて、変わった様子? と問い返してきた。

「例えば何かに困っているようだとか、何かを隠しているように思えたとか」
「困って……しいて言うなら田浦君に知られてしまった時は堪えていたようだった。
 なつ子さんに加えてまた一人、というのもあったようだが、何より常連で親しくしていたようで」

 隠していた心苦しさもあって尚更知られたくなかったらしい、と続けた。
 ここでまた、田浦とのことを考える。裏切りたくないという理由で田浦は絵の購入を断られた。しかし言ってしまえば、黙っていたことで既に裏切っているようなものだ。その心苦しさを感じていたなら、事実を受け入れた田浦に安堵した筈だ。僕なら絵の一枚を譲ってやることも考えただろう。けれど彼はそうしなかった。売ることを頑なに拒んだだけ。何か大きな理由がなくてはその決断には至らなかっただろう。

「北川さんはそれ以前から田浦さんのことをよく話しておられたんですか?」
「そうだな。田浦君がよく店に来るようになってからは、店の話は専ら田浦君の話だった」
「具体的にはどんな話を?」
「大したことはない。こんな絵を描きたいと頑張っているらしいとか、これを勧めたら喜んでくれたとか」

 北川さんにとって田浦は、本当にいい間柄の客だったようだ。ただの客よりはもっと友人に近かったかもしれない。田浦が北川さんを慕っていただけでなく、北川さんも田浦を好意的に見ていた。画家を目指す若者にいつかの自分を重ねたりしていたのだろうか。

「まさか、田浦君を疑っているのか?」

 柴山が言う。僕が田浦とのことを聞いて訝しがっているのだろう。その質問は合っているようで、間違ってもいる。

「正直に言えば僕はまだ、皆さんを疑っています。特定して疑えるほど、僕は皆さんのことを知らない。色々な角度から調べるのは当然のことでしょう」
「……そうか。すまない」
「いえ、柴山さんの反応も当然でしょう。お気になさらず。
 しかし、知らないのは北川さんのことも同様です。彼は何か、更に隠していることがある。それが何か分かれば突破口になるかもしれません」

 特に柴山の発言には注目している。何しろ彼に一番近い人物だ。彼等は容疑者であり、同時に証人でもあるのだ。
 何か気付いたことがあれば些細なことでも教えてほしい、と告げる。柴山はそれに小さく頷いて応えた。

「……田浦君に知られてからの北川は、できるだけ距離を置こうとしていた気がする。わざと嫌われようとしているようだった。だが店もアトリエも知られているから、どうしようもなかったが」

 田浦と北川さんのことを話し始めた。彼が嫌われようとしていたなら、絵を売らない理由もそこにあったのだろうか。しかしそれにしては、田浦への言葉が優しすぎる。本当に嫌われたいなら、お前には売りたくない、くらい言えばいい。それが言えないほど、彼も寂しい人だったのだろうか。

「柴山さんは、田浦さんとはここで?」
「あぁ。私がここに来ている時に訪ねてきたことがある。
 大学時代からの旧友だと知ると興味を示していたな。どんな学生だったのか、どんな暮らしをしていたか、そういうことを聞きたがった。
 あれは凉原奏をというより、北川自身を尊敬している風だった」

 柴山はそう言って可笑しそうに微笑む。
 画家である凉原奏を憧れとし、画材屋店主の北川廉太郎を慕っていた田浦。その二人が同一人物であると知り、その思いはひとつとなって強まっただろう。
 田浦は彼のことを常に北川さんと呼んでいた。その期間の方が長かったというのもあるだろうが、柴山の言うように北川さんを敬う気持ちの方が強かったのかもしれない。
 尊敬の意を越えて、憎しみに変わった感情のままに罪を犯す場合もあるだろう。だがやはり田浦がそうするとは思えなかった。

「田浦君が北川を……それはありえないだろう」

 それ以上は知らない柴山も同じように考えているらしかった。一先ず保留にしておこう。
 次は久留米について聞くことにする。

「田浦さんが知るよりも一年ほど前に、久留米さんはここを見つけていますよね。柴山さんが久留米さんと初めてお会いしたのはいつ頃のことですか?」
「大して日数は経っていなかっただろう。その日は北川から呼ばれて、なつ子さんを紹介された」
「紹介?」

 思いがけず正体を明かすことになった相手を友人に紹介するとは、幾らか軽率な気がした。まるで見合いの斡旋のようだと思わず顔を顰めていると、柴山が言う。

「私がなつ子さんの絵が好きなのを知っていたから、相手がなつ子さんだと知って連絡してくれたらしい」
「元々、久留米さんのことはご存知だったんですね?」
「小規模の展覧会で彼女の絵を初めて見た時、人目を憚らず泣いた覚えがある。有名とは言い難いが、その才能は本物だと私は思う」

 一見堅物なこの男を泣かせた絵とは一体どんなものなのだろう。一気に興味が湧いてくる。先程柴山が久留米の絵を褒めたのも単なるお世辞ではなかったということが分かった。
 北川さんは久留米なつ子と知り合い、どうしても柴山を引き合わせてあげたかった。彼が久留米を遠ざけなかったのも、もしかしたら柴山のことがあったからなのかもしれない。

「それ以降、久留米さんと個人的にお会いになることはありましたか?」
「いや、彼女と会うのはいつもここだった。会うというよりは彼女がここに来て、私が北川から呼ばれる。最初の時から二年経っても変わらずそうだった」

 皮肉るように上げた口角におや、と思う。

「失礼ですが、久留米さんのことが好きなんですか?」

 直球で聞くと柴山は一瞬言葉の意味が分からないようにきょとんとして、今度は声を上げて笑う。
 突然の変貌ぶりに思わず肩が跳ねるほど驚いてしまった。

「そういう風に取られたか。なつ子さんに特別な感情は持っていない。純粋に素晴らしい画家だとは思っているが、それだけだ。」
「そうでしたか。勘違いしたようです」
「ここで三人で会うことが不満そうに見えたか?」

 聞かれて頷くと、確かに不満には思っていた、と柴山は言った。久留米が好きだった訳ではなかったが、やはり好きな画家と二人で話したいという気持ちはあったのかもしれない。
 しかし続く言葉で、その考えは否定された。

「三人で居ると、彼女は北川のことを頻りに気にしてろくに話が続かなかったから、それが不満だった」
「北川さんを?」
「恐らく彼女は北川に好意を持っていたんだろう」

 久留米は北川さんが好きだった。メモ帳のページを捲り、久留米なつ子のページにペンを走らせる。

「……もしかしたらそれが分かったから、いつも私を呼んだのかもしれない。北川の方はその気はなかったから」

 最も無害そうな人物ではあったが、愛ゆえの犯行というのもよく聞く話だ。久留米のように大人しく、年齢を重ねても純朴そうな女性だからこそあり得る動機かもしれない。
 もしそうだとすると、あの非力そうな女性に絞殺という殺害方法が現実的か、という問題が出てくる。その時の犯人は北川さん本人が殺される気であったことを知らない。当然抵抗されることを考慮する筈だ。
 アトリエには先の尖ったペインティングナイフもあった。血が飛ぶことを危惧したという線もあるが、それにしても絞殺を選ぶ理由にしては弱いと思う。

「私の話をしないのはフェアじゃないな」

 柴山の声で思考を止める。真剣な顔がこちらを向いていた。柴山の話?

「私に北川を殺す動機があるとすれば、嫉妬だろう」
「……嫉妬?」

 既に久留米への気持ちがないことは確認しているから、そういう事ではないのだろう。柴山の言葉を待つ。

「人を羨む気持ちは、時として妬みに変わる。
 才能があり、人を惹き付けるパワーがあり、他人のために行動できる自己犠牲的な愛が、彼にはあった。自分にないものを山ほど持っていた。
 隣に居ると、そんな彼を誇りに思う一方で、全てを持った彼が妬ましくもあった」

 誰より近くに居たからこそ、その思いは強まったのかもしれない。確かにそういう感情は起こりやすいものだ、誰しもそうだろう。
 昨日彼と話をして、あの短時間で彼の人となりが分かった。そこに悪が存在しないことも、自身の正しさを立証する力があることも。――揺れる自分が悲しかった。貴方は間違っているんだ、と諭すことができない自分が情けなかった。
 そんな彼と二十年も時間を過ごすことを想像できなかった。二十年という長さは彼を知りすぎて――彼に欠点がないことを知りすぎて、隣に居ることさえ苦しくなりそうだと考える。

 そういった思いを柴山は感じていた。確かに十分な動機になるだろう。こんなことを正直に話してもらえるとは思わなかった。

「話してくださってありがとうございます。」
「少しは役に立てたか?」
「はい、とても。もう戻っていただいて結構です」

 柴山は頷いて立ち上がる。しかし急に顔を顰めたと思うとしゃがみ込む。

「大丈夫ですか?!」
「……あぁ、問題ない」

 そう言ってサングラスを取り出して掛けるが、なかなか立ち上がれそうにない。手を貸して何とか立たせたが、一人で歩かせるのは不安だった。それで柴山に付き添って一緒にアトリエへと向かうことにした。
 雲の切れ間から太陽が顔を出し、外の温度は一気に上昇していた。

 

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