ユルスク星辰調査室

井上数樹

 夕食の片づけを終えたミルッカは洗顔等を済ませてから寝室に向かったが、横になっても胸がざわついて仕方が無かった。何度寝返りを打っても落ち着かず、疲れているはずなのに眠気が来ない。
 理由は自分でもわかっていた。ホフマンの提案が頭の中でぐるぐると回転して、そのことにどうしても思いを致してしまうのだ。その答えはベッドの中では決して出て来ないだろう。
 ミルッカは観念してベッドから這い出ると、防寒着を着込み装備を整え、それから遺骨や遺品で満杯になったバケツとランタンを持って家の外に出た。

 辺り一面を静寂が支配している。それだけに彼女の発する吐息や雪を踏みしめる足音、バケツの中身がぶつかる音だけがやけに大きく聞こえた。風が吹いていないため体温の低下も起こりにくく、驚くほど散歩に適した夜だった。星明りがあまりに強くて、ランタンの光がかき消されてしまうほどだ。昼間は凶悪なほどの紫外線を放つ雪でさえ、今は仄かな明かりを宿している。
 バケツは決して軽くない。骨よりもむしろ、それぞれの兵士が持っていた遺品の方がずっと重かった。そしてさらに、ミルッカ自身の心が重みとなっているのかもしれない。
 雪で出来た丘を乗り越えると、海に面した平原に出た。海岸に沿うような形で、地平線まで続いている。そこには石や岩で出来た小さなモニュメントがいくつも立ち並んでいた。

 三年にわたる戦争が終わった年にミルッカはユルスク雪原へと戻って来た。着いたのは奇しくも夏の終わりの時期で、終夏祭がこれから、という時だった。ミルッカはその年で十九歳になるので、花冠とはもう無縁だった。
 ユルスクは酷い有様だった。戦時中のユルスクは両国の主戦場となり、二万を越える戦死者が出たと言われている。その過半は凍死と言われており、吹雪によって遺体の回収が妨げられることから、無数の戦死者がそのまま雪原に放置された。気温が低く腐敗の進み具合が遅いことも、両軍の首脳に遺体回収を軽視させる結果となった。
 一年間、ミルッカはたった一人で遺体を掘り出しては埋葬するということを繰り返してきた。埋め直して石を積み、名前が分かればそれを彫り込むだけの作業だったが、それでもまだ千人に届かないでいる。いくら死者の数が多いとはいえ雪原はそれ以上に広大で、しかも三度の冬を経て雪に埋もれてしまっている。戦場を特定していざ掘り返そうとしても、年を重ねて厚くなった層を削るのは骨が折れた。
 そんなことをしたところで、掘り出せる遺体の数など知れている。中には野生動物に荒らされて、骨がほとんど消えてしまっているような死体もあった。逆に、戦死した時の状態そのままに凍り付いてしまった遺体もいくつもあって、それを引きずりながら墓地まで運ぶのはぞっとする仕事だった。

 それでも、ミルッカはやめようとは思わなかった。
 一つには、自分の望みだけを優先して人を殺してしまったという負い目があったからだ。生真面目な分、その事実は一層重く彼女の心にのしかかっていた。旅から戻ったのも、いつまで経っても良心の呵責が治まらなかったからだ。
 そもそも彼女のやったことは法律上罪に問われるようなことではない。当時の彼女はレンジャーで、危機に際して武力行使を行う権利が認められている。
 だがそんなことは言い訳にはならない。いや、出来なかった。聡明な分、彼女はその時の自分の心境がどのようなものであるか完全に把握していて、そのエゴを赦せずにいたのだ。
 そしてもう一つは、ホフマンに言った通り自分の住んでいる場所が遺体だらけであることに我慢が出来なかったからだ。ミルッカにとってユルスク星辰調査室とは、キルスティンという最愛の人と過ごした聖域なのだから。

 バックパックを下ろし、吊り下げていたスコップで雪と土を掘り返して遺骨や遺品を埋めていく。遺骨のすぐ近くにあったスキットルには凍り付いたままの中身が残っていたので、持ってきたエーテルコンロで熱してから振りかけた。海岸まで降りて手頃な大きさの岩を運び、膝の辺りまで積みあがるまでそれを繰り返す。
 そうして、ようやく一つの墓が出来上がったところで、ミルッカはバックパックの上に腰を下ろした。結構な労働をしたため汗が浮かび、息が荒くなっていた。紅茶を取り出して一口啜ると、ようやく一息ついたような気分になる。と同時に、例の問題もまた湧き上がって来た。疲れて眠くなるかな、と思っていたが、どうやらそう簡単に消えてくれる悩みではないらしい。

 キリ、僕はどうしたら良いだろう?

 鏡のような海を眺めながらミルッカは心の中で呟いた。

 僕にそんな権利があるのかな。いや、権利って言うのも変な話かな? そういう役目を負ったところで、それを果たすのが僕みたいな人間で良いのかな。
 今になっても僕は自分自身の立ち位置を決められないでいる。こういうことをやっているのだって、独楽こまみたいに勢いを殺さずにいたいからだ。動いている間は、何も考えなくて済むからね。もちろんそれだけじゃないんだけどさ。
 ねえキリ、君が生きていたら何て言ってくれたかな? どんな言葉を僕にくれただろう? 死んじゃうなんて酷いよ、あれだけ風邪には気を付けろって言ってきたのに。

 ミルッカは雪の上に仰向けに倒れ込んだ。
満天の星空が視界一杯に広がっている。いつだったかキルスティンが語っていたことを思い出した。
 星はどれも想像も出来ないほど遠い場所にあって、人間の網膜に届くまでに、途方もない時間と距離を越えて来るのだと。だから何気なく見ている星の光も、もしかすると何千、あるいは何万何億という時を経たものかもしれない。そして、それを捉える網膜、ひいては眼という感覚器は、いわば時の岸辺なのだ。

 四年経ってもミルッカの視力は相変わらず優れたままだった。望遠鏡など無くても、月の凹凸までしっかり見ることが出来る。
 それでも、見えないものは見えないまま、ここまで来てしまった。

 ねえ、キリ。キリの目には、世界はどんな風に見えていたの?

「なんて、答えてくれるわけないか」

 夜空に変化が現れたのはその時だった。
 最初ミルッカは、自分の目が変になったのかと思った。空に光るもやのようなものが現れ、それがやがて大きな垂れ幕のように地平線まで延びていく。断崖のように高く切り立っていながら、まるで羽衣のようにゆらゆらと揺れる七色の光の帯を見つめながらミルッカは、脳裏に詩の一節を呼び起こしていた。

「……いかな金銀財宝も、くらぶるべしや天地の、神秘を孕む我がまなこ。風は輝き水は澄み、一千枚の羽衣が……」

 彼女の見上げる空に現れたオーロラは、たった一枚きりだった。それでさえ息を呑むほどに荘厳な光景だった。海も雪原もその光を捉え、天空の変化に合わせて波や粉雪が色を変える。

「これが、キリの見ていた世界……」

 眼鏡を外したキルスティンの眼には、世界はいつもこのように映っていたのだろうか。今となっては分からないし、あの瞳が世界を見ることはもう二度と無い。

「キリは死んでしまった」

 この光景を捉えているのは紛れも無くミルッカ自身の眼だ。それが彼女には、とても特別なことのように思えた。
 キルスティンは、もう何も見ることが出来ない。だが自分は生きている限り世界を見つめ続けていくだろう。
 ミルッカは『精霊の眼』など持たない。あるのは、ただの人間の眼。それでも視霊士と同じような物を見ることも出来るのだ。そして世界には、まだ自分もキルスティンも見たことの無いものが無数にあるに違いない。

「生きろって、君は言ったね」

 キルスティンは自分が死んでいくことを受け入れていた。それは、逆に言えば諦めていたということだ。自分が存在する世界のことも、存在している自分自身のことも、それ以上知ることをやめて最後の時を待っていた。だから、自分の役割を決めて、それに従って命を消費するということも出来たのだ。
 ミルッカは、何も知らない。ろくに世界を見たことも無く、自分自身についても未だ措定し切れずにいる。四年前はもっと酷かった。他者への依存心や孤独を厭う気持ちだけがあまりに強すぎて、それ以外の部分を見ることが出来ないでいた。自分はそんな少女だったのだ。キルスティンからしてみれば実に歯がゆかったことだろう。

 ミルッカが感じていた不安や孤独は、キルスティンにとっての可能性と同義だったのだ。

 決められないということ、何者でもないということ、孤独であること。それらは全て裏返る可能性がある。
 いつか何かを決められるかもしれない、自分が何者であるか知るかもしれない、誰かを愛するかもしれない。そうした可能性を捨ててしまうな、諦めるなと、キルスティンは言い続けてきたのだ。それが、命を全うしろという言葉の真意だと、ミルッカはようやく気付くことが出来た。
 寝転がっている場合ではない。粉雪を巻き上げてミルッカは立ち上がった。

 もうこれ以上、言葉なんていらなかったんだ。

 答えに至るための言葉を、キルスティンはとうに与えてくれていたのだ。その意味を自分が計り切れずにいただけだった。

 行くことにするよ。どれくらい役に立つか分からないけど、僕の力が必要とされているからね。
 その旅が終わったらここに戻って、遺骨を埋めて、また別のことをする。君の何倍も長く生きて、君の出来なかったことをする。君が賭けてくれた僕の命を、精一杯使って見せる。

「そして、また別の人を好きになるよ。キリのこと、忘れたりは出来ないだろうけど」

 バックパックを背負い直し、空になったバケツとランタンを取り上げた。未だにオーロラは天上で揺らめいていたが、にわかに風が強く吹き始め、風音とともに舞い上がった雪がミルッカの顔に吹き付けられた。
 それでも彼女は寒さなど物ともせず、また方向も見失わずに歩き続ける。今や迷う心配など無かった。どこに至ろうと、すべて正しいと思えるのだから。
 命が尽きるその時まで、土地にも人にも歴史にも縛られず、孤独と背中合わせの自由と戦いながら、生き抜いて見せる。

 ミルッカはキルスティンとの思い出にそう誓い、また一歩、雪原に歩を刻んだ。

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