ユルスク星辰調査室
第三節
最初の一射目を撃ってからすでに六時間近い時が過ぎていた。夜が近づきつつある。風は少しずつ弱まり、なおかつ休憩を挟んでもいるが、ミルッカもさすがに疲れを覚え始めていた。せめて吹雪が止む前に遮蔽の無い雪原地帯を抜けて海岸沿いに辿り着きたい。そこまで行けば、緊急時のためのシェルターがあり、食料や衣服を調達出来る。夜ともなれば、敵の追撃も多少は緩くなるだろう。
これまでに仕留めたのは軍用犬八頭、猟兵が八人に工兵が三人だ。何度か引き返しては敵の拠点に攻撃を仕掛け、作業に取り掛かっていた工兵を狙撃しては撤退するという行動を繰り返してきた。迂遠な上に体力まで消耗するが、元より嫌がらせ以上のことは出来ない。それでもミルッカの頭のなかには、撤退の二文字は無かった。
頭が痺れている感じがする。寒さのあまり脳がおかしくなったのかと思ったが、それよりも精神的な疲弊の方が強いことに彼女は気付いていた。
爆弾を投げ込んだ時、間欠泉のように血の飛沫が飛び散って、岩陰に隠れていた彼女の頭にまで降り注いだ。防寒着で全身を覆っているとはいえ、肉や骨の欠片が身体にまとわりつく感覚を不愉快だと思わない者はいない。あの時、頭に掛かった肉片を払い落とそうとしたら、指先に柔らかい感触が伝わってきて鳥肌がたった。メギゥの脳髄にナイフを突っ込んだ時を思い出し、ああ、自分は人を殺したのだなという実感が湧き上がって来た。銃で人を撃っているだけでは、決して得られない生々しさだった。
「それが、何だって言うんだ……」
口ではそう言うが、身体は生理的に食べ物を受け付けなくなっていた。砂糖入りの紅茶だけしか喉を通らず、それすらも時間が経つにつれて冷たくなり、渋みだけが残るようになっていった。カロリーを得ていない身体は少し動かすのも億劫で、寒さも手伝ってどんどん体力を奪っていく。最悪のサイクルに陥りつつあることをミルッカは悟っていたが、それでも戦いをやめるわけにはいかなかった。
生きている間に、自分たちの家が踏み荒らされるのを見たくはなかった。キルスティンには今のうちに遠くに逃げて欲しい。緊急時に彼女の命を助けることがレンジャーたる己の使命であるなら、今こそまさにその時なのだ。自分の生の意味を真っ当しながら死んでいくことに、ミルッカは満足していた。
ずっと、意味を求めて生きてきた。文明世界の外からやってきた自分を、その内側にいる人達は歯牙にもかけようとしなかった。生物の身体を構成する細胞の一つのように、いくらでも替えの利く存在として消えていく、それこそが彼女の運命だったのだ。
だがキルスティンという、自分だけを必要としてくれる存在と巡り合えた。それは奇跡に等しいことだ。
彼女と出会わなければ、自分は今頃生きてはいられなかっただろう。呼吸をしているか否かということではない、一個人としての自我を保っていられたかという意味だ。
いつだったかキルスティンが語っていたことを思い出す。夜空に浮かぶ月は、最初からこの星の周りを廻っていたわけではなく、宇宙のいずこからか流れてきたところを引き留められたのだと。自分もそれと同じだ。キルスティンという惑星が持つ引力に引かれなければ、今頃広大な空間をあてどなく彷徨っていたかもしれない。
想像も出来ないような数字によって記述された世界で、星と星とが引き合う可能性はどの程度のものなのだろう。人間の世界はそれよりも遥かに矮小だが、まったく接点の無かった自己と他者とが重なり合うのは、それこそ奇跡と言うべきだ。
その奇跡に殉じるのも悪くない。ミルッカはそう思った。
ふと振り返ると、薄くなった雪の壁の向こうで人影が蠢くのが見えた。距離にして五○○メトラも離れていないだろう。あるいは、敵からもすでに捕捉されているかもしれない。これだけ真っ赤に染まっているのだから、視界が悪くても随分目立つだろうな、と他人事のように思った。
膝立ちになってエーテル・ガンを構える。今確認出来るだけで三人が彼女の背後を進んできていた。こちらの動きが止まったのを察知したのか、敵も散開しようとしていたが、それより先にミルッカの撃った弾が一人の脚に当たっていた。本当に今日の自分は冴えていると思う。元より腕に自信はあるが、今日はどこか神がかっている感さえある。
が、弾が無ければどうしようも無い。今の一発でエーテル・ガンの弾を使い尽くしてしまった。威力も射程もあるが、弾が大きい分持ち運びに難があるのだ。
ミルッカは躊躇なくエーテル・ガンを雪上に投げ捨て、代わりにライフルを構えて敵とは反対方向に向けて駆けだした。こんな場所で撃ち合いをするなど冗談ではない。背後から銃声が響き、風を切りながら弾が飛んでくるが、ミルッカは遮二無二走り続けた。追ってくる気配は無かった。
波音が聞こえる。潮の香りが漂ってきた。いつもは安心感を覚えるその臭いは、だが、鉄錆のような血の臭気と混じり合って彼女に吐き気を催させた。戦い続けてきた疲労も手伝って、食道を握られたような不快感を覚えたミルッカは、崩れるように四つん這いになって嘔吐した。
息を荒げながら立ち上がり、ざらざらとした唾液を雪上に吐き捨てる。脚に力が入らず、走ると言うよりよろけるような具合で、ミルッカは前に進み続けた。
小屋が見えてくる。風はもう吹いていない。敵に所在が割れていなければ、一睡くらいは出来たかもしれないが、もうそんな余裕は無いだろう。だが、一息つけるという期待があっただけに、張り詰めていたミルッカの緊張の糸も緩んでしまっていた。
扉を開けた瞬間、頭に激痛が走る。床に倒れて、ようやく銃床で殴られたのだと気づいた。
数名のグントラム兵が彼女を見下ろしている。皆最初は驚いたようだったが、すぐにそれは怒りへと転化した。思うさまミルッカの身体を蹴りつけ、髪を掴んで小屋の外へと引きずり出した。
雪の上に倒されたミルッカは咳き込んだ。くぐもった音で、新雪の上に血の斑点が出来る。身体のあちこちを蹴りつけられているのは分かるのだが、それにもまして頭への打撃が効いていた。分厚いフードをかぶっていたとはいえ、鉄で思い切り殴られたのだ。意識が朦朧とした意識の中で、脳が左右に揺れていることだけがかろうじて分かった。
兵士たちの暴行が止み、それまで様子を見ていた一人の男がゆっくりとミルッカに歩み寄ってきた。
「時間が無いから単刀直入に訊こう。君の本隊はどこに居る? 我々の拠点からどの程度の距離だ?」
流暢なルテニア語で男は言った。薄ぼんやりとした頭でも、相手がこの場の頂点に立っていることは理解出来る。ミルッカは薄笑いを浮かべながら「軍隊なんていない」と答えた。張り手が飛ぶ。唇が切れ、新しい血が流れた。二回、三回、四回と繰り返し、五回目でミルッカは雪の上に倒された。グントラム兵がミルッカの両脇を抱え、無理やり立ち上がらせる。士官は改めて同じ質問をした。
「嘘じゃない。僕が一人でやったことだ」
「そんなわけがあるか! さっさと答えろ、短い時間で痛めつける方法はいくらでもあるぞ」
男の手がミルッカの左手の小指をつかんだ。さすがに悪寒が背筋を這い上がってきたが、そう思った時には、男は反対方向に彼女の指を曲げていた。小枝を踏んだような音とともに痛みを覚え、耐え切れずミルッカは呻き声を漏らす。目じりに涙が浮かんだ。
「あと九回同じことが出来るぞ。痛みを長引かせたくはないだろう? 見たところ……純系のルテニア人ではないな。非差別民か。扱いも悪かろう……意地を張ってまで忠誠を誓って、得をすることがあるのか?」
士官は懐から瓶を取り出し、ミルッカの鼻を摘まんで無理矢理口から流し込んだ。純度の高い火酒で、喉を焼かれたミルッカは咳き込んだ。アルコールで頭が弛緩し、指や頭の痛みが少しだけ弱められた。
ミルッカは弱々しく笑った。
「忠誠とか差別とか……的外れなことばっかりしたり顔で言って、聞いてるこっちが恥ずかしくなるよ」
殴られる。口の中がズタズタになった。兵士たちが彼女を雪の上に投げ出し、士官が煙草の火を消すようにミルッカの左手を踏みにじった。だが、最早ミルッカは痛みなど感じない。
この踵だ。これが常に人を踏みにじってきた。弱者を押し潰し、虫より惨めなものにしてきたのだ。ルテニア人だろうがグントラム人だろうが関係無い。これから逃れて生きられる場所を見出し、そこをまた奪われようというときに、戦わない者などいるものか。
人間が人間を踏みつけるという、たった一つの動作に対して、ミルッカは心の底から怒っていた。それは民族や雪原、文化や技術、さらには調査室やキルスティンの存在さえも通り越した場所にある、ミルッカ・ハララという一個人のアイデンティティであった孤独感が、コインのように裏返って噴き出したものだった。
ミルッカは何もかもを吹き飛ばすつもりで左腕を持ち上げた。実際には、せいぜい士官を少しよろめかせた程度だった。
「……僕が、言えることは一つだけだ」
口の中に溜まった血を吐き出し、狼のような唸り声でミルッカは言った。
「お前ら皆……みんな、僕の雪原から出ていけッ!」
士官はもう何も言わなかった。ピストルを抜いてミルッカの額に押し付ける。彼女は臆せず睨み返した。
銃声が響く。
だが、倒れたのはミルッカではなかった。士官が憤怒に燃えた表情のまま仰向けに倒れ、次いで、発砲音がいくつも響き、グントラム兵たちが次々と薙ぎ倒されていく。小屋の周りを取り囲んでいたルテニア兵たちが次々と飛び出し、身動きの取れなくなったグントラム兵を拘束ないし殺傷していく。
呆然としたまま、ミルッカは雪の上で膝立ちになっていた。唐突に事態が変わったことについていけず、また、無理矢理飲まされた火酒のために頭が混濁としていた。身体のあちこちから響いてくる傷みでさえも、どこか他人事のように感じる。
「ミル!」
キルスティンの声が聞こえた。
兵士たちの垣根を押しのけるようにして、長い赤い髪を振り乱しながら駆け寄ってくる。何人かの兵士が危険だからと押しとどめようとしたが、そんな声など耳に入っていないようだった。
キルスティンはぼろぼろになったミルッカを固く強く抱きしめた。その胸のなかで、ミルッカは安楽死にも似た安堵感を覚えて、呆気なく気を失ってしまった。
これまでに仕留めたのは軍用犬八頭、猟兵が八人に工兵が三人だ。何度か引き返しては敵の拠点に攻撃を仕掛け、作業に取り掛かっていた工兵を狙撃しては撤退するという行動を繰り返してきた。迂遠な上に体力まで消耗するが、元より嫌がらせ以上のことは出来ない。それでもミルッカの頭のなかには、撤退の二文字は無かった。
頭が痺れている感じがする。寒さのあまり脳がおかしくなったのかと思ったが、それよりも精神的な疲弊の方が強いことに彼女は気付いていた。
爆弾を投げ込んだ時、間欠泉のように血の飛沫が飛び散って、岩陰に隠れていた彼女の頭にまで降り注いだ。防寒着で全身を覆っているとはいえ、肉や骨の欠片が身体にまとわりつく感覚を不愉快だと思わない者はいない。あの時、頭に掛かった肉片を払い落とそうとしたら、指先に柔らかい感触が伝わってきて鳥肌がたった。メギゥの脳髄にナイフを突っ込んだ時を思い出し、ああ、自分は人を殺したのだなという実感が湧き上がって来た。銃で人を撃っているだけでは、決して得られない生々しさだった。
「それが、何だって言うんだ……」
口ではそう言うが、身体は生理的に食べ物を受け付けなくなっていた。砂糖入りの紅茶だけしか喉を通らず、それすらも時間が経つにつれて冷たくなり、渋みだけが残るようになっていった。カロリーを得ていない身体は少し動かすのも億劫で、寒さも手伝ってどんどん体力を奪っていく。最悪のサイクルに陥りつつあることをミルッカは悟っていたが、それでも戦いをやめるわけにはいかなかった。
生きている間に、自分たちの家が踏み荒らされるのを見たくはなかった。キルスティンには今のうちに遠くに逃げて欲しい。緊急時に彼女の命を助けることがレンジャーたる己の使命であるなら、今こそまさにその時なのだ。自分の生の意味を真っ当しながら死んでいくことに、ミルッカは満足していた。
ずっと、意味を求めて生きてきた。文明世界の外からやってきた自分を、その内側にいる人達は歯牙にもかけようとしなかった。生物の身体を構成する細胞の一つのように、いくらでも替えの利く存在として消えていく、それこそが彼女の運命だったのだ。
だがキルスティンという、自分だけを必要としてくれる存在と巡り合えた。それは奇跡に等しいことだ。
彼女と出会わなければ、自分は今頃生きてはいられなかっただろう。呼吸をしているか否かということではない、一個人としての自我を保っていられたかという意味だ。
いつだったかキルスティンが語っていたことを思い出す。夜空に浮かぶ月は、最初からこの星の周りを廻っていたわけではなく、宇宙のいずこからか流れてきたところを引き留められたのだと。自分もそれと同じだ。キルスティンという惑星が持つ引力に引かれなければ、今頃広大な空間をあてどなく彷徨っていたかもしれない。
想像も出来ないような数字によって記述された世界で、星と星とが引き合う可能性はどの程度のものなのだろう。人間の世界はそれよりも遥かに矮小だが、まったく接点の無かった自己と他者とが重なり合うのは、それこそ奇跡と言うべきだ。
その奇跡に殉じるのも悪くない。ミルッカはそう思った。
ふと振り返ると、薄くなった雪の壁の向こうで人影が蠢くのが見えた。距離にして五○○メトラも離れていないだろう。あるいは、敵からもすでに捕捉されているかもしれない。これだけ真っ赤に染まっているのだから、視界が悪くても随分目立つだろうな、と他人事のように思った。
膝立ちになってエーテル・ガンを構える。今確認出来るだけで三人が彼女の背後を進んできていた。こちらの動きが止まったのを察知したのか、敵も散開しようとしていたが、それより先にミルッカの撃った弾が一人の脚に当たっていた。本当に今日の自分は冴えていると思う。元より腕に自信はあるが、今日はどこか神がかっている感さえある。
が、弾が無ければどうしようも無い。今の一発でエーテル・ガンの弾を使い尽くしてしまった。威力も射程もあるが、弾が大きい分持ち運びに難があるのだ。
ミルッカは躊躇なくエーテル・ガンを雪上に投げ捨て、代わりにライフルを構えて敵とは反対方向に向けて駆けだした。こんな場所で撃ち合いをするなど冗談ではない。背後から銃声が響き、風を切りながら弾が飛んでくるが、ミルッカは遮二無二走り続けた。追ってくる気配は無かった。
波音が聞こえる。潮の香りが漂ってきた。いつもは安心感を覚えるその臭いは、だが、鉄錆のような血の臭気と混じり合って彼女に吐き気を催させた。戦い続けてきた疲労も手伝って、食道を握られたような不快感を覚えたミルッカは、崩れるように四つん這いになって嘔吐した。
息を荒げながら立ち上がり、ざらざらとした唾液を雪上に吐き捨てる。脚に力が入らず、走ると言うよりよろけるような具合で、ミルッカは前に進み続けた。
小屋が見えてくる。風はもう吹いていない。敵に所在が割れていなければ、一睡くらいは出来たかもしれないが、もうそんな余裕は無いだろう。だが、一息つけるという期待があっただけに、張り詰めていたミルッカの緊張の糸も緩んでしまっていた。
扉を開けた瞬間、頭に激痛が走る。床に倒れて、ようやく銃床で殴られたのだと気づいた。
数名のグントラム兵が彼女を見下ろしている。皆最初は驚いたようだったが、すぐにそれは怒りへと転化した。思うさまミルッカの身体を蹴りつけ、髪を掴んで小屋の外へと引きずり出した。
雪の上に倒されたミルッカは咳き込んだ。くぐもった音で、新雪の上に血の斑点が出来る。身体のあちこちを蹴りつけられているのは分かるのだが、それにもまして頭への打撃が効いていた。分厚いフードをかぶっていたとはいえ、鉄で思い切り殴られたのだ。意識が朦朧とした意識の中で、脳が左右に揺れていることだけがかろうじて分かった。
兵士たちの暴行が止み、それまで様子を見ていた一人の男がゆっくりとミルッカに歩み寄ってきた。
「時間が無いから単刀直入に訊こう。君の本隊はどこに居る? 我々の拠点からどの程度の距離だ?」
流暢なルテニア語で男は言った。薄ぼんやりとした頭でも、相手がこの場の頂点に立っていることは理解出来る。ミルッカは薄笑いを浮かべながら「軍隊なんていない」と答えた。張り手が飛ぶ。唇が切れ、新しい血が流れた。二回、三回、四回と繰り返し、五回目でミルッカは雪の上に倒された。グントラム兵がミルッカの両脇を抱え、無理やり立ち上がらせる。士官は改めて同じ質問をした。
「嘘じゃない。僕が一人でやったことだ」
「そんなわけがあるか! さっさと答えろ、短い時間で痛めつける方法はいくらでもあるぞ」
男の手がミルッカの左手の小指をつかんだ。さすがに悪寒が背筋を這い上がってきたが、そう思った時には、男は反対方向に彼女の指を曲げていた。小枝を踏んだような音とともに痛みを覚え、耐え切れずミルッカは呻き声を漏らす。目じりに涙が浮かんだ。
「あと九回同じことが出来るぞ。痛みを長引かせたくはないだろう? 見たところ……純系のルテニア人ではないな。非差別民か。扱いも悪かろう……意地を張ってまで忠誠を誓って、得をすることがあるのか?」
士官は懐から瓶を取り出し、ミルッカの鼻を摘まんで無理矢理口から流し込んだ。純度の高い火酒で、喉を焼かれたミルッカは咳き込んだ。アルコールで頭が弛緩し、指や頭の痛みが少しだけ弱められた。
ミルッカは弱々しく笑った。
「忠誠とか差別とか……的外れなことばっかりしたり顔で言って、聞いてるこっちが恥ずかしくなるよ」
殴られる。口の中がズタズタになった。兵士たちが彼女を雪の上に投げ出し、士官が煙草の火を消すようにミルッカの左手を踏みにじった。だが、最早ミルッカは痛みなど感じない。
この踵だ。これが常に人を踏みにじってきた。弱者を押し潰し、虫より惨めなものにしてきたのだ。ルテニア人だろうがグントラム人だろうが関係無い。これから逃れて生きられる場所を見出し、そこをまた奪われようというときに、戦わない者などいるものか。
人間が人間を踏みつけるという、たった一つの動作に対して、ミルッカは心の底から怒っていた。それは民族や雪原、文化や技術、さらには調査室やキルスティンの存在さえも通り越した場所にある、ミルッカ・ハララという一個人のアイデンティティであった孤独感が、コインのように裏返って噴き出したものだった。
ミルッカは何もかもを吹き飛ばすつもりで左腕を持ち上げた。実際には、せいぜい士官を少しよろめかせた程度だった。
「……僕が、言えることは一つだけだ」
口の中に溜まった血を吐き出し、狼のような唸り声でミルッカは言った。
「お前ら皆……みんな、僕の雪原から出ていけッ!」
士官はもう何も言わなかった。ピストルを抜いてミルッカの額に押し付ける。彼女は臆せず睨み返した。
銃声が響く。
だが、倒れたのはミルッカではなかった。士官が憤怒に燃えた表情のまま仰向けに倒れ、次いで、発砲音がいくつも響き、グントラム兵たちが次々と薙ぎ倒されていく。小屋の周りを取り囲んでいたルテニア兵たちが次々と飛び出し、身動きの取れなくなったグントラム兵を拘束ないし殺傷していく。
呆然としたまま、ミルッカは雪の上で膝立ちになっていた。唐突に事態が変わったことについていけず、また、無理矢理飲まされた火酒のために頭が混濁としていた。身体のあちこちから響いてくる傷みでさえも、どこか他人事のように感じる。
「ミル!」
キルスティンの声が聞こえた。
兵士たちの垣根を押しのけるようにして、長い赤い髪を振り乱しながら駆け寄ってくる。何人かの兵士が危険だからと押しとどめようとしたが、そんな声など耳に入っていないようだった。
キルスティンはぼろぼろになったミルッカを固く強く抱きしめた。その胸のなかで、ミルッカは安楽死にも似た安堵感を覚えて、呆気なく気を失ってしまった。
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