ユルスク星辰調査室

井上数樹

第三節

「ただいま、キリ」
「おかえり、ミル」

 夕日が雪原を赤く染め上げる頃、ミルッカは調査室へと帰還した。出迎えたキルスティンは私服の上にエプロンを着けており、かすかにキノコや白ワインの香りを漂わせている。ミルッカはそれまで忘れていた空腹感が湧き上がってくるのを感じた。
 ミルッカは「いっぱい釣れたよ」と言って、長老の鞍に縛り付けていた魚をキルスティンに渡した。あの後釣れたのは、鱈三尾に鮭二尾だったが、両方を一尾ずつリネットに譲った。全体に、少々痩せている感じはするものの、当分のタンパク源としては十分だろう。どう扱うかはキルスティンに任せる。

「おつかれさま。これだけ釣るのは大変だったでしょう?」
「リネ君が手伝ってくれたんだ。沖まで舟で出たから、結構簡単に釣れたよ」
「そう。今度、お礼を言わないとね」
「……」

 ミルッカは家畜小屋に長老を戻してからしっかりと錠を落とした。調査室の地下に降りて服を着替え、洗面所で手をしっかりと洗う。台所に向かうと、キルスティンが夕食の準備を整えて待っていた。
 ライ麦パンは薄く切り分けられ、生地がみっちりと詰まった褐色の断面をのぞかせている。野菜類は、キャベツの漬物にマッシュしたジャガイモやニンジンを使ったポテトサラダ。そしてメインがキルスティン謹製のビーフ・ストロガノフだ。牛肉の代わりにカリボウのモモ肉を使っていること以外は実に正統的な作り方をしていて、バターで焦がした玉ねぎやマッシュルームが、白ワインのアルコールやスメタナ(サワークリームの一種)と相まって非常に豊かな香りを醸し出している。キルスティンは料理が上手いが、そのレパートリーのなかで最も美味しいのがこのビーフ・ストロガノフなのだ。

 いつもならわき目も振らずに飛びつくミルッカだが、今日は、そういう気分になれなかった。キルスティンと向かい合って座り、両手を合わせてからスプーンを手に取った。
 無論、ミルッカの様子が不可解なことに気の付かないキルスティンではなかった。一瞬、料理に問題があったのかと思ったが、ビーフ・ストロガノフの味は我ながら絶品だった。
だとすれば、何かを言いあぐねているのだ。

「何かあったの、ミル?」
「え? ……うん」

 ミルッカは少しだけ逡巡したが、キルスティンが話す切っ掛けを作ってくれたのだと分かっていた。

「リネ君がね、軍隊に行くんだって」
「軍隊……?」
「海軍に志願したって言ってた。今年の冬は厳しいだろうから、村から若い人が大勢出て行くって。網元の息子が、一人だけ残るわけにはいかないって、意地張ってさ……」

 キルスティンはおおよその事情を理解した。彼一人だけが行くと言い出したら、イェリクは絶対に許さなかっただろう。

「キリ……リネ君、大丈夫かな。戦争なんて起きないよね?」
「……私には分からないわ」

 キルスティンはそう言うしか無かった。ミルッカの口から戦争という言葉が出た途端、先日マリエスタードであったことを思い出したからだ。
 グントラムが攻めてきたら、あるいはルテニアから先に仕掛けたら。その時、自分たちはどうなるのだろう。
 人間の存在など、大きな潮流の中ではただ流されていくしかない。その潮流を読むこと自体は困難ながらも可能だが、個別の運命となると、到底読みきれるものではない。

 いつより口数の少ない夕食だった。二人で洗い物を片付けると、ミルッカはシャワーを浴びに行き、キルスティンは残しておいた肉とミルクの入った皿を持って船に向かった。キャビンのドアを開け、小さく「ご飯よー……」と呼びかけ毛布を退ける。
 居なかった。

「……あれ?」

 直後、階下からミルッカの狼狽し切った叫び声が聞こえてきた。慌てて階段を駆け下りて寝室に向かうと、ユキギツネの首根っこを摘まんだミルッカが、黄色い液体で染められたベッドを前にぷるぷると震えていた。
 ミルッカがゼンマイ仕掛けの人形のように、ゆっくりとキルスティンの方を向く。半泣きだが、顔が真っ赤になっているのは湯上りのせいだけではあるいまい。

「キールースーティーンー……」
「あ、あわわ……」

 体温計に詰められた水銀のように、ミルッカの怒りのボルテージが急上昇していく。当事者のキツネは「くあっ」と眠たげにあくびをした。

◇◇◇

 ミルッカの説教は一時間ほど続いた。どんな病気を持っているか分からないのに野生動物を入れるなど言語道断、餌を与えればまたやってくる。第一、保護したとしてこの後どうするつもりだったのか等々、ミルッカはレンジャーとしての正論をぶつけまくった。委縮したキルスティンは背中を丸め、肩を寄せて言われるがままになっている。

「まったく、君のお人よしぶりは天井知らずだねっ!」
「ごめんなさい……」
「野生の生き物まで気にしだしたら、きりが無いじゃないか」

 ミルッカの足元では、子ギツネが皿に入れられたミルクを一心不乱に舐めている。当たり前といえば当たり前なのだが、助けてくれたキルスティンが怒られているというのに少しも気にしないどころか、自分の餌のことしか考えていないのはいかにも野生動物といったところだ。

「ほら、見てみなよ。家猫とかならともかく、野生のキツネに情なんて無いんだから」
「そんな、見返りを求めてやったわけじゃないわ」
「じゃあ同情?」
「う……」
「同情なんてしない方が良いんだ。彼らの生き死には自然が決めることで、人間がそれを捻じ曲げようとしちゃいけない。それに、本来居るべきところから引き剥がされることだって、不幸なことだよ」

 ミルッカはそう言った時、ふとリネットの顔を思い出していた。一緒に釣りをした時に見た、丸まった背中。そして自分自身のことも。それらを足元の子ギツネに重ねると、自分の言ったことがそのまま自分に跳ね返ってくるような気がした。
 ミルクのかさはほとんど無くなっている。それでも子ギツネは皿の縁をしつこく舐めていたが、ミルッカはその首筋を摘まんで木箱の中に入れ、上から蓋をした。

「着替えて。逃がしに行こう」
「……うん」

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