ユルスク星辰調査室
第三節
「さあ出かけるわよ、ミル!」
「わっ」
支局から戻って来たキルスティンは、ベッドの上に寝転がって足を揺らしていたミルッカに詰め寄って来た。面食らったミルッカは後ずさろうとして、そのままベッドから転がり落ちた。
「ど、どうしたのさキリ。なんだかイライラしてる?」
「別に」
妙につっけんどんな態度をとるキルスティンに戸惑いながらもミルッカは立ち上がった。どうやらこれは、一日中引きずり回されるパターンだと覚悟した。
キルスティンは白いブラウスに青いロングスカートという、素朴だが清潔な服装に着替えた。いつも通り赤い髪を緩く編み込み、胸の前に垂らしている。だが、眼鏡は掛けていない。琥珀色の『精霊の眼』を露わにしている。
わざわざ疲労をため込むような真似をしてまで眼鏡をかけないのは、彼女が相当苛ついている証拠だということをミルッカは知っていた。こういう時は、彼女の頑固さは最高潮に達している。
「疲れない?」
「疲れたって構わないわ!」
「そう……まあ、ほどほどにね?」
今のキルスティンに何を言っても、眼鏡をかけてはくれないと分かっていた。彼女に付き合って、満足させてやるのが一番の早道だ。
「じゃあ、出かけよっか」
「ええ!」
◇◇◇
人間は苛々した時、何らかのアクションをとることによってストレスを発散する。その方法にも様々な種類が存在することをミルッカは理解していた。自分の場合はアザラシ狩りか雪だるまの制作、あるいは石磨きがそれだろうなと思っている。
キルスティンは違う。そもそも滅多に苛立ったりしない性格なのだが、溜め込んでしまうのか爆発するときは一気に暴走する性質なのだ。
そして、その暴走の方法がよりにもよってストレス買いなのである。
「自分のためには買おうとしないんだよねえ……」
「良い? 開けるわよ」
「はーいー」
シャッと音を立てて試着室のカーテンが開く。赤と緑のチェック模様が入ったスカートと白いブラウス、黒いチョッキを着せられたミルッカはくるりと振り返った。
「似合ってるでしょ」
「……ちょっと物足りないわね」
「似」
「カチューシャも追加ね!」
「あうっ」
白いカチューシャを嵌めたことで一つの組み合わせが完成した。キルスティンは、渾身の作品が完成した画家のように満足げに頷いた。
「一式全部買います」
「こ、こちらもですかお客様!?」
「二言はありません、包んでください」
有無を言わさぬ物言いに、いかにも客慣れしていますと言った風な女性店員もたじたじである。一式、二式そろえたところまでは、先方もホクホク顔だったのだが、四式目を通り越して五式目に至り、本当に払ってもらえるのかという疑念の方が強くなってきたようである。そんな店員たちの前に、連邦中央銀行の名前が入った小切手が突き出された。そうなると効果てきめん。軍旗の前に立たされた下士官のように、相手は絶対服従する。
「次っ、これ着て!」
「はいはい」
お金って凄いなあ、というのがミルッカの感想だった。
彼女の祖先にあたる海の民たちは、確かに交易によって栄えた民族だったが、貨幣とは無縁だった。それぞれの部族が生き残るために、必要なものを物々交換で補っていたら、それがいつの間にか巨大な交易網となっていたのである。だから、魚一匹が火酒一杯と交換になることにリアリティは感じても、山積みになった衣服が紙ぺら一枚と交換されることには、どこか嘘くささのようなものを感じるのだ。
とはいえ、ミルッカは貨幣に対して嫌悪感を覚えたりしなかったし、仮に覚えても暴走したキルスティンを止める手立ては無いので無駄だな、と悟りきっていた。
キルスティンは、実際のところかなりの額を稼いでいる。高給取りと言っても過言ではないだろう。現在、ルテニアに住む労働者の平均月給は千クロネ(約十万円)程度と言われているが、キルスティンら調査室勤務の公務員は月に三千クロネも稼いでいる。年二回のボーナスも含めれば年収は五万クロネ弱といったところだ。もちろん手取りの額はいささか低くなるのだが、彼女の現住所はユルスクの雪原ということになっており、住民税が笑えるほど低い。インフラも通っていないためエーテル代等を気にする必要も無く、天引きされている分は実質的に保険料が占めていると言っても良いだろう。
もっとも、この給金は雪原で死ぬほどの寒さに震えながら、夜遅くまで働くことに対する対価なので、過剰と言われることは無い。しかも、経済活動の場から遠く離れているため、必然的に金を使う機会が減ってしまうのだ。ルテニアの銀行員たちは、星辰調査官が口座を開きにやってくると嬉々雀躍すると言われている。
問題は昇格して中央に戻ってからで、幹部候補はリスクの割りに高い給与を受け取ることになる。しかも、その金額は自動的に上昇していくのだ。無論、社会的に責任のある仕事を負っているのである程度の額が支払われるのは当然だが、それにしても過剰ではないかという議論は、昨今の新聞紙が頻繁に取り上げる題材である。
閑話休題。ともかくも、キルスティンは稼いでいる上に使う機会が無いため、一度本気を出せるような状況になると一気にタガが外れるのだ。更に昨今の物価安も手伝って、キルスティンの暴走はいよいよ激烈になってくる。
ブティックを出ると、キルスティンが次に向かったのはレコード店だった。暴走した時の定番その二である。
論文や報告書を書く際に、プレイヤーでピアノやチェンバロの曲をかけるという趣味があるのだが、あくまで精神統一のためのバックミュージックとして使うだけで耽溺したりはしない。にも関わらず五枚も六枚も買うのは、単に収納し易いからだ。こうなった時の彼女は、コレクションすることによって得られる永続性よりむしろ、購入という刹那的な行為を体験するためにやっているのだとミルッカは気づいていた。
それは、あるところ自己破壊的な行為かもしれない。先日のことと言い、キルスティンは先のことを予測しつつも、あえてそれを無視しようとする傾向がある。体調を崩すと分かっていながら『精霊の眼』を使い続けたことも、今こうして財布の軽量化に勤しんでいることも、本質的には同じなのだ。
「ああ、なるほど……」
それがキルスティンの危うさの正体なんだ、とミルッカは思い至った。
となると、この暴走を止めることも、キルスティンを守ることにつながるはずだ。彼女が望むか望まないかは別として。
「キリ、キリ」
ミルッカはキルスティンのブラウスの裾を引っ張った。
「何?」
「喉が渇いた」
その一言で次の行先が決まった。マリエスタードの中央広場に移動し、そこで何か飲み物を買おうということになった。
ミルッカの思った通り、キルスティンはどんな状況でも他人を優先する。何かの欲求を感じ取れば、それを満たしてあげようとするのだ。
だからといって、ジュースバーで何杯もジュースを買われるとさすがに困るのだが。
「僕は一杯だけで良いよ。そんなに飲めないからさ」
三種類のミックスジュースを同時に買おうとしたキルスティンを諌めて、渋々といった様子の彼女を噴水の縁まで引っ張って行った。
陶製のコップを傾けると、オレンジや桃の甘味と酸味が二人の喉を潤していった。果肉の食感やとろりとした舌触りが心地良かった。
あたりはまだまだ明るいが、太陽の位置はやや地平線に近づいている。動き回っている人々も、子供より買い物籠を提げた女性が目立つようになっていた。通りを吹き抜けて来た冷ややかな風が、並んで座る二人の髪を揺らした。キルスティンが小さく溜息をついて、肩から力を抜いたのをミルッカは見逃さなかった。
「落ち着いた?」
「……うん」
「嫌なことがあったんだね」
「そうね。すっっっっごく、失礼な人に絡まれたわ」
「はは、キリも怒ることってあるんだ」
「もちろんあるわよ。私は、身体はともかく、人格は普通だって思ってるから」
「……」
ミルッカは口を閉ざして俯いた。
キルスティンは、自分自身のことを普通だと称している。だが、ミルッカの視点から見れば、彼女の立っている場所は自分とは全然別のところにあるように思えた。ここ最近、忘れかけていたその事実を少しずつ思い出してきたところだつた。
ホフマンの言っていたことを思い出す。彼はもっと気楽に付き合えば良いと言っていた。だが、ミルッカにとってキルスティンは、そんなに軽々しく扱える存在ではないのだ。
自分は、いわゆる「重い」女の子なのだろうな、と自嘲気味に思った。
「実を言うとね、僕、今までそうとは思ってなかったかもしれないんだ」
ミルッカはコップの表面を指で撫でた。俯き目を閉じながら、嘘を言ってはいけない、と己に言い聞かせた。
「キリは、僕が持っていないものをたくさん持ってる。綺麗で、頭も良くって、おまけに胸だって大きいし。それだけ色々持ってると、普通は性格が悪くなるはずなのに……すごく優しい。僕とは正反対だ。ちんちくりんで、文字もろくに読めないし、胸は凪の海みたいだ。おまけに意地悪で……育ってきた社会が違うから仕方ないけど、でも、やっぱり妬ましく思ったことは、あったよ」
「ミル……」
こんなことを告白したところで、キルスティンを困惑させるだけかもしれない。それでも、彼女と暮らしていくのに、胸のうちにもやもやを抱えたままでいるのは嫌だった。だからミルッカは全てを吐き出すことにした。
「僕は、誰かから必要とされていたい。ううん、君から必要とされたいんだ。でも、君は何だって持ってる。僕の助けなんか無くても、全然やっていけるんだって……そう思うと、怖かったんだ」
雪の巨人に食われそうになった時も、顔の無い人魚たちに狂わされそうになった時も、すんでのところでキルスティンが駆け付けて状況を切り開いてくれた。本来なら、そうした危険はレンジャーである自分が対処するはずなのに。ここ一番というところで彼女に助けてもらうことが、不甲斐なくてたまらなかった。
自分には価値が無いと思われることが、怖かった。キルスティンにだけはそう思われたくは無かった。部族からも街からも必要とされなかった自分を求めてくれた、ただ一人の人。そんな彼女を、全身全霊をかけて守りたかった。
「僕の持ってる力なんて、雪原で上手いこと生活していくことくらいだ。それが今の君に必要とされるかは分からない。で、でも……それでも僕は、君と一緒に居たいんだ」
自分と彼女の間にどれほどの差があろうとも、たとえ役立たずであっても、自分はキルスティンと一緒に居たい。それがミルッカの偽らざる本音であり、願いであった。
「キルスティン、僕は、君のことが大好きだ。だから、ずっと一緒に居たい。僕が役立たずで、君にとって必要が無いって言うなら、その時は僕を首にしてくれて構わない。でも、もしそうでないなら」
ミルッカは、最後まで言い切ることが出来なかった。
キルスティンが彼女の身体に両腕を回して、しっかと抱き締めていたからだ。
「馬鹿ねえ、ミルったら」
「んなっ!?」
キルスティンがミルッカの髪に鼻先をすり寄せるのが分かった。
「私が、貴女のことを必要無いなんて、言うわけがないでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、ミルッカは、胸のなかのしこりが紅茶に溶かした砂糖のように溶けてなくなっていくのを感じた。胸のなかがじわりと温かくなって、安心感のあまり手に持っていたコップを取り落しそうになる。
「で、でも、僕には君にしてあげられるようなことが何も無いんだ。それでも良い、って……」
「貴女が一緒に居てくれたら、それだけで十分よ。ふふっ、月並みな言葉だけどね」
「キリ……」
「私みたいな都会育ちが、たった一人でユルスクの雪原で暮らしていけると思う? ただでさえ身体も弱くて、こんな厄介なモノまで持っている私が……。私の毎日は、ミルが作ってくれてるんだよ」
アザラシとか魚とかでね、とキルスティンは笑った。
「風邪をひいたときも、食べ物が無くなったときも、凍傷になりかけたときも、いつも助けてくれたのはミルだったわ。そうして支えてもらわなかったら、今頃すっかりまいっちゃって、泣きべそでもかきながらマリエスタードに逃げていたかもしれない」
それにね、と彼女は言葉を繋いだ。
「あんな一面何も無い所に、一人っきりで居るなんて寂しすぎるわ。でも、こうして気軽に抱き締められる人が一緒に居たら、あの荒涼とした世界でも耐えていけるもの」
背中に回された腕に力がこもる。ちょうどキルスティンの胸に顔を埋めるような形になっていたミルッカは、その感触に安心感のようなものを覚え、そのまま溺れそうになった。そこで、唐突にここが公共の場であることを思い出して気恥ずかしくなり、彼女の腕から逃れようともがいた。
「は、恥かしいっ」
「なあに? 照れたの?」
「照れるよっ!」
「ふふっ」
キルスティンは逃げようとするミルッカを捕まえて胸元に抱き寄せた。困惑する彼女の様子を楽しんでいることは明らかで、それが少々業腹ではあったものの、ミルッカはしばらくは子供ペンギンのように抱かれておいてあげよう、と思った。
それは、キルスティンを感じていられる安堵感を少しでも長引かせたいという欲求だったのだが、ミルッカはあえて自分を騙すことにした。
「わっ」
支局から戻って来たキルスティンは、ベッドの上に寝転がって足を揺らしていたミルッカに詰め寄って来た。面食らったミルッカは後ずさろうとして、そのままベッドから転がり落ちた。
「ど、どうしたのさキリ。なんだかイライラしてる?」
「別に」
妙につっけんどんな態度をとるキルスティンに戸惑いながらもミルッカは立ち上がった。どうやらこれは、一日中引きずり回されるパターンだと覚悟した。
キルスティンは白いブラウスに青いロングスカートという、素朴だが清潔な服装に着替えた。いつも通り赤い髪を緩く編み込み、胸の前に垂らしている。だが、眼鏡は掛けていない。琥珀色の『精霊の眼』を露わにしている。
わざわざ疲労をため込むような真似をしてまで眼鏡をかけないのは、彼女が相当苛ついている証拠だということをミルッカは知っていた。こういう時は、彼女の頑固さは最高潮に達している。
「疲れない?」
「疲れたって構わないわ!」
「そう……まあ、ほどほどにね?」
今のキルスティンに何を言っても、眼鏡をかけてはくれないと分かっていた。彼女に付き合って、満足させてやるのが一番の早道だ。
「じゃあ、出かけよっか」
「ええ!」
◇◇◇
人間は苛々した時、何らかのアクションをとることによってストレスを発散する。その方法にも様々な種類が存在することをミルッカは理解していた。自分の場合はアザラシ狩りか雪だるまの制作、あるいは石磨きがそれだろうなと思っている。
キルスティンは違う。そもそも滅多に苛立ったりしない性格なのだが、溜め込んでしまうのか爆発するときは一気に暴走する性質なのだ。
そして、その暴走の方法がよりにもよってストレス買いなのである。
「自分のためには買おうとしないんだよねえ……」
「良い? 開けるわよ」
「はーいー」
シャッと音を立てて試着室のカーテンが開く。赤と緑のチェック模様が入ったスカートと白いブラウス、黒いチョッキを着せられたミルッカはくるりと振り返った。
「似合ってるでしょ」
「……ちょっと物足りないわね」
「似」
「カチューシャも追加ね!」
「あうっ」
白いカチューシャを嵌めたことで一つの組み合わせが完成した。キルスティンは、渾身の作品が完成した画家のように満足げに頷いた。
「一式全部買います」
「こ、こちらもですかお客様!?」
「二言はありません、包んでください」
有無を言わさぬ物言いに、いかにも客慣れしていますと言った風な女性店員もたじたじである。一式、二式そろえたところまでは、先方もホクホク顔だったのだが、四式目を通り越して五式目に至り、本当に払ってもらえるのかという疑念の方が強くなってきたようである。そんな店員たちの前に、連邦中央銀行の名前が入った小切手が突き出された。そうなると効果てきめん。軍旗の前に立たされた下士官のように、相手は絶対服従する。
「次っ、これ着て!」
「はいはい」
お金って凄いなあ、というのがミルッカの感想だった。
彼女の祖先にあたる海の民たちは、確かに交易によって栄えた民族だったが、貨幣とは無縁だった。それぞれの部族が生き残るために、必要なものを物々交換で補っていたら、それがいつの間にか巨大な交易網となっていたのである。だから、魚一匹が火酒一杯と交換になることにリアリティは感じても、山積みになった衣服が紙ぺら一枚と交換されることには、どこか嘘くささのようなものを感じるのだ。
とはいえ、ミルッカは貨幣に対して嫌悪感を覚えたりしなかったし、仮に覚えても暴走したキルスティンを止める手立ては無いので無駄だな、と悟りきっていた。
キルスティンは、実際のところかなりの額を稼いでいる。高給取りと言っても過言ではないだろう。現在、ルテニアに住む労働者の平均月給は千クロネ(約十万円)程度と言われているが、キルスティンら調査室勤務の公務員は月に三千クロネも稼いでいる。年二回のボーナスも含めれば年収は五万クロネ弱といったところだ。もちろん手取りの額はいささか低くなるのだが、彼女の現住所はユルスクの雪原ということになっており、住民税が笑えるほど低い。インフラも通っていないためエーテル代等を気にする必要も無く、天引きされている分は実質的に保険料が占めていると言っても良いだろう。
もっとも、この給金は雪原で死ぬほどの寒さに震えながら、夜遅くまで働くことに対する対価なので、過剰と言われることは無い。しかも、経済活動の場から遠く離れているため、必然的に金を使う機会が減ってしまうのだ。ルテニアの銀行員たちは、星辰調査官が口座を開きにやってくると嬉々雀躍すると言われている。
問題は昇格して中央に戻ってからで、幹部候補はリスクの割りに高い給与を受け取ることになる。しかも、その金額は自動的に上昇していくのだ。無論、社会的に責任のある仕事を負っているのである程度の額が支払われるのは当然だが、それにしても過剰ではないかという議論は、昨今の新聞紙が頻繁に取り上げる題材である。
閑話休題。ともかくも、キルスティンは稼いでいる上に使う機会が無いため、一度本気を出せるような状況になると一気にタガが外れるのだ。更に昨今の物価安も手伝って、キルスティンの暴走はいよいよ激烈になってくる。
ブティックを出ると、キルスティンが次に向かったのはレコード店だった。暴走した時の定番その二である。
論文や報告書を書く際に、プレイヤーでピアノやチェンバロの曲をかけるという趣味があるのだが、あくまで精神統一のためのバックミュージックとして使うだけで耽溺したりはしない。にも関わらず五枚も六枚も買うのは、単に収納し易いからだ。こうなった時の彼女は、コレクションすることによって得られる永続性よりむしろ、購入という刹那的な行為を体験するためにやっているのだとミルッカは気づいていた。
それは、あるところ自己破壊的な行為かもしれない。先日のことと言い、キルスティンは先のことを予測しつつも、あえてそれを無視しようとする傾向がある。体調を崩すと分かっていながら『精霊の眼』を使い続けたことも、今こうして財布の軽量化に勤しんでいることも、本質的には同じなのだ。
「ああ、なるほど……」
それがキルスティンの危うさの正体なんだ、とミルッカは思い至った。
となると、この暴走を止めることも、キルスティンを守ることにつながるはずだ。彼女が望むか望まないかは別として。
「キリ、キリ」
ミルッカはキルスティンのブラウスの裾を引っ張った。
「何?」
「喉が渇いた」
その一言で次の行先が決まった。マリエスタードの中央広場に移動し、そこで何か飲み物を買おうということになった。
ミルッカの思った通り、キルスティンはどんな状況でも他人を優先する。何かの欲求を感じ取れば、それを満たしてあげようとするのだ。
だからといって、ジュースバーで何杯もジュースを買われるとさすがに困るのだが。
「僕は一杯だけで良いよ。そんなに飲めないからさ」
三種類のミックスジュースを同時に買おうとしたキルスティンを諌めて、渋々といった様子の彼女を噴水の縁まで引っ張って行った。
陶製のコップを傾けると、オレンジや桃の甘味と酸味が二人の喉を潤していった。果肉の食感やとろりとした舌触りが心地良かった。
あたりはまだまだ明るいが、太陽の位置はやや地平線に近づいている。動き回っている人々も、子供より買い物籠を提げた女性が目立つようになっていた。通りを吹き抜けて来た冷ややかな風が、並んで座る二人の髪を揺らした。キルスティンが小さく溜息をついて、肩から力を抜いたのをミルッカは見逃さなかった。
「落ち着いた?」
「……うん」
「嫌なことがあったんだね」
「そうね。すっっっっごく、失礼な人に絡まれたわ」
「はは、キリも怒ることってあるんだ」
「もちろんあるわよ。私は、身体はともかく、人格は普通だって思ってるから」
「……」
ミルッカは口を閉ざして俯いた。
キルスティンは、自分自身のことを普通だと称している。だが、ミルッカの視点から見れば、彼女の立っている場所は自分とは全然別のところにあるように思えた。ここ最近、忘れかけていたその事実を少しずつ思い出してきたところだつた。
ホフマンの言っていたことを思い出す。彼はもっと気楽に付き合えば良いと言っていた。だが、ミルッカにとってキルスティンは、そんなに軽々しく扱える存在ではないのだ。
自分は、いわゆる「重い」女の子なのだろうな、と自嘲気味に思った。
「実を言うとね、僕、今までそうとは思ってなかったかもしれないんだ」
ミルッカはコップの表面を指で撫でた。俯き目を閉じながら、嘘を言ってはいけない、と己に言い聞かせた。
「キリは、僕が持っていないものをたくさん持ってる。綺麗で、頭も良くって、おまけに胸だって大きいし。それだけ色々持ってると、普通は性格が悪くなるはずなのに……すごく優しい。僕とは正反対だ。ちんちくりんで、文字もろくに読めないし、胸は凪の海みたいだ。おまけに意地悪で……育ってきた社会が違うから仕方ないけど、でも、やっぱり妬ましく思ったことは、あったよ」
「ミル……」
こんなことを告白したところで、キルスティンを困惑させるだけかもしれない。それでも、彼女と暮らしていくのに、胸のうちにもやもやを抱えたままでいるのは嫌だった。だからミルッカは全てを吐き出すことにした。
「僕は、誰かから必要とされていたい。ううん、君から必要とされたいんだ。でも、君は何だって持ってる。僕の助けなんか無くても、全然やっていけるんだって……そう思うと、怖かったんだ」
雪の巨人に食われそうになった時も、顔の無い人魚たちに狂わされそうになった時も、すんでのところでキルスティンが駆け付けて状況を切り開いてくれた。本来なら、そうした危険はレンジャーである自分が対処するはずなのに。ここ一番というところで彼女に助けてもらうことが、不甲斐なくてたまらなかった。
自分には価値が無いと思われることが、怖かった。キルスティンにだけはそう思われたくは無かった。部族からも街からも必要とされなかった自分を求めてくれた、ただ一人の人。そんな彼女を、全身全霊をかけて守りたかった。
「僕の持ってる力なんて、雪原で上手いこと生活していくことくらいだ。それが今の君に必要とされるかは分からない。で、でも……それでも僕は、君と一緒に居たいんだ」
自分と彼女の間にどれほどの差があろうとも、たとえ役立たずであっても、自分はキルスティンと一緒に居たい。それがミルッカの偽らざる本音であり、願いであった。
「キルスティン、僕は、君のことが大好きだ。だから、ずっと一緒に居たい。僕が役立たずで、君にとって必要が無いって言うなら、その時は僕を首にしてくれて構わない。でも、もしそうでないなら」
ミルッカは、最後まで言い切ることが出来なかった。
キルスティンが彼女の身体に両腕を回して、しっかと抱き締めていたからだ。
「馬鹿ねえ、ミルったら」
「んなっ!?」
キルスティンがミルッカの髪に鼻先をすり寄せるのが分かった。
「私が、貴女のことを必要無いなんて、言うわけがないでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、ミルッカは、胸のなかのしこりが紅茶に溶かした砂糖のように溶けてなくなっていくのを感じた。胸のなかがじわりと温かくなって、安心感のあまり手に持っていたコップを取り落しそうになる。
「で、でも、僕には君にしてあげられるようなことが何も無いんだ。それでも良い、って……」
「貴女が一緒に居てくれたら、それだけで十分よ。ふふっ、月並みな言葉だけどね」
「キリ……」
「私みたいな都会育ちが、たった一人でユルスクの雪原で暮らしていけると思う? ただでさえ身体も弱くて、こんな厄介なモノまで持っている私が……。私の毎日は、ミルが作ってくれてるんだよ」
アザラシとか魚とかでね、とキルスティンは笑った。
「風邪をひいたときも、食べ物が無くなったときも、凍傷になりかけたときも、いつも助けてくれたのはミルだったわ。そうして支えてもらわなかったら、今頃すっかりまいっちゃって、泣きべそでもかきながらマリエスタードに逃げていたかもしれない」
それにね、と彼女は言葉を繋いだ。
「あんな一面何も無い所に、一人っきりで居るなんて寂しすぎるわ。でも、こうして気軽に抱き締められる人が一緒に居たら、あの荒涼とした世界でも耐えていけるもの」
背中に回された腕に力がこもる。ちょうどキルスティンの胸に顔を埋めるような形になっていたミルッカは、その感触に安心感のようなものを覚え、そのまま溺れそうになった。そこで、唐突にここが公共の場であることを思い出して気恥ずかしくなり、彼女の腕から逃れようともがいた。
「は、恥かしいっ」
「なあに? 照れたの?」
「照れるよっ!」
「ふふっ」
キルスティンは逃げようとするミルッカを捕まえて胸元に抱き寄せた。困惑する彼女の様子を楽しんでいることは明らかで、それが少々業腹ではあったものの、ミルッカはしばらくは子供ペンギンのように抱かれておいてあげよう、と思った。
それは、キルスティンを感じていられる安堵感を少しでも長引かせたいという欲求だったのだが、ミルッカはあえて自分を騙すことにした。
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