ユルスク星辰調査室

井上数樹

第四節

 荒れ狂う風と雪の最中で、船に起こった二つの異変に気付いたのはミルッカただ一人だけだった。メインマストの上で帆を畳んでいたミルッカはゴーグルに張り付いた雪を拭った時、前方にエーテル燈の青白い光を見つけたのだ。

「船だ! 見つけた!」

 マストの反対側で帆を引き上げていたリネットが、首にかけた双眼鏡でミルッカの指さす方を見やる。そして、ほとんど飛び降りるような勢いでロープを降りて行った。
 留め具で帆を固定したミルッカは、猛烈な突風や揺れなど素知らぬ顔で、ようやく目的の船が見つかったと安堵していた。結果がどうなるにせよ、これ以上キルスティンを煩わせなくて済む。『神々のフラスコ』に入ってからは一層不憫な状態になっており、バケツを恋人のように抱き締めているのだ。

「そう言えば、キリって恋人とかいるのかな……?」

 ふと気になった。もちろん、その可能性はほとんど考えられないが。
 街に出かける時もキルスティンはあの色付き眼鏡を外さない。都会の基準で見てもかなりの美女と言って差し支えないかもしれないが、あの眼鏡の印象が強すぎて何もかもが台無しになっている感がある。本人もお洒落に興味が無いわけではなく、自分のざっくばらんさに時々苦言を呈するのは、そうした欲望の裏返しだと思っていた。
 たぶん、人並みに恋愛をしてみたいという想いはあるはずだ。でなければ、わざわざ補給物資のリストに流行りの恋愛小説を載せたりしないだろう。そうした感情を押し殺してまで、どうしてこんな仕事をしているのか、ミルッカには分からなかった。

 甲板に降りるためロープに足を掛けた時、ミルッカは雷や風切り音に何か異なった音が混ざっていることに気付いた。彼女の聴力をもってしても判然としないそれは、鼓膜の奥まで貫くように甲高く、それでいて耳朶じだを嘗めていくような不快感があった。
 だが、ミルッカもそれ以上気にかけることはなかった。ただの空耳だと片づけ、甲板に降り立つとそのままキルスティンの寝室へ向かった。
 キルスティンは真っ青な顔でベッドに横たわっていた。疲労していたところに荒波の洗礼をうけたため、船酔いまで発症してしまったのだ。

「キリ、見つかったよ」
「本当!? 良かった……」
「まだ乗り込んでないから、どうとも言えないけどね。ほら、飲んで」

 水で薄めた火酒をキルスティンに飲ませる。酒に酔わせて感覚器官を鈍らせた方が、船酔いで苦しまなくて済むのだ。本人は日中から酒を飲むことに抵抗があるようだが、薬の代わりだと言って無理やり飲ませた。

「キリはついてこなくて良いよ。僕たちだけで乗り移って、調べてくるからさ」
「うん……何かあったら呼んでね」
「そうはならないよ」

 ミルッカはゴーグルの雪を払い落として部屋を出た。
 甲板に上がる。既にスクーナーは漁船への接舷を済ませ投錨していた。すぐそばに見える漁船は、だが、不自然なほど静まりかえっている。エーテル燈こそ輝いているものの、ブリッジやマストには雪が降り積もり、マストが一本、中ほどから真っ二つにへし折られていた。ほどけたロープ、滑車が暴風によって踊らされている。
 一見すると幽霊船だが、船の後部からは確かに機関音が聞こえて来る。誰もが不気味だと思っていたものの、リネットを先頭に次々と船へと乗り込んでいった。

「……魚がそのままになってる」

 網にとらわれた魚が凍った状態で甲板の上に散らばっていた。作業を途中でやめてしまったかのような慌ただしさが散見される。
 船内へ至る扉を開くと、そこの照明もまだ生きていた。だが人の気配は無い。不自然なほど大きな機関音だけが轟々と響いていた。まるで、それ以外の音をかき消すかのように。

「親父! ハーネスさん、リボルさん、居るんだろ!?」

 リネットが声を張り上げるが、機関部から発する轟音にかき消されてしまう。仲間内での会話ですらままならない状況だった。「機関部に向かおう」とミルッカは言ったが、リネットたちは彼女の言葉より、音のする方向に向けられた指に従ったに過ぎない。ミルッカは耳当ての位置を直した。
 ひときわ分厚い防水扉の向こうからタービンの回転する音が聞こえて来る。リネットが無警戒に扉のハンドルを回した。

「ッ、伏せろ!」

 ミルッカが襟首を掴み床に引き倒す。直後、彼の頭があった場所を銃弾が駆け抜けていった。

「待て、撃つな!」

 機械の稼動する音のなかで野太い男の声が響き渡った。機関の出力が絞られると同時に、中から銃や銛を持った男たちがばたばたと駆け出してくる。

「親父!」
「リネット、なんでこんなところまで……!」
「助けに来たんだよ、調査室の人達に手伝ってもらって……トニオさんは? 姿が見えないけど」
「…………」

 リネットの言葉に、男たちは一斉に口をつぐんで俯いた。一歩下がった所から見ていたミルッカは、機関室に立てこもっていた男たちの容姿がぼろぼろに汚れきっていることに最初に気付いていた。服装だけではない。髭は伸び放題で、機関をいじり続けていたせいか顔も手も油まみれだった。
 リネットたちもすぐにその尋常ならざる様子に気付いた。彼の父親が苦笑し「ともかく中に入れ」と促す。

「それなら、キルスティンも連れてきます。スクーナーで待ってるから」
「駄目だ、行くな嬢ちゃん!」

 制止の声が掛けられ、ミルッカが足を止めた瞬間、どこからともなく女性の声が聞こえてきた。いや、聞こえてきたというのは正確ではない。まるで、耳元で直接声を吹き込まれたかのようだった。ビブラートをきかせながら低音から高音、そしてまた低音に下がる。
 その声は彼女の脳を揺らし、脳髄に沈んでいた記憶を呼び覚ました。封じられた言葉が湧き出してくる。

 女の子なんて
                          お前まで養ってあげる余裕は無いんだよ
       一人前の働きも出来ない癖に食い扶持だけは奪っていく
    せめて男の子なら、使い道もあったが
                    我々に対して貢献出来ないのなら、生きている価値など無い
                  お前は必要無いんだ

「うるさいっ!」

 気が付くとミルッカは甲板に立っていた。あれほど激しかった吹雪は嘘のように止んでいるが、空にはヘドロのように重い雲が立ち込め、夜よりなお一層暗い。一体どれほどの時間ここに立っていたのか、隣の船のマストが霞むほどの霧が湧き出し、視界を遮っていた。

「そうだ、キリ……」

 ここに出てきた理由を思い出したミルッカは、まだぼんやりとした頭のままで、船と船をつなぐ板に足を掛けようとした。
 その時、海面から何かが伸び出してきた。驚いたミルッカは柄にもなく足を滑らせ、凍った甲板にしたたかに尻を打ち付けた。だが痛みよりも、海面から現れてきた存在の方にミルッカの意識は向けられていた。
 細長い胴体に、人間の手の形状と近しい一対のひれが生えている。黒くぬめぬめとした粘液を纏っており、全体に蛇というよりウナギに近い。だが、その頭頂部が霧のなかから首をもたげた時、さすがのミルッカも思わず声を出しそうになった。
 その生物の上半身には、人間の身体があったのだ。例の鰭もその肩口から生えている。女性、あるいは雌と言うべきか、一対の乳房があった。だが、海水を吸ってやや膨らんだ上半身は、溺死体を想起させる青白さを帯びている。黒い髪が生えているが、本来眼があるはずの場所は皮膚が突っ張っており、整った口元や鼻梁の中にあって一層異様な雰囲気を醸し出している。
 ミルッカは喉元まで出かかった声を押し殺し、ゆっくりとその生物から後ずさった。腰に提げていたナイフの柄に手をかける。みっともない態勢から、片膝を床について、いつでも飛び掛ることの出来る戦闘態勢へと移行した。

「そこを退いて……道を開けろ」

 異形とはいえ人間に近い姿を持った者に対して、ミルッカは警告を発した。だが、相手は何の反応も見せず、ゆらゆらと揺れながらミルッカを見下ろしている。ミルッカはゆっくりと立ちあがり、ナイフを抜いてじりじりと接近した。
 瞬間、またもやあの耳障りな声がミルッカを襲った。この時になって初めて、ミルッカはその出所が目の前の生物であることを悟った。まるで歌うかのように口を広げ、人間には絶対に不可能な歌唱法でミルッカの脳を揺さぶる。
 意識が曇り、彼女の内側からまたもや声が湧き出してきた。思い出したくもない、忌まわしい記憶の数々。

お願いだミルッカ! 僕がそのアザラシを獲ったことにしてくれ! 君ならまた何匹でも獲れるだろ!?
                           一匹も捕らえられずに戻るとは、役立たずめ!
       お前が獲って戻らなかったせいで、じい様は冬を越せないんだ
   波流しの刑に処せられるのが、お前だったら良かったのに
                                 この役立たずめ!

「ち、違うっ。うるさい、黙れ! 黙れったら!」

 普段の冷静なミルッカならこの程度の言葉に心を乱されることなどなかっただろう。自分ではとうに克服したと思っていた過去だ。
 だが、歌声が脳に見せる像は、それが今起きていることのようにミルッカを翻弄する。自分の心が弱かったあの頃まで退化してしまったかのようだ。あるいは、まだ克服することが出来ていなかったのか。闇雲にナイフを振り回すが、歌声が止むことはなかった。それどころか声量は一層高まり、脳裏に浮かぶ記憶はますます明瞭になってくる。

                       文字が読めない娘をどう使えってんだよ、ったく……
   野蛮人でしょう? 変な病気を持ってないか心配だわ
           今になっても生肉を齧ってるような連中じゃないか、うちじゃ雇えないね
いきなり暴れ出したりしたら、他の子供たちの教育にも影響が……
                      君のことなんて誰も必要としないんだよ

 耳から直接流し込まれてくるかのような言葉の奔流を前にして、ミルッカは膝をついた。ナイフを取り落し両手で耳を塞ぐ。
 海面からさらに四体が姿を現し、ミルッカの周囲を取り囲んだ。ぬめぬめとした鰭を伸ばし、ゆっくりとミルッカの腕を耳から引きはがそうとする。

「離れろ!!」

 銛を掴んだリネットがミルッカの前に立ち、思うさま振り回した。女たちは身体をくねらせながらミルッカから離れるが、嘲笑するかのように歌声を発する。だが、リネットはミルッカのように蹲ることはなかった。不快感を感じはするものの、ミルッカや大人たちのように、掘り起こされたくない記憶というものが存在しないからだ。
 彼の父親も含め、大人たちは歌声の前に手も足も出ず、ある者は父母に赦しを乞い、ある者は見捨ててしまった友のことを思い出している。彼と同世代の青少年たちにはそんな記憶は無いが、かといって怪物の群れに立ち向かうほどの勇気も無かった。

「ミルッカさん、立ってください。ここは俺がどうにかしますから!」
「リネ君……」

 勇ましいことを言うリネットだったが、その足は震えていた。歌が通じないことを悟った女たちはその長い身体を伸ばし、彼を締め付けようと迫ってくる。
 ミルッカは彼を巻き取ろうとした一体の鰭を切り裂き、退けた。赤い体液がミルッカの顔に飛び散る。女たちが音階のことなる声を張り上げると同時に、また四体、新たに水面から顔を出してきた。まるで神殿の列柱のように二人を見下ろし、水面に引きずりこもうと身体を伸ばしてくる。

「ミルッカさん……」
「やれるだけやってみよう」

 ミルッカは顔を真っ青にしたまま、震える手でナイフを逆手に構えた。そして、先制攻撃を加えるべく足に力を込めたその時、船上に響いたキルスティンの声が全てを停止させた。

「武器を捨てて! 今すぐ機関を停止してください!」

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