ユルスク星辰調査室

井上数樹

第三節

 三十年前、エスタリア王国の生物学者ウィルフレッド・ホフマン博士が、極海領の調査に訪れた時のことだ。キョクカイアザラシの追跡に夢中になっていた博士は、船の機関部が異常を来しているにも関わらず調査を続け、結果、海のど真ん中で立ち往生する羽目になってしまった。
 陸地までは遠く、帆走ではとてもたどり着けない距離だった。運よく小島を発見した探査船は、雪と氷に覆われたそこに船を横付けさせ、修復作業に取り掛かった。その間博士は、探索と銘打って、幾人かの助手を連れ小島の奥へ踏み込んでいった。

 帰国後、それまでアザラシの権威という肩書を持っていた博士は、一転して狂人と呼ばれるようになった。理由は、彼が極海領の奥地で見てきた光景についてまとめたレポートのためだった。
 そこには進化論の常識を嘲笑うかのような生物が跳梁跋扈し、奇怪極まりない環境の元、独自の生態系を築き上げていた。樹高四メトラほどの水晶で出来たかのような広葉樹林が広がっており、氷点下を下回っているにも関わらず、海面は少しも凍り付いていなかった。何よりエーテルの濃度が異常に高く、一本のマッチですら松明になったかのように燃え盛ったという。博士はこの領域を『神々のフラスコ』と名付けた。

 無論、こんな荒唐無稽な話を信じる者は誰もおらず、博士は孤立し、失意のうちに晩年を迎えた。だが、後に名誉や金銭を目当てに極海領の奥地を目指す者が現れ始めると、博士が報告した生物たちが決して空想上の存在ではなかったことが明らかになった。
 だが、そうした情報は断片的なものばかりだった。より深く知ろうとするものは引き返せないほど奥へと進み、二度と帰ってこなかった。恐らくそこには、この星の臍に当たる箇所があるのだろうが、極点到達の栄誉を得たいと思う者は誰もいなかった。誰も帰って来れないことは明らかだったからだ。
 それほどまでに、『神々のフラスコ』は危険な領域なのである。

◇◇◇

「もちろん、最深部まで踏み込むつもりはありません。地図に記載されている……ライル島の沿岸部だけをあたります」

 キルスティンが指差したのは、『神々のフラスコ』の周囲を取り囲む極低気圧の外延にある小島だった。そこが通常海域との境目であり、先に進もうとすると、風雪や雷に見舞われることになる。故障した船がたどり着ける限界地点だ。
 そして、キルスティンの『眼』が使えるのもここまでである。そこから先はエーテル濃度が高まり過ぎて、彼女の視界にはほとんど何も映らなくなってしまう。

「ここまで行って見つからなければ、それまでですね。でも、私は皆さんがここに停泊している可能性が高い、と考えています」
「……根拠は?」
 訝しんだミルッカが尋ねる。
「ここ数日間、極海領で大きな気候の変動はありませんでした。流氷という可能性も時期的に考えられない。そうなると、移動出来なくなった理由は二通りしか残らない。一つは船内で何らかの病気が蔓延したこと、もう一つは、敵対的な相手に襲われ仕方なく航路から外れたという推論です」

 敵対的という言葉が出た瞬間、水夫たちの間からざわめきが起こった。恐怖のためというより、通常の航海をするだけでも難しいこの海域で、そんなことをする輩がいるなど信じられないという困惑のためだった。

「待ってよ、キリ! そんなの推論にもなってない。こんな場所に海賊なんてやってくるはずないじゃないか」
「……それもそうね。でも、私はあくまで、一つの可能性を提示しただけよ。前者の理由で動けなくなっているかもしれない。第一、まだ探せる場所があるのに、わざわざその可能性を捨ててしまうのはもったいないわ」
 そう言って、キルスティンは水夫たちに微笑みかけた。「私のことは、気にしなくて良いですから」と言い添えて。
「キリ!」

 船室に戻ろうとするキルスティンを呼び止める。彼女は振り返らなかったが、ミルッカは相談を始めた水夫たちに構わずその後を追った。
 船尾の、この船の中で最も広い船室――それでも調査室の食堂程度だが――に入ったキルスティンを追い、ノックもせずに扉を開いた。ベッドに腰掛けたキルスティンが、気だるげに片手で頭を押さえていた。

「だから……! 言ったじゃないか、無理するなって!」

 ほとんど押し倒すように、ミルッカはキルスティンをベッドに横たわらせた。女性にしては身長の高いキルスティンは、船室の小さなベッドではいささか窮屈そうだった。
 そのすぐそばに膝をつき、キルスティンの顔を覗き込む。彼女は何でもないとでも言うかのように微笑んだが、疲労の色は隠しきれていなかった。慣れない航海に窮屈な環境、そして『妖精の眼』の連続使用。疲れの溜まり具合は普段の比ではないだろう。それに、彼女の場合それだけではないとミルッカは見抜いていた。天体観測が本分のキルスティンが、海図をすらすらと読み込めるわけがない。恐らく、昨日船室に戻った後も、一人で勉強をしていたのだ。

「どうして、そこまでするんだよ……わけがわからないよ」
「困っている人がいたら助ける、当たり前でしょう?」
「一人で背負いこみ過ぎなんだよ! 僕に偉そうなことばっかり言って、君は出来てないじゃないか!」
「大人だもの。自分の限界くらいわきまえているわ」
「じゃあ今すぐ立ってみなよ! ……嘘っ、嘘だってば! そのままでいいから!」

 立ちあがろうとするキルスティンを慌てて制止し、ミルッカは溜息をついた。そんな彼女を見て、さすがにキルスティンも「ごめんなさい」と漏らす。

「ここから先は、私の『眼』を使わなくても良いわ。負担はずっと減るから、心配しなくても大丈夫よ」

 キルスティンの手が、ミルッカのふわふわとした金髪を撫でる。ミルッカはその手を取って、自分の頬に引き寄せた。力がこもっておらず、弱々しい。指はひび割れこそ出来ているものの、血豆や爪の欠けは少しも無かった。本来、こういうところに出て来る人種ではないのだ。

「……私が、人を助けるのはね」
「え?」
「……それが……私の意味だって、決めたから……」

 呟くような声は寝息に変わった。ミルッカはもう一度溜息をつき、肩まで毛布と布団を引き上げる。

 翌朝、船は『神々のフラスコ』に向けて舵を切った。

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