ユルスク星辰調査室
第五節
街に出向いた時、キルスティンと一緒に一度だけ映画を観に行ったことがある。暗い劇場のなかで、白黒の人物や風景が揺れ動いてる事実は、彼女にとってとても衝撃的なことだった。その時と同じように、今の彼女も連続して映し出される光景をいずこからか眺めていた。
今よりもっと小柄なミルッカが、流氷の間を小舟に乗って漂っている。穏やかな海面は鏡となって、天空の星々をその内側に抱き込んでいた。その中心に、琥珀のような満月がぽっかりと浮かんでいる。禁断の海のなかで、それだけが唯一彼女に勇気を与えてくれるものだった。実際、月明かりがなければとっくに流氷にぶつかって転覆していたことだろう。
海面が盛り上がるたびに、大慌てで小舟を転進させた。水の中から鯨と人が一つになったような巨大な生物があらわれ、かと思うと波しぶきをあげて再び潜水する。また、顔が無いかわりに翼に三対の目を持った鳥が飛来すると、櫂を水から引き上げて滅茶苦茶に振り回し、追い払った。
彼女は一人ぼっちだった。孤独と恐怖のなかで一切の闇を払ってくれる金色の月の存在は、何よりも心強いものだった。それが無ければ、自分はあの海を抜けられず死んでいただろう。
その後、彼女は操業していた漁船に助けられ街へ運ばれた。しばらく病院に入れられ、退院してからは一旦孤児院に預けられた。元より孤児であったため、この処置は間違いではなかったのだが、ミルッカにはそこが自分の居場所だと思うことが出来なかった。
いや、もうどこにも居場所などなかったのだ。部族から切り捨てられた彼女は本来あの海で死んでいるべきだった。それを生き延びてしまったのは、捉え方によっては不幸なことかもしれない。
文明世界はそれまで彼女が住んでいた場所とは全く異なった所だった。文化も風習も常識も何もかもが知らないことばかりで、自分の知識や技術が全く活かせないと気付いた瞬間、あの海を航海した時よりずっと寒々しい気持ちになった。技師は星を頼りに方角を決める技術を必要としないし、新聞社は文字の読み書きが出来ない人間を求めたりはしない。カリボウやキョクカイアザラシの皮を加工したところで、蛮族風と馬鹿にされるだけだった。
そんな風に、誰かに求められる日々を一年近く過ごしてきた。少しずつ街に慣れていく実感はあったが、やはり何かが噛み合っていない。「浜辺に乗り上げたオルクは死ぬ」ということわざをリフレインしているうちに、無性に雪原が見たくなって、だが郊外に出てみると汚水に穢された嫌な雪しか目に入らなかった。
この雪のように、自分も少しずつ違った色に染められていくのだろうか。それしか生きる道は無いのか。そう思うようになった時、彼女は天体観測庁からスカウトを受けた。ユルスクの地で、新米の調査官と一緒に暮らしてほしいという依頼だった。かつて極海領で栄えた部族の末裔ということと、また外延部とはいえ『神々のフラスコ』を一人で抜けてきた経歴を買われてのことだった。
ミルッカは二つ返事で引き受けた。「ユルスクに行け」と言われた瞬間、「雪原に戻れる」という歓喜が胸の奥から湧き上がるのを感じた。都会という場所に疲れ切っていた彼女にはそれだけで十分だったのだ。
そして初めてキルスティンと引き合わされた時、色付き眼鏡の下に隠されていた琥珀色の瞳は、あの海を航海した時に登っていた月とそっくりだった。違うのは、不安げに見ているのは相手の方だということ。そして、「頼りにしているわ」と言われた時、ミルッカは絶対にキルスティンを守るのだと心に決めた。
◇◇◇
目を開くと、見慣れた色付き眼鏡が彼女を見下ろしていた。
「キリ……ここ、調査室?」
「ええ。あの後、全速力で帰って来たのよ。ん、動かないで。足を温めてるから。凍傷になりかけてたわ」
ミルッカの両足は布団から出て、湯を張った洗面器に浸されていた。凍っていた神経が解けていくじくじくとした痛みは不愉快だったが、下手に動かしてはいけないということを思い出して、息を吐きながら力を抜いた。
キルスティンはミルッカの頭の下に手を差し込んで持ち上げ、温かい紅茶の入ったマグカップを唇に触れさせた。音を立てて啜ると、ほとんど砂糖の味しかしなかった。
「はあ……」
「我慢しなさい。身体が冷えた時は、甘くて暖かい飲み物を飲ませろってマニュアルに書いてあったんだから」
「そうじゃ、ないよ」
ミルッカは顔を背ける。
「僕がもっとちゃんとしてたら、君にこんな苦労はかけなかったのに……助けてもらう必要だって……」
自分の力で、キルスティンを守りたかった。自分を必要としてくれる人に尽くしたい、そう思っていたのに、現実の自分はむしろキルスティンに助けられている。それが不甲斐なく思えた。
「そんなこと、気にしなくたって」
「あの時、君はゴーグルをかけてた。その眼鏡が無いと、すごく疲れるって言ってたよね」
「……」
キルスティンは眼鏡を外した。琥珀のように輝く瞳がミルッカを見下ろしている。あの時に昇っていた月とやっぱり同じだ、とミルッカは思った。
この世界にはエーテルが満ち満ちている。人間はそれに包まれ、またそれを利用することによって生活しているが、目にすることは出来ない。ごく少数の『精霊の眼』を持った人々を除いて。
「あの吹雪のなかで僕を見つけられたのも、その『眼』があったからだよね?」
「ええ。あなたに渡したカイロ、なかに晶化エーテルが入っていたのよ。エーテルの質量が大きくなるほど見え易くなるから、一等星を見つけるより簡単だったわ」
「……悔しいなあ」
「なあに? 助けてほしくなかったの?」
ミルッカは頬を膨らませ、キルスティンとは反対の方向に顔をそむけた。しばらくそうしていたが、唐突にくるりと顔の向きを変えて、少しはにかみながら言葉を紡いだ。
「あり、がとう。でも、次はちゃんとやってみせるよ」
「意地っ張りねえ。どういたしまして。もう一口飲む?」
「ん……」
◇◇◇
「消灯するよ」
キルスティンは灯りを消した。暖房機の唸り声を聞きながらベッドに腰掛け、水差に入れた冷水をコップに注ぐ。こくり、と喉を鳴らした時、隣のベッドからミルッカが声をかけてきた。
ねえ、キリ。
何?
キリの目には、世界はどんな風に見えているの?
うーん、難しいね。どう言えば良いのかな……。私は上手く表現出来ないんだけど、昔の詩人がこんな詩を遺してるわ。
キルスティンは言葉を紡いだ。
この碑僕めの面貌に 神は宝を隠したり
いかな金銀財宝も くらぶるべしや 天地の
神秘を孕む 我がまなこ
風は輝き 水は澄み 一千枚の羽衣が
神の御手より たなびきたり
……よく分からないよ。
ふふ。そうね、簡単に分かっちゃいけないのよ。何てったって、神様の宝だもの、ね?
今よりもっと小柄なミルッカが、流氷の間を小舟に乗って漂っている。穏やかな海面は鏡となって、天空の星々をその内側に抱き込んでいた。その中心に、琥珀のような満月がぽっかりと浮かんでいる。禁断の海のなかで、それだけが唯一彼女に勇気を与えてくれるものだった。実際、月明かりがなければとっくに流氷にぶつかって転覆していたことだろう。
海面が盛り上がるたびに、大慌てで小舟を転進させた。水の中から鯨と人が一つになったような巨大な生物があらわれ、かと思うと波しぶきをあげて再び潜水する。また、顔が無いかわりに翼に三対の目を持った鳥が飛来すると、櫂を水から引き上げて滅茶苦茶に振り回し、追い払った。
彼女は一人ぼっちだった。孤独と恐怖のなかで一切の闇を払ってくれる金色の月の存在は、何よりも心強いものだった。それが無ければ、自分はあの海を抜けられず死んでいただろう。
その後、彼女は操業していた漁船に助けられ街へ運ばれた。しばらく病院に入れられ、退院してからは一旦孤児院に預けられた。元より孤児であったため、この処置は間違いではなかったのだが、ミルッカにはそこが自分の居場所だと思うことが出来なかった。
いや、もうどこにも居場所などなかったのだ。部族から切り捨てられた彼女は本来あの海で死んでいるべきだった。それを生き延びてしまったのは、捉え方によっては不幸なことかもしれない。
文明世界はそれまで彼女が住んでいた場所とは全く異なった所だった。文化も風習も常識も何もかもが知らないことばかりで、自分の知識や技術が全く活かせないと気付いた瞬間、あの海を航海した時よりずっと寒々しい気持ちになった。技師は星を頼りに方角を決める技術を必要としないし、新聞社は文字の読み書きが出来ない人間を求めたりはしない。カリボウやキョクカイアザラシの皮を加工したところで、蛮族風と馬鹿にされるだけだった。
そんな風に、誰かに求められる日々を一年近く過ごしてきた。少しずつ街に慣れていく実感はあったが、やはり何かが噛み合っていない。「浜辺に乗り上げたオルクは死ぬ」ということわざをリフレインしているうちに、無性に雪原が見たくなって、だが郊外に出てみると汚水に穢された嫌な雪しか目に入らなかった。
この雪のように、自分も少しずつ違った色に染められていくのだろうか。それしか生きる道は無いのか。そう思うようになった時、彼女は天体観測庁からスカウトを受けた。ユルスクの地で、新米の調査官と一緒に暮らしてほしいという依頼だった。かつて極海領で栄えた部族の末裔ということと、また外延部とはいえ『神々のフラスコ』を一人で抜けてきた経歴を買われてのことだった。
ミルッカは二つ返事で引き受けた。「ユルスクに行け」と言われた瞬間、「雪原に戻れる」という歓喜が胸の奥から湧き上がるのを感じた。都会という場所に疲れ切っていた彼女にはそれだけで十分だったのだ。
そして初めてキルスティンと引き合わされた時、色付き眼鏡の下に隠されていた琥珀色の瞳は、あの海を航海した時に登っていた月とそっくりだった。違うのは、不安げに見ているのは相手の方だということ。そして、「頼りにしているわ」と言われた時、ミルッカは絶対にキルスティンを守るのだと心に決めた。
◇◇◇
目を開くと、見慣れた色付き眼鏡が彼女を見下ろしていた。
「キリ……ここ、調査室?」
「ええ。あの後、全速力で帰って来たのよ。ん、動かないで。足を温めてるから。凍傷になりかけてたわ」
ミルッカの両足は布団から出て、湯を張った洗面器に浸されていた。凍っていた神経が解けていくじくじくとした痛みは不愉快だったが、下手に動かしてはいけないということを思い出して、息を吐きながら力を抜いた。
キルスティンはミルッカの頭の下に手を差し込んで持ち上げ、温かい紅茶の入ったマグカップを唇に触れさせた。音を立てて啜ると、ほとんど砂糖の味しかしなかった。
「はあ……」
「我慢しなさい。身体が冷えた時は、甘くて暖かい飲み物を飲ませろってマニュアルに書いてあったんだから」
「そうじゃ、ないよ」
ミルッカは顔を背ける。
「僕がもっとちゃんとしてたら、君にこんな苦労はかけなかったのに……助けてもらう必要だって……」
自分の力で、キルスティンを守りたかった。自分を必要としてくれる人に尽くしたい、そう思っていたのに、現実の自分はむしろキルスティンに助けられている。それが不甲斐なく思えた。
「そんなこと、気にしなくたって」
「あの時、君はゴーグルをかけてた。その眼鏡が無いと、すごく疲れるって言ってたよね」
「……」
キルスティンは眼鏡を外した。琥珀のように輝く瞳がミルッカを見下ろしている。あの時に昇っていた月とやっぱり同じだ、とミルッカは思った。
この世界にはエーテルが満ち満ちている。人間はそれに包まれ、またそれを利用することによって生活しているが、目にすることは出来ない。ごく少数の『精霊の眼』を持った人々を除いて。
「あの吹雪のなかで僕を見つけられたのも、その『眼』があったからだよね?」
「ええ。あなたに渡したカイロ、なかに晶化エーテルが入っていたのよ。エーテルの質量が大きくなるほど見え易くなるから、一等星を見つけるより簡単だったわ」
「……悔しいなあ」
「なあに? 助けてほしくなかったの?」
ミルッカは頬を膨らませ、キルスティンとは反対の方向に顔をそむけた。しばらくそうしていたが、唐突にくるりと顔の向きを変えて、少しはにかみながら言葉を紡いだ。
「あり、がとう。でも、次はちゃんとやってみせるよ」
「意地っ張りねえ。どういたしまして。もう一口飲む?」
「ん……」
◇◇◇
「消灯するよ」
キルスティンは灯りを消した。暖房機の唸り声を聞きながらベッドに腰掛け、水差に入れた冷水をコップに注ぐ。こくり、と喉を鳴らした時、隣のベッドからミルッカが声をかけてきた。
ねえ、キリ。
何?
キリの目には、世界はどんな風に見えているの?
うーん、難しいね。どう言えば良いのかな……。私は上手く表現出来ないんだけど、昔の詩人がこんな詩を遺してるわ。
キルスティンは言葉を紡いだ。
この碑僕めの面貌に 神は宝を隠したり
いかな金銀財宝も くらぶるべしや 天地の
神秘を孕む 我がまなこ
風は輝き 水は澄み 一千枚の羽衣が
神の御手より たなびきたり
……よく分からないよ。
ふふ。そうね、簡単に分かっちゃいけないのよ。何てったって、神様の宝だもの、ね?
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