ユルスク星辰調査室

井上数樹

第四節

 キルスティンが仮眠を終えて事務室まで出てくると、風速計のパネルが猛烈な勢いで変動していた。

「吹雪が……」

 温め直した紅茶を飲みながら寝ていた間の記録シートに目を通す。冬と春の境目の季節は最も吹雪が起きやすくなるのだが、今日はいつもよりも風速が高かった。屋外のエーテル吸入器に雪が積もったせいか、大気中のエーテル吸入効率が悪化しており、部屋がなかなか温まらない。論文よりも雪かきを済ませる必要がある。
 やれやれとぼやきながら防寒着を着込んで、長い髪をマフラー代わりに首に巻き付けた。スコップを片手に屋外へ出る。

「わっ」

 扉を開けた途端、色付き眼鏡の表面に雪が張り付いた。轟々と吹きすさぶ風がコートの裾をめくり上げる。肩を縮こまらせながら、キルスティンはゆっくりとエーテル吸入器の方に向かって歩いていく。
 ちょうど家畜小屋の前を通ろうとした時だ。ゴツゴツと、何かが木戸を叩いている音が聞こえた。スコップを持ち上げながら近寄ると、荷物を背負ったままの長老がなんとか小屋に入ろうと角を扉にぶつけていた。
 ミルッカの姿は、どこにもない。

「……!」

 彼女の行動は早かった。長老の手綱を引っ張って調査室の支柱に括り付け、地下の備品室に飛び込む。軍用毛布四枚と防寒着をナップザックに押し込み、温めていた紅茶を魔法瓶に注ぐ。ライフルとランタンを手に地上へ戻り、しっかりと玄関に鍵をかけてから長老の背中に飛び乗った。
 眼鏡を懐に仕舞い、代わりにゴーグルをかける。長老の腹を蹴りつけ、キルスティンはミルッカが消えた風雪の中に踏み込んでいった。

◇◇◇

 もし彼に感情と呼べるものがあるとすれば、今この瞬間、間違いなく彼は愉悦のなかにあった。

 昨日の夜までは最悪の気分だった。あの小さい連中に鎖で巻かれ、手足の自由がきかない状態で鉄格子のなかに押し込まれていたのだ。檻の外から投げつけられる小さい連中の鳴き声は、明らかに彼を嘲弄するものだった。

 彼の価値観は単純である。小さければ弱く、大きければ強い。弱いものは食べられるもので、強いものは食べるものである。その価値観を裏切る小さい連中はひどく癪に障る存在だった。あの細くて長いのがある限り、こちらの拳が当たる前に痛い目を見せられる。住処で連中に襲われた時も、あちこちから好き放題に痛めつけられた。
 檻のなかに入れられている間は何も出来なかった。だが、彼の乗せられた橇船が大きく揺れた時、錆びていた留め具が壊れたのだ。力尽くで格子をへし折り、近くにいた小さいやつを手あたり次第に殴り殺していった。これまでの鬱憤を全て晴らすと、腹が減ったので殺したやつを食ってみた。案外美味かったが、腸以外は小骨が多くて喰い辛かった。

 自分はもう、小さい連中よりも強くなった。先ほど、小さい連中のなかでも特に小さいのが細くて長いのを自分に向けたが、あれが当たっても死ぬことはないだろう。だが、わざわざ抵抗しようとするものを襲うより、背を向けて逃げているやつの方がやりやすい。彼とて吹雪のなかではろくに視野を確保できないが、臭いが全てを教えてくれる。案の定、血の臭いを追っていくと簡単に追いつくことが出来た。
 腸を引きずり出して食ってみたが、まだまだ満腹にはほど遠い。食いではなさそうだが、あの小さいやつも捕らえてしまうべきだろう。
 小さいやつは、濃厚な血の臭いを纏っている。風にのって流れ来るそれを、彼は確実に捉えていた。目には見えていなくても、その動きが手に取るように分かる。

 小さいやつは、しばらくは必死に走って逃げていたようだ。自分が進んだのとは正反対の方向に向かったようだが、途中で明らかに動きが鈍くなった。小さいやつは自分よりも体力が少なく、また寒さに弱い。彼の身体は分厚い脂肪と体毛に覆われているので影響を受けないが、小さいやつにとっては、吹きすさぶこの風自体が命取りになる。
 しばらく走っては止まり、走っては止まりを繰り返した小さいやつは、やがて諦めたかのようにその場にとどまった。かと思うと、千鳥足で右に揺れ、左に揺れ、前に進んだかと思えば後ろに向かう。彼は、そのような状態になった獲物を何度か見たことがある。爪で切り裂かれた獲物は、その場を逃れることが出来たとしても、血を失い過ぎたせいで完全に判断力を失ってしまう。こうなった獲物は、もう半分死んだようなものだ。
 彼は雪の中を悠然と行進する。血の臭いが強くなるたびに、瀕死の得物へ近づいているという高揚感が湧き上がった。労せず獲物を捕ることが出来るなど、自然界では願っても無い好機である。
 獲物の姿が見えるか見えないかというところで、彼は一旦立ち止まり、それから猛スピードで臭いの元へ飛びかかった。分厚い腕が獲物を押し潰し、完全に息の根を止める。
 止めた、と思った。彼の小さな脳に疑念が浮かぶ。掌に受けた感覚があまりに小さかったのだ。肉を潰した時の、水を叩くような感じもしない。

 何故、というクエスチョンが浮かんだその瞬間、彼の頭を、後方から飛んできた弾丸が撃ち抜いていた。

◇◇◇

「やった!」

 背中に積もった雪を振り落し、ミルッカは静かに快哉の声をあげた。まだ硝煙を立ち上らせているエーテル・ガンを背負い直し、倒れたメギゥに向かって歩き出す。が、足取りは重く、一歩踏み出すことさえ億劫だった。

 メギゥが狙いを変えて去った後、ミルッカは装備を拾い直してその場を離れた。だが視界さえ満足に確保出来ない吹雪のなかでは、距離を稼いだところでたかがしれている。調査室に戻ることなど夢のまた夢だろう。だから、ミルッカは一撃でメギゥを倒すことに賭けた。

 まず初めに、下半身を隠せる程度の穴を掘った。ミルッカの身長は一・五メトラ程度であり、さほど深く掘らなくても身体を隠すことが出来る。スコップは長老に括り付けたままだったので、代わりに肉厚のハンティングナイフを使った。
 そうして作った即席の塹壕に入ると、今度は血がべったりと付着した上着を脱ぎ捨てた。塹壕から二○メトラほど離れたところにナイフで縫い付け、誘い出すための餌としたのだ。
 無論、寒くないわけがなかった。脱いだ当初はあまりの寒さに歯の根があわず、全身の震えが止まらなかった。冷気は彼女の精神までも浸食し、生きようとする意思を削いでいく。もしキルスティンの渡してくれたカイロと紅茶が無ければ、メギゥが来る前に諦めていたことだろう。

 極度の緊張下に置かれていた彼女は、寒さも何もかもを忘れて、ただやってくるであろうメギゥの頭蓋を撃ち抜くことだけに意識を傾けていた。その執念が全てであっただけに、ことが終わった後の虚脱感もひとしおだった。

(身体の震えが無い……あんまり寒くないって思って、それでいいやって……駄目だ!)

 ミルッカは己の拳で頬を殴りつけた。力を込めることが出来ず、ぬるい痛みしか感じなかった。だがそうしたアクションを起こすことで、自暴自棄に転落しようとする意識をなんとか繋ぎ止めていた。この環境下で自意識を失うことは死に直結する。

「生きなきゃ……僕は勝ったんだから、だから……」

 メギゥはうつ伏せの状態で地面に倒れ伏していた。頭の一部に赤黒い染みがじんわりと広がりつつある。どう見ても死んでいる、自分が殺したのだ、そう思いながらミルッカはメギゥの側頭部を軽く蹴った。
 直後、何の前触れも無く動いた巨腕が、彼女を雪の上に弾き飛ばしていた。

「かはっ……!」

 睡眠薬を飲んだようになっていた脳が一瞬で覚醒した。地面に叩き付けられるのと同時に衝撃が肺へと走り、溜まっていた空気をたまらず吐き出してしまった。
 混乱する暇も与えられず、ミルッカは胴体を掴まれ無理矢理メギゥの眼前に持ち上げられた。憤激と苦痛に彩られた両目が赤く染まっている。焦点は定まっておらず、ミルッカは、先ほどの一撃が確かに致命傷を与えたのだと確信した。もし全力を出せるのであれば、彼女の華奢な身体など簡単に握り潰していることだろう。そんな状態であるにも関わらず、動けるのは。

(執念……)

 恐らくは、ミルッカのそれよりも一層強いものだろう。自然の中で鍛えられた生存本能という名のエゴイズムは、人間のように他者の存在を斟酌せず、また死というものを想像するだけの知性が無いだけに、人間のそれより遥かに強靭になり得るのだ。ミルッカはそうした野生動物の強さを決して侮ってはいなかったが、頭蓋を撃たれてなお立ち上がることまでは想像していなかった。

 メギゥが鼻面を突き付ける。血に染まった牙には、衣服や髪、腸と思しきものが巻き付いていた。半開きになった口腔からどろりとした白い吐息が漏れ、血や腐肉の臭いがミルッカの顔全体に吹き付けられた。ミルッカにはそれが、冥府から死霊が伸ばしている手のように感じた。

「は、はは。今から僕も、それの仲間入りかい?」

 口をついて出た強がりは、ミルッカの最後の意地だった。内心では気絶しそうなほど恐怖していたが、怖がったまま死んでいきたくはなかった。メギゥの口が開き、牙が迫る。それが突き立てられる瞬間まで、ミルッカは決して目を背けまいと決意していた。

「その子から離れなさい、このウスノロ!」

 銃声が風音を貫いた。メギゥが怒声を張り上げ、ミルッカを雪上に投げ捨てる。雪を巻き上げながら倒れたミルッカは、音のした方向に顔を向けた。
 長老の背中に跨ったキルスティンがライフルを構えていた。

「ミル、大丈夫!?」
「な、なんで来たのさ!」
「心配だからに決まってるでしょ!」

 レバーを引いて空薬莢を弾き出し、次の弾丸を込める。二射目はメギゥの肩口に当たったが、効果が無いことは明白だった。ライフルでは巨人の脂肪と骨格を撃ち抜けない。
 メギゥは標的を変えた。キルスティンは三発目の弾を装填しようとするが、メギゥの怒気を向けられた長老が身体を震わせるために上手くいかない。

「ッ!」

 ミルッカが動いた。背負ったままだったエーテル・ガンに素早く弾を込める。なかば凍り付いていて、しかも焦っているにも関わらず、ミルッカは自分でも驚くほど素早く装填を完了させた。それでも、メギゥはキルスティンに手が届くほどの距離まで近づいている。もし頭を狙った射撃が外れたらキルスティンは死んでしまう。

「なら……!」

 片膝をついた状態で狙いを定め、引き金を引く。撃針が雷管を打撃し着火、薬莢に閉じ込められていた高濃度エーテルが反応し爆発を起こす。同量の黒色火薬を上回る爆発力をもったエーテルが弾丸を加速させ押し出し、放たれたそれはあやまたず巨人の右膝を貫いた。
 キルスティンに触れるか否かというところで、メギゥはバランスを崩してうつ伏せに倒れ込む。銃を投げ捨てたミルッカは突風のように駆け出し、地面に落ちていたナイフを掬い上げると、まだ態勢を立て直せていないメギゥの背中へと飛び乗った。逆手に持ったナイフを、一射目に穿った箇所目がけて振り下ろす。
 ゴリゴリと骨を削る音がした。鳥肌が立つほど生々しい感覚が右手を痺れさせる。あまりに残酷な一撃に、彼女自身の理性が歯止めを掛けようとしている。

「そんなもの……ッ」

 左手を柄に押し当て、全身の体重をかけて刀身を押し込んだ。巨人の頭蓋を突き破り、その下の柔らかい脳髄をミルッカは抉った。噴き出した血液と脳漿が彼女の顔に飛び散った。その液体が大気に冷まされ、完全に温かさを失うまで、ミルッカはその場から動けなかった。

「ミル!」

 長老から飛び降りたキルスティンが駆け寄ってくる。その無事な姿を見た瞬間、ミルッカのなかに残っていた最後の緊張の糸が切れて、微笑を浮かべたままキルスティンの胸のなかに倒れ込んだ。

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