ユルスク星辰調査室
第三節
観測結果の記述を終えると、キルスティンは食事の準備に入った。
自分の昼食を用意する一方で、夕食の下ごしらえを済ませておく。ボルシチを作るといった手前、美味しく出来上がっていなければミルッカをがっかりさせてしまう。そう思いながらカリボウのスペアリブを鍋に放り込み、強火で出汁をとる。
鍋から立ち上って来た湯気が眼鏡を曇らせた。キルスティンは目を瞑ったまま眼鏡を外して表面を拭くが、三度目で無駄だと悟った。いたずらに穴を掘るわけにはいかないと分かってはいるのだが、やはり換気扇は欲しいところだ。空気の汚れは空気清浄機でどうにかなるが、湯気だけはどうにもならない。今度の予算で圧力鍋でも買おうかな、と思った。
灰汁を除く一方で野菜を切り分け、煮たった状態のまま弱火にする。しばらくはこのままで良い。
昼食は、残ったライ麦ビスケットとキノコの塩漬け、ジャムを添えた紅茶だけだ。肉体労働をしたわけでもないので、あまり食べすぎて太りたくはない。こんな場所に住んでいるのだから、思い切り脂肪を付けた方が良いのかもしれないが、そこはキルスティンの意地だった。
ぐつぐつと鍋の揺れる音を聞きながら、キルスティンは小説を片手にフォークを口元へ運んだ。行儀は良くないが、読書に没頭出来る時間はそれほど無いのだ。昼食を終えたら四時まで仮眠し、二時間を論文の執筆に当てる。六時から夕食を仕上げ、九時まで休憩。それから深夜の二時まで観測室に籠って天体観測だ。
学問は好きだが、いざ仕事にするとなると、愛憎入り混じった複雑な感情を抱かざるを得ない。私生活を完全に縛られるこ仕事が、辛くないと言えば嘘になる。
「私が自分で、選んだことだものね」
キルスティンはそっと眼鏡のフレームを撫でた。
「……寝不足、だったかしら?」
今更こんなことを考えても仕方が無い。寝不足だったのだ、と思うとにわかにあくびが込み上げてきた。火にかけたままだったスープから骨と肉を引き上げ、ろ紙で濾してから冷蔵庫に入れる。他の材料も放り込むと、キルスティンは台所の暖房機を消して寝室へと向かった。
地表に続く階段を通り過ぎようとした時、扉が風に殴りつけられる音が聞こえた。ミルッカは遅くなるかもしれないな、と思った。
◇◇◇
橇船から脱出してから早二時間。悪いことに視界が灰色に染まりつつあった。ユルスクの天候などあてにならないとはいえ、快晴の空が一瞬にして暗転するのはあまりにも無情だとミルッカは思った。
ミルッカは、橇船から助け出した男を長老の背中に乗せて雪原を走らせていた。目指すはユルスク星辰調査室、ではなく隣の観測区である。
「雪の巨人、メギゥ……」
「そうだ。あれを捕まえて来るように言われた」
男の証言から、例の橇船は密漁船であることが分かった。ユルスクではなく、極海領の中心部、『神々のフラスコ』と呼ばれる地域にまで接近して悪事をなしていた連中だ。男に言わせれば「生活がかかっている」のだろうが、ミルッカにとっては神域を侵す愚か者としか思えない。
それは、何も宗教上の理由だけではない。人間が『神々のフラスコ』に近づかないのは、そこに住まう生物があまりにも人知を超えているからだ。接触することすら危険で、ましてや捕獲しようなど言語道断。このような結果となったのは当然のことと思えた。
メギゥ、または『雪の巨人』と呼ばれる類人猿は、神域に住まう生物としては比較的知られた存在だ。研究も進んでおり、習性や対処法に関しては調査室の生物マニュアルにも記載されている。しかし、どのような経緯で進化してきたのかということは依然謎とされている。
忘れてはならないことは二点。非常に獰猛であることと、一度手に入れた獲物は絶対に逃さないことだ。
その意味では、ミルッカはすでに禁を破ってしまっている。メギウの嗅覚はわずかな血の臭いも探り当てる。船倉のなかに転がり落ちた時、彼女の外套にはべったりと血液が付着していた。かといって脱ぐわけにもいかず、代わりの外套を手に入れる暇も無かった。ぐずぐずしている間に長老を喰われたら、徒歩で雪中を逃げ回る羽目になる。そんな状況は死んだも同然だ。
一人で対処しきれないと判断したミルッカは、隣の観測区へ助けを求めることにした。そちらにはレンジャーが三人詰めており、全員が腕利きだ。彼女自身も含めて四人でことにあたれば、メギゥを倒すことも出来るだろう。それ以上に、キルスティンを巻き込みたくないというエゴもあったのだが……。
だが、状況は刻一刻と悪くなりつつある。ブリザードが吹き始めれば、速度は必ず落ちる。長老は進み続けてくれるだろうが、自分は方向を見失わないようコンパスを注視し続けなければならない。臭いを頼りに追いかけて来るメギゥの方が足は速いはずだ。
「おい、本当に逃げ切れるのか?」
「うん。この子はちょっとやそっとじゃバテないよ。このまま西に向かって走り続ければ、隣の調査室までたどり着けるはずだ」
それは男を安心させるための方便だった。追いつかれる前にたどり着ける可能性は五分、いや、それ以下かもしれない。だがパニックを起こされるわけにもいかない。適当なことを言って希望を持たせるのが一番だ。
背後から咆哮が聞こえる度に、慄いた長老が身体を震わせる。常に身体を撫でながら「どうどう」と声を掛けてやらなければならない。
本当はミルッカも誰かに励ましてもらいたいと思っている。こんな状況が怖くないわけがない。それでも、キルスティンは自分が守らなければならないという義務感が彼女を突き動かしていた。
「そうだ、僕がキリを守るんだ」
自分は一人前のレンジャーだ。彼女に守られるような子供ではない。そう己に言い聞かせながら、ミルッカは手綱を握り直した。
そして周囲の風景を確認するために首を伸ばしたその時、ミルッカは背中にナイフが突きつけられていることに気付いた。
「何の冗談?」
「銃を寄越せ。……違う、カービンの方だ! それから、カリボウから降りろ」
「懲役刑がそんなに怖いの?」
「うるせえ! さっさと降りろ!」
「……」
振り返らずにカービンを渡し、ミルッカは長老の背中から降りた。今度はカービンを突き付けられ、荷物を全て地面に置くよう命じられる。無論、エーテル・ガンも例外ではなかった。
「糞、何が懲役だ! お役所が、俺たちの事情なぞ斟酌するわけがないだろうが!」
「ここで死ぬよりかは、いくらかマシだと思うよ」
「へ。へっへっ、それこそお前に気にしてもらうことじゃねえよ」
男はミルッカを嘲弄し、右手に持ったカービンの銃口を向ける。
「し……」
だが、そうはさせなかった。
ミルッカは右に跳んだ。同時にポーチから取り出していた白い小石を、長老の鼻面目がけて投げつける。毛皮で覆われていない場所に痛みを覚えた長老が前脚を高く持ち上げた。
「っおお!?」
ミルッカの動きを追っていた男は、カービンを握ったまま雪上に振り落とされた。そこへ素早く態勢を立て直していたミルッカが駆け寄り、全力で側頭部を蹴り飛ばす。その拍子に男の手からナイフとカービンがこぼれ落ちた。
雪上に落ちたそれを拾い上げる。まだ混乱している長老の頭を撫でながら、「ごめんね」と謝った。
「糞、この……!」
男が肩を押さえながら立ち上がる。脳震盪と、振り落とされた際に開いた傷の痛みに顔をしかめている。
「この餓鬼、ふざけた真似を!」
「ふざけているのはどっちだ! こんな時に……」
言い返そうとしたその時、ミルッカは男の顔が不意に歪んだことに気づいた。そして、彼女のレンジャーとしての本能が、身体を地面に伏せさせていた。
直後、それまで立っていた場所を巨大な腕が通り過ぎていった。パニックを起こした長老が鳴き声を上げ、荷物の大半を背負ったまま走り出す。だが、ミルッカにはそちらに注意を払う余裕などなかった。
巨人がミルッカを見下ろしていた。
体高は四メトラほどだろうか。ミルッカなど比べものにならないほど巨大なはずだが、上背よりもむしろ横幅のほうが目に付いた。腕は地面に届くほど長く、大砲のように太い。腹はでっぷりと肥えていて、強靭さよりも貪欲さを強く感じさせる。やや突き出した鼻面からは鋭い牙がのぞいているが、目だけは人間のような形をしていた。そして、それら全ての特徴が、白い体毛によって完全に覆われている。
大きく開いた口元や、両手の先端は赤黒く染まっていた。そして、ミルッカがカービンの筒先を向けていなければ、即座に染め直されていたことだろう。
「あ、が、ああ……っ」
背後で狼狽しきった声が聞こえてきたかと思うと、慌ただしく雪を踏みつける音に変わった。それさえも、段々と勢いを増す風にかき消され、すぐに聞こえなくなってしまった。
ミルッカには最早男に注意を払っている余裕など無かった。瞬き一つせず、銃口の先に居る巨人を睨みつける。そうすることによって彼女は辛うじて平静を保っていた。恐怖で真っ白になりそうな頭を回転させ、キルスティンが読み聞かせてくれた対策マニュアルを思い返す。
(正面を向いて、武器を突き付けている限り、メギゥは積極的には襲ってこない……!)
逆説的に言えば、相手が武器と認識出来るものを示さなければならないということだ。襲ってこないということは、この個体は銃が武器であることを知っている。脅威であることは認識しているのだろう。
(でも、こっちじゃ倒し切れない!)
カービンに込めた弾では、メギゥの体脂肪や骨格を撃ち抜くだけの威力は出せない。エーテル・ガンなら一撃で倒すことも出来るだろうが、そんな隙を巨人が見逃してくれるとは思えなかった。
持ち上げていた右腕が震える。意図せず銃口がぶれそうになったその時、巨人は上半身を前傾させながらゆっくりと動き出した。ミルッカから見て時計回りに歩きながら、少しずつ距離をとっていく。
吹雪の向こうに巨体が消えた瞬間、ミルッカの腕から力が抜けた。寒さと恐怖による震えが一斉に襲い掛かり、彼女は両手で身体を抱き締めた。
安堵している余裕などどこにもなかった。それどころか吹雪のなかで足を失い、しかも危険な生物にマークされているのだ。死ぬまでの時間が若干伸びただけである。
それでも、ミルッカは武器を取り上げ、散乱した荷物を可能な限り拾い集めてその場から歩き出した。メギゥが戻ってくるまでにどの程度の時間があるかは分からない。視界のほとんどは灰色に染まってしまい、もう十メトラ先も満足に見通せないが、まだ彼女は戦う意志を捨ててはいなかった。
ここであの巨人を討たなければ、また多くの犠牲が出てしまうだろう。人間の味を覚えた肉食獣ほど厄介な敵はいない。たとえ死が確定的な状況であろうと、自分に出来る限りのことをするのがレンジャーの責務だとミルッカは思った。
「ああ……僕が守るんだ……!」
ミルッカの戦いが始まった。
自分の昼食を用意する一方で、夕食の下ごしらえを済ませておく。ボルシチを作るといった手前、美味しく出来上がっていなければミルッカをがっかりさせてしまう。そう思いながらカリボウのスペアリブを鍋に放り込み、強火で出汁をとる。
鍋から立ち上って来た湯気が眼鏡を曇らせた。キルスティンは目を瞑ったまま眼鏡を外して表面を拭くが、三度目で無駄だと悟った。いたずらに穴を掘るわけにはいかないと分かってはいるのだが、やはり換気扇は欲しいところだ。空気の汚れは空気清浄機でどうにかなるが、湯気だけはどうにもならない。今度の予算で圧力鍋でも買おうかな、と思った。
灰汁を除く一方で野菜を切り分け、煮たった状態のまま弱火にする。しばらくはこのままで良い。
昼食は、残ったライ麦ビスケットとキノコの塩漬け、ジャムを添えた紅茶だけだ。肉体労働をしたわけでもないので、あまり食べすぎて太りたくはない。こんな場所に住んでいるのだから、思い切り脂肪を付けた方が良いのかもしれないが、そこはキルスティンの意地だった。
ぐつぐつと鍋の揺れる音を聞きながら、キルスティンは小説を片手にフォークを口元へ運んだ。行儀は良くないが、読書に没頭出来る時間はそれほど無いのだ。昼食を終えたら四時まで仮眠し、二時間を論文の執筆に当てる。六時から夕食を仕上げ、九時まで休憩。それから深夜の二時まで観測室に籠って天体観測だ。
学問は好きだが、いざ仕事にするとなると、愛憎入り混じった複雑な感情を抱かざるを得ない。私生活を完全に縛られるこ仕事が、辛くないと言えば嘘になる。
「私が自分で、選んだことだものね」
キルスティンはそっと眼鏡のフレームを撫でた。
「……寝不足、だったかしら?」
今更こんなことを考えても仕方が無い。寝不足だったのだ、と思うとにわかにあくびが込み上げてきた。火にかけたままだったスープから骨と肉を引き上げ、ろ紙で濾してから冷蔵庫に入れる。他の材料も放り込むと、キルスティンは台所の暖房機を消して寝室へと向かった。
地表に続く階段を通り過ぎようとした時、扉が風に殴りつけられる音が聞こえた。ミルッカは遅くなるかもしれないな、と思った。
◇◇◇
橇船から脱出してから早二時間。悪いことに視界が灰色に染まりつつあった。ユルスクの天候などあてにならないとはいえ、快晴の空が一瞬にして暗転するのはあまりにも無情だとミルッカは思った。
ミルッカは、橇船から助け出した男を長老の背中に乗せて雪原を走らせていた。目指すはユルスク星辰調査室、ではなく隣の観測区である。
「雪の巨人、メギゥ……」
「そうだ。あれを捕まえて来るように言われた」
男の証言から、例の橇船は密漁船であることが分かった。ユルスクではなく、極海領の中心部、『神々のフラスコ』と呼ばれる地域にまで接近して悪事をなしていた連中だ。男に言わせれば「生活がかかっている」のだろうが、ミルッカにとっては神域を侵す愚か者としか思えない。
それは、何も宗教上の理由だけではない。人間が『神々のフラスコ』に近づかないのは、そこに住まう生物があまりにも人知を超えているからだ。接触することすら危険で、ましてや捕獲しようなど言語道断。このような結果となったのは当然のことと思えた。
メギゥ、または『雪の巨人』と呼ばれる類人猿は、神域に住まう生物としては比較的知られた存在だ。研究も進んでおり、習性や対処法に関しては調査室の生物マニュアルにも記載されている。しかし、どのような経緯で進化してきたのかということは依然謎とされている。
忘れてはならないことは二点。非常に獰猛であることと、一度手に入れた獲物は絶対に逃さないことだ。
その意味では、ミルッカはすでに禁を破ってしまっている。メギウの嗅覚はわずかな血の臭いも探り当てる。船倉のなかに転がり落ちた時、彼女の外套にはべったりと血液が付着していた。かといって脱ぐわけにもいかず、代わりの外套を手に入れる暇も無かった。ぐずぐずしている間に長老を喰われたら、徒歩で雪中を逃げ回る羽目になる。そんな状況は死んだも同然だ。
一人で対処しきれないと判断したミルッカは、隣の観測区へ助けを求めることにした。そちらにはレンジャーが三人詰めており、全員が腕利きだ。彼女自身も含めて四人でことにあたれば、メギゥを倒すことも出来るだろう。それ以上に、キルスティンを巻き込みたくないというエゴもあったのだが……。
だが、状況は刻一刻と悪くなりつつある。ブリザードが吹き始めれば、速度は必ず落ちる。長老は進み続けてくれるだろうが、自分は方向を見失わないようコンパスを注視し続けなければならない。臭いを頼りに追いかけて来るメギゥの方が足は速いはずだ。
「おい、本当に逃げ切れるのか?」
「うん。この子はちょっとやそっとじゃバテないよ。このまま西に向かって走り続ければ、隣の調査室までたどり着けるはずだ」
それは男を安心させるための方便だった。追いつかれる前にたどり着ける可能性は五分、いや、それ以下かもしれない。だがパニックを起こされるわけにもいかない。適当なことを言って希望を持たせるのが一番だ。
背後から咆哮が聞こえる度に、慄いた長老が身体を震わせる。常に身体を撫でながら「どうどう」と声を掛けてやらなければならない。
本当はミルッカも誰かに励ましてもらいたいと思っている。こんな状況が怖くないわけがない。それでも、キルスティンは自分が守らなければならないという義務感が彼女を突き動かしていた。
「そうだ、僕がキリを守るんだ」
自分は一人前のレンジャーだ。彼女に守られるような子供ではない。そう己に言い聞かせながら、ミルッカは手綱を握り直した。
そして周囲の風景を確認するために首を伸ばしたその時、ミルッカは背中にナイフが突きつけられていることに気付いた。
「何の冗談?」
「銃を寄越せ。……違う、カービンの方だ! それから、カリボウから降りろ」
「懲役刑がそんなに怖いの?」
「うるせえ! さっさと降りろ!」
「……」
振り返らずにカービンを渡し、ミルッカは長老の背中から降りた。今度はカービンを突き付けられ、荷物を全て地面に置くよう命じられる。無論、エーテル・ガンも例外ではなかった。
「糞、何が懲役だ! お役所が、俺たちの事情なぞ斟酌するわけがないだろうが!」
「ここで死ぬよりかは、いくらかマシだと思うよ」
「へ。へっへっ、それこそお前に気にしてもらうことじゃねえよ」
男はミルッカを嘲弄し、右手に持ったカービンの銃口を向ける。
「し……」
だが、そうはさせなかった。
ミルッカは右に跳んだ。同時にポーチから取り出していた白い小石を、長老の鼻面目がけて投げつける。毛皮で覆われていない場所に痛みを覚えた長老が前脚を高く持ち上げた。
「っおお!?」
ミルッカの動きを追っていた男は、カービンを握ったまま雪上に振り落とされた。そこへ素早く態勢を立て直していたミルッカが駆け寄り、全力で側頭部を蹴り飛ばす。その拍子に男の手からナイフとカービンがこぼれ落ちた。
雪上に落ちたそれを拾い上げる。まだ混乱している長老の頭を撫でながら、「ごめんね」と謝った。
「糞、この……!」
男が肩を押さえながら立ち上がる。脳震盪と、振り落とされた際に開いた傷の痛みに顔をしかめている。
「この餓鬼、ふざけた真似を!」
「ふざけているのはどっちだ! こんな時に……」
言い返そうとしたその時、ミルッカは男の顔が不意に歪んだことに気づいた。そして、彼女のレンジャーとしての本能が、身体を地面に伏せさせていた。
直後、それまで立っていた場所を巨大な腕が通り過ぎていった。パニックを起こした長老が鳴き声を上げ、荷物の大半を背負ったまま走り出す。だが、ミルッカにはそちらに注意を払う余裕などなかった。
巨人がミルッカを見下ろしていた。
体高は四メトラほどだろうか。ミルッカなど比べものにならないほど巨大なはずだが、上背よりもむしろ横幅のほうが目に付いた。腕は地面に届くほど長く、大砲のように太い。腹はでっぷりと肥えていて、強靭さよりも貪欲さを強く感じさせる。やや突き出した鼻面からは鋭い牙がのぞいているが、目だけは人間のような形をしていた。そして、それら全ての特徴が、白い体毛によって完全に覆われている。
大きく開いた口元や、両手の先端は赤黒く染まっていた。そして、ミルッカがカービンの筒先を向けていなければ、即座に染め直されていたことだろう。
「あ、が、ああ……っ」
背後で狼狽しきった声が聞こえてきたかと思うと、慌ただしく雪を踏みつける音に変わった。それさえも、段々と勢いを増す風にかき消され、すぐに聞こえなくなってしまった。
ミルッカには最早男に注意を払っている余裕など無かった。瞬き一つせず、銃口の先に居る巨人を睨みつける。そうすることによって彼女は辛うじて平静を保っていた。恐怖で真っ白になりそうな頭を回転させ、キルスティンが読み聞かせてくれた対策マニュアルを思い返す。
(正面を向いて、武器を突き付けている限り、メギゥは積極的には襲ってこない……!)
逆説的に言えば、相手が武器と認識出来るものを示さなければならないということだ。襲ってこないということは、この個体は銃が武器であることを知っている。脅威であることは認識しているのだろう。
(でも、こっちじゃ倒し切れない!)
カービンに込めた弾では、メギゥの体脂肪や骨格を撃ち抜くだけの威力は出せない。エーテル・ガンなら一撃で倒すことも出来るだろうが、そんな隙を巨人が見逃してくれるとは思えなかった。
持ち上げていた右腕が震える。意図せず銃口がぶれそうになったその時、巨人は上半身を前傾させながらゆっくりと動き出した。ミルッカから見て時計回りに歩きながら、少しずつ距離をとっていく。
吹雪の向こうに巨体が消えた瞬間、ミルッカの腕から力が抜けた。寒さと恐怖による震えが一斉に襲い掛かり、彼女は両手で身体を抱き締めた。
安堵している余裕などどこにもなかった。それどころか吹雪のなかで足を失い、しかも危険な生物にマークされているのだ。死ぬまでの時間が若干伸びただけである。
それでも、ミルッカは武器を取り上げ、散乱した荷物を可能な限り拾い集めてその場から歩き出した。メギゥが戻ってくるまでにどの程度の時間があるかは分からない。視界のほとんどは灰色に染まってしまい、もう十メトラ先も満足に見通せないが、まだ彼女は戦う意志を捨ててはいなかった。
ここであの巨人を討たなければ、また多くの犠牲が出てしまうだろう。人間の味を覚えた肉食獣ほど厄介な敵はいない。たとえ死が確定的な状況であろうと、自分に出来る限りのことをするのがレンジャーの責務だとミルッカは思った。
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