ユルスク星辰調査室

井上数樹

第二節

 ミルッカが出かけると、調査室の管理はキルスティンの仕事となる。

 まずは朝食の後片付けから。それが済むと居住区をひとしきり掃除し、溜まった洗濯物を地表一階まで持って行って洗う。
 掃除と洗濯は、街に出かける日以外は必ず毎日するようにしている。いくら居心地が良いとはいえ、調査室が密閉されていることに変わりはなく、少しでも不衛生にしておくと一気に悪化してしまうからだ。二人そろって罹患などしたら目も当てられない。一応助けを呼ぶことは出来るが、橇船が到着するころにはすっかり弱っているか、下手をすると死んでいるだろう。
 洗濯は残念ながら冷水でせざるを得ない。ここに赴任した当初はずいぶん手荒れが酷かったが、今では身体が慣れてしまった。年頃の娘の手にしては、少しばかりひび割れが多くはあるのだが。
 洗ったものは機関室の中に吊るしておく。これで午前の家事は終わり、ついに本職へ移る。

 事務室のデスクの前に座り、昨晩の風速や温度といった気象情報を次々とノートへ書き写していく。
 キルスティンの仕事が必要とされるのは、もちろんユルスクの気象を調べるためでもあるのだが、それ以上に天体観測の状況を記録しておくためである。

 現在、大陸の文明はエーテル、または霊子とも呼ばれる物質に左右されている。機械の大半は大気中に漂うエーテルを燃焼させることによって稼動している。それこそストーブやミシンから、自動車や船まで、全てがエーテルを利用しているのだ。
 この物質の正体については何も分かっていないが、発生パターンには天体の運動が大きく関係していることが証明されている。そのため、エーテルが欠乏する時期や、逆に異常発生する時期を天体観測によって予測するのである。とある経済学者は「星の運行を見れば翌日の株価が分かる」と豪語したが、これは誇張があるにせよ間違いではない。

 事務室自体は狭く、四方を棚に囲まれ、中心に二人のデスクが向かい合う形で配置されている。とはいっても、ミルッカ側にはほとんど資料が置いていない。彼女は読み書きが出来ないため、ミルッカが外で視てきたことをキルスティンが記述するようにしているからだ。本人も不便に思っているため、一日の仕事が終わると読み書きの勉強をするようにしているが、疲れが溜まることと朝が早いことも相まって、なかなか進歩は見られない。
 一方、キルスティンのデスクは資料や本が山積みになっている。一部で雪崩が発生し、ミルッカの領域を侵犯しているが、どちらも何も言わない。
 天体観測に必要な各種道具は隣の資料室に仕舞ってあるが、天球儀だけは事務室に飾っておくことにしている。単純に見た目が良いのと、ミルッカが目を輝かせているところを見られるからだ。天球儀の惑星は、各惑星に合わせた綺麗な小石で作られており、それを金色の支柱が支えている。ミルッカがこういう綺麗なものに興味があると知った時は意外に思ったものだ。

 彼女と一緒に仕事を初めて、もう一年が経つ。最初は絶対に苦労するだろうと思っていたし、事実大変なことばかりだが、嫌だとは思わない。こうして日々を過ごせるのは、やはり相棒がミルッカだからだ、とキルスティンは考えていた。

 ここに赴任してきたころ、急激な環境の変化とプレッシャーに耐えかねて風邪をひいてしまったことがあった。それまでの人生で経験したこともないほど強烈な疲労感に襲われ、耐えがたい嘔吐感や頭痛に苛まれた。鼻が詰まったせいで息が出来ず、口での呼吸に頼ったがために、喉がひどい炎症をおこして水を飲むことさえ辛かった。
 ミルッカは付きっ切りで看病をしてくれた。濡れタオルが駄目になるとすぐに取り替え、食事も全て用意し、寝るときはベッドをキルスティンに譲って本人は台所の床で眠った。手も足も上げる気力が無かったため、数日間ミルッカの手からものを食べさせてもらっていたが、一度、粥を食べている最中我慢できなくなり、吐き出してしまったことがあった。当然ミルッカの手にもかかってしまったのだが、彼女は嫌な顔ひとつせず、すぐに手を洗ってから着替え、また同じように粥を乗せた匙を差し出してくれた。

 ミルッカは口数が少なく、自分の意思をあまり言葉にしようとはしない。表情もなかなか変わらないため、最初のうちは何を考えているか読み取ることが出来なかったが、この一件があってからは徐々に凍った表情の下の優しさに目がいくようになった。風邪が全快した次の日、ミルッカは何事も無かったかのように見回りに出かけて行ったが、帰ってくると真っ白な花を手に持っていた。冬過草というユルスク特有の植物で、寒冷地であるにも関わらず美しい花を咲かせる。「あげる」と言ってそれをずいと突き出す彼女の手は、長時間雪に浸していたせいか、ぷるぷると震えていた。
 その時のことを思い出すと、自然と笑みがこぼれる。今ではすっかり打ち解け、キルスティンにとって妹のような存在となりつつある。兄が一人に弟二人という環境で育ったことも手伝って、その実感はますます強まるばかりだ。
 それだけに、毎日のように見回りに出かけるミルッカのことが、どうしても心配になるのであった。

◇◇◇

「騎兵ぇたいはぁ、まけないー。サーベルはぁ、われらのめいよー」

 ミルッカは調子っぱずれの歌を歌いながら、雪の降り積もった丘陵を駆けていく。足場が悪く、長老が動くたびに装備ががちゃがちゃと騒々しい音を立てたが、バランスを崩して転倒するようなことはなかった。カリボウは脚力が非常に強く、人間一人と装備品を積んだくらいではびくともしない。そのため、中世以前から極海領の様々な国々で軍馬の代わりとして使用されてきたのだ。ミルッカが歌っていた騎兵隊賛歌も、かつて大陸中央からの遠征軍を幾度も叩きのめしたフサリア達を讃えたものである。

 実は、彼女自身、音痴だという自覚がある。しかしどうにかして気分を盛り上げないと、この極寒の土地ではやっていけないのだ。
 小高い丘の上まで来たところで、ミルッカは一旦長老の背中から降りた。足元に綺麗な白い石を見つけたからだ。拾い上げ、袖でごしごしと磨いてから、掌に載せてルーペでじっくりと眺める。

「石英……ミルキークォーツってやつかな。キリに訊かないと」

 そう言って、ミルッカは拾った石をポーチの中に滑り込ませた。仕事ではなく、彼女の趣味である。石に対して深い知識を持っているわけではないため、鑑定はいつもキルスティンに任せていた。

 水筒に入れておいた紅茶を飲んでから、ゴーグルを外して周囲を見渡した。
 ごつごつとして岩が雪や氷を突き破って地表へと顔を覗かせている。夏になるとわずかな植物も芽を出すのだが、今はようやく厳冬期が終わったところ。草一本見当たらない。
 そうなると視界を支配するのは、白い雪と点々とした黒い岩ばかりである。空は雲一つなく晴れ渡っているが、いくら太陽が照っていても暖かくならないのが、ここユルスクなのだ。もっとも、太陽が隠れて吹雪に襲われると息さえ凍ってしまうため、いくらかマシであることに違いは無い。

「これだけ見晴らしが良いと、遠くまで見えて良いね……」

 ミルッカは双眼鏡を使わない。目を傷める可能性があるのと、そんなものに頼らなくても良いほどの視力を持っているからだ。しっかりと測ったことはないものの、八○○メトラ先で跳ねた魚の種類を言い当てることが出来る。一度遠くのユキウサギを狙おうとしたとき、視力で捉えているにも関わらずカービンの射程が足りず逃がしてしまった、ということまであった。

 そんな彼女なので、広大な氷床の一点にかすかに広がった赤い染みに、否応なく気付けてしまった。

 最初は草食動物が捕食者に襲われたのかと思った。だが、辺りに死体は見当たらない。雪に埋もれたなら、そもそも血痕など残るはずがないのだ。
 つまり、ミルッカの目についた血痕は、つい先ほどついたばかりということになる。

「……見逃すわけにはいかないね。とりあえず行ってみよう」

 そう言って、ミルッカは長老の首を軽く叩いた。目隠しをされた長老は、その方向に向かって丘を駆け下りていくが、近づくにつれて少しずつ落ち着きを無くしていった。ミルッカも、充満した血の臭いを嗅ぐまでもなく、雪上に広がったおびただしい量の血液に密かに戦慄した。
 血痕は一方向に向かって続いている。それを追っていくと、切り立った崖と崖の間に一隻の橇船を見つけた。全長は三○メトラ程度だろうか、かなり大型の船である。勢いを殺し切れなかったのか、巡航速度のまま崖に突っ込んだようで、船首はばらばらに砕けていた。
 雪上に散らばった残骸を踏み分けながら進み、船の周りを一回りする。

「誰か。いますか?」

 返事は無い。

「……」

 長老を舵につないでからカービンを抜き、カートリッジを取り付ける。そして左舷から乗り込んだ。
 惨憺たる有様である。マストは全て折れ、破れた帆が甲板に広がっていた。木片や鉄の間にロープが隠れていて、何度か足をとられそうになった。船底に取り付けられた雪走板のうち、左舷のものが中ほどから折れているため、甲板はわずかに傾斜していた。
 血液、そしておそらくは臓器と思われるようなものがあちこちに飛び散っている。だが、身体はどこにも見当たらない。

「一体何が……わっ!」

 帆布の一部を踏んだ瞬間、足元の感覚が無くなり、ミルッカは布に巻き込まれながら階下へ落ちた。幸いハンモックのように布が引っかかってくれたため、床に打ち付けられることはなかった。しかしそれは、布の他に彼女の身体を受け止めたものがあったからだ。
 帆布から転がり落ちたミルッカは、床一面に広がった血溜まりを目撃し、そして山積みにされた人間の死骸をも目にした。

「ッ!」

 ミルッカは軽く息を呑んだ。その拍子に船倉に充満していた血の臭いを嗅ぎ、あまりの生臭さにむせかえった。
 死骸のほとんどは原型をとどめていない。どれも腹部が大きく抉られており、酷いものになると背骨ごと引き千切られていた。
 恐る恐る近づき、カービンの銃口で死体の一つを仰向けにする。抉られた腹を覗きこむと、内臓のほとんどが無くなっていることに気付いた。それも切り取ったのではなく、力まかせに引きずり出した痕が見られる。
 ミルッカは顔を背け、口元に手を当てた。湧き上がって来た嘔吐感を意志の力で捻じ伏せる。寒さのためにほとんど腐敗していなかったのは幸いというべきだろうか。

 だがこんな光景に出くわして、いよいよ放っておくわけにはいかなくなった。誰が何のためにこんなことをしたのか、そもそもこの橇船はどうしてこんな所を航行していたのか。分からないことだらけだ。

 ミルッカは弔いの呪文を唱えてからその場をあとにした。船尾にあるキャビンへ向かえば、航海日誌くらいは見つかるかもしれない。それから一旦調査室に戻って、キルスティンと話し合う必要がある。
 船長室は他の箇所に比べて破損が少なかった。無論内装は滅茶苦茶になっているが、構造そのものが壊れているわけではない。床には砕けたエーテル燈や書類が散らばっている。そこから一つのものを探し出すのは至難のように思えた。
 船が傾いた際に壊れたのか、ベッドが壁にぶつかっていた。何気なくそこへ歩み寄った瞬間、山積みになっていた布団がばさりと跳ね上がった。

「ッ!」

 反射的にカービンの銃口を向けていたが、引き金は引かなかった。
 髭面の男が目を見開いたままナイフを突きつけていた。突きつけると言っても、その腕は震え、しかも肩から大量に出血している。充血した目を見開き、恐怖にわななく口からは血の混ざった唾液がだらしなく垂れていた。
 ミルッカは銃を下ろした。

「待って。落ち着いて。僕はミルッカ・ハララ、ユルスク星辰調査室のレンジャーです」

 懐からレンジャー徽章を取り出して男の目の前でぶら下げて見せる。それを目にした瞬間、男はひきつけを起こしたかのように肩を震わせ、そしてゆっくりと力を抜いていった。ナイフがぽとりと布団の上に落ちる。

「傷の手当をします。服を脱いで」
「あ、ああ……」

 医療キットから包帯と消毒剤を取り出して素早く手当を済ませる。肩に刺さったガラス片か何かを無理やり抜いたことが出血の原因のようだが、傷を負ってからまださほど時間は経っていないようだ。

「一体何があったんですか。そもそも、貴方達は」
「そんなことはどうでも良い! は、早くここから逃げねえと」

 船を揺るがすほどの咆哮が雪原に響き渡ったのは、その時だった。

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