ユルスク星辰調査室

井上数樹

第一節

 五時になるとミルッカは目を覚まし、隣で眠るキルスティンを起こさないよう静かに寝台から立ち上がった。肩に厚手のコートをかけ、ほのかに熱を発しているエーテル燈の傍を忍び足で通り過ぎて、分厚い木の扉を開く。キルスティンの吐息と、エーテルが燃える音だけを残して、ミルッカは寝室を出た。

 ユルスク星辰調査室の居住区画は、岩盤を掘って作られた地下二階にある。地下一階に二人の事務室が、地表一階には橇船や家畜小屋があり、二階に展望室がある。寝るときは寝室以外へのエーテル供給を絶ってしまうため、どこもかしこも冷たい。風が無いだけ外よりまし、といったところだ。

 事務室の机から火酒のたっぷりと入った瓶を取り出したミルッカは、片手にそれを提げたまま階段を登り、地表一階の玄関の前で、腹を引き締めてからコートをその場に払い落とした。羊毛のパジャマも脱ぎ捨て、肌着だけの姿になる。
 素肌が外気に触れた瞬間、あまりの空気の冷たさに心臓がびくりと跳ね上がった。上質な小麦粉のように白い肌は途端に青く変色し、ぶつぶつと鳥肌が立つ。無意識のうちに彼女の身体が縮こまり、これ以上体温を逃がさないようにと、身体の表面積をわずかでも少なくしようとする。ひよこを連想させるふわふわとした短い金髪が、この時だけは一斉に逆立っていた。
 痛いほどの寒さを覚え、指を震えさせながらミルッカは瓶のコルクを引き抜いた。ぽんっ、と軽い発泡音とともに、麻痺した嗅覚さえ貫くほどのアルコールの香気が立ち上って来た。ミルッカはそれを持ち上げる。かじかむ歯に瓶口が当たり、かつかつと音を鳴らす。舐めるだけ、と己に言い聞かせながらミルッカは火酒を飲んだ。
 口腔の皮が爛れたかと思うほどのアルコールは、瞬時に彼女の身体を火照らせた。麻痺していた四肢が感覚を取り戻し、少しだけ強気になったミルッカは、肌着のまま玄関の扉を開けた。

 見渡す限り、気が狂うかと思えるほど広大な雪原が広がっている。西方の空は薄暗いが、東方からの曙光は増しつつある。珍しく風は吹いておらず、天空にたなびく雲の流れも穏やかだった。その雲のはざまに、星空の名残が見て取れた。
 しかし、やはり、寒い。火酒の効用さえすぐに薄れてしまうほどだ。ミルッカは羽毛のようにふわふわとした雪のうえに素足で踏み出し、まずは南に向けて火酒を垂らした。そこから時計回りに、こう唱えながら酒を垂らしていく。

「南方のイルマタルよ 今日もまた薫風を吹かせたまえ
 西方のガルムよ 月を食らうことなきように
 北方のスルーズよ 疾く太陽を釣り上げたまえ
 東方のウルゴよ 我らに朝を与え給え」

 四方に酒を撒き、祝詞を紡いでから、ミルッカは足早に室内へと戻った。
 コルクを押し込み、大慌てで服を着込む。靴を履く前に足の裏を見てみたが、幸いしもやけにはなっていなかった。さすがにほぼ毎朝続けていると、身体も多少は慣れてくるようだ。

 身体に熱が蘇る。ミルッカは軽く息をついてから階段を降りた。事務室に火酒の瓶を戻してから地下二階の機関室に向かう。そう大層なものではなく、せいぜい納屋程度の広さしかない。油や鉄錆の臭いの中で、中型のエーテル発動機が静かに唸り声を上げている。正常に作動しているのを確認してから、各階につながっているベントを開いた。昨夜は吹雪かなかったこともあって、大気中のエーテルを十分取り込めている。少し潤沢に使っても問題は無いだろう。

 台所の暖房を入れてから、また一階に戻り家畜小屋へ向かった。調査室と隣接して建てられた小屋には、六羽のワタゲドリと一頭のカリボウが住んでいる。
 ワタゲドリは雲のような体毛を持った鳥で、自力で飛ぶことは出来ない。何百年もかけて品種改良をなされてきたためか、温厚なうえに鈍感で、ユルスクのような極寒の地で飼うにはこれ以上ないほど適した生物となっている。三日に一個のペースで玉子を産み、今朝はちょうど二つ手に入った。
 カリボウは複雑な形の角と、長い顎鬚が特徴的な草食動物だ。小型のものでも全高が一・五メトラ(一・五メートル)程度あり、その大柄な身体をくまなく体毛が覆っている。頭の周りは特に分厚く、手を当てても押し返されるほどだ。肉食動物の牙さえ絡めとり、引きずったまま走るだけの馬力やタフネスもある。急かされない限り動こうとはせず、ミルッカは勝手に「長老」というあだ名をつけていた。
 その長老の飼い葉桶に馬草や燕麦を入れてやり、頭を撫でる。長老は大儀そうに首を動かし、一瞥もくれずにもそもそと草を食みだした。

 バケツ一杯に新雪を入れてから調査室に戻る。一階はまだまだ寒かったが、事務所や居住区は十分暖かくなっていた。バケツと玉子を置き、コートを脱いだ。雪を鉄製の洗面器に移し替えてから火にかける。低濃度のエーテルが燃える時の、炭酸水の弾けるような音を聞きながら、ミルッカは黙々と朝食の準備を進めていく。
 岩盤をくりぬいて作られた冷凍庫から、カリボウの乳で作ったカッテージチーズ、ライ麦のビスケット、ルバーブのジャムを取り出す。ジャムの瓶は、先ほど雪を入れた洗面器に突っ込んで無理やり解凍させる。硬くなったチーズはビスケットの上に置いて、オーブントースターに入れた。
 足元の収納ボックスから玉ねぎとほうれん草、そして胡桃を出し、別の桶に入れた雪でごしごしと押し洗う。貯水タンクも水道もあるにはあるのだが、早朝は管が凍っていて使い物にならない。
 野菜は若干泥臭いままだが、ミルッカも、相棒のキルスティンも、それを気にするほど柔でも神経質でもない。それらをさっさと切り刻んでから、油を引いたフライパンに入れて塩と胡椒を振りかける。十分に色がついたところで、頂戴してきた玉子をといて流し込み、もう一度味付けをした。玉ねぎの甘味や、胡桃の香りが立ち上ってくる。ミルッカの口角が少しだけ持ち上がった。

 配膳を終え、最後にすっかり温かくなったジャムを取り上げ、テーブルの中心に置いた。洗面器一杯に出来たお湯にタオルを浸し、ごしごしと顔を拭いた。
 朝食は一人で済ませる。一緒に食べたら美味しい、とは思うが、夜遅くまで仕事をしているキルスティンのためにもしばらく寝かせておいてやりたい。
 玉子焼きは、我ながらなかなかの出来だった。隠し味に胡桃を入れたのが良かったらしい。ほうれん草は、洗いがたりていなかったのか少し砂がついたままだった。
 ビスケットを噛みながら時計を見ると午前七時になっていた。湯を沸かしながら、棚から花柄の描かれたポットを取り出して、暖房機の上で温める。ティースプーン三匙分の茶葉をポットに入れてから、熱湯を注いで蓋をした。

 それから、キルスティンを起こしに向かった。
 寝室の明かりを灯す。キルスティンは、ミルッカの分の毛布まで巻き込み、懐にしっかと抱き寄せていた。顔には黒いアイマスクをつけている。腰まで届く赤毛はベッドいっぱいに広がり、紅葉のなかに倒れ伏しているかのようだ。

「キリ、キリ。キルスティン起きろ、お茶が苦くなるよ」
「むがあ……」

 間抜けな声を出しながら、まるで釣り糸にしがみ付く海老のように、キルスティンが腕を絡めて来る。「やれやれ」とぼやきながらそのまま釣り上げ、ずるずると台所まで引きずっていく。

「僕は君のお母さんじゃないのだけどね」

椅子に座らせ、ポットの蓋を開けるのと同時に、アイマスクをしたままのキルスティンが犬のように鼻を鳴らす。ミルッカが寝室から持ってきた分厚い色付きの丸眼鏡を渡すと、ようやく覚醒した。

「おはよう、ミル」
「おはよう。昨夜は遅かったの?」
「ちょっと雲がかかっててね。観測に時間がかかっちゃった」

キルスティンは自分のマグカップに紅茶を注ぎ、温まったルバーブのジャムを溶かす。

「雪は降らなかったんだ」
「うん。その分、今日は吹雪くと思うよ」
「そうか……」
「出かけるの?」
「それが僕の仕事だからね」

  食器を下げようとしたミルッカは、キルスティンが眼鏡越しに半眼でじっと自分の顔を見ていることに気づいた。

「……何?」
「いつも思うんだけど、なんでミルって、一人称が僕なの? そりゃ、都会でもぼくって言う人はいるけど、そういう人たちと比べて、発音がフォーマルなんだよねえ」

 ミルッカは、確かに少年のような容姿をしている。背が低いうえに凹凸が少なく、髪もずいぶん無造作に切っているため、防寒装備を着込むといよいよ性別が分からなくなる。せっかく小綺麗な顔をしているのに勿体無い、と思ったことは、一度や二度ではない。

「ふふ、前にも言ったとおり、複雑な文化的背景によるものだよ」

 ミルッカは、キルスティンとは異なった人種である。キルスティンが大陸人と呼ばれる人種であるのに対して、ミルッカは遥か昔に極海領を旅した海の民の末裔である。かつて、ユルスクを含む極海領に巨大な交易網を作り上げた彼らは、現在は様々な部族に分裂して、細々と伝統を護っている。ミルッカは、そんな世界からやってきた人間だった。
 都会生まれのキルスティンからはかけ離れた存在で、最初彼女とバディを組むことになった時も、不安や得体の知れないものに対する警戒の方が強かった。その上、極寒のユルスクでレンジャーをするには、あまりにも若過ぎると思ったものである。ここに着任したのが一年前。当時キルスティンは一八歳で、ミルッカは一五だった。
 結果的に、彼女の心配は杞憂に終わった。ミルッカは非常に優秀なレンジャーで、調査室の近くで事件が起きても必ず最良の形で解決する。ただ、時々無理をし過ぎていると感じることはあった。
 それでも、ミルッカが最高のバディであることに変わりはない。レンジャーとしての技量だけでなく、一人の人間としても、キルスティンは彼女のことを好いていた。

「まあ、それで出かけるって話だけど。とりあえず七時までには戻れるようにするよ」
「その日のうちに帰らなかったら、ビバーク」
「三日たって戻らなかったら緊急事態、だ」

 そう言って、ミルッカは着替えるために台所を出ていった。後姿を見つめながら、キルスティンは静かに紅茶を啜った。

◇◇◇

 防寒装備を完全に整えて、ミルッカは出発の準備を進めていく。
 長老の背中に鞍やサドルバックを取り付け、ミルッカは装備を次々と載せていく。一人用の頑丈なテント、カリボウの毛布四枚、替えの衣服、調理器具一式と缶詰が三つ、高濃度エーテルの保存タンクと携帯吸入器。救急キットも用意したが、なるべく使わないような展開にしたいな、と思った。
 だがそれ以上に厄介になりたくないのが、背中に背負ったエーテル・ガンである。単発で、しかも装填に時間がかかるが、威力と射程は折り紙付きだ。これを有効に利用するためには、害敵を少しでも早く見つけなければならない。また、銃身の長いエーテル・ガンは騎乗したままでは使いづらいため、カービンを差したホルスターも長老の鞍に取り付けてあった。

「使わないのが一番なんだけど……」
 カービンの弾倉をポーチに仕舞う。キルスティンが、紅茶を入れた水筒を持ってきてくれた。

「はい。いつも通り、砂糖は多めに入れておいたわ」
「助かるよ」
「それと、これも持って行って」

 キルスティンは銀色のライターのようなものを差し出した。

「これは?」
「新しく売り出されたカイロよ。この前の物資補充の時に、橇船の船員さんから譲ってもらったの。燃料は入れておいたから、マッチで点火口に火をつけるだけよ」
「へえ……こんなのも作ってるんだ。知らなかったな」
「装備の更新も、ちゃんとしなきゃいけないわ。ミルはもっと、道具に頼っても良いと思うんだけど」
「今でも十分頼ってるつもりだよ。これ、借りていくね?」
「ええ。危なくなったら、帰ってくるのよ」
「どうしようもなくなったら、ね」

 ミルッカは鐙に足をかけ、軽やかに長老の背中へ上った。雪盲を防ぐためのゴーグルをかける。

「行ってくる」
「気をつけて。ボルシチでも作って待ってるわ」

 そりゃあ、時間通りに帰らないと。そう笑いながらミルッカは手綱を握り、長老の腹を軽く蹴った。しゃくり、しゃくりと雪を踏みしめる音を背中に受けながら、キルスティンは調査室のドアを閉めた。

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