腹ぺこ令嬢の優雅な一日

ノベルバユーザー172401

1 令嬢、朝食を食べる


夜明けには少しだけ早く、けれど深夜よりはだいぶ遅い時間に、少女はぱちりと目を開いた。
そして寝台の上で、少女はゆったりと身を起こす。花のようなかんばせに浮かべる物憂げな表情は、彼女の美貌をより悩ましげなものにさせている。

少女――アナスタシア・ヴェルトレールは、金髪の滑らかな長い髪をそっと背に払いながら、ぱっちりと大きく長い睫で縁取られた眼はゆったりと閉じた。まるで宝石のようだと称されるサファイアの瞳の色は、今は瞼に隠されて見えない。
ふう、と真っ赤なふっくらとした唇から洩れたため息は、ため息だとわかって尚、可愛らしい。声はまるで鈴が鳴ったようだと言ったのは、誰だったか。
部屋の中を見回して、目当てのものが何もないことを見て取ると、落ち込んだように少女はまたため息を吐いた。

華奢な体は再度寝台に沈む。ぱさり、と髪の毛が広がり彼女はそっと目を外へと向ける。
厚いカーテンで覆われた窓は、日中であれば開かれて太陽が降り注いでいるが、今はまだ夜明けには早い。閉じられたカーテンの外も、この家の中も、すべて眠っている時間。

「…ああ、おなかがすいた…」

愛らしい唇から零れ落ちたのは、たいそう悩ましげな、欲求だった。



***


――ファンベルク王国。
広大な土地でありつつ、海に囲まれているそこは、温暖な気候で作物がよく育つ。また海からとれる海産物にも恵まれ、貿易も盛んにおこなわれ、大国と呼ばれるほどに栄える国。
アナスタシアが生まれたのはその国でも最も栄える王都。王都・ルノエールは、いつだってどんな時でも人であふれている。周りの国の王族と婚姻を結んだおかげか、他国との友好的な関係を築くファンベルクは、多種多様な人種が暮らしている。

現在の王は、民を思い国を思う思慮深い王だった。そのため、過去の王と比べても他国とも友好的に交流しており、戦も表立っては、ない。


アナスタシア・ヴェルトレールはそんな王が信頼する貴族の一人、ヴェルトレール伯爵の愛娘だった。
伯爵には3人の子供がおり、1人目、2人目ともに男だった。男でも我が子は可愛いのだが、最後の3人目は娘。男ばかり生まれていたところに誕生した美しい娘は、伯爵にとって目に入れても痛くないほど可愛い娘。愛さずにして、どうしようというのか。
昔、王宮の花とまで言われた妻によく似た美しい娘を、伯爵も兄たちも可愛がった。その溺愛ぶりは推して知るべし。彼女の母は呆れたように見ていたが、それでも娘を可愛がったし、それは他の物も同じだった。美しく、愛らしく、素直な少女を会ったものは一様に愛して慈しんだ。
――そして、そんな彼女の楽しみは、何よりも食べることである。

「おはようございます、お嬢様。朝でございますよ」
「うう…おはよう、ノエル…。おなかがすいて、泣きそう…」

弱々しい声をあげるアナスタシアを、護衛であり従順な下僕でもあるノエルは、表情の浮かばない顔でそっと起こした。
今ならシーツでも食べられるわ、と齧ろうとする口をふさぐ。そんなことをされたらたまったものではない。本当に、食い散らかされてしまう。

「食事の準備は済んでおります」
「まあ、じゃあ、はやく行かなきゃねえ」
「…昨日、あれほど召し上がったのに、足りませんでしたか?」
「だって、わたし、成長期だもの」

彼女の姿はまだ少女というなりで、成長期と言われれば、確かにその通りであるが。
昨日は3食を、彼女の兄たち(成人男性よりも食べる)と同じ量を食べ、かつ昼食と夕食の前にはお茶の時間として菓子をたらふく食べ、夜寝る前に小腹がすいたと果物を食べた。胸焼けしそうなくらいの食事量だ。
――それでも、まだ、足りないという。
この華奢すぎるほどの体のどこに入ってどこから消えているのか、それがアナスタシアの食事を目にした者たちが一様にして思う事だった。だがしかし、アナスタシアは、一日中口を動かしていたいというほどの大食漢である。

ノエルは、スーツのポケットからキャンディーを出して、片手で起用に包み紙を剥くとアナスタシアの口にそっと当てた。
それを目視してぱあ、と顔を輝かせた彼女に無表情のまま頷く。躊躇なく開かれた、赤い唇の中にキャンディーをそっと押し入れて、唇をなぞってから指を離す。
ふう、と息を吐き出したアナスタシアは、ご機嫌で起き上ってドレスを脱ぎ始め――、ノエルはため息を吐きだしながら速やかに部屋を出た。
いくら気を許している下僕の前だと言っても、一応は成人男性の前で服を着替え始めるのはいかがなものか。教育し直さなければいけないな、と思いながらノエルはそっと部屋の前に待機した。
――かくいうノエルも、アナスタシアを大事に思う一人なのだが。

ノエルの代わりにするりと数人の侍女が部屋へと入っていく。一様に真白い顔をした侍女たちは、きっと甲斐甲斐しくアナスタシアの世話をしているだろう。
白い手袋に包まれた手を懐に入れて、ノエルは懐中時計を取り出した。もうすぐ、アナスタシアの食事が運ばれてくる時間になるところだ。

「よお、ノエル・シュベルツ。アナスタシアはまだか?」
「おはようございます、リアン様。その名前は虫唾が走りますのでおやめくださいとお願いしたはずですが」
「悪いな、物覚えが悪くってよ」

黙っていれば、美しい女性のようなのに、リアン――アナスタシアの兄の一人――は、粗野な口調で前髪をかき上げた。
リアンは、黙ってさえいれば儚げな美女という風貌であるにも関わらず、粗野な口調と乱暴な態度で見た目と中身の差に遠い目をされる人物だ。金髪を首の後ろで結い、サファイア色の瞳は笑みを浮かべていた。
ノエルはそっとリアンから距離を取りながら、着替えをなさっております、と平坦な口調で告げた。

「挨拶でもしてこうかと思ったが、時間がねえ。昼には戻るから昼飯は一緒に」
「お仕事でございますか」
「ああ?そんなたいそうなもんじゃねえよ。ただのネズミ取りだ。ルイスと一緒にな」

とん、と軽く壁に手をついたとたん、壁に亀裂が走った。はあ、とノエルはため息を吐き出し、リアンは弱い壁だなと八つ当たりをするように蹴り上げた。――亀裂の入った壁は、崩れた。

「貴方様は馬鹿みたいな怪力なのですから、もう少し加減をしてください」
「もろい造りにしてあるのが悪いんだろうが。…おい、ここ治しといてくれ」

くそ、と悪態をつきながら、美しい顔を不機嫌に歪めて、リアンは歩いていた使用人に声をかけた。
音もなく表れた使用人が壁を何事もなかったかのように修復していく。

「いってくる。蠅がうるせえな、駆除しといてくれ。ルノエールの化け物なら、簡単に消し去れるだろ?」
「そんな昔の名前を呼ぶのは、貴方くらいですよ。――お気をつけて、蠅は跡形もなく消しておきます」

肩をすくめてリアンは颯爽と去って行った。廊下の奥に、リアンの弟でありアナスタシアの兄であるルイスが見えた。
それを見送ると、ノエルはアナスタシアの部屋の前に立ちなおす。リアンが壊した壁は、そんなことなど無かったかのように傷一つ、ない。


「お待たせ、ノエル。今日のご飯は、なにかな!」

ドアが開いて身支度を整えたアナスタシアが出てくる。
ノエルの前でだけ子供のような口調になる主を見下ろしながら、ノエルはそっと首に巻かれたチョーカーを直した。
淡いブルーのドレスは、白い肌によく栄える。

「本日は、クロワッサンにチーズ入りオムレツ、ポタージュスープに野菜のソテー、果物の盛り合わせとなっております。ところでお嬢様、いくら私の前だといえ、着替えをはじめないようにと申してあるはずですが?」
「む、ノエル、お説教は勘弁だよ。私はすっごくすっごくお腹がすいてるんだから」
「何かあってからでは遅いのですよ」
「ノエルがいる限り何か、があるわけないじゃない?それとも、何か起こるのかな」
「――いいえ、起こさせるはずがありません」

全く持って、言っている意味が伝わっていないが、全幅の信頼は心地いい。
心はもう朝食に飛んでいる主に何をいっても無駄だと、ノエルは嘆息して彼女についていくに従った。キラキラと目を輝かせる彼女の、生きる喜びすべてが、食に向けられているということは知らぬが仏である。
――主に入れ込んでいる、宰相の息子も、王子も、その他大勢も。彼女に会いに来て、または会うたびに、なぜ目を輝かせているのかを知ろうとしないことは、大変いいことだ。会いに来た人間を見ているわけではなく、その手に持っている食べ物にときめいているのだから。
食堂につくといそいそとテーブルについたアナスタシアに給仕をしながら、ノエルは腹の底で笑う。敬愛すべきお嬢様に、愛されるのは、まだ早いのだ。
リアンが昼は一緒に、と言っていたことを伝えるとアナスタシアはさらに目を輝かせた。彼女は食の次に、家族が好きなのである。


「うん、今日も絶品だねえ。頬が落ちてしまいそう」
「それはようございました。料理長に伝えましょう、きっと喜びます」

おいしそうに、けれど優雅に食事をするアナスタシアを見て、部屋に待機する侍女たちの雰囲気が柔らかくなる。使用人たちの癒しの一つが、アナスタシアの食事を見守るということであるのを、知らぬは本人ばかりだ。
アナスタシアは、何でも食べる。“食べ物”であれば、何でも口にして食べてしまう。食べ物、それは“アナスタシア”が“食べられると思ったもの”。
それこそ、彼女には一生縁がないような市井の食事も、貴族の食事も、どんな食べ物だって美味しそうに平らげる。――自分が食べられると思ったものであれば、何だって。

そして、その何でも食べてしまう娘を案じた伯爵が付けたのが、ノエルだ。
元は王宮騎士の一員だったノエルは、化け物と称されるほどの強さを誇り、一人で軽く国一つは崩壊させるだけの実力を持っている。彼が一人で使者として向かった小国で殺されそうになり、国一つを跡形もなく消し去ったという噂が流れたほど。そして自負と、他者からの評価が一致する。
それほどの実力は、騎士たちを恐れさせたが、仲間というくくりに加えたことで安心もされていた。化け物に敵対する立場にはいないという安心感。
――だが、なによりも安堵されたのは。
王宮騎士の中でも、一際武術に秀でておりその力はまるで化け物だと呼ばれていたほどに腕の立つ男が、王宮騎士団の中から名前を消したことでもある。
騎士団に居ながら、剣をささげる主を見いだせなかった主のいない犬は、ただの、野獣だった。いつ手を噛まれても仕方のない状態で飼う状態はさぞ扱いに頭を悩ませたことだろう。仲間だからといって、裏切らない保証がない男だったのだから。けれどそれがなくなったことが、王国の安堵であり弱点になった。1人で小国ひとつ潰してしまえる実力は、他国への牽制にもなっていたのだから。
騎士団から名前が消えた一人の男は、こうして生まれ変わったのだ。

今の彼は、ただのノエル。王宮騎士だった過去はもう終わったことなのである。彼は一人の主を見つけ、主の忠犬となったのだ。
良く鍛えられた体に長身、菫色の瞳に黒い髪の美青年――ぼう、と彼を見る女性も多いのだが、ノエル自身はその視線を鬱陶しい蠅のようにしか思っていない。所詮、見た目だけで騒がれているに過ぎないのだ。誰も彼もがノエルの内面が良い人だと疑ってやまない。
そんなことは、ないのだ。――彼にとって大事なのは仕える主と彼女を守ること。そのためであれば、どんなものも利用するし、生命すら奪える。一度決めたのならば盲目なまでに主に仕える、それがノエルである。
そして、彼のその対象は、アナスタシア以外に在り得ないのだ。今後も。――そして、主を見つけた忠犬は、今日も主のために仕えている。


アナスタシアはフルーツに手を伸ばしたところだった。それを見ながら、飲み干されたティーカップに紅茶を継ぎ足そうとして、ノエルはすっと静かにアナスタシアに近づいた。
そして、柔らかな手つきで、決して動かせないようにノエルはアナスタシアの白魚のような手を掴む。アナスタシアの手には、テーブルに飾られていた花が一輪掴まれていた。
その花はあと少しで口に入るところ。

「薔薇は、愛でる物ですよ」
「む。だって、こんなに綺麗なんだよ?食べたらきっと、すごくすごーく、おいしいと思うんだけどな」
「アナスタシア様、昼食の前のティータイムに、花で作ったデザートをご用意します。そちらは、食用ではありませんので。
愛でるために咲かせた花は、愛でなければなりませんよ」

そっと薔薇を取り上げ、その指に口づける。力の入れられた花の欠片が一片、舞う。
食堂にはノエルとアナスタシアしかいなくなっていた。残念そうに口をつぼめたアナスタシアは、けれどノエルの視線を感じてゆっくりと唇に笑みの形を作る。

「そうだね、せっかく咲いたのにすぐに食べてしまったら、可哀想だよね」
「わかっていただけましたか」

アナスタシアの長所は、素直なところである。
――単純とも、いう。

「でも、みんなに見てもらったら最期は私が食べて《愛して》あげるからね」

にっこり、少女のような幼い外見に似合わない蠱惑的な笑みを浮かべて言うその姿は、大変美しいのだが。
ノエルは朝だというのに、何回目ともつかないため息を吐きだして、テーブルの上の花を取り上げた。唇をぺろりと行儀悪く舐めたアナスタシアは、きちんとしたテーブルマナーでフルーツを口に含む。おいしい、笑う彼女に従順な召使はそっと目を伏せる。

――どことなく、花たちは萎れているように見えた。












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