ルーツレス・クラン

井上数樹

ヴェローナの二人

 マヤが渋るカイルを美容院に連れ込んでから早一時間、エンデの『果てしない物語』をちょうど読み終わった所で、疲れ顔のカイルが奥から歩いてきた。慣れない場所に来て、そのまま一時間座りっぱなしだったため、気疲れしているのだろう。
 だが、本をぱたんと閉じて見上げたマヤは、意外にも彼の新しい髪型が似合っていることに気付いた。思わず口に出してそう言ってしまったほどだ。
「そうかあ?」
 言われた当の本人は、怪訝な顔で髪の先を摘まんだり引っ張ったりしている。ワックスを塗られた髪の、ごわごわとした感じが気になって仕方がない。カットの費用はもちろん自分で出したし、リュカから貰ったお小遣いにも余裕はあったが、提示された金額を見て反射的にうめき声を漏らしてしまった。シノーペなら一月は暮らしていける額だった。
 店を出てもカイルは髪をいじっていた。
「気に入らないなら、ここ切ってくださいって言えば良かったのに」
「素人の俺が口を突っ込んだら悪いだろ」
「馬鹿ね。相手だってプロなんだから、注文くらいちゃんと聞いてくれるわよ」
「そうかな。なら、ちょっと勿体ないことしたな」
 人に何かをしてもらうことに慣れていないカイルは、注文の仕方というものが分からないし、丁寧語で話しかけられても自分に向けられているのだと分からない。だから呆けてしまうし、「はい」とか「うん」としか答えられなくなる。少年ながらずいぶん人生経験を積んでいる彼だが、まだまだ知らないことの方が多い。
「どこが気に入らないの」
「後ろ髪が……もっと短くしてくれたら良かったのに」
 マヤは呆れ顔で溜息をつくと、懐から黒いヘアゴムを取り出した。彼女はそれで、確かに長いままの彼の後ろ髪を手早く結ってしまった。そして、小さく噴き出す。
「まるで箒ね!」
「お前が勝手に結んだんだろ」
「でも少しは涼しくなったでしょ?」
「それは、まあ」
「なら、未練がましく髪をいじるのはやめなさい。格好悪いわ」
「ん……」
 冗談交じりとはいえ、格好悪いとまで言われては立つ瀬がない。カイルは行き場の無くなった右手をポケットに突っ込んだ。
 時計を見ると、もう六時を指していた。第一階層の天井に空いた隙間から暮れかけの空が覗いて見えている。
「もう帰らないと。ホテルの食堂も開いてる頃じゃない?」
 彼女たちが泊まっているホテルには二か所の食堂が設けられている。片方は第一階層の側に、もう片方は第二階層の側にあって、前者の方にはセルヴィは立ち入ることが出来ない。しかも、セルヴィ用の食堂は従業員と共用で、利用者の数も多いので、もたもたしていると残り物を掻き集める羽目になる。
「今から帰っても、ぎゅうぎゅう詰めじゃないか? それなら、いっそ外で食べて帰ろうぜ」
 あそこじゃ息苦しいしな、とカイルが笑う。マヤも否定しなかった。
「それは……そうね」
 マヤは少しだけ自分の唇に触れ、すぐに放した。その仕草の長さは、そのまま彼女の思考時間と同じなので、ほぼ即決だったと言って良い。
「じゃあ、どこにするの?」
「適当に屋台で買って、場所は歩きながら考えよう」
 な? と笑って見せるカイルに、マヤは「行き当たりばったりね」と返し、それでも文句は言わずに彼についてきた。そんな彼女に、カイルは言う。
「お前って、意外と付き合い良いんだな」
 本当に意外な思いだった。彼女を見かけるときは、基本的に堅苦しいスーツに身を包んでいるし、表情もあまり変えることがない。ただし、呆れ顔を見せられることは増えてきたかな、と思う。
「これが普通よ」
「そういう割には、最初はずいぶんつんけんしてたじゃないか」
「それは初対面の印象が最悪だったから。あなたのせいよ」
「ちょっとは反省してるさ」
「大いに反省しなさい」
 軽口に軽口で返しながら、マヤ自身、なぜ自分がこんなに彼に対して打ち解けているのか分からなかった。自分にこうもすらすらと喋れる能力があったことが驚きだ。リュカもカーリーも好きだし、心を許しているが、どうしても堅苦しい言葉で話してしまう。歳が離れていることに加えて、最初にそういう喋り方を成立させてしまったので、今さら変えても違和感しか残らないのだ。
 思えば、同年代の他人、しかも異性とここまで関わりを持ったのは、カイルが初めてなのだ。最初こそ彼の破廉恥な行為に狼狽させられたし、たびたびセクハラまがいの言動を発したりもするが、それらは良くも悪くも彼の率直な気質のあらわれだった。触られたりするのは御免だが、正直、その率直さは嫌いではない。
 二人は各階層をぶち抜いているセントラル・エレベーター前の広場で買い物をした。ちょうど軽食を売っている屋台があったので、焼き肉を挟んだパニーニ、貝柱のフリット、塩をまぶした人参やセロリに辛口のジンジャーエールと、カイルが次々に注文していってしまった。それから最後に、アップルパイを二切れ。全て二人分なので結構な額になったが、別に自分の懐が痛むわけでもないので、遠慮なく買い込んでしまった。それにリュカの散財振りを散々見た後では、これくらいの贅沢など取るに足らないものと思えてしまう。
 カイルは全額負担するつもりでいたのだが、半分はマヤが出した。わざわざついてきてくれたのだから、これくらいは出すと言ったら、ポリシーに反すると言われた。
「あなたがそういうことを言うとは思わないけど、全部男の人に出してもらっていたら、いつか、俺が出してやったんだって強弁されるかもしれないでしょう?」
 そのうえ、相手に奢るのなら自分の稼いだ金でやれとまで言われて、さすがに恥じ入ってしまった。正論なので言い返すことも出来ず、恥かしそうに頬を掻くカイル。
「……まあ、私だってリュカからお小遣いを貰っている身分だから、偉そうなことはあまり言えないけど。何か奢ってくれるなら、また今度、あなたのお金でそうして」
「ああ。憶えておくよ」
 セントラル・エレベーター前から東に延びている大通りを真っ直ぐ進むと、頭上の第一階層が途切れた露天展望台に至る。各階層は上にいくほど面積が狭くなっていくので、こうしてはみ出た部分が展望台として各階層に設けられているのだ。ただし、第三階層以下に居住区を割り当てられた劣種は、許可証が無い限り第二階層に入れない。第一階層に出ることは完全に禁じられており、第一階層の店に商品を搬入する時でさえ専用の搬入口を利用するよう指定されている。
 カイルが後ろを振り返ると、天まで伸びる巨大な軌道エレベーターと、その周囲を取り囲む高層建築群が目に映る。それらの建物と建物の間を結ぶブリッジの上では、無数の光が慌ただしく行き交っている。
 そのまま視線を上に向けると、濃紺の空とオービタル・リングの影、そして宇宙船の航跡が彗星のように光を引きずって、ずっと遠くまで伸びていく。天然の星の光は、地表の光量が強すぎるため見えない。
「空……」
 階層都市の東にはイアイラ海が広がり、微かに波の轟きが聞こえてくる。今は暗くなっているので見えないが、昼間なら階層都市の基幹部に波がぶつかるのが見えるのだ。
「それに海か……!」
 ここヴェローナに来るまで、一度も見たことのない光景だ。コロニー・シノーペでは、居住区と宇宙港の仕切りなどあってないようなものだったので、船が間近で出航していく光景は何度も見た。だが、こうして下から見上げるのは初めてだ。晴天も曇天も、地上の人間にとっては当たり前のことだが、彼にとっては何もかもが目新しい。空だけ見上げていても一日過ごせるかもしれない。海も同様である。
 星の上に降りたのなら、空や海などいくらでも見ることが出来ると思っていたが、実際にはリュカの行動に左右されてゆっくりと見上げることは出来なかった。宿泊している場所も第二階層なので、鉄の天井に遮られている。
 出来れば昼間に出て見たかった。可能なら浜辺まで降りて行きたいとさえ思う。考えてみれば妙なことだが、どこまでも行きたいと思っている自分が、人類の根源的なルーツである海には一度も触れたことが無いのだ。まさしく根無し草である。
「なあ、マヤ」
「なに?」
「お前、海って行ったことあるか?」
 カイルがそう訪ねると、マヤは首を横に振った。
「ううん、無い」
「そっか」
 呟き、カイルは木製のベンチに腰を下ろす。夕食を入れた紙袋を隔てて、マヤも彼の隣に座った。
「藪から棒に何よ」
「聞いてみただけさ。俺は南部宇宙も東部宇宙も行ったことがないし、星に降りるのだって今回が初めてなんだ。マヤの方が、いろんな所に行ってると思ったんだけど……」
「そうね。ヴェローナほど大きくはないけど、どこの星だって階層都市が作られて、その中で人が暮らしているわけだし……人間の入れる海なんて、地球とか、辺境の観光惑星くらいしか無いんじゃないかな」
「地球かあ。俺には一生、縁がないだろうな」
「私だってそうよ。リュカも行く気はないだろうし」
 そう言ってマヤはセロリを齧った。ぱきっ、と茎の弾ける音がした。
 人類発祥の星である地球は、この時代にあってもいまだに求心力を持ち続けている。政治の中枢は惑星インフェリオルに移ったが、生涯に一度でもそこを訪れたいと思う人は、種を問わず数多く存在する。ルジェ階級のサラリーマンや下級役人が、退職後の一大目標として地球旅行のための貯金をしているということはざらにある話だ。
 人類の宇宙進出を教義とする至天教がイデオロギーとして成立していることを考えれば、背信的な感情と言えるが、それを大声で言う者は少ない。至天教の高僧の中にはリピーターとして何度も地球を訪れる者も多いという。
 そういう人たちにとっては、やはり地球は特別なのだろうな、とカイルは思う。人類が居住空間を宇宙にまで拡張してなお、あの青い星には不死の憧憬が住まわっている。
 カイルにも行ってみたいという欲望がないわけではない。ただし、それはあくまで「行く」のであって「帰る」という意識には由らないのである。もし、万が一行くことがあったとしても、そこを離れた瞬間に地球は彼にとって一つの過去に過ぎなくなるだろう。
 皮肉だな、とカイルは思う。
 銀河を支配したドミナは、それまで自分たちを支配していたセルヴィを宇宙に上げて入れ替わるように星を支配した。そして階層都市を築き、階級によって人々を選り分け、自分たちだけが甘い汁を吸える世界を新たに構築した。だが、それでは以前と何も変わらない。
 スペルの開花が、たとえ支配者に因る搾取や弾圧に由来するとしても、やはりそれはなるべくしてなったのだろうとカイルは思う。彼の場合、幼少期に誰かとろくに話した記憶がないにもかかわらず、自然と言葉を発することが出来る。それが無ければ生きていけなかったからだ。
 人間は生きていくために必要なものを自然と取り揃えていく生き物なのだ。長い人類史の中で、それこそ飛躍的とさえ思えるような進化を何度も繰り返して。二本足で歩くということ、空いた手に物を持つこと、火に触れること、言葉を話すこと、文字を作ること。そして宗教と学問が生まれ、天文学は望遠鏡を産み出し、レンズの向こうに人間の感覚を超えて必ず永遠に存在するに違いない空間を発見した。いつしか、増えすぎた人類にとってその無限の空間が必要となり、その中で生きていくための力……スペルを発現させた。
 小難しい話になると、進化論が云々ということになるのだろうが、生憎彼にそんな学は無い。全て直感であった。もしカーリーがこの場にいれば、彼の考えがエラン・ヴィタールに似ている、と指摘したかもしれない。
 だが、ドミナは現在進行形でそうした進化の業績を失い続けているのだ。いつか、かつてセルヴィだった者がドミナに、ドミナだった者がセルヴィへと落ちぶれる時が来るかもしれない。そしてまた、戦争が起きるのだろう。
 だが、そんなことはもっとずっと先のことだ、そういう確信があった。ドミナがドミナとして生まれてくる以上、世界の逆転も無数の世代交代の果てにしか起きえない。自分が死んだ後のことなど、今のカイルには想像も出来なかったし、する必要があるとも思わなかった。
「どうしたの? 食べないの?」
「えっ、ああ、そうだな!」
 空を見上げたままぼうっとしていたカイルに、マヤが怪訝な表情を向けている。考え事を中断すると同時に忘れていた空腹感が襲ってきて、腹がくぅっという情けない音を立てた。
 パニーニの包みを破ると、溝のように焦げ目をつけられたパンに、薄切りにした牛肉がキャベツと一緒に挟まれている。カイルが口に運ぼうとするとチリソースがじわりと溢れてきた。
 パンのさくりとした食感に続いて、チリソースの鋭い辛さが舌を焦がす。それを覆い被せるように肉汁が広がり、キャベツの甘さが加わって、最初の一口だけで空腹を忘れさせてしまった。二口、三口と口いっぱいに頬張り、ジンジャーエールで流し込む。シノーペでよく飲んでいたものと違って、しっかりと生姜の味と辛さが出ていた。だが、隣で恐る恐るといった様子で口をつけたマヤは、飲み慣れていないためにむせ返ってしまった。
「大丈夫か?」
 彼女の背中をさすってやったのは反射的な行為だった。邪気などまるで無かったのだが、彼女の咳が収まって改めて状況を顧みると、まるで恋人にするように肩を抱く形となっていることに気付いた。
「あ、ありがとう……」
 立ち直った彼女が礼を言う、と同時に、カイルと同じことを思ってしまった。そして奇妙な沈黙が訪れる。マヤも、彼が意図的にやったわけでもなければ、下心を含ませてもいないと分かっていたが、その分余計に突き放し難い。直前に礼まで言ってしまった手前、ここで怒るのは理不尽な気がした。
 一方、カイルはマヤほど混乱してはいない。生地越しに彼女の体温が掌に伝わってきて、気恥かしい幸福感を覚えてはいるものの、それで狼狽するようなことはなかった。ただ、純粋だった親切心が次第に助平心へ転じつつあることは自覚していた。
 仕方がないだろ、と胸中で自己弁護する。
 最高のロケーションの下、麗しい少女を抱き寄せているのだから、邪念が沸き起こらない方がどうかしている。
(惚れちゃったかな……)
 誰かに恋心を抱くのは初めてではないから、自分がかなり靡いてしまっていることに気付いていた。
 このまま唇を寄せて行ったらどうなるだろう。彼女の薄紅色のそれは、まったく無防備なまま目の前にある。あと数秒でも同じ態勢が続いていれば、誘惑に負けていたかもしれない。
 そんな夢のような時間は、だが、銃弾の連射される音によって掻き消えた。カイルは反射的に身を引き、周囲に視線を走らせる。
「ここじゃないわ。第三階層の外周部からよ」
 隣からマヤの冷静な、いっそ冷淡とさえ思えるような呟きが聞こえた。彼が振り返ると、彼女の照れや恥じらいの表情は嘘のように消え去っていて、俯いた横顔には憂鬱だけが浮かんでいる。
「どうしても宇宙に出たい人達が、脱走しようとして撃たれるの。宇宙に出た方が働き口は多いからだって、昔知り合った人が言っていたわ」
 マヤが言い終わらない内に、カイルは矢も楯もたまらず駆け出していた。「カイル!」と怒鳴っても足の止まる様子は全くなかったので、マヤも慌ただしく食べ物を掻き集めて後を追った。

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