真夜中の約束、君からのオブコニカ
2.いざ、依頼主の元へ
僕は人生で何度目かになるタクシーを降りて、目の前に広がる建物を見上げた。石塀に囲まれた向こうに見える、空に負けない鮮やかな瑠璃色の屋根。無駄に大きな門を正面に捉えれば、今にも絵に描いたような姫や王子が飛び出てきそうな白壁の、秩序正しくシンメトリーな洋館。高級住宅街からも離れたここは、異様な程に静かだ。先程自分が飛び出してきた築六十年の古ぼけた倒れかけのビルと騒音を思い出して、格差社会の世知辛さを感じた。
石塀に靴音を残しそうになった時、視線を感じ門の向こうを見返すと、細く鋭い目をした黒スーツの大男が僕をじっと見つめていた。この人は所謂、執事というやつだろうか。つるりとしたスキンヘッドが光を反射する。睨まれているけど、もしや僕は不審者に認定されたのではないか。そんな若干の不安を抱いた僕を余所に、後ろに聳える清潔感のある洋館とどうにもミスマッチなその男は、恭しくお辞儀をすると口を開いた。
「神咲歩様でいらっしゃいますね? どうぞこちらへ」
無駄に大きな門の傍、石塀にカムフラージュされたドアがゆっくりと開かれる。大男に再度どうぞと招かれて、僕はお気に入りのハットを深く被り直して姫井家宅に足を踏み入れた。背中でドアの閉まる音を感じると、大男が音も無く僕の前を歩き出す。自己紹介の概念は無いのだろうか。それとももしや、やっぱり不審者だと疑われているのだろうか。
黙ったままの大男の背にひたすら付いて行く。もう少し配慮していただきたい。僕と貴方では身長差があるのだから歩幅の大きさも違うのですよ! 遅れをとるなんて格好悪いから付いて行きますけどね!
「どうぞ」
やっとの思いで玄関に辿り着いた時、僕は息切れをしていた。だけど大男はそんな事には意を返さず、観音開きの大きなドアを開けて入るよう促す。想像していた執事と違う。姫井氏はよくこんなに無愛想で気の利かない男を執事にしているものだ。
中に入ると吹き抜けの玄関フロア。大理石の床から伸びた緩やかな螺旋階段が二階まで続いている。とても美しい設計だ。このフロアから左右に通路が伸びているが二階も同様だろう。
「まず旦那様の元へお連れ致します。こちらへ」
大男が左の通路へと入っていく。青い絨毯の敷かれた通路。柔らかな感触を確かめていると、左手前のドアの前で、こちらです、と告げられる。小気味良いノックの音を響かせて、男はドアに顔を寄せた。
「旦那様、神咲様がお見えになりました」
ドアの向こうから小さく返事が聞こえる。いよいよ当主様とのご対面だ。
「お呼び立てして申し訳ない。姫井壱と申します」
「神咲歩です。依頼を受けたらどこまでも行くのがポリシーですので、お気になさらず。こちらこそ出張費まで上乗せして頂いて恐縮です」
固い握手を交わし、名刺交換をする。七十歳前後といったところだろうか。壱さんは豊かな笑い皺を更に深くして、にこりと微笑んだ。今まで大男の睨みにしか遭っていなかった為、その笑顔が胸に沁みた。
掛けるよう勧められて、見るからに高級そうな大きなソファに腰を落とす。事務所のソファもかなり奮発したけど、比べ物にならないな。
「それにしてもかなりお若い方のようで。今のお仕事はどの位?」
「五年目に入りました。歳は二十五になったところです」
「おや、その若さで。素晴らしいですな。期待しておりますぞ」
微かな物音がして、大男が紅茶を運んできたのが分かった。どうやったらそんなに存在感を消せるのか教えて欲しい。
「木村、今日はちゃんと名乗ったのか?」
「……いえ」
「神崎さん、申し訳ない。うちの使用人が失礼を致しました。これは木村範正と言いまして、うちで長い事雑務をしてくれていますので、調査中に困った事があれば木村にお聞きください。こう見えて仕事はできますので」
主人に紹介されて一つお辞儀をする木村さん。目付きの悪い忠犬という事か。お世話になる事はあまりないだろう。正直世話されたくない。そう思いつつ笑顔でお辞儀を返しておいた。
「木村、あれを」
「只今お持ち致します」
木村さんが部屋を出ると、目の前の人物は館の主人から気の良いおじいさんに変わる。年配なのに何やら人懐っこい顔で笑う人だ。
「皆さん、どなたも指輪を見かけたりされていないんですよね?」
「いつも首から下げていましたから目にする事も少なかったですしね。無くなった事にも気付いていませんでした。
……正直な話、私も複雑な気持ちなんです」
「と言いますと?」
「いやね、あの子は要領の良い子で今まで失敗らしい失敗もしてこなかったし、我儘も言った事が無い。聞き分けが良くて手のかからない親思いの優しい子なんですよ。親馬鹿ですがね」
恥ずかしそうに、それでも嬉しそうな表情で頭を掻いた。
「そんな子がこんな時期に大事な婚約指輪を無くしてしまう。驚きました。
……十六で婚約させてしまったのでね。宇加治君には申し訳ないが、雪がまだ結婚せずに私達の娘のままで居たいと思ってくれているような、そんな気がしてしまって。嬉しい気持ちもあったりするんですよ。考えすぎですがね」
娘を嫁に出す父親というのはこんな目をするんだな。愛おしむような寂しいような、そんな複雑な色をした目で遠くを見つめていた。
僕はそんな壱さんを見て、いつまでも貴方の娘さんですよ、というありきたりな言葉しかかけられなかった。それでも気持ちを汲み取ってくれ、そうですね、と微笑んで返してくれた。
木村さんがまた音も無く戻って来る。壱さんは木村さんから何かの用紙を受け取ると、下がっていい、と告げる。失礼します、という言葉と共に木村さんが部屋を出ると、壱さんは手にある用紙をこちらに見せてくれた。
「これが頼まれていたうちの間取り図です。こっちが一階、こちらが二階」
「ありがとうございます。助かります」
昨日志賀さんに頼んでおいたものだ。手当たり次第部屋を開けていたのでは時間がかかるし、宇加治氏に悟られずに探すという条件下では不利だ。間取り図を元に、落としたであろう場所を絞り込んでいく方が効率的に探す事ができるだろう。
中央の円形の玄関ホールから左右に伸びる廊下、その両側に部屋が並んでいる。書き込まれた名前を見るに、一階に壱さん御夫婦の部屋が、二階に雪さんや宇加治氏、それから使用人の部屋が四部屋設けられているようだ。あとは取り立てて上げるとすれば食堂と、六部屋の客間だろうか。
「お嬢さんとご両親の部屋は離れているのですね」
気になった事をそのまま口にしてみる。壱さん御夫婦の部屋は一階の奥、この応接室の二つ隣にある。しかし雪さんの部屋は二階の右側の通路の左手奥。つまり最も離れた位置になる。昨日の話では相当溺愛している風だったのに、ここまで離れているのは不思議だった。
「えぇ。むつみから聞いたかと思いますが、私達はあの子を守る為に細心の注意を払っています。玄関から遠い位置に居れば、もし誰かが押し入って来た場合にいち早く逃れる事ができる。そう思ってここにしたんです」
娘を愛する故、という事だろうか。僕にはその感覚が理解できないけれど、そういうものなのかもしれないな。
だけど、腑に落ちない。
「失礼を承知で伺いますが、どうしてそこまでして雪さんを隠しておく必要があるのですか?」
僕の問い掛けに壱さんは苦い顔をして、それから諦めたように首を振った。
「その話は、夜に酒を飲みながら致しましょう」
「……分かりました」
僕の悪い所は気になりだしたら止まらない所だ。どうしても追求したくなる。だけど今回の事は少し不躾だったかもしれない。壱さんの落とした視線に申し訳なくなった。
応接室を後にして、またも木村さんの後に付いてまずは僕が泊まる客間へと案内される。玄関ホールを過ぎて通路の左手前の部屋。僕の事務所と住居スペースを足したよりやや広い部屋は、まるでホテルの一室だ。木村さんの説明で奥のドアを開けるとトイレと風呂が付いている。客間は全て同じ作りだと言うから、こんなのが六部屋もあるなんてどういう事だ、と悪態をつきそうになった。
部屋で思い悩むのはやめにして、今度は雪さんの部屋へと向かう。落とした本人に直接話を聞く為だ。螺旋階段を上り、左手に進む。
「右ではないのですか?」
「螺旋階段を上がると向きが反対になりますので」
「……あ、そうか。すみません」
こんなところで方向音痴が顔を出すとは。相手が木村さんで良かったかもしれない。
奥まで進むと、木村さんはドアをノックし声を掛ける。ドア越しなのによく通る声が、どうぞと返す。開かれたドアの向こうに視線を移すと、僕の時間は止まった。
大きな窓から燦々と差す太陽の光、それを受けて艶やかに光る栗色の長い髪、汚れのない白い横顔。若草色のワンピースから伸びる手足は隠れても尚、細く長い事が分かった。読書に勤しむ姿は一枚の絵のようだ。本に落としていた目をこちらに向け、ゆっくり立ち上がる動きはしなやかで、一歩ずつこちらへ近付いてくる毎に僕は動けなくなっていく。真っ直ぐに見つめ合ったその視線を逸らす事は叶わなかった。
「神咲さんですね。初めまして、雪と申します。どうぞ、お入り下さい」
促されてようやく動き出す事ができた。僕はこれほどまでに美しい人を見た事がない。二十歳を目前にしているとは思えない程、この女性は既に完成されていた。
「お美しい。姫井雪さん。その名の通り、まるで白雪姫に出会ったようだ」
「まぁ、お上手ですね。そちらにお掛け下さい」
窓際の椅子に座り対面する。いつの間にか木村さんは居なくなっていた。
「すみません、とても急なお願いで」
「いえ、とんでもない。必ず見つけ出して見せます」
「そう。お願いしますね」
そう言って微笑んだ表情が物憂げで、それすらも彼女の美しさを引き立てている。これはいけない。仕事に支障が出る。視線を横にずらして見ないようにしながら、聞き込みを開始する事にした。
「では早速ですが、指輪を無くされたのはいつの事でしょう?」
「三日前です」
「どういう状況で無くしましたか? 例えば一旦首から外してどこかに置いていたら無くなったのか、それとも指輪を下げたチェーンが外れたか切れたかしていつの間にか無くなったのか」
「多分チェーンが切れたんだと思います。古い物を使っていたので」
聞いた言葉をメモ帳に書き込んでいく。どんな言葉がヒントになるか分からないから、全てをメモする事にしている。僕は続く質問を投げ掛けた。
「無くなった事に気が付いたのはどこで、いつ頃でしたか?」
「裏庭から部屋に戻ってきた時です。時間は夕方四時過ぎでした」
「時間、細かく覚えておられるのですね」
「四時に雨が降り出して部屋に戻る事にしたので」
「庭では何を?」
「この本を読んでいました」
先程も読んでいた厚い本の表紙を見せてくれる。英字の本だ。可愛らしい少女と少年が手を繋いで座っている絵が描かれている。
それにしても質問に淀みなく答えてくれるから助かる。お得意様の高橋さんはよく物を無くすのに、聞けばどうだったかしらと首を傾げるばかりで中々捜索に移れないから時間がかかりすぎる。少しくらい落とさないように注意しておいてほしいものだ。
「確実に身に着けていたと言えるのはいつ頃でしょう?」
「庭に向かう為に部屋を出た時には感触がありましたから、二時頃です」
「部屋から出て庭まで行く間、もしくは帰ってくる間、どこかに寄ったりはしませんでしたか?」
「いいえ、どこにも。直接向かいましたし、直接戻ってきました」
という事はどう考えても部屋と庭との動線上しかない。これは案外簡単に見つかりそうだな。
「宜しかったら、三日前と同じように庭まで歩いて頂けませんか?」
「分かりました。お待ち下さい」
立ち上がり、くるりと背中を向けた瞬間。舞う柔らかな髪、翻る裾、花の様な香り。仕事中でありながら一人胸をときめかせた。
そして上昇し始めた床に一人慌てふためいた。
石塀に靴音を残しそうになった時、視線を感じ門の向こうを見返すと、細く鋭い目をした黒スーツの大男が僕をじっと見つめていた。この人は所謂、執事というやつだろうか。つるりとしたスキンヘッドが光を反射する。睨まれているけど、もしや僕は不審者に認定されたのではないか。そんな若干の不安を抱いた僕を余所に、後ろに聳える清潔感のある洋館とどうにもミスマッチなその男は、恭しくお辞儀をすると口を開いた。
「神咲歩様でいらっしゃいますね? どうぞこちらへ」
無駄に大きな門の傍、石塀にカムフラージュされたドアがゆっくりと開かれる。大男に再度どうぞと招かれて、僕はお気に入りのハットを深く被り直して姫井家宅に足を踏み入れた。背中でドアの閉まる音を感じると、大男が音も無く僕の前を歩き出す。自己紹介の概念は無いのだろうか。それとももしや、やっぱり不審者だと疑われているのだろうか。
黙ったままの大男の背にひたすら付いて行く。もう少し配慮していただきたい。僕と貴方では身長差があるのだから歩幅の大きさも違うのですよ! 遅れをとるなんて格好悪いから付いて行きますけどね!
「どうぞ」
やっとの思いで玄関に辿り着いた時、僕は息切れをしていた。だけど大男はそんな事には意を返さず、観音開きの大きなドアを開けて入るよう促す。想像していた執事と違う。姫井氏はよくこんなに無愛想で気の利かない男を執事にしているものだ。
中に入ると吹き抜けの玄関フロア。大理石の床から伸びた緩やかな螺旋階段が二階まで続いている。とても美しい設計だ。このフロアから左右に通路が伸びているが二階も同様だろう。
「まず旦那様の元へお連れ致します。こちらへ」
大男が左の通路へと入っていく。青い絨毯の敷かれた通路。柔らかな感触を確かめていると、左手前のドアの前で、こちらです、と告げられる。小気味良いノックの音を響かせて、男はドアに顔を寄せた。
「旦那様、神咲様がお見えになりました」
ドアの向こうから小さく返事が聞こえる。いよいよ当主様とのご対面だ。
「お呼び立てして申し訳ない。姫井壱と申します」
「神咲歩です。依頼を受けたらどこまでも行くのがポリシーですので、お気になさらず。こちらこそ出張費まで上乗せして頂いて恐縮です」
固い握手を交わし、名刺交換をする。七十歳前後といったところだろうか。壱さんは豊かな笑い皺を更に深くして、にこりと微笑んだ。今まで大男の睨みにしか遭っていなかった為、その笑顔が胸に沁みた。
掛けるよう勧められて、見るからに高級そうな大きなソファに腰を落とす。事務所のソファもかなり奮発したけど、比べ物にならないな。
「それにしてもかなりお若い方のようで。今のお仕事はどの位?」
「五年目に入りました。歳は二十五になったところです」
「おや、その若さで。素晴らしいですな。期待しておりますぞ」
微かな物音がして、大男が紅茶を運んできたのが分かった。どうやったらそんなに存在感を消せるのか教えて欲しい。
「木村、今日はちゃんと名乗ったのか?」
「……いえ」
「神崎さん、申し訳ない。うちの使用人が失礼を致しました。これは木村範正と言いまして、うちで長い事雑務をしてくれていますので、調査中に困った事があれば木村にお聞きください。こう見えて仕事はできますので」
主人に紹介されて一つお辞儀をする木村さん。目付きの悪い忠犬という事か。お世話になる事はあまりないだろう。正直世話されたくない。そう思いつつ笑顔でお辞儀を返しておいた。
「木村、あれを」
「只今お持ち致します」
木村さんが部屋を出ると、目の前の人物は館の主人から気の良いおじいさんに変わる。年配なのに何やら人懐っこい顔で笑う人だ。
「皆さん、どなたも指輪を見かけたりされていないんですよね?」
「いつも首から下げていましたから目にする事も少なかったですしね。無くなった事にも気付いていませんでした。
……正直な話、私も複雑な気持ちなんです」
「と言いますと?」
「いやね、あの子は要領の良い子で今まで失敗らしい失敗もしてこなかったし、我儘も言った事が無い。聞き分けが良くて手のかからない親思いの優しい子なんですよ。親馬鹿ですがね」
恥ずかしそうに、それでも嬉しそうな表情で頭を掻いた。
「そんな子がこんな時期に大事な婚約指輪を無くしてしまう。驚きました。
……十六で婚約させてしまったのでね。宇加治君には申し訳ないが、雪がまだ結婚せずに私達の娘のままで居たいと思ってくれているような、そんな気がしてしまって。嬉しい気持ちもあったりするんですよ。考えすぎですがね」
娘を嫁に出す父親というのはこんな目をするんだな。愛おしむような寂しいような、そんな複雑な色をした目で遠くを見つめていた。
僕はそんな壱さんを見て、いつまでも貴方の娘さんですよ、というありきたりな言葉しかかけられなかった。それでも気持ちを汲み取ってくれ、そうですね、と微笑んで返してくれた。
木村さんがまた音も無く戻って来る。壱さんは木村さんから何かの用紙を受け取ると、下がっていい、と告げる。失礼します、という言葉と共に木村さんが部屋を出ると、壱さんは手にある用紙をこちらに見せてくれた。
「これが頼まれていたうちの間取り図です。こっちが一階、こちらが二階」
「ありがとうございます。助かります」
昨日志賀さんに頼んでおいたものだ。手当たり次第部屋を開けていたのでは時間がかかるし、宇加治氏に悟られずに探すという条件下では不利だ。間取り図を元に、落としたであろう場所を絞り込んでいく方が効率的に探す事ができるだろう。
中央の円形の玄関ホールから左右に伸びる廊下、その両側に部屋が並んでいる。書き込まれた名前を見るに、一階に壱さん御夫婦の部屋が、二階に雪さんや宇加治氏、それから使用人の部屋が四部屋設けられているようだ。あとは取り立てて上げるとすれば食堂と、六部屋の客間だろうか。
「お嬢さんとご両親の部屋は離れているのですね」
気になった事をそのまま口にしてみる。壱さん御夫婦の部屋は一階の奥、この応接室の二つ隣にある。しかし雪さんの部屋は二階の右側の通路の左手奥。つまり最も離れた位置になる。昨日の話では相当溺愛している風だったのに、ここまで離れているのは不思議だった。
「えぇ。むつみから聞いたかと思いますが、私達はあの子を守る為に細心の注意を払っています。玄関から遠い位置に居れば、もし誰かが押し入って来た場合にいち早く逃れる事ができる。そう思ってここにしたんです」
娘を愛する故、という事だろうか。僕にはその感覚が理解できないけれど、そういうものなのかもしれないな。
だけど、腑に落ちない。
「失礼を承知で伺いますが、どうしてそこまでして雪さんを隠しておく必要があるのですか?」
僕の問い掛けに壱さんは苦い顔をして、それから諦めたように首を振った。
「その話は、夜に酒を飲みながら致しましょう」
「……分かりました」
僕の悪い所は気になりだしたら止まらない所だ。どうしても追求したくなる。だけど今回の事は少し不躾だったかもしれない。壱さんの落とした視線に申し訳なくなった。
応接室を後にして、またも木村さんの後に付いてまずは僕が泊まる客間へと案内される。玄関ホールを過ぎて通路の左手前の部屋。僕の事務所と住居スペースを足したよりやや広い部屋は、まるでホテルの一室だ。木村さんの説明で奥のドアを開けるとトイレと風呂が付いている。客間は全て同じ作りだと言うから、こんなのが六部屋もあるなんてどういう事だ、と悪態をつきそうになった。
部屋で思い悩むのはやめにして、今度は雪さんの部屋へと向かう。落とした本人に直接話を聞く為だ。螺旋階段を上り、左手に進む。
「右ではないのですか?」
「螺旋階段を上がると向きが反対になりますので」
「……あ、そうか。すみません」
こんなところで方向音痴が顔を出すとは。相手が木村さんで良かったかもしれない。
奥まで進むと、木村さんはドアをノックし声を掛ける。ドア越しなのによく通る声が、どうぞと返す。開かれたドアの向こうに視線を移すと、僕の時間は止まった。
大きな窓から燦々と差す太陽の光、それを受けて艶やかに光る栗色の長い髪、汚れのない白い横顔。若草色のワンピースから伸びる手足は隠れても尚、細く長い事が分かった。読書に勤しむ姿は一枚の絵のようだ。本に落としていた目をこちらに向け、ゆっくり立ち上がる動きはしなやかで、一歩ずつこちらへ近付いてくる毎に僕は動けなくなっていく。真っ直ぐに見つめ合ったその視線を逸らす事は叶わなかった。
「神咲さんですね。初めまして、雪と申します。どうぞ、お入り下さい」
促されてようやく動き出す事ができた。僕はこれほどまでに美しい人を見た事がない。二十歳を目前にしているとは思えない程、この女性は既に完成されていた。
「お美しい。姫井雪さん。その名の通り、まるで白雪姫に出会ったようだ」
「まぁ、お上手ですね。そちらにお掛け下さい」
窓際の椅子に座り対面する。いつの間にか木村さんは居なくなっていた。
「すみません、とても急なお願いで」
「いえ、とんでもない。必ず見つけ出して見せます」
「そう。お願いしますね」
そう言って微笑んだ表情が物憂げで、それすらも彼女の美しさを引き立てている。これはいけない。仕事に支障が出る。視線を横にずらして見ないようにしながら、聞き込みを開始する事にした。
「では早速ですが、指輪を無くされたのはいつの事でしょう?」
「三日前です」
「どういう状況で無くしましたか? 例えば一旦首から外してどこかに置いていたら無くなったのか、それとも指輪を下げたチェーンが外れたか切れたかしていつの間にか無くなったのか」
「多分チェーンが切れたんだと思います。古い物を使っていたので」
聞いた言葉をメモ帳に書き込んでいく。どんな言葉がヒントになるか分からないから、全てをメモする事にしている。僕は続く質問を投げ掛けた。
「無くなった事に気が付いたのはどこで、いつ頃でしたか?」
「裏庭から部屋に戻ってきた時です。時間は夕方四時過ぎでした」
「時間、細かく覚えておられるのですね」
「四時に雨が降り出して部屋に戻る事にしたので」
「庭では何を?」
「この本を読んでいました」
先程も読んでいた厚い本の表紙を見せてくれる。英字の本だ。可愛らしい少女と少年が手を繋いで座っている絵が描かれている。
それにしても質問に淀みなく答えてくれるから助かる。お得意様の高橋さんはよく物を無くすのに、聞けばどうだったかしらと首を傾げるばかりで中々捜索に移れないから時間がかかりすぎる。少しくらい落とさないように注意しておいてほしいものだ。
「確実に身に着けていたと言えるのはいつ頃でしょう?」
「庭に向かう為に部屋を出た時には感触がありましたから、二時頃です」
「部屋から出て庭まで行く間、もしくは帰ってくる間、どこかに寄ったりはしませんでしたか?」
「いいえ、どこにも。直接向かいましたし、直接戻ってきました」
という事はどう考えても部屋と庭との動線上しかない。これは案外簡単に見つかりそうだな。
「宜しかったら、三日前と同じように庭まで歩いて頂けませんか?」
「分かりました。お待ち下さい」
立ち上がり、くるりと背中を向けた瞬間。舞う柔らかな髪、翻る裾、花の様な香り。仕事中でありながら一人胸をときめかせた。
そして上昇し始めた床に一人慌てふためいた。
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