三題小説第二十三弾『海』『依存』『田園』タイトル「珊瑚の娘」

山本航

前編

 私も母も孤独が好きなのだと思う。
 だから夏祭りに行く事を母が勧めたのは多分一人になりたかったからだろう。
 そしていつもの数倍の人通りになっている参道にあって、私が先ず己の孤独を見出したのはそういう性癖に由来するのだろう。

 上弦の月と満点の星の下、田園を神社へと突っ切る参道に、行きかう人々のそれぞれがそれぞれに提灯や電飾で明るく彩られた夜店を眺めている。
 おそらくそのせいで、ただ一人そこにいるだけの私は自室に籠っている時よりも深い孤独を感じた。

 消え物屋、賭け物屋、植木屋が各々威勢のいい啖呵で客を引いている。客もまた楽しげにお喋りをしている。ここにる全ての人達がこの祭りを賑やかにしている。
 たまに知人に挨拶される。坊ちゃんと旦那で七割、残りが壮太郎呼びといったところだ。一瞬孤独が晴れるがその後はより一層色濃くなる。

「おう、兄貴」

 振り返るとガタイの良い男が菓子を片手に歩いてきた。五つ離れた十八歳。そろそろ落ち着いても良い年頃だが言うまい。このような兄が言ったところで何の説得力もない。

「慶次郎。先に出たのに後ろから来るとはな」

 それを受けてカラカラと慶次郎は笑う。父の笑い方にそっくりだ。

「何言ってんだい。俺はもう三往復はしてんだよ」
「呆れた。同じ露店を何度も見てどうする」
「分かってないな。兄貴は本当に分かってないな」
「別に分かってるつもりだったわけでもない」

 慶次郎が杏飴を寄越す。私は受け取り、口に含んだ。仄かに甘く微かに酸っぱい味が舌の上に染み渡る。

「こういうハレの場ってのはただそこにいるだけで良いんだよ」
「そういうものか。それにしても随分と抱え込んでいるな」

 飴細工だけならまだしも、ゴム風船や絵草紙まで持っている。

「いやいや、これはあれよ? 持ってけって言うから貰ってやっただけで別に欲しかったわけじゃねえよ?」

 おい坊主持ってけ、そう言いながら慶次郎は通りがかった子供たちに玩具をくれてやる。

「分かってるさ。私はそろそろ帰るがお前はどうする?」

 もう人の息と声に酔ってしまったのか頭がぼうっとする。

「いやいや待て待て兄貴。早すぎるだろ兄貴。そうだ。ふもと道の方に見世物小屋があるんだ。俺もまだ行ってないから一緒に入ろうぜ」

 そうして私は慶次郎に連れられて田園を山の麓まで突き進む事になった。


 麒麟児興行社の見世物小屋は数年に一度やってくる。最後に来たのはもう十年も前だったろうか。
 私は一度だけ入った事があった。慶次郎は演目の看板にある蛇女という言葉に恐れをなして泣いて逃げた覚えがある。自身は覚えてないようだが。とはいえ私もどういう見世物をやっていたかよく覚えていない。巨大な男や小さい女。蹄のような足を持つ男、嘴を持つ女。ただの大道芸人も何人かいた気がする。

 その佇まいは昔のままのようだ。けばけばしい色使いの文字看板と乱暴に明るい電飾とが猥雑に主張し合っている。麒麟男。椅子男。鰐女。珊瑚女。
 アラビア風の音楽が流れてくる。私達はネズミのような男に入場料を払って中に入った。
 いつの間にか杏飴が手の中にない事に気付いたが気に留めなかった。

 壁の色か照明の色か、中はピンク色に彩られ、麝香のような甘い香りが澱んでいる。
 腕の多い男や鉄のマスクをかぶった男や他にも何人かの奇態な男達が扇形に並んで、ラッパや笛を吹き、ギターその他の弦楽器を掻き鳴らしている。

 年齢はまばらだが客のほとんどは男だ。椅子がいくつか置いてあるが、全員が立ち見で立錐の余地もない。そういえば昔入った時もただ一目見るのに苦労したものだ。

 中央には深くお辞儀をした男がいて、顔を上げる。普通の人間の三倍は長い首の男だった。ただでさ身長が高い上に、さらにその髭面の上に山高帽をかぶるものだから大変な高さだ。男はそのまま身を屈めるように小屋の奥に引っ込む。

 代わりに齢十五、六くらいの少女が入って来た。
 少女がは少しテンポを上げた音楽に合わせて舞い踊り始めた。整った顔立ち、すらりと伸びる肢体。下品に煌びやかに誂えたサテンの衣装を纏っている。肌がキラキラと反射しているのはスパンコールか何かだろうか。そしてその賢そうな額の上には髪の代わりに赤い珊瑚が生えていた。
 どこか寂しげな表情を湛えながらも、その舞踊は音楽に乗って激しく淫靡な情熱を放っている。下手すれば頭の珊瑚が折れてしまいかねない、と思わせるほどに手足、腰、首を振り乱している。
 その顔に、表情に何か懐かしさのようなものを感じた。

「何を呆けてるんだ兄貴」

 慶次郎がからかうように私の肩をつついて言った。

「あの珊瑚の娘。どこかで見た覚えがある気がする。いや、誰かに似てるのか……?」
「誘い文句なら本人に言わねえと意味ねえよ」
「別にそんなんじゃない」
「まあまあ。もうちょっと前の方で見ようぜ」

 そう言いながら私を押し、客を掻き分けていく。
 こんな所でも私達に気付いて挨拶をする者もちらほらいる。

「おい。押すな慶次郎」

 慶次郎が珊瑚の娘に向かって野次を飛ばす。

「よう嬢ちゃん。うちの兄貴があんたを可愛いってよ」

 客達がやんややんやとからかい始める。気のせいか音楽隊も盛り上げにかかったようだ。
 少女は意に介さぬように舞い踊り続ける。一瞥もくれることなく、少しも乱すことなく。

「いい年して子供をからかうな慶次郎。迷惑だろう」
「ほれ嬢ちゃん。自慢じゃないがなかなかどうしてハンサムだろう。俺の兄貴は顔だけは良いんだ」

 客達が下品に野太く笑う。
 私は振り返り、慶次郎の肩を引っ張って出口に向かった。

「やめろ。みっともない真似をするんじゃない」
「なんだよ兄貴。照れてんのかあ?」

 小屋を出る前に一度振り返ると、偶然人混みの隙間を視線が擦り抜けて、珊瑚の娘と目が合った。その眼差しに熱を感じた。


 部屋の外が喧しい。廊下側では誰かが何かを言っている。庭の方からはキリギリスのジーという鳴き声が聞こえる。

「おい兄貴。怒ってるのか? それとも寝てるのか? それとも今から寝るところか?」

 慶次郎ががさつに襖を開く。
 いつの間にか眠っていたようだ。もう夜半を過ぎているというのに何故起こす必要があるんだ。私は自分でもよく分からない唸り声を出して起きる。

「なんだ。やっぱり寝てたのか」
「いまから怒ろうかというところだ」
「勘弁してくれ。くそ親父が飯を食おうってさ」

 こんな時間に何を考えているんだ。まったく慶次郎によく似た無茶苦茶さだ。

「何が哀しくてこんな時間から飯を食わなければならないんだ」
「旧来の友人に息子を紹介したいんだとよ」

 友人? 父の友人? 父に友人?

「だいたい祭日くらいはとシヅさんに暇をやったんじゃなかったか。誰が作ったんだ」
「そこは浩作がちょちょいのちょいと御手のものよ。あいつは何でもできるからな」

 浩作に出来ない事と言えば父に逆らう事くらいだろうか。

「直ぐに行くと、そう伝えてくれ」
「おうよ」

 廊下をどかどかと慶次郎が去っていく。そうすると聞こえてくるのはキリギリスの鳴き声だけだ。部屋の闇に慣れてくると電灯が揺れている事に気付いた。


 食事を取り分ける為だけにいるのだろう父の秘書の浩作を除くと、食卓には4人が付いていた。父と弟、そしてあの見世物小屋で見た首の長い麒麟男とあの珊瑚の頭の少女だ。

「遅いぞ。壮太郎」
「申し訳ありません」

 食卓の上にはすき焼きの準備がされており、既に肉が投入されている。

「壮太郎は一度見ているな」と、父が言った。

 それを受けて麒麟男が背筋を伸ばす。

「はい。お久しぶりですね壮太郎君。私の事は覚えていますか?」

 不意の紹介に思考が停止する。まさかさっき見世物小屋で見かけた事を言っているのではあるまい。そうすると、この男の事など覚えていない。しかしこのような男を忘れるなんて事がありえるだろうか。気の利いた言葉も思いつかず正直に答える。

「申し訳ありません。記憶になくて。いつ頃お会いしましたでしょうか」

 突然父が高らかに笑う。私も麒麟男も珊瑚の少女も一瞬身震いする。父の声はいつも大きくいつも突然だ。

「どうだ? 千治よ。忘れられるなんて経験初めてじゃないか? この兄は賢いくせに抜けた所があるんだ」

 千治と呼ばれた麒麟男は慌てて手を振る。

「いえいえ。彼と最後に会ったのは四、五歳というところでしょう。無理もありませんよ。まあ確かに忘れられるという経験はなかなかない事ですが」

 私はもう一度出来るだけ申し訳なさそうに謝罪し、自分の席に父と弟の間に着いた。目の前には珊瑚の頭の少女が座っている。目が痛むほどの鮮やかな紅の珊瑚を傾けて、興味深げにすき焼きを見つめていた。
 壮太郎君、と千治が言って珊瑚の少女を示す。

「こちら今うちで働いている柘榴です」

 柘榴と呼ばれた少女は肉に目を奪われていた。慌てて千治が柘榴の肩を揺する。

「これ、柘榴! 挨拶しなさい」

 柘榴ははっと見上げ、私の目をじいっと見つめる。

「初めまして。柘榴です」

 ハスキーな声質で淡々と言った。私もその黒い瞳を覗きながら返す。

「はい。初めまして。志藤壮太郎です」

 それだけかあ? と慶次郎が小声で囁き、机の下で脇腹を突いてくる。私は努めて無視し、柘榴に微笑みかけた。柘榴の視線は既に肉へと戻っていたが。

「さあ挨拶は終わりだ。食おう食おう」

 父の言葉を受けて晩餐会が始まる。浩作が忙しなく立ち回り始める。

「父に麒麟児興行社の興行主と交友関係があったとは知りませんでした」

 誰も何も言わないので適当に話題を振った。

「いえいえ。そもそもうちに出資していただいたのが志藤の旦那なのですよ。以来色々と相談に乗ってもらっているわけでして」と、麒麟男の千治が言った。

 父が酒をあおり、浩作に注がせて言う。

「俺に言わせれば道楽よ。こうも稼ぐようになるとは思わなかったな」
「お陰さまで全国を周らせてもらっています。再来月にはN県のS市での大きな祭での興行もありまして、その前も後もずうっと埋まっております」

 父が猫撫で声に切り替える。

「柘榴ちゃんや。千治おじさんにはよくして貰ってるかい?」
「はい、とても」

 柘榴はにこりとしながら、肉を食みながら言った。私も弟もただ耳を傾けて肉を食べているだけだ。

「この娘はどういう出身なんだ?」と、父。
「細かい話は聞いておりませんが、ある港の漁師に譲り受けました。網に引っ掛かったとか何とか。それ以前の記憶もないようで」

 弟が机に乗り出して柘榴に言う。

「海に帰りたいとは思わないのか? 地上は窮屈だろう?」

 柘榴は黙って首を横に振った。帰りたいのか、帰りたいだなんて言えないのか。

「そうだ!」と父が不躾な大声を出す。「柘榴ちゃんを養子に貰おう。子供は男女どちらも欲しかったんだ」

 弟が机を叩く。

「ああ!? 俺がハズレだって言いたいのか!?」
「やめろ慶次郎。それに父さんも。飲みすぎです。客人がお困りです」

 私は申し訳程度に仲裁する。父と弟が同時に鼻を鳴らす。
 麒麟男の千治が手と首をぶんぶんと振る。今にも折れてしまいそうだ。

「いえいえ。勘弁して下さい。今や柘榴はうちの稼ぎ頭なんです。今抜けられては困る」

 父が焦点の定まらない目で千治を睨みつける。かなり酔いが回って来ているようだ。

「結局金だろうが。当面の金なら工面してやる。それで新しいスターを探せばいい!」

 いえいえ、そんな。と千治は汗をふきふき言うがそれ以上は言い返せそうになかった。
 結局そのまま晩餐会はうやむやになって終わった。千治は申し訳なさそうに何度も頭を下げ、満足そうな柘榴を連れて帰った。弟は悪態を吐きながら自室に戻る。父は後片付けを浩作に任せて、やはり自室に帰って行った。

「いつもすまないね。浩作」

 私の労いの言葉なんて浩作には何の価値もないだろうけれど、浩作はそんな様子をおくびにも出さなかった。


 結局のところ私には妹が出来た。誰かにそう聞いた訳ではないが、柘榴が共に朝食を取っていたにも関わらず、麒麟男の千治がいなかった事から勘案するにまず間違いなかろう。

 柘榴は頭の赤い珊瑚を日の光に煌めかせ、庭で毬つきをしている。いや、毬遊びといった様子だ。あるいは毬遊ばれか。毬というものを初めて見たようだ。
 私は縁側に座りながら、同じく庭でフォードを洗車している浩作に尋ねる。

「慶次郎はどうした?」
「慶次郎様は祭の片づけを手伝いに行かれました」

 色々と悪癖はあるが、面倒見もよく村の衆にも慕われるよく出来た弟だ。
 柘榴が私に気付いたようでやってくる。

「兄さん。お早うございます」

 舌足らずなかすれた声で柘榴がそう言った。昔は慶次郎も私をそう呼んでいた事を思い出す。

「そう言えと言われたのか?」

 柘榴が首肯する。

「慶次郎がそう言えと言いました」

 慶次郎は早速この状況に適応したらしい。本当によく出来た弟だ。

「ん? 柘榴。君、年はいくつだ?」
「年?」
「何歳かって事だ」
「分からないです」

 年齢が? 年齢という概念が?
 助けを求めて浩作を見る。浩太郎曰く、

「海から引き揚げられてから十五年です。引き揚げられた時点では五歳ほどの見た目だったそうです」

 なるほど慶次郎は柘榴を二十歳くらいの姉と見なしたのか。年齢的にはそうだが、胸も尻も薄い今の見た目は慶次郎よりも三つは幼く見える。

「私の事も壮太郎で良い」

 浩作が口を挟む。

「柘榴様は今日から父君のご養女、壮太郎様の妹君ですよ」

 私は柘榴の方を向いたまま答える。

「さてね。私の兄弟が本当にこれだけか分かったものじゃないさ。そもそも本当に娘なのかどうか」
「本当に? どういう事です。これから本当になるのでは?」と浩作が言った。

 私はそれには答えなかった。
 十五歳ほどならあるいは、と思ったが二十歳ならもう間違いあるまい。
 私の同情の視線に気付いたかのように、柘榴は一瞬覚悟したような澄み切った表情になった。

「壮太郎さん。あたしに文字を教えてくれませんか?」
「別に構わないけど何でまた」
「もう見世物小屋で働く事も出来ないです。嫁に行く望みも薄かろうと思います。一つ一つ勉強しようと思っています」

 思っていたよりも多くの事を考えているらしい。
 ふうん、と気のない返事をしたところで柘榴の肌が光をちらつかせている事に気付いた。その細腕をとり、よくよく見ると薄い鱗がぽつぽつと疎らに生えている。

「恥ずかしいです」

 己の身が? 己の身を見られる事が?

「海の中の事は何も覚えてないのか?」
「えっと。少しは覚えています。温かくて真っ暗でした。他には、あとは優しい声が聞こえました」
「母の胎の中を覚えているという子供と同じ言葉だな」

 柘榴はよく分からないという表情をして私を見つめ返した。
 私は柘榴の手を離し、立ち上がる。

「いいさ。読み書きだな。あと計算も並行して学ばないと」
 柘榴は白い歯が零れる笑顔で私を見上げ、ありがとうございます、と本当に嬉しそうに言った。


 結局のところ私に妹など出来ていないという事だ。
 あるいは、と思った自分自身の能天気さに馬鹿馬鹿しく感じる。
 柘榴は最近漢字を習い始めた。物覚えが良くて、すぐに新たな知識を新しい玩具のように使いこなす。

 ある夜。ふと目が覚めて炊事場に水を飲みに行こうとした時の事だ。父の部屋から女の嬌声が聞こえた。初めはシヅさんだろう、とそう思ったが。
 父の部屋の襖を開けると柘榴の背中に覆いかぶさる父の姿があった。露わになった柘榴のつるりとした白磁のような脹脛に目を奪われる。
 父も柘榴も私の存在に気付いていただろうけれど、私がもう一度襖を閉めるまで少しも気に留める様子はなかった。

 廊下を渡ると庭の奥に離れが見える。母が一人で住まう離れだ。全体に影が落ちているがまだぼうっと仄かな明りが見える。どこか彼岸を思わせる佇まいだ。
 あそこに近寄るのは私とシヅさんとかかりつけの医者くらいしかいない。息子のくせに慶次郎も近寄らない。苦手なのだそうだ。

 柘榴を養女にした事を報告した時、「そう」と一言つぶやくだけでそれ以上には何も言わなかった。怒っている様子も悲しんでいる様子も呆れている様子もなかった。
 部屋に戻ると慶次郎があぐらをかいて待っていた。

「どうした。こんな夜中に」

 慶次郎は私を睨めあげて静かに言う。

「どうもこうもない。これじゃあただの人身売買じゃないか」
「やはり金を払ったのかね。もしくは浩作が力づくでと言う事も考えたが」
「どちらもだろう。そういう男なんだ、奴は」

 私はため息をつく。
 今更じゃないか。これに始まった事じゃない。これに終わる事かもしれない。年もおおよそ二十を越えているとなれば私達に何を言う権利があろうか。

「そこまで言うなら殴ってでも止めたらどうだ? 私はともかくお前の腕っ節なら可能だろう」

 慶次郎が呆れたような顔つきで私を見るので私は言葉を続ける。

「どうした。私の顔に何か付いているか?」
「親父の顔に何か付いているのを見なかったのか?」

 父の顔を最後に見たのがいつかは分からない。基本的にほとんど見ない。

「俺は殴ってでも止めたんだよ。今親父の右目に青痣があるんだが」

 私は思わず噴き出しそうになったが、慶次郎の手前押しとどめた。

「じゃあ何か? 息子に殴られてもやめられないのか、あの人は」
「そういう事だ。病気だ、あれは」

 一瞬、柘榴の嬌声が聞こえたような気がしたが、今はキリギリスの鳴き声しか聞こえない。

「それで私に何か相談か?」
「柘榴を故郷の海に帰そう。協力してくれ」

 我が弟のその目は本気の目だった。
 幼い頃から道理を知らないままに変に正義感の強い弟だったように思う。父に金が返せないで嘆く村の男の味方について、父に殴りかかった事もあった。どうにもなりはしなかったが。

「慶次郎よ。亀か何かじゃないんだぞ。簡単に言ってくれるな」
「じゃあこのままで良いって言うのかよ」
「良かないさ。だが柘榴を連れ去ったところで、新たな女が連れてこられるだけだろう。その時はまたもう一度連れ去るのか?」
「柘榴と他の女は違う」
「何が違う。言ってみろ」
「兄貴の惚れた女だ。母さん以外に唯一心を開いた女だ」

 一瞬声が詰まる。

「馬鹿言うな」

 それだけしか言えなかった。

「柘榴に手習いを教えてる自分の顔を見た事あるか?」

 勿論ないが、私の脳裏に一生懸命に字を覚えようとうんうん言っている柘榴の顔が浮かんだ。手作りの問題を解いた時の柘榴の笑顔が思い浮かんだ。
 慶次郎が立ちあがり、私の肩を掴む。

「さっきは協力してくれと言ったが、そうじゃない。俺が兄貴に協力したいんだ」
「母さんはどうなる」
「浩作とシヅがいるんだ。兄貴がいなくともどうとでもなる」
「私は……」
「兄貴」

 慶次郎の両手が私の肩に食い込む。そして囁くように言う。

「今、浩作かシヅか知らんが風呂を炊いている。柘榴を入れる為だろう。柘榴が風呂から上がったらそのまま決行だ。出かける準備をしてくれ。出来るだけ財産をかき集めるんだ」
「今夜である事には理由があるのか」
「出来るだけ早く。それだけだ」


 風呂から出てくる柘榴を待ち伏せした。湯に火照った柘榴は頭の珊瑚と違い桃色に染まっていた。

「あ、あの壮太郎さん。何か御用ですか?」

 私は誰かに聞かれる事を恐れるように囁く。

「海に帰りたいと、そうは思わないのか?」
「え、いえ。あの、海の暮らしなど覚えていませんし」
「じゃあ、ここにいたいと思っているのか?」

 柘榴は俯き、赤い珊瑚が私の視界を覆った。

「それは、その。そんなことはないです」

 私は柘榴の温かい手を引き、玄関へと向かった。
 靴を履かせ、外へと出る。東の空が白み始めている。そこには荷物を抱えた慶次郎が待っていた。荷物の半分を受け取り、弟に言う。

「鍵は?」
「持ってきた」

 三人連れだってフォードの止めてある場所へ向かう。夏の朝のひんやりとした空気が足元をなでる。しかしそこには浩作がいた。

「こんな朝早くにどちらへお出かけですか?」
「そこをどいてくれ」、と私は言った。
「申し訳ございませんが、この車は明日旦那さまの送り迎えに使う予定です」
「慶次郎。三人かがりでも無理なのか?」

 私は浩作から目を離さずに押し殺した声で言った。

「まず無理だ。というか兄貴も柘榴も何の足しにもならねえよ」
「そうか。浩作。まさか私達を止めるように仰せつかっているなんて事はないな」

 父がそこまで察する事が出来るとは到底思えない。

「はい。ただ車を盗まれるということであれば明日の送迎に支障が出るので」
「そうか。なら問題ない。私達を駅まで送ってくれ」

 は? と、弟が言ったが私は続ける。

「すぐに帰れば父の指示に背く事もないだろう?」

 浩作は深々と頭を下げた。

「畏まりました」

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