パラドックスよ、こんにちは。

巫夏希

第二話

 仕方ない、と思ったイヴは彼の言うことに従うこととした。

「解った。……共同研究とは言うが、一体何を研究しようというんだ?」

 イヴがそう言うと、来喜は近くにあったパイプ椅子に腰掛け、

「脳の電子化さ」

 はっきりとそう短く言った。
 人間の脳は、この大きさでと言えば、どんなスーパーコンピュータにも勝ることが出来る超スーパーコンピュータ(超とスーパーの意味が重複しているが)といえるだろう。
 脳の電子化は、別に来喜が初めて提起した問題ではない。二〇四〇年現在、たくさんの学者が考えてきていた。様々な理論が展開され、実験が繰り返され、そして失敗していった。
 脳の電子化というのは、人間が考えるほど簡単ではない――ということだ。

「脳の電子化だと。笑わせる。そんなものがそう簡単に出来てたまるか。第一、そんなことが出来るのは今からずっとずっと先だと言われているじゃないか。それを一介の学生である私とお前がつくるだと?」
「いいじゃないか。無茶ができるのも学生の本分だ。大人になって研究者やら会社員サラリーマンやらになっちまえば、失敗は許されないからな。あまり大きな失敗でなければ学校やら教授などのお偉いさんが尻拭いしてくれる学生のうちにそういう無茶をしてしまったほうがいいんだよ。それに『脳の電子化』だなんてちらつかせたらそういう責任者に為りたがる人間ばかりだと思うぜ? 何しろ、研究報告書にはその先生の名前が載るんだからな」
「そういうもんかね」

 イヴはそう言ってテーブルに置かれているマグカップを手にとった。

「それが普通さ。欲の無さ過ぎる君が普通から見れば異常だよ」
「異常という定義を為すのは、その人間でも誰でもある一定の『基準』を設けなくてはならない。自分が……『異常』だと認めているのはそう居ないものだよ」
「じゃあ君は?」
「答えるまでもないね」

 イヴはコーヒーを飲み干し、それをシンクに置いて、再び椅子に腰掛ける。

「じゃあ、こんな話をしよう」
「なんだ、つまらん話をするのか」
「まだ話していないのにそいつは困るね……。パラドックスの話だよ。君も好きなんだろ? お父さんが『パラドックスの恋文』を研究していたことだし」
「……私は父の研究を、否定した奴らを見返すために研究をしている。だから、お前になんか手伝ってもらっては困るんだ」
「僕が共同研究にあげているテーマが、それをも包含しているとしても、かい」

 それを聞いて、イヴの動きが止まる。
 来喜はシニカルに微笑み、白衣のポケットから無作為に詰め込んだ一枚のレポート用紙を取り出した。
 そこには図が描かれていた。雑な図だったが――大まかではあったものの、それはイヴにも容易に理解できるものだった。

「僕の研究テーマはね、『電脳世界における倫理観の構築とそれによる時間推移』なんだ。倫理……まあ、道徳と言ったほうがいいかもしれないね。社会慣習として成立している行為規範のことだよ。道徳はいろんな意味があるんだ。例えば、人間が無意識のうちに世の中に存在するものと認識している正邪・邪悪の規範とかだったりする。そうだな……君が目の前で百円玉が落ちていたらそれをどうする?」
「交番に届けるのが正解ではあるな」
「そういうこと。だけど人によっては……言い方は宜しくないけれど、貧しい家庭で育って、小さい時から親に『落ちているものも拾え。そして自分のものにしろ』だなんて言われ続けていれば、その子供はどうすると思う?」
「交番など行かず、自分のものにするだろうな。それが『悪い』だなんて思いもせずに」
「つまりはそういうことさ。道徳とは個人の価値観に依存してしまう。これが『悪い』と皆が思っても、ある人数は『これは悪くない』と倫理観を違反してしまうことが起きてしまうのさ。……まあ、大体多くの場合、個々人の道徳観は共通性が見られるから、結局はこれについて吟味することはないのだけれどね」
「なんだ。いいかげんにしろ。私だって研究をしなくてはならないんだ」

 そう言って、イヴは立ち上がるとコーヒーメーカーのスイッチを入れた。

「またコーヒーかい。立派なカフェイン中毒とは言えないか?」
「黙れ。飲まないと落ち着かないんだ」
「それは立派なカフェイン中毒と言えるよ」

 そう言って来喜は両手を挙げた。

「つまりね、ひとつの世界を作っちまおうというわけさ」

 来喜が仰々しく両手を広げるのを見て、思わずイヴは言葉を失った。
 来喜がいったことはとてつもなく壮大で途方で空虚で必然で切実で厳密に言えば滑稽だった。
 世界を作ることが、どれほど難解で壮大で緻密で綿密で厳密であるかということを――おそらくは知っているのだろうが――知らないと思わせるその言動だった。

「勿論世界を作ることが難しいということは解っているさ。だからこそ。それを行ってみようという気持ちが浮かんでこないかい? それをしてみよう。やってみよう、とね。それをすることで、世界は大きく変わるかもしれないし、もしかしたら変わらないかもしれない。どうなるかも解りはしないが、それでも大いに価値はある。……どうだ、やってみようとは思わないか?」
「断る」
「固いなあ。君の実験もその世界なら普通にできるんだぜ? 何しろ、データだ。0と1で表現出来る世界だから、リセットも出来る。実験で悪いデータを得た場合はそれをうまく利用して世界を作り替えてもいい。どうだい。やってみようとは思わないか?」

 来喜は再度問いかけるが、それでもイヴは首を縦には振らなかった。

「いいと思うんだけれどねえ……」
「世界を作るのにどれくらいの時間がかかるっていうのよ。第一、中間発表でいい結果が出せなかったら、その時点で研究は中止になるのよ。それを考えるとリスクが高いったらありゃしない」
「リスクを考えるからダメなんだよ。時にはリスクを無視して考えないと、奇抜な発想は生まれないぜ? 例えば地動説を唱えたコペルニクスだってそうだ。自らの発見によって多大なリスクが生じると考えていたコペルニクスはその書物を自分が死ぬまで発行することを許さなかった。だから、地動説が最終的に評価され、『天文学上最大の再発見』だなんて言われるようになったのもコペルニクスが死んでからの話だ」
「コペルニクスはそれに恐れていたから、なのか?」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるだろう。ただ、今この世界で誰がどうこう言おうと僕たちはその時代を経験したわけではない。死人に口なし、だなんてことわざもあるくらいだからね」

 来喜がそう言うとコーヒーマシンの方に向かって、スイッチを押す。

「……マイカップを持ってきていたのか」
「喉が渇いたらどこででも飲めるだろ?」
「そうか。だったらトイレの水でも飲んでろ」
「強情だなあ、君は」

 アハハ、と乾いた笑い声をあげて、再び椅子へ腰掛けた。

「それで。……どうかな? やろうとは思わない? きっと、君も興味が湧いてきたはずだと思うんだけど」
「興味はある。確かにな。仮想世界での実験などそう簡単にできることじゃあない」
「だろう。だったら……」
「条件を一つつけよう。私の実験を行う世界と、君たちが行う共同実験の世界、合計二つを作る。これを約束してくれるならば……協力する」

 イヴがそう言うと、来喜は顔を綻ばせた。よっぽど嬉しかったらしい。立ち上がりコサックダンスをしている。この間カップ内のコーヒーは一切揺れていない。
 そして直ぐに「ありがとう! 詳細は追って連絡するよ!」とだけ言って来喜はイヴの部屋をあとにした。イヴはただそれを見て、何も言わず、鼻で笑っただけだった。


 ◇◇◇


 それから、一日の作業は至極スピーディーに進んだ。
 とはいえ、世界を構築するための前段階に過ぎない。世界を構築するために高速フーリエ変換などを駆使してできる限り擬似的な世界を作り上げる。これは不可能なように見えるが、多少時間と技術とコストがかかる以外は普通に出来てしまうことなのだ。

「……ふむ」

 一息ついて、イヴは今日のことを考える。
 結局――来喜の提案を受けてしまったことに、だ。
 彼の提案はすごく彼女にとっても有意義なことだった。だが、そう簡単に受けてしまっていいものだったのだろうか?

「……まあ、決めてしまったものはしょうがない」

 これで、世界が作れる。
 私の世界が、完成する。
 それを考えるだけで――彼女の口は緩んでいた。

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