光輝の一等星

ノベルバユーザー172952

ヨルムンガンド

 
 梅艶の指から展開された淡い青白い『結界グラス』は部屋全体を包み、同時に彼女の背後に巨大な穴が出現し、そこから一匹の大蛇が表れる。
 この地下最強である支配者オルクスが、唯一恐れるといわれるアンタレスの力の結晶。

 触れるだけで敵を殺すこの世で最強の毒を持つ、その大蛇の名前は『ヨルムンガンド』。

 シュー、と息を吐きながらチロチロと舌を出す蛇はその場にいるだけで、空間をゆがませ、生き物の本能に危機を訴えかけてひるませる。
 目の前にいる魔物に気圧されそうになりながらも、もう一度刀を構えなおした黎愛は、梅艶と目を合わせる。

「どうしても……闘わなければならぬか?」
「愚問ねぇ、この結果はお母様が選んだことよぉ?」

 賭刻黎愛は、この姿になるその瞬間まで、恋華の無念を忘却していた。一人の娘を可愛がり、幸せな家庭の中に身を置いていたが、その中で、もう一つ、大切なものがある事実を失っていた。

 しかし今、黎愛の前には最も大切なものがある。それも、手を伸ばして走れば届きそうなくらいに近いところに。
 だが、賭刻黎愛にはそれを得ることは許されない。彼女自身が許せない以上に、きっと彼女はそれを許さないはずだから。

 ならば、ここで大人しく死を選ぶか。最愛の娘に殺されるならば、悪くはない。

 でも、それもまた、許されない。

 なぜなら、自身の命に代えて黎愛の命と、その記憶を繋ぎ止めた友がいた。諦めるということはすなわち、彼女の意思を潰してしまうことになるのだから。
 歩むことも、諦めることも、許されない見えない鎖で繋がれたこの身はやはり、たった一つの目的に向かうしかない。

 だから、黎愛の、いや、黎愛たちの選択肢は一つしかなかった。

「鬼神隊隊長、賭刻黎愛、長押してまいる!」

 揺らぎそうになった心をどうにか押さえつけ、声を張り上げ、自身に活を入れた黎愛は、大蛇との間合いを一気に詰めていく。
 対して大蛇もまっすぐ黎愛へ向かって、彼女を楽に人の身出来る大きな口を開けたまま迫ってきた。

 蛇と接触する直前に、体を横に投げ出した黎愛は、ヨルムンガンドの攻撃を避け、「はぁ!」という声と共に横から切り上げる――が、蛇には傷一つつかなかった。

 ヨルムンガンドは最強の毒を持つことで有名だが、これが怪物たるやゆえんはそれだけではない。
 全身がどんな金属よりも固い頑丈な鱗でおおわれており、口には猛毒と共に鉄板であろうとも貫く牙、心弱き者ならば睨まれただけで失神してしまうだろう眼。
 加えて口から散布している猛毒、ヨルムンガンドトキシンは気化し、周りにいる主以外の生き物の行動を制限させる。

(やはり、一撃というわけにはいかぬか……)

 突進していた蛇の頭は、黎愛の攻撃など見向きもせずに、地面を伝って再び黎愛へ迫ってくる。地面に膝を付けながらも躱した黎愛は、頭をフル回転させて考える。

 彼女の持っている刀では大蛇の皮膚に傷つけることはできない。それに、この蛇の持つ独の特性上、口の中に刀を突っ込んだとしても、切る前に刀が消滅してしまうだろう。
 それに加えて、この戦いには時間的な余裕がない、空気中の毒が体に回る前に勝負をつけなければ体が動かなくなって終わりだ。

 そのとき、黎愛は不自然な引っかかりを覚える。

 アンタレスの力はこの蛇だけではない。
 確かに切り札はヨルムンガンドであることは間違いないのだが、彼女にとって、『結界』の範囲の空気を毒物に変えることくらい、造作もないことである。
 つまり、ヨルムンガンドトキシンが黎愛の身体に回るのを待つまでもなく、次の瞬間にも、黎愛を戦闘不能にさせることができるのだ。

 なぜ、彼女はそれをしないのか。

 力の持ち主である梅艶自身が毒に侵されることなど、まずありえない。彼女のいつも吸っているパイプ自体が毒の一種なのだから。
 クッ、という声と共に、三度目の攻撃が来て、それをかろうじて避けた黎愛は、今までずっと視界の隅に入れていた梅艶を見る。

 彼女もまた黎愛を見ているが、余裕ぶっているその表情とは裏腹に、黎愛にはどうしても彼女が手を抜いているとは思えなかった。
 なぜならば、黎愛自身が、一瞬の隙さえあれば大蛇の間を駆け抜け、力の本体である梅艶自身を切ろうと考えているからである。

 これは決して親子の喧嘩ではない、人間同士の殺し合いだ。
 この戦いが終われば仲直りできるだろうなどと、能天気で甘い考えを持てば次の瞬間には自分の命はなくなるだろう。

 生死をかけた戦いの中に過去など、繋がりなど、関係ない。
 ただ目の前にいる敵だけを倒す、それだけ考えなければ一瞬先の未来もないのだから。

 そんなギリギリの刹那の戦いだからこそ。

(……楽しいのかもしれぬのう)

 黎愛は、ヨルムンガンドの頭を刀で受け流し、避けながら、ふっ、とこらえきれない笑みを作る。

 恋華と呼ばれ、梅艶の母として存在するためだけに生きていたあのときからすでに18年もたっている。
 昨日までの記憶の中にある梅艶は、まだ小さく、抱きしめるだけで壊れてしまうのではと心配になるくらいに小さな存在だった。

 その小娘が今このとき、自身と対等以上に戦っているこの事実を嬉しく思ってしまうのは、やはり親バカというやつなのだろうか。
 たとえ殺し合いの相手であっても、その成長を感じるだけで幸せに感じられるのは、おかしなことなのだろうか。

(どうやら、妾の愛もかなり歪んでおるらしい……)

 何度でも襲い掛かってくるヨルムンガンドの攻撃を黎愛は飛び上がり、刀で壁に傷をつけ、そこに足をかけることで壁を走り抜け、蛇の腹の前で着地するが、着地するときに少しよろける。
 微かながら足の動きが悪くなってきている。どうやら、少しずつだが、毒が体に回ってきているようだった。

 しかし、敵の攻撃はすぐには向かってこない。
 この蛇はあまりにも巨大がゆえにこの狭い空間での攻撃方法はおのずと限られてくる。尻尾か頭で攻撃する、どちらかしかない。ゆえに、腹の部分につけば、少しながらも時間を稼げるというわけだ。

 大蛇の次の攻撃は遠くにある頭よりも近くにある尻尾からくるだろう。
 だが、そう考えて構えていた黎愛の予想を裏切り、大蛇はすぐに攻撃することなく、動き出し、梅艶の近くへと行ったではないか。

 いや、この蛇の力を考えればなんら不自然なことでもない。避けられると分かっている攻撃をするよりも相手の動きをじっくりと見る。何をせずとも相手は勝手に毒でどんどん動けなくなっていくのだから。

 だが、黎愛は大蛇のその行動に違和感を持つ。
 理屈も減ったくれもないただの直感であったが、すぐに黎愛は自身のその感覚の正体を考える。

 蛇のさらに奥にいる梅艶と再び目が合う、彼女はやはり、黎愛を見ていた。
 敵は黎愛一人なのだから、別に変じゃない、それなのにまた、引っかかる感覚がする。

 考えているうちにも、黎愛の身体は少しずつだが動けなくなっていく。刀を持つ握力がほんの少しだがなくなっていることに気付いていた。
 これがもし、飛鷲涼や、昴萌詠であったのならば、体が動かなくなるかもしれないなどという、迫りくる焦りによって、考えるよりも先に動いていたことだろう。それが悪いこととは言えない。

 しかし、彼女たちに比べて圧倒的な場数を踏んでいた黎愛は、心が炎のように熱くなっているこの瞬間であっても、頭の中は南極の氷のように冷ややかに動いていた。

 そして、ふう、とその場で一息つき、小さくつぶやく。

「……そういう、ことか」

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