地上から約3m50cmの酸素

些稚絃羽

深呼吸する六日目・エピローグ

今日は仕事が休みで、朝から外に出てみる。穏やかな秋晴れに心すら晴れやかで、これも昨日の、キヨのおかげかなと考える。

あんなに涙を流したのはどれくらいぶりだろう。人前で泣いた記憶はもっと古いように思う。感情が振り切れる事なんか今までほとんどなかったのに。
泣き続ける私はきっとうんざりする程だっただろう。それでもただ黙って傍にいてくれた。
やっとの事で泣き止んで申し訳ないなと思っていた私に、笑ってまた頭を撫でて、またねと帰っていった。そんな小さな気遣いが私の手には有り余る程で、一人の部屋でまた少し泣いた。

キヨがどんな環境にいるのかは分からない。抱えている気持ちも分からない。でもそこに踏み込むのは、今の私じゃない。いつかの私であればと心の奥でそう願うけれど、キヨが話さないなら私は聞かない。キヨはきっと聞かない私だからああやって話してくれたのだと思うから。ただいつでも、キヨがそうしてくれたように、私もキヨの気持ちに寄り添える日が来たなら、それはすごく素敵だと思った。

またね。また会える約束は、私の心にストンと落ちた。


初めて入る隣の敷地は草が伸び放題で、キヨの言う階段がすごく見にくかった。足に纏わり付く草を掻き分けて進むと、五段程の階段を見つける。近付いてよく見ると、木箱のようなものが重なっているだけだった。
―キヨ、これお手製じゃない?
いないあの人に言葉を落とす。本人には言わない方が良いかな。

踏み締めた木箱は思ったより頑丈で、上がりきると塀の頂点が腰の辺りまで下がってアパートが難なく見渡せた。
ブロック塀は触れるとひんやりとしていて心地良い。腕に力を入れて塀に足を掛ける。

塀の上に立つと景色はがらっと変わって、住んでいるアパートでさえ小さなものに思えてくる。キヨの見ている景色よりずっと上。きっとそこにキヨがいたなら、うんと小さく見えるのだろう。

立ったまま、顔を空に向ける。見上げた空は何にも遮られる事なく、私を覆うように広がっている。いつからかな、俯くばかりになったのは。こんなに空を綺麗だと思ったのは、すごく久しぶり。

目を閉じて深呼吸をしてみる。キヨがそうしていたように。


地上から約3m50cmの酸素は、柔らかで、麗らかで。
深く体を駆け巡って、私を満たしてくれる。


本当だね。息苦しくないね。
そう思える場所が、私にもできたんだね。
ここにいたいと思ってもいいかな。

キヨのいる場所に、いたいと思ってもいいのかな。


「立っていないで、座ったらいいのに。」

―……だってここはキヨの場所でしょ。
 一緒に座らなきゃ意味がないから。


今の私を、愛してあげてもいいかな。

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