地上から約3m50cmの酸素

些稚絃羽

マグカップ並ぶ三日目

コーヒーは好きだ、と言うからマグカップを差し出す。ソファに座らせて問う。
―砂糖とミルクは?あ、牛乳だけど。
 身体冷えただろうから甘い方が良いか。
「じゃ、貰おうかな。」
スティックシュガーと牛乳を出す。好きに入れての意思表示を汲み取って、男は動き出す。私はブラックのまま一口飲んで、男の様子を見守る。
スティックシュガー2本と縁ぎりぎりまで入れた牛乳。
―コーヒー好きって言わなかった?
「うん。言ったよ?」
それもうカフェオレですよね。それでコーヒー好きって言っちゃうの?
「美味しい。」
……満足しているなら、いいか。暖かくなったのか顔に赤みが差してきて、微笑む顔は子供のようだった。

「今日は濡れたい気分だったから。」
雨の中を来た理由を尋ねると、あっけらかんと答えた。それがさも当たり前のように。
―でもあのままじゃ風邪引くとこだったじゃない。
「うん。でも君が助けてくれた。」
ありがとう、と言うからそのまま許しそうになって、頭を振る。
―それはたまたま私がいたからでしょ。
 それに私が助けない奴だったら、
 今もそこで濡れてたんじゃない?
「別にそれでも良かったんだ。濡れるつもりで来たし。」
―なのに白いスニーカー?
「別に意味はないんだけど。汚れてもいいかなって。
 真っ白だと、疲れちゃうから。」
分かる気がする。真っ白だったり綺麗に整列しすぎているものは、息苦しくなる。何だかお手本を見せつけられているようで。汚いもの、害を及ぼすもの、欠けたもの。そういうものは排除されていく。綺麗で真っ直ぐなものが受け入れられて、少しでも列を乱すと突き放される。世の中の「普通」の枠に入らなきゃ、とても息苦しい。
昨日の、彼の言葉を思い出す。ロボットじゃないから、どんな生き方をしても生きにくい。自分を偽っても、偽らなくても。息苦しさを浅い呼吸と思えば上手く生きられるだろうか。

―今更だけど、名前は?
話題を変えたくて、質問を投げ掛ける。彼との会話は、いつも私の質問から始まる。
「名前?」
―流石に名前も知らない人を家に上げるのは、ね。
「はは、もう上がってるけどね。」
まぁ、そうなんだけれど。昨日も聞かなかったし家にも上げたし。何となく今後も会いそうな感じだし。というかこの人があの塀に座りに来る限り会う訳だし。
……私は何の言い訳をしているんだ?
「名前ってそんなに大事かな?」
―え?それは大事でしょ。個人を区別するためには。
「でも君は見ただけで僕を区別できるでしょう?」
―君以外にあの塀に座ってる人知らないし。
「もし他にいたとしても。」
―顔って事?それはまぁ、もう三回会ってるし。
何が言いたいんだろう。要は名前を言いたくないって事?

「名前って結局はさ、付加的なものじゃない。
 それぞれを区別するのに1や2じゃ味気ないから、
 名詞になりそうなのを付けて。
 付ける側はそこに意味とか加えたりしてさ。
 付けられた側は場合によっては名前に左右されて。
 この名前だからこういう人だろう、みたいな。
 ……そういうの、嫌いだな。」
これまでで一番、彼が人間らしさを見せた瞬間。歯痒さや怒りや悲しみが顔を出して、何処か寂しそうだった。
彼にとって名前は苦い記憶の塊なのかもしれない。でもそれは少し切ないと思った。
―じゃ、どうしたらいい?
 もし君が後ろを向いていて、君かどうか分からない時。
 君が人混みの中で困っているのを見て、助けたい時。
 君としか呼べなくて、気付いてくれる?
 他の人じゃなくて君が、ちゃんと気付いてくれる?
私の言葉に、ほんの少し瞳が揺れる。屁理屈だと言われても、名前って大事だよ。君は君を、私は私を意味するモノだから。
「…どうかな。あんまり人に呼ばれた事ないから。」
笑っているのに笑っていなくて。口角を上げてカフェオレと化したコーヒーを見つめている。彼の中の葛藤を、私は知らない。

―私は、新島冴栄。冴栄って呼んで。君は?
知らないからこそ踏み込む。私は直球で行く人間だから。
「僕は……キヨ。」
キヨ。彼はそう名乗った。それが苗字に入っているのか、もしくは名前の方なのか、はたまた思い付きの偽名なのか、全く見当もつかないけれど。今はそれで良いと思えた。名前を語る事を拒んだ彼が名乗った名前、キヨ。それで十分だった。
―よろしく、キヨ。今後雨の日は禁止ね。
「うーん。」
―キヨ?
「分かったよ。冴栄。」
そうしてマグカップを下ろしたキヨは、随分と綺麗に笑った。
小さなテーブルの上にマグカップが二つ並ぶ。こんな事今までなかったな。
―キヨ。きっとそういう付加的なものが大切な時だって
 あるよ。だってその付加的なものでそれをカフェオレに
 したんでしょ?
からかうように言うと、
「はは。それは気付かなかったな。」
なんて声を上げて笑う。そしてまたカフェオレを一口。
「うん。大切だね。
 だってこんなに美味しいから。」
キヨの中で名前もそう言えるようになったら、って願ってみてもいいかな。

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