はじまりの物語
はじまりの物語
出雲の国の宮廷は、街を見下ろす高台に造られている。
朱塗りの柱に白い外壁。
近代的な街とは対照的に、古き良き日本文化の香りを残す建物だ。
庭には見事な桜が咲き誇る。
それは、出雲歴23年の春の夜だった。
激務に追われ、宮廷での寝泊まりを続けていたオオトシは、その夜も執務室の椅子に座ったまま意識を手放していた。
「曲者だーっ!!」
余裕の無い声が、暗い宮廷に響き渡る。
夢うつつ状態のオオトシも、一気に覚醒した。
警備兵の声は、国王・スサノオの寝所の方向から聞こえる。
主の危険を感じたオオトシは、椅子を蹴り倒して執務室を飛び出した。
しかし宮廷は広い。
オオトシが駆けつけた時には、捕り物は終わっていた。
「ご苦労様。スサノオさまはご無事?」
乱れる呼吸を整えながら、近くに居た警備兵にオオトシが尋ねる。
警備兵は国王補佐官であるオオトシの登場に姿勢を正した。
「はい!国王様はご無事です!」
「そ。良かった」
安堵したオオトシが、スサノオの寝所に足を踏み入れようとした時。
「放せ!放すのじゃ!」
屈強な警備兵に組み敷かれ、床に顔を押し付けられている少年の姿が目に入った。
「もしかして、あれが曲者?」
「はい!あの者は、国王様の寝所に忍び込もうとしておりました!」
「ふーん」
顎に手を当てて、オオトシは思案する。
その様子に、警備兵は不安を覚えた。
「……オオトシさま?」
「まだ子供じゃない。放してあげなよ」
「え?」
「責任は僕が取るからさ」
「いや、しかし……お待ちください!」
警備兵の制止も聞かず、オオトシは少年に歩み寄ると、床にしゃがみ込んだ。
「キミ、どこから来たの?」
まだ組み敷かれたままの少年は、オオトシを上目で睨みつける。
アーモンド型の大きな瞳。
小さな鼻、ツンと尖った唇。
多少、薄汚れてはいるが、恐ろしく整った容姿の少年だ。
歳は10代前半だろう。
「名前は?」
「まずは貴様が名乗れ」
「このガキ……何て口の利き方を!」
憤る警備兵を、オオトシは手であしらう。
「そうだね。僕はオオトシ。スサノオさまの補佐官だよ」
「オオトシ……貴様が」
「僕を知ってるの?」
「スサノオの犬が!」
そう言い捨てた少年は、オオトシの足に唾を吐きかける。
「貴様……オオトシさまに何と無礼な!」
警備兵は少年の顔を力一杯床に叩きつけた。
「まあまあ。僕は構わないから」
「いいえ。この者は厳罰に処すべきです」
「何で?」
「何でって……」
「悪い子じゃないよ。僕にはわかる。だから放してよ」
「オオトシさま!正気ですか!?」
「正気正気。ほら、早く」
国王に次ぐ権限を持つオオトシに言われてしまえば、従うしかない。
警備兵は渋々、少年を解放する。
自由を得た少年は素早く立ち上がると、部屋の出口目掛けて駆け出した。
「はい、ストップ」
「!」
少年の細い二の腕が、オオトシによって掴まれる。
「何をする……放せ!放さぬか!」
「ダメ」
一見すると優男風なオオトシだが、その握力は少年が想像していたより遥かに強い。
暴れても暴れても、オオトシの手は緩まなかった。
抵抗を諦めた少年が、不安げに問う。
「……わしをどうする気じゃ」
「んー、そうだなぁ。とりあえず、僕の部屋においでよ。キミ、可愛いから特別に可愛がってあげる」
「な……」
絶句する少年を肩に軽々担ぎ上げると、オオトシは執務室へと戻った。
「……どういうつもりじゃ」
「ん?どういうって?」
「何で……何でわしはおぬしに……」
「おぬしに?」
「茶でもてなされておるのじゃ!」
ソファに座らされた少年は、目の前に置かれた温かい緑茶にツッコミを入れた。
「あ、珈琲の方が良かった?」
「違う!」
「オレンジジュースは切らしててさ」
「そうでもなくて!わしはスサノオを暗殺しに来たのじゃぞ!?わかっておるのか!?」
「でも失敗したよね」
ズバリと切り返されて、少年は言葉に詰まる。
「それは……」
「スサノオさまにお怪我も無かったし」
「そうじゃが……」
「大した罪じゃないよ」
さらりと言い放つオオトシに、少年は戸惑いを浮かべた。
「……本気で言うておるのか?おぬし、スサノオの補佐官じゃろ」
「補佐官だから言えるんだよ。スサノオさまはキミごときが殺せる御方じゃない」
「……」
「それに、キミだけの意思とは思えないし」
「?」
「キミにこんな危険な仕事をさせた奴が、僕は許せない」
青く大きな瞳が揺れる。
少年の隣に座ったオオトシが、その白い手に自分の手を重ねた。
「大丈夫。悪いようにはしないよ」
「……」
「キミが僕にキスしてくれたら」
驚き顔を上げた少年の唇に、オオトシは人差し指を押し付ける。
「なんてね。本気にした?」
「……っ!」
オオトシの頬に、少年の平手打ちが炸裂した。
少年の身柄は、宮廷の片隅にある牢屋へと移された。
高い位置にある小さな窓からは、庭の桜が僅かに見える。
食事は充分過ぎる程、与えられていた。
狭い牢屋では運動も限られ、正直食べきれない。
晴れた日の昼下がり。
牢番の緊張した声が聞こえる。
それは、オオトシが訪れた合図になっていた。
「や、元気?」
「また来たのか」
少年の呆れ顔を黙殺して、オオトシは床に置かれた食事のトレイをチェックする。
「あれ~。また残してる。食欲無いの?お医者さん呼ぼうか」
「わしは食が細いんじゃ」
「ダメだよ、育ち盛りなんだから。もっと食べないと」
「おぬしはわしを太らせたいのか?」
「まあ、もう少し肉がついてた方が好みだけど。抱き心地を考えるとね」
オオトシのセクハラ発言は、挨拶のようなものらしい。
いちいち相手をしていられないと、少年は静かに本を読み始める。
「あ、そうだった。新しい本を持ってきたよ」
「それを早く言え」
少年は檻の隙間から奪うように紙袋を受け取った。
中身は中学生向けの参考書だ。
「勉強熱心だよね~キミ。うちの子にも見習って欲しいよ」
オオトシの何気ない言葉。
しかし少年は手から紙袋を落とす。
「どうしたの?大丈夫?」
オオトシは紙袋を拾い上げて、再び少年に手渡した。
しかし少年は上の空だ。
「……キミ?」
「子供……居るのか?」
「うん。男の子がふたり。下の子はキミと同じくらい」
「おぬし……いくつじゃ」
「38歳だけど」
「……」
少年は黙り込んだまま、牢屋の奥へと戻って行く。
「あれ?どうしたの?ねぇ」
「帰れ」
「え?」
「二度と来るな」
「何?急にどうしたの?」
少年の態度の急変に、オオトシはついて行かれない。
狭い牢屋に沈黙が流れる。
静寂を破ったのは、携帯電話の呼び出し音だった。
ディスプレイの文字を確認したオオトシは青ざめる。
「スサノオさまからだ。行かなきゃ。ごめんね!」
それだけ言い残すと、オオトシは駆けて行ってしまった。
後にポツリと残された少年。
牢屋の奥の壁にもたれ、力無く座り込む。
胸が苦しい。
涙が溢れる。
その感情の名を、少年は知らなかった。
その日以来。
オオトシの足が牢屋に向くことは無かった。
小さな窓から見える桜も散り、葉が茂っている。
少年は虚ろな瞳で、ただぼんやり座っていることが多くなっていた。
食事にも、ほとんど手をつけない。
牢番は困り果てていた。
囚人に死なれては責任問題になる。
オオトシが来なくなってから半月が経った頃。
牢番の我慢も限界だった。
「おい……おい!」
相変わらず座り込んでいる少年の身体を、牢の外から棒でつついてみる。
しかし反応は無い。
「聞こえてるなら何とか言え!」
「……うるさいの」
「いい加減にしろよ。おまえが死んだら俺が困るんだよ」
「……わしは死ぬのか」
「今のままなら死ぬだろうな」
「……それも良いかもしれんの」
少年は力無く微笑んだ。
生きることを諦めた、虚ろな瞳。
牢番にも情けはある。
保身の為ではなく、純粋に少年を救いたかった。
「何か望みがあったら言ってみろ」
「……望み?」
「食べたいものとか、逢いたい人とか」
「逢いたい……」
少年は頭に浮かんだ男の名前を、牢番に告げるべきか迷う。
「……オオトシさまか?」
「……!」
少年の慌てた表情は、牢番の憶測が正しいことを示していた。
「待ってろ。オオトシさまにお越し頂くように頼んで来るから」
「だ……ダメじゃ!」
歩き出した牢番の制服の裾を、少年は檻の隙間から手を伸ばして必死に掴む。
「何でダメなんだ。お逢いしたいんだろ?オオトシさまに」
「わしが二度と来るなと言ったんじゃ」
「本心じゃなかったんだろ?」
「しかし……仕事の邪魔になるじゃろ。足手まといにはなりたくない」
「おまえ……」
振り向いた牢番は、しげしげと少年を眺めた。
その居心地の悪さに、少年は後退りする。
「な……なんじゃ」
「本当にオオトシさまが好きなんだな」
「ち……違うわたわけが!」
「何が違うんだ?顔が真っ赤だぞ」
「……違う!わしはオオトシなど……オオトシ……など……」
譫言のように呟いた後、少年は床に倒れ込む。
「……おい。どうした?」
牢番は檻の間から手を伸ばして少年の肩を揺するが、反応は無かった。
少年は目を閉じたまま、苦しそうに呼吸をしている。
触れた頬が焼けるように熱い。
「た……大変だ!」
牢番は廊下へ飛び出し、医務官を呼ぶ為に走った。
少年が高熱を出して昏睡状態になったことは、すぐにオオトシの耳にも入る。
オオトシは迷っていた。
「二度と来るな」と言われた身だ。
少年のことは心配だったが、仕事を放り出す訳にも行かない。
「どうか……無事で」
人知れず祈るオオトシ。
祈る神など、この国には存在しないのだが、それでも祈るしかなかった。
同じ宮廷の中。
しかし、ふたりの距離は遠い。
少年は特例措置で宮廷の医務室に移されていた。
優秀な医務官が手を尽くしたが、少年の意識は戻らない。
食事を絶って弱った身体で、いつまで持ちこたえられるのか。
ただ見守るしかなかった。
少年は夢を見ていた。
長い長い夢を。
暗い部屋で膝を抱えて泣き続ける幼女。
扉が開き、差し込む光。
しかしそれは、幼女にとって更なる恐怖の始まりの合図。
少年は連れて行かれる幼女の後ろ姿を、為す術もなく見送る。
助けを求めても無駄だ。
諦めが心を支配する。
この地獄から抜け出すには、命令に従い任務を遂行するしかない。
人など殺したくはなかった。
それでも、生きる為に殺し続けた。
血にまみれた両手。
この汚れた手で、何を守れるというのか。
誰が愛してくれるというのか。
「オオトシさん」
廊下で呼ばれて振り向けば、医務官のヒコナの姿があった。
まだ子供のような容姿ながら、立派な成人男子である。
「ちょっといいですか」
ヒコナはしきりに周囲を気にしている。
「なになに。内緒の話?」
「はい。例の少年のことで」
オオトシの顔から一瞬だけ笑みが消えたことにヒコナは気づいたが、あえて触れないことにした。
オオトシはヒコナを自分の執務室に招き入れた。
「で。あの子がどうしたの」
「はい。あの少年の身元を調べる為の遺伝子鑑定の結果なんですが……出雲国民とは一致しませんでした」
「身元不明か。まあ、そうだろうね」
故意に遺伝子登録をせずに育ち、犯罪に荷担する者は大勢居る。
「それが内緒の話?」
「いえ。もうひとつ。あの少年の遺伝子、人為的に組み換えられた痕跡が見つかりました」
「人為的に……」
「現在の出雲の技術では難しいことです」
「つまり、あの子は出雲より技術が進んだ高天原から来たってこと?」
「その可能性が高いかと」
「そう……」
スサノオ暗殺の黒幕が高天原。
それは頭が痛い事実だった。
執務室の扉がノックされる。
オオトシは頭を抱えたまま返事をする。
「兄様。ちょっといいかしら」
現れたのは、オオトシの弟のカノだった。
弟、と言っても、その容姿は女性そのものだ。
オオトシに似た切れ長な目に色気がある。
宮廷の料理長を務めているカノが、何の用だろうか。
「どうしたの、カノ」
「あのね。例のあの子なんだけど。出身が何処かわかる?」
「出身?何で」
「どうも、料理が口に合わなかったらしいのよね。言葉遣いも出雲とは違うから、出雲の子じゃないんじゃないかしら、と思って」
少年が食事に手をつけなかった理由は、ただの意地だけではなかったらしい。
「口に合う料理なら食べてくれたかもしれないのに……何で気づかなかったのかしら。囚人担当に任せきりにするんじゃなかったわ」
カノは悔やんでいた。
料理人のプライドもあるだろうが、何より彼女の優しさだろう。
「ヒコナ」
「はい、オオトシさん」
「あの子はどうしてる?」
「医務室です。相変わらず意識は戻りませんけど」
オオトシもプライドにこだわっている場合ではない。
逢いたくないと言われても、嫌われていても構わない。
「逢いに行く」
そうは言ったものの、オオトシには仕事がある。
少年が眠る医務室に足を踏み入れたのは、日付が変わる頃だった。
薄暗い部屋。
ベッドは3つ置かれているが、使われているのは一番奥だけだ。
奥のベッドの周りのカーテンは閉じられている。
オオトシは静かにカーテンの隙間をすり抜けた。
月明かりに照らされた少年の美しい姿。
オオトシは思わず魅入ってしまう。
しかし、少年は苦しそうに呼吸を繰り返していた。
倒れてから2日が経つが、まだ熱は下がらないようだ。
点滴で栄養補給がされているが、少年の体力がもつだろうか。
オオトシは少年に呼び掛けようとする。
しかし、少年の名を知らないことに気づいた。
「……ダメだなぁ僕は」
ベッド脇の椅子に座り込んで自嘲。
「肝心な時に、何の役にも立たない」
自分の無力さが憎い。
権力など、何の威力も持たないと痛感する。
「ねぇキミ……起きてよ」
少年は答えない。
オオトシは椅子から立ち上がる。
そして、少年の柔らかな頬に触れた。
「……し」
少年の小さな唇が、微かに音を発する。
オオトシは慌てて耳を寄せた。
「お……と…し……」
少年はオオトシの名を呼んでいる。
他に縋る者を知らないのだ。
オオトシは布団の中の少年の手を掴み引っ張り出すと、両手で強く握った。
「僕は此処に居るよ。だから、戻っておいで」
細い指先が微かに動く。
オオトシは呼び掛け続けた。
名も知らぬ少年の魂を取り戻す為に。
やがて、奇妙な現象が起き始めた。
短かった少年の髪が、みるみるうちに伸び始めたのだ。
驚くオオトシだったが、少年の手は放さなかった。
オオトシが握る手にも変化が起きた。
細く骨ばっていたものが、丸みを帯びて行く。
変化は身体全体に及んでいた。
苦しむ少年が暴れて掛け布団がベッドから落ちた時、オオトシはそれに気づく。
「何で……」
少年の胸には、今まで無かった膨らみがあった。
腰の辺りもふっくらとしていて、それは女のものである。
オオトシの目の前で少年は、少女へと変貌していた。
唖然としていたオオトシだったが、いつの間にか手を握り返されていることに気づく。
見れば、少年……少女の潤んだ瞳がオオトシを見上げていた。
「キミ……」
「オ……オトシ……」
「……待ってて。今、医務官を呼ぶから」
離れようとするオオトシだったが、少女の手がそれを許さなかった。
「どうしたの?」
「……」
独りになりたくない。
少女の瞳が、そう言っている。
「わかった。僕は何処にも行かないよ」
安心したのか、少女は再び目を閉じた。
それから数日後。
少女の体力はすっかり回復し、元の牢屋に戻されていた。
執務室のオオトシの手元には、医務官のヒコナからの報告書がある。
少女の身に起きたことを、ヒコナなりに纏めたらしい。
一通り読み終えたオオトシは、椅子から立ち上がった。
長い廊下を歩く。
逸る気持ちを抑えながら。
牢番は居なかった。
本来ならば職務怠慢で罰するところだが、今のオオトシにはどうでも良かった。
「チカ!」
名を呼ばれた少女は本から顔を上げる。
「チカ……!」
「なんじゃ……オオトシ」
「やっぱいいなぁ……」
「何がじゃ」
「男の子のチカも可愛かったけど、僕は女の子のチカが好き」
オオトシの言葉に、チカは動揺していた。
反応に困り、うつむいてしまう。
「それが、本当のチカなんでしょ?ヒコナの報告書には、『チカは本来、女であり、遺伝子操作により男の姿となった。しかし何らかの原因で拒絶反応を起こして高熱を出し、本来の姿に戻ったと思われる』って書いてあった。何らかの原因、って何だろうね」
「さぁな。わしにもわからん」
「ヒコナの報告書には、女性ホルモンが云々……要するに『恋の力』って書いてあったけど。心当たりある?」
「……恋?」
「恋。したことないの?」
チカは黙って頷いた。
「誰かに逢いたいとか、誰かのことを考えると胸が苦しくなるとか。経験ない?」
「……あ」
何かに思い当たったのか、チカは小さく声を上げる。
「あった?」
「オオトシ……」
「ん?」
少女は立ち上がり、檻の近くまでやってくると、オオトシを見上げた。
「わしはオオトシに逢いたかった」
「……僕に?」
「オオトシのことを考えると、胸が苦しくなる」
「ちょ……ちょっと待った。それってつまり、チカは僕に恋してるってこと?」
「そうなるのか?」
「なるのかな」
「わしが聞いておるのじゃ」
「いや……ダメダメ。僕なんかオジサンだし、妻子持ちだし」
オオトシは懸命に言い訳を考える。
チカはまだ14歳。
未来ある少女の人生を踏みにじる訳には行かない。
「何を勘違いしておる」
「え?」
「おぬしとどうにかなろうなど、考えておらぬわ。たわけ」
「あ……そう」
オオトシは落胆していた。
チカをどうにかしてやろうと思っていた訳ではないのだが。
「オオトシはわしが嫌いか?」
「大好きだよ」
「そ……そうか」
オオトシのストレートな返答に、チカははにかむ。
「嬉しいものじゃな。誰かに好かれるというのは。わしは一生、誰にも愛されず、独りきりじゃと思っておった」
「チカ……」
「もう充分じゃ。いつ死んでも悔いはない」
その言葉を聞いたオオトシは、檻を挟んだままチカの華奢な身体を抱き寄せる。
「オオトシ……?」
「……死なせない」
「何を言うておるのじゃ……」
檻の鍵がオオトシの手で開けられた。
チカは牢に入って来たオオトシの目的が判らず、後退りする。
「チカ……」
「来るな……」
怯えるチカを壁に追い詰めたオオトシは、その小さな唇に自分のそれを押し付ける。
「っ!」
不意に唇を奪われたチカは、力一杯オオトシを突き飛ばした。
「な……何をするんじゃ貴様は!」
「何って……キスだけど」
「それくらいわしにもわかる!何で、と聞いておるのじゃ!」
「好きだから」
「……好き?」
戸惑うチカの身体を、オオトシは抱き締めた。
「……チカの全てが欲しい」
オオトシの、欲情に掠れた声。
耳元で囁かれたチカの身体から力が抜けて行く。
オオトシは牢屋の隅に置かれた粗末なベッドの上に、チカを横たえた。
チカの僅かな恐怖心を拭うように、オオトシは微笑む。
その日チカは初めて、愛される喜びを知った。
やがて、チカの身体に新たな命が宿る。
囚人が孕んだことで宮廷は大騒ぎになった。
妊婦となったチカは、またまた特例措置で宮廷の片隅に小さな部屋を与えられていた。
料理長のカノが特別に作った、薄味で栄養バランスの考えられた食事。
そのおかげで、チカもお腹の子供も健康そのものだ。
ただ、チカは子供の父親が誰であるのか、一切喋ろうとはしなかった。
遺伝子鑑定も拒み続けている。
そんなチカの元へ、オオトシは密かに通い詰めていた。
「ねえ、チカ。何で本当のこと言わないの」
オオトシの存在を完全に無視して、チカは木陰のテラスで本を読んでいる。
「チカ、チカってば」
「騒がしいの。聞こえておるわ」
「僕をかばってるつもりなら止めてよ」
「そんなんではないわ」
「じゃあ、何で」
「おぬしの妻子に申し訳が立たぬじゃろ」
形はどうであれ、チカはオオトシを正妻から寝取ったことになる。
チカはそれを気に病んでいた。
「じゃから、この子に父親は要らぬのじゃ。わしがひとりで育てる」
「そんなこと……僕は望んでない」
「じゃあ、わしと結婚してくれるのか?」
「それは……」
「冗談じゃ。本気で困るな。おぬしらしくない」
チカは本をテーブルに置くと、そっとお腹を撫でる。
「わしにも責任はある。おぬしだけが悪い訳ではない」
オオトシに抱かれた時、こうなる可能性があることをチカは知っていた。
それでも、情けが欲しかった。
愛されたかった。
「安心しろ。おぬしの幸せな家庭を壊すようなことはせぬから」
「……チカだって僕の家族だ」
「……家族?」
「結婚は出来ないけど。チカは僕の妻で、その子は僕の子供だ」
「オオトシ……」
オオトシはチカに歩み寄ると、テーブルに置かれた小さな手に自分の手を重ねる。
「チカ。僕にキスして」
「……は?」
「は?じゃなくて。キスして」
「暑さで頭がおかしくなったのか?何で今更、おぬしにキスせねばならんのじゃ」
「約束したでしょ。出逢った時に。『僕にキスしてくれたら、悪いようにはしない』って」
「それこそ今更じゃ。わしは別におぬしに擁護されようなどとは」
「お腹の子供を守る為だよ。母親のチカは罪人だけど、父親の僕は国王補佐官。僕の子供なら、スサノオさまだって簡単に手出しは出来ない」
「……そうなのか?」
「そうなの!」
「……わかった。目をつむれ」
チカのキスは不器用だった。
しかし、オオトシは満足だった。
オオトシは約束通り、チカのお腹の子供の父親が自分であることをスサノオに告げる。
噂は瞬く間に宮廷に広まった。
権力者であるオオトシに、面と向かって楯突く者こそ居なかったが、当事者にとって居心地が良いものではなかった。
それでもオオトシは、堂々とチカの元へ通い続けた。
何も恥じることはない。
生まれて来る命に罪は無い。
そして、翌年2月。
チカは無事に母親となる。
物語の始まりは、6年後のこと。
おわり
朱塗りの柱に白い外壁。
近代的な街とは対照的に、古き良き日本文化の香りを残す建物だ。
庭には見事な桜が咲き誇る。
それは、出雲歴23年の春の夜だった。
激務に追われ、宮廷での寝泊まりを続けていたオオトシは、その夜も執務室の椅子に座ったまま意識を手放していた。
「曲者だーっ!!」
余裕の無い声が、暗い宮廷に響き渡る。
夢うつつ状態のオオトシも、一気に覚醒した。
警備兵の声は、国王・スサノオの寝所の方向から聞こえる。
主の危険を感じたオオトシは、椅子を蹴り倒して執務室を飛び出した。
しかし宮廷は広い。
オオトシが駆けつけた時には、捕り物は終わっていた。
「ご苦労様。スサノオさまはご無事?」
乱れる呼吸を整えながら、近くに居た警備兵にオオトシが尋ねる。
警備兵は国王補佐官であるオオトシの登場に姿勢を正した。
「はい!国王様はご無事です!」
「そ。良かった」
安堵したオオトシが、スサノオの寝所に足を踏み入れようとした時。
「放せ!放すのじゃ!」
屈強な警備兵に組み敷かれ、床に顔を押し付けられている少年の姿が目に入った。
「もしかして、あれが曲者?」
「はい!あの者は、国王様の寝所に忍び込もうとしておりました!」
「ふーん」
顎に手を当てて、オオトシは思案する。
その様子に、警備兵は不安を覚えた。
「……オオトシさま?」
「まだ子供じゃない。放してあげなよ」
「え?」
「責任は僕が取るからさ」
「いや、しかし……お待ちください!」
警備兵の制止も聞かず、オオトシは少年に歩み寄ると、床にしゃがみ込んだ。
「キミ、どこから来たの?」
まだ組み敷かれたままの少年は、オオトシを上目で睨みつける。
アーモンド型の大きな瞳。
小さな鼻、ツンと尖った唇。
多少、薄汚れてはいるが、恐ろしく整った容姿の少年だ。
歳は10代前半だろう。
「名前は?」
「まずは貴様が名乗れ」
「このガキ……何て口の利き方を!」
憤る警備兵を、オオトシは手であしらう。
「そうだね。僕はオオトシ。スサノオさまの補佐官だよ」
「オオトシ……貴様が」
「僕を知ってるの?」
「スサノオの犬が!」
そう言い捨てた少年は、オオトシの足に唾を吐きかける。
「貴様……オオトシさまに何と無礼な!」
警備兵は少年の顔を力一杯床に叩きつけた。
「まあまあ。僕は構わないから」
「いいえ。この者は厳罰に処すべきです」
「何で?」
「何でって……」
「悪い子じゃないよ。僕にはわかる。だから放してよ」
「オオトシさま!正気ですか!?」
「正気正気。ほら、早く」
国王に次ぐ権限を持つオオトシに言われてしまえば、従うしかない。
警備兵は渋々、少年を解放する。
自由を得た少年は素早く立ち上がると、部屋の出口目掛けて駆け出した。
「はい、ストップ」
「!」
少年の細い二の腕が、オオトシによって掴まれる。
「何をする……放せ!放さぬか!」
「ダメ」
一見すると優男風なオオトシだが、その握力は少年が想像していたより遥かに強い。
暴れても暴れても、オオトシの手は緩まなかった。
抵抗を諦めた少年が、不安げに問う。
「……わしをどうする気じゃ」
「んー、そうだなぁ。とりあえず、僕の部屋においでよ。キミ、可愛いから特別に可愛がってあげる」
「な……」
絶句する少年を肩に軽々担ぎ上げると、オオトシは執務室へと戻った。
「……どういうつもりじゃ」
「ん?どういうって?」
「何で……何でわしはおぬしに……」
「おぬしに?」
「茶でもてなされておるのじゃ!」
ソファに座らされた少年は、目の前に置かれた温かい緑茶にツッコミを入れた。
「あ、珈琲の方が良かった?」
「違う!」
「オレンジジュースは切らしててさ」
「そうでもなくて!わしはスサノオを暗殺しに来たのじゃぞ!?わかっておるのか!?」
「でも失敗したよね」
ズバリと切り返されて、少年は言葉に詰まる。
「それは……」
「スサノオさまにお怪我も無かったし」
「そうじゃが……」
「大した罪じゃないよ」
さらりと言い放つオオトシに、少年は戸惑いを浮かべた。
「……本気で言うておるのか?おぬし、スサノオの補佐官じゃろ」
「補佐官だから言えるんだよ。スサノオさまはキミごときが殺せる御方じゃない」
「……」
「それに、キミだけの意思とは思えないし」
「?」
「キミにこんな危険な仕事をさせた奴が、僕は許せない」
青く大きな瞳が揺れる。
少年の隣に座ったオオトシが、その白い手に自分の手を重ねた。
「大丈夫。悪いようにはしないよ」
「……」
「キミが僕にキスしてくれたら」
驚き顔を上げた少年の唇に、オオトシは人差し指を押し付ける。
「なんてね。本気にした?」
「……っ!」
オオトシの頬に、少年の平手打ちが炸裂した。
少年の身柄は、宮廷の片隅にある牢屋へと移された。
高い位置にある小さな窓からは、庭の桜が僅かに見える。
食事は充分過ぎる程、与えられていた。
狭い牢屋では運動も限られ、正直食べきれない。
晴れた日の昼下がり。
牢番の緊張した声が聞こえる。
それは、オオトシが訪れた合図になっていた。
「や、元気?」
「また来たのか」
少年の呆れ顔を黙殺して、オオトシは床に置かれた食事のトレイをチェックする。
「あれ~。また残してる。食欲無いの?お医者さん呼ぼうか」
「わしは食が細いんじゃ」
「ダメだよ、育ち盛りなんだから。もっと食べないと」
「おぬしはわしを太らせたいのか?」
「まあ、もう少し肉がついてた方が好みだけど。抱き心地を考えるとね」
オオトシのセクハラ発言は、挨拶のようなものらしい。
いちいち相手をしていられないと、少年は静かに本を読み始める。
「あ、そうだった。新しい本を持ってきたよ」
「それを早く言え」
少年は檻の隙間から奪うように紙袋を受け取った。
中身は中学生向けの参考書だ。
「勉強熱心だよね~キミ。うちの子にも見習って欲しいよ」
オオトシの何気ない言葉。
しかし少年は手から紙袋を落とす。
「どうしたの?大丈夫?」
オオトシは紙袋を拾い上げて、再び少年に手渡した。
しかし少年は上の空だ。
「……キミ?」
「子供……居るのか?」
「うん。男の子がふたり。下の子はキミと同じくらい」
「おぬし……いくつじゃ」
「38歳だけど」
「……」
少年は黙り込んだまま、牢屋の奥へと戻って行く。
「あれ?どうしたの?ねぇ」
「帰れ」
「え?」
「二度と来るな」
「何?急にどうしたの?」
少年の態度の急変に、オオトシはついて行かれない。
狭い牢屋に沈黙が流れる。
静寂を破ったのは、携帯電話の呼び出し音だった。
ディスプレイの文字を確認したオオトシは青ざめる。
「スサノオさまからだ。行かなきゃ。ごめんね!」
それだけ言い残すと、オオトシは駆けて行ってしまった。
後にポツリと残された少年。
牢屋の奥の壁にもたれ、力無く座り込む。
胸が苦しい。
涙が溢れる。
その感情の名を、少年は知らなかった。
その日以来。
オオトシの足が牢屋に向くことは無かった。
小さな窓から見える桜も散り、葉が茂っている。
少年は虚ろな瞳で、ただぼんやり座っていることが多くなっていた。
食事にも、ほとんど手をつけない。
牢番は困り果てていた。
囚人に死なれては責任問題になる。
オオトシが来なくなってから半月が経った頃。
牢番の我慢も限界だった。
「おい……おい!」
相変わらず座り込んでいる少年の身体を、牢の外から棒でつついてみる。
しかし反応は無い。
「聞こえてるなら何とか言え!」
「……うるさいの」
「いい加減にしろよ。おまえが死んだら俺が困るんだよ」
「……わしは死ぬのか」
「今のままなら死ぬだろうな」
「……それも良いかもしれんの」
少年は力無く微笑んだ。
生きることを諦めた、虚ろな瞳。
牢番にも情けはある。
保身の為ではなく、純粋に少年を救いたかった。
「何か望みがあったら言ってみろ」
「……望み?」
「食べたいものとか、逢いたい人とか」
「逢いたい……」
少年は頭に浮かんだ男の名前を、牢番に告げるべきか迷う。
「……オオトシさまか?」
「……!」
少年の慌てた表情は、牢番の憶測が正しいことを示していた。
「待ってろ。オオトシさまにお越し頂くように頼んで来るから」
「だ……ダメじゃ!」
歩き出した牢番の制服の裾を、少年は檻の隙間から手を伸ばして必死に掴む。
「何でダメなんだ。お逢いしたいんだろ?オオトシさまに」
「わしが二度と来るなと言ったんじゃ」
「本心じゃなかったんだろ?」
「しかし……仕事の邪魔になるじゃろ。足手まといにはなりたくない」
「おまえ……」
振り向いた牢番は、しげしげと少年を眺めた。
その居心地の悪さに、少年は後退りする。
「な……なんじゃ」
「本当にオオトシさまが好きなんだな」
「ち……違うわたわけが!」
「何が違うんだ?顔が真っ赤だぞ」
「……違う!わしはオオトシなど……オオトシ……など……」
譫言のように呟いた後、少年は床に倒れ込む。
「……おい。どうした?」
牢番は檻の間から手を伸ばして少年の肩を揺するが、反応は無かった。
少年は目を閉じたまま、苦しそうに呼吸をしている。
触れた頬が焼けるように熱い。
「た……大変だ!」
牢番は廊下へ飛び出し、医務官を呼ぶ為に走った。
少年が高熱を出して昏睡状態になったことは、すぐにオオトシの耳にも入る。
オオトシは迷っていた。
「二度と来るな」と言われた身だ。
少年のことは心配だったが、仕事を放り出す訳にも行かない。
「どうか……無事で」
人知れず祈るオオトシ。
祈る神など、この国には存在しないのだが、それでも祈るしかなかった。
同じ宮廷の中。
しかし、ふたりの距離は遠い。
少年は特例措置で宮廷の医務室に移されていた。
優秀な医務官が手を尽くしたが、少年の意識は戻らない。
食事を絶って弱った身体で、いつまで持ちこたえられるのか。
ただ見守るしかなかった。
少年は夢を見ていた。
長い長い夢を。
暗い部屋で膝を抱えて泣き続ける幼女。
扉が開き、差し込む光。
しかしそれは、幼女にとって更なる恐怖の始まりの合図。
少年は連れて行かれる幼女の後ろ姿を、為す術もなく見送る。
助けを求めても無駄だ。
諦めが心を支配する。
この地獄から抜け出すには、命令に従い任務を遂行するしかない。
人など殺したくはなかった。
それでも、生きる為に殺し続けた。
血にまみれた両手。
この汚れた手で、何を守れるというのか。
誰が愛してくれるというのか。
「オオトシさん」
廊下で呼ばれて振り向けば、医務官のヒコナの姿があった。
まだ子供のような容姿ながら、立派な成人男子である。
「ちょっといいですか」
ヒコナはしきりに周囲を気にしている。
「なになに。内緒の話?」
「はい。例の少年のことで」
オオトシの顔から一瞬だけ笑みが消えたことにヒコナは気づいたが、あえて触れないことにした。
オオトシはヒコナを自分の執務室に招き入れた。
「で。あの子がどうしたの」
「はい。あの少年の身元を調べる為の遺伝子鑑定の結果なんですが……出雲国民とは一致しませんでした」
「身元不明か。まあ、そうだろうね」
故意に遺伝子登録をせずに育ち、犯罪に荷担する者は大勢居る。
「それが内緒の話?」
「いえ。もうひとつ。あの少年の遺伝子、人為的に組み換えられた痕跡が見つかりました」
「人為的に……」
「現在の出雲の技術では難しいことです」
「つまり、あの子は出雲より技術が進んだ高天原から来たってこと?」
「その可能性が高いかと」
「そう……」
スサノオ暗殺の黒幕が高天原。
それは頭が痛い事実だった。
執務室の扉がノックされる。
オオトシは頭を抱えたまま返事をする。
「兄様。ちょっといいかしら」
現れたのは、オオトシの弟のカノだった。
弟、と言っても、その容姿は女性そのものだ。
オオトシに似た切れ長な目に色気がある。
宮廷の料理長を務めているカノが、何の用だろうか。
「どうしたの、カノ」
「あのね。例のあの子なんだけど。出身が何処かわかる?」
「出身?何で」
「どうも、料理が口に合わなかったらしいのよね。言葉遣いも出雲とは違うから、出雲の子じゃないんじゃないかしら、と思って」
少年が食事に手をつけなかった理由は、ただの意地だけではなかったらしい。
「口に合う料理なら食べてくれたかもしれないのに……何で気づかなかったのかしら。囚人担当に任せきりにするんじゃなかったわ」
カノは悔やんでいた。
料理人のプライドもあるだろうが、何より彼女の優しさだろう。
「ヒコナ」
「はい、オオトシさん」
「あの子はどうしてる?」
「医務室です。相変わらず意識は戻りませんけど」
オオトシもプライドにこだわっている場合ではない。
逢いたくないと言われても、嫌われていても構わない。
「逢いに行く」
そうは言ったものの、オオトシには仕事がある。
少年が眠る医務室に足を踏み入れたのは、日付が変わる頃だった。
薄暗い部屋。
ベッドは3つ置かれているが、使われているのは一番奥だけだ。
奥のベッドの周りのカーテンは閉じられている。
オオトシは静かにカーテンの隙間をすり抜けた。
月明かりに照らされた少年の美しい姿。
オオトシは思わず魅入ってしまう。
しかし、少年は苦しそうに呼吸を繰り返していた。
倒れてから2日が経つが、まだ熱は下がらないようだ。
点滴で栄養補給がされているが、少年の体力がもつだろうか。
オオトシは少年に呼び掛けようとする。
しかし、少年の名を知らないことに気づいた。
「……ダメだなぁ僕は」
ベッド脇の椅子に座り込んで自嘲。
「肝心な時に、何の役にも立たない」
自分の無力さが憎い。
権力など、何の威力も持たないと痛感する。
「ねぇキミ……起きてよ」
少年は答えない。
オオトシは椅子から立ち上がる。
そして、少年の柔らかな頬に触れた。
「……し」
少年の小さな唇が、微かに音を発する。
オオトシは慌てて耳を寄せた。
「お……と…し……」
少年はオオトシの名を呼んでいる。
他に縋る者を知らないのだ。
オオトシは布団の中の少年の手を掴み引っ張り出すと、両手で強く握った。
「僕は此処に居るよ。だから、戻っておいで」
細い指先が微かに動く。
オオトシは呼び掛け続けた。
名も知らぬ少年の魂を取り戻す為に。
やがて、奇妙な現象が起き始めた。
短かった少年の髪が、みるみるうちに伸び始めたのだ。
驚くオオトシだったが、少年の手は放さなかった。
オオトシが握る手にも変化が起きた。
細く骨ばっていたものが、丸みを帯びて行く。
変化は身体全体に及んでいた。
苦しむ少年が暴れて掛け布団がベッドから落ちた時、オオトシはそれに気づく。
「何で……」
少年の胸には、今まで無かった膨らみがあった。
腰の辺りもふっくらとしていて、それは女のものである。
オオトシの目の前で少年は、少女へと変貌していた。
唖然としていたオオトシだったが、いつの間にか手を握り返されていることに気づく。
見れば、少年……少女の潤んだ瞳がオオトシを見上げていた。
「キミ……」
「オ……オトシ……」
「……待ってて。今、医務官を呼ぶから」
離れようとするオオトシだったが、少女の手がそれを許さなかった。
「どうしたの?」
「……」
独りになりたくない。
少女の瞳が、そう言っている。
「わかった。僕は何処にも行かないよ」
安心したのか、少女は再び目を閉じた。
それから数日後。
少女の体力はすっかり回復し、元の牢屋に戻されていた。
執務室のオオトシの手元には、医務官のヒコナからの報告書がある。
少女の身に起きたことを、ヒコナなりに纏めたらしい。
一通り読み終えたオオトシは、椅子から立ち上がった。
長い廊下を歩く。
逸る気持ちを抑えながら。
牢番は居なかった。
本来ならば職務怠慢で罰するところだが、今のオオトシにはどうでも良かった。
「チカ!」
名を呼ばれた少女は本から顔を上げる。
「チカ……!」
「なんじゃ……オオトシ」
「やっぱいいなぁ……」
「何がじゃ」
「男の子のチカも可愛かったけど、僕は女の子のチカが好き」
オオトシの言葉に、チカは動揺していた。
反応に困り、うつむいてしまう。
「それが、本当のチカなんでしょ?ヒコナの報告書には、『チカは本来、女であり、遺伝子操作により男の姿となった。しかし何らかの原因で拒絶反応を起こして高熱を出し、本来の姿に戻ったと思われる』って書いてあった。何らかの原因、って何だろうね」
「さぁな。わしにもわからん」
「ヒコナの報告書には、女性ホルモンが云々……要するに『恋の力』って書いてあったけど。心当たりある?」
「……恋?」
「恋。したことないの?」
チカは黙って頷いた。
「誰かに逢いたいとか、誰かのことを考えると胸が苦しくなるとか。経験ない?」
「……あ」
何かに思い当たったのか、チカは小さく声を上げる。
「あった?」
「オオトシ……」
「ん?」
少女は立ち上がり、檻の近くまでやってくると、オオトシを見上げた。
「わしはオオトシに逢いたかった」
「……僕に?」
「オオトシのことを考えると、胸が苦しくなる」
「ちょ……ちょっと待った。それってつまり、チカは僕に恋してるってこと?」
「そうなるのか?」
「なるのかな」
「わしが聞いておるのじゃ」
「いや……ダメダメ。僕なんかオジサンだし、妻子持ちだし」
オオトシは懸命に言い訳を考える。
チカはまだ14歳。
未来ある少女の人生を踏みにじる訳には行かない。
「何を勘違いしておる」
「え?」
「おぬしとどうにかなろうなど、考えておらぬわ。たわけ」
「あ……そう」
オオトシは落胆していた。
チカをどうにかしてやろうと思っていた訳ではないのだが。
「オオトシはわしが嫌いか?」
「大好きだよ」
「そ……そうか」
オオトシのストレートな返答に、チカははにかむ。
「嬉しいものじゃな。誰かに好かれるというのは。わしは一生、誰にも愛されず、独りきりじゃと思っておった」
「チカ……」
「もう充分じゃ。いつ死んでも悔いはない」
その言葉を聞いたオオトシは、檻を挟んだままチカの華奢な身体を抱き寄せる。
「オオトシ……?」
「……死なせない」
「何を言うておるのじゃ……」
檻の鍵がオオトシの手で開けられた。
チカは牢に入って来たオオトシの目的が判らず、後退りする。
「チカ……」
「来るな……」
怯えるチカを壁に追い詰めたオオトシは、その小さな唇に自分のそれを押し付ける。
「っ!」
不意に唇を奪われたチカは、力一杯オオトシを突き飛ばした。
「な……何をするんじゃ貴様は!」
「何って……キスだけど」
「それくらいわしにもわかる!何で、と聞いておるのじゃ!」
「好きだから」
「……好き?」
戸惑うチカの身体を、オオトシは抱き締めた。
「……チカの全てが欲しい」
オオトシの、欲情に掠れた声。
耳元で囁かれたチカの身体から力が抜けて行く。
オオトシは牢屋の隅に置かれた粗末なベッドの上に、チカを横たえた。
チカの僅かな恐怖心を拭うように、オオトシは微笑む。
その日チカは初めて、愛される喜びを知った。
やがて、チカの身体に新たな命が宿る。
囚人が孕んだことで宮廷は大騒ぎになった。
妊婦となったチカは、またまた特例措置で宮廷の片隅に小さな部屋を与えられていた。
料理長のカノが特別に作った、薄味で栄養バランスの考えられた食事。
そのおかげで、チカもお腹の子供も健康そのものだ。
ただ、チカは子供の父親が誰であるのか、一切喋ろうとはしなかった。
遺伝子鑑定も拒み続けている。
そんなチカの元へ、オオトシは密かに通い詰めていた。
「ねえ、チカ。何で本当のこと言わないの」
オオトシの存在を完全に無視して、チカは木陰のテラスで本を読んでいる。
「チカ、チカってば」
「騒がしいの。聞こえておるわ」
「僕をかばってるつもりなら止めてよ」
「そんなんではないわ」
「じゃあ、何で」
「おぬしの妻子に申し訳が立たぬじゃろ」
形はどうであれ、チカはオオトシを正妻から寝取ったことになる。
チカはそれを気に病んでいた。
「じゃから、この子に父親は要らぬのじゃ。わしがひとりで育てる」
「そんなこと……僕は望んでない」
「じゃあ、わしと結婚してくれるのか?」
「それは……」
「冗談じゃ。本気で困るな。おぬしらしくない」
チカは本をテーブルに置くと、そっとお腹を撫でる。
「わしにも責任はある。おぬしだけが悪い訳ではない」
オオトシに抱かれた時、こうなる可能性があることをチカは知っていた。
それでも、情けが欲しかった。
愛されたかった。
「安心しろ。おぬしの幸せな家庭を壊すようなことはせぬから」
「……チカだって僕の家族だ」
「……家族?」
「結婚は出来ないけど。チカは僕の妻で、その子は僕の子供だ」
「オオトシ……」
オオトシはチカに歩み寄ると、テーブルに置かれた小さな手に自分の手を重ねる。
「チカ。僕にキスして」
「……は?」
「は?じゃなくて。キスして」
「暑さで頭がおかしくなったのか?何で今更、おぬしにキスせねばならんのじゃ」
「約束したでしょ。出逢った時に。『僕にキスしてくれたら、悪いようにはしない』って」
「それこそ今更じゃ。わしは別におぬしに擁護されようなどとは」
「お腹の子供を守る為だよ。母親のチカは罪人だけど、父親の僕は国王補佐官。僕の子供なら、スサノオさまだって簡単に手出しは出来ない」
「……そうなのか?」
「そうなの!」
「……わかった。目をつむれ」
チカのキスは不器用だった。
しかし、オオトシは満足だった。
オオトシは約束通り、チカのお腹の子供の父親が自分であることをスサノオに告げる。
噂は瞬く間に宮廷に広まった。
権力者であるオオトシに、面と向かって楯突く者こそ居なかったが、当事者にとって居心地が良いものではなかった。
それでもオオトシは、堂々とチカの元へ通い続けた。
何も恥じることはない。
生まれて来る命に罪は無い。
そして、翌年2月。
チカは無事に母親となる。
物語の始まりは、6年後のこと。
おわり
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