雨模様の終礼、隠されたスピリット
10.明かされる過去と現在(いま)
僕達が連れ立って入ったのは最初に通された指導室だ。誰にも邪魔されない場所が良かったのは当然だが、物理室のような広い部屋でするにはこれからの話は冷たすぎた。
僕も彼女も、座ることもせず部屋の端と端で床を見つめる。選ぶ言葉もなく、沈黙に急かされるように渇いた喉を動かした。
「……貴女が、犯人なんですか」
思わず問えば、僕の緊張を彼女は笑う。朗らかに、無邪気に。
「探偵なら「犯人は貴女だ」って、はっきり言わないといけないんじゃないですか?」
「いいんです、僕は探し物探偵ですから」
否定してほしい訳ではない。言い逃れを認めている訳でもない。こう言ってももう隠さないと思えたから。僕が何を言おうが言わまいが、彼女は明らかにすることを決めている。彼等に語った彼女の姿は間違いなく人の前に立つ教師だったから。
「探偵には向いてないですね」
「渡瀬君にも言われました。でも、いいんです」
「探し物探偵だから?」
頷くと、変な人と言って今度は静かに微笑んだ。眼鏡のレンズに蛍光灯が白く映る。
これからどんなことが話されるのか、それを思うと耳を塞ぎたいような衝動に駆られる。受け止められるだけの度量はまだ持ち合わせていない。しかし聞き届けることが今の僕の役目であるなら、逃げてはいけないだろう。ここに居合わせた者として最後まで向き合わなければ。
彼女は壁際に立つとその感触を確かめるようにそっと触れ、自身の過去を語り出した。
「輝英に入学した時にはもう、教師になりたいと思っていました。進学先をここを選んだのは、沢山の夢が集まる学校だから。夢を追う生徒達を間近で見る経験はきっと役に立つと思ったからです」
期待に胸を膨らませて夢への一歩を踏み出した少女。しかしそのその夢を叶えた筈の少女が絶望し、色のない顔で学校について話すのを僕は知っている。
「入学してすぐ、別棟の入口で男の人が言い合っているのを見つけました。ひとりは三年の先輩で、その相手が堀でした。それが堀の存在を認識した最初でした」
言い合いの内容はよく分からなかったと話す。生徒の方はいきり立って感情的に喚いたし、対する堀氏は薄ら笑いを浮かべながら言葉を返していたが、向かいの校舎から覗くように見ていた彼女まではその声は聞こえて来なかった。少しの間そうして言葉を交わしていたのが突然止んだのは、堀氏が生徒に何かを耳打ちしたことがきっかけだった。
「堀はすぐに別棟に入って行きました。それなのに先輩はいつまで経っても動こうとしなくて不思議に思っていると、何とも言えない表情で泣いていました。目を見開いて、驚きや戸惑いを混ぜたような。多分自分が泣いていることにも気付いていなかったと思います」
何があったのかは分からない。それでも何かが起きていたことは明白だった。入学したてで堀氏との面識もなかった彼女にとってその日見た光景は忘れがたく、時折頭を掠めては足跡を残すように暫く胸の中をもやもやと気持ち悪くさせていたらしい。しかしその後も堀氏と関わることは皆無で、月日が流れる内にその記憶も薄れていった。
そして完全に忘れてしまった頃、また堀氏への疑念を持つ事態が生じた。
部活を始めて上級生と関わるようになると、学校の内情が見えてくるものだ。生徒間の関係だけでなく、教師への噂が飛び交うことも多いだろう。ある日堀氏のことが話題に上った。
「三年生の間で堀は相当嫌われていました。前任の先生がとても良い方だったそうで余計かもしれません。
私はその時の会話で初めて、堀という教師がどんな人なのか知りました」
それは同時に、見た記憶を呼び起こし出来事を関連付けられる程度の信憑性があった。
「堀が最低な振る舞いをしているのに他の先生達が見て見ぬふりをしていることについて、色んな憶測が出ていました。親が教育委員会の理事だとか、校長と親族だとか、有名大学の出だからじゃないかというのもありました。
本当のことは今になっても分かりません。ただどうしてだか、横行が許されていたんです」
教師という職業を夢見ていた彼女はその事実を人より重く受け止めただろう。話だけでは信じられなかったとしても、すぐにその目で知ることになった筈だ。何故生徒が守られていないのか、守るべき教師から傷付けられているのか。彼女が夢見た景色はそこにはなく、失望の目で見渡すようになった。
そうしてもまだ信じたい気持ちがあった、と彼女は言う。
「堀と話したこともなかったので、本当に皆が言うような人なのか知りたいと思いました。もしかしたら見られているのはほんの一面で、実際は教師としての誇りを持った良い先生かもしれない。そう思いたかったんです」
行動を起こした彼女は、資格を取りたいと話して堀氏に個人的に近付くようになった。噂については何も知らない、純粋に教えを乞う生徒として。
普通ならそこまでしようとは思わなかっただろう。知らないなら知らないままで良かったし、悪い噂を聞いてまで近付く勇気は僕にもない。しかし彼女は知りたがった。目指す夢のため、そこに付けられた泥を拭い信じきるため、彼女にはそれが必要だった。
だがもしそうしていなかったなら今日の過ちは起きなかったかもしれない。希望的観測に過ぎないが、彼女が歩むべき道を踏み間違えた瞬間があるのだとしたらその時だったのではないかと思う。誰にも相談せずひとりで動き出してしまわなければ、これから話される堀氏との関係も始まらなかったかもしれないのだから。
頻繁に自分の元へと来る女子生徒を堀氏も可愛がるようになった。だから彼女の目に映る堀氏の印象はそこまで悪いものではなかったと言う。幸か不幸か、彼女が訪ねる以外でふたりが偶然にでも会うということはなく、周りから聞いていたような堀氏の素行を目撃することもなかったのだ。
――だから油断してしまった。相手が自分より遥かに体格の良い男であることを、無垢な少女は失念してしまった。
「最初は偶然だと思っていました。堀自身も触れれば必ず謝っていましたし、腰や足が触れるくらいは何ともなかったんです。
だけどそんな状態を一年も続けていると流石に違和感を覚えるようになりました」
「……途中で止めようとは思わなかったんですか? 貴女が行かなければ会うこともなかったんですよね?」
「通い始めて半年過ぎた頃に、目的としていた資格は取ったんです。それで終わりのつもりでした。でも今度は堀の方からこの資格は取っておくべきだと色々と勧められて、断れなかった私は堀の組んだ予定に合わせて訪ねるようになりました」
まんまとあの人の思惑に嵌まっていった、と過去の自分を嘲るように鼻で笑った。
その時の彼女に非はなかったと断言できる。彼女の前で堀氏は善意の人だったんだ。幾ら噂を知っているとはいえ、自分が見ているものを信じるのは仕方ないだろう。それにその時には既に世話なっていたのだから更なる勧めを無下にしないというのは人として最良だったように思う。
彼女が短く息を吐いたのが聞こえて、その両手が握り締められているのに気が付いた。
「決定的なことが起こったのは二年の終わり頃です。
勉強の手伝いをしている代わりに休日付き合ってくれないかと言われました。その一日だけでいいと言われましたし、手伝いの代わりにと言われたらやはり断る勇気はありませんでした」
当日、少しの警戒はしていたものの至って和やかにその日が終わろうとしていた。彼女自身、今まで体験したことがないような特別待遇に心を解いてしまう。それまでに燻っていた不信感は気のせいに思えて、無事送り届けられるつもりで堀氏の運転する車に乗り込んだ。
「着いたのは堀の自宅でした。一気に恐怖心が襲ってきて逃げようとした私を、あいつは殴って、それで……」
震える唇の隙間から歯が鳴り、その顔から色が落ちていく。記憶の波に押し潰されそうになっているのが分かって、だけどどうすることもできない。男である僕に話すことが彼女にとってどれ程の負担になるのかを、今の今まで気遣うことができなかった。彼女が負った痛みを本当の意味で知ることはできない。
どうして分からなかったのだろう、新垣さんの話を聞いた時に理解するべきことだったのに。
「……身体を求められたのはその一度きりでした。でもその一回を、一生負う羽目になった」
浅い呼吸を何度か繰り返してから彼女はそう話す。その後も堀氏は何食わぬ顔で彼女と接し、卒業するまで強制的にその微妙な関係は続いたと途切れる声で言った。
卒業すれば解放される、彼女はそう信じていた。しかし現実は非情で、彼女は絶望の淵に追い込まれる。
――教師になったら必ずここに戻ってこい。あの時のことを忘れた訳じゃないだろ?
にやりと笑って去っていくのを見て、先輩の姿を思い出した。今きっと同じ顔をしている。もう自分の意思で先へ進むことも許されないのだと彼女は悟った。
「それでも同時に、絶対に教師になってここに戻ってこようと思いました。言いなりになるんじゃない。同じ立場に立って必ずその足元を崩してやろう、そんな復讐心からです。
……真っ直ぐに教師を志していた時の気持ちは、とっくに忘れてしまいました」
彼等に告げた言葉を振り返る。それは自分が失ってきたもので、そして過去の自分への戒めだったのかもしれない。
彼女が耐えてきた過去はこれからも背負っていかなければいけないものだ。時間が解決してくれるならどんなにいいだろう。しかし自らそこに罪を足してしまった。それは変えようのない事実で、やはり償わなくてはいけない。教師として、人として、道を外してしまうことは彼女が一番恐れなくてはいけなかったことではないだろうか。
彼女はそれをきっと理解しているだろう。だから今、ここから離れることを決めたのだと僕は思った。
ぎこちない足取りで彼女は机の前に立つ。そして木目に這わせるように指を動かす。本当に戻ってきた、と呟いた表情は思いの外優しい。
本当に忘れてしまったのだろうか、初めてこの学校に足を踏み入れた時の心根を。そうは思えなかった。
「夏休みにあったことは、聞きましたか?」
突然そう聞かれて僕は彼女を見返した。他の誰にも話されていない筈、なのにどうして。
「知っていました。……堀から直接聞いていたんです。
堀にとって私は前の恋人みたいなものだったんだと思います。そんな話をして私が表情を変えると笑っていました」
思わぬ言葉に耳を疑った。堀氏が自分から人に話すことはないと決めつけていたんだ。聞いた話では堀氏の思惑は完全に失敗している。しかしそれすらも人生の余興のように見ていたということなのだろうか。彼等の純粋に人を想う姿もその目には自分を楽しませる駒としか映っていなかった、そう思うと寒気がした。
彼女は椅子の背に手を置く。力一杯握られて指先が白くなっていくのが見えた。
「自分のことをどう思われようがどうでも良かった。ただ新垣さんまで手にかけようとしていたのが許せなかった……!
それでもあの男を追い出す術なんてどこにもありませんでした。だから最悪の事態にならないように願いながら手をこまねいて見ていることしかできなかった」
そこで気付いたんです。そう言って痛みに耐えるように頬に力が入った。
「この学校を変えたい、生徒達を守りたい……そんな風に決意をして戻ってきた筈なのに、実際に立ってみれば私も一緒でした。標的が自分じゃないことにほっとする瞬間だってあった!
……あの頃なりたくなかった教師に、気が付けばなっていました」
事実を知っていながら見て見ぬふりをして、巻き込まれないよう距離を置く教師達。それと本当に同じだろうか。「ほっとする」――彼女のされたことを思えば、そう心が反応してもおかしくはない筈だ。けれど彼女はそうは思わなかった。いつしかその胸の内には、堀氏だけでなく自身への嫌悪感が募っていた。
強い意志を抱いていたからこそ見方を変えることは難しく、できないことにばかり囚われて本当の目的を見失ってしまう。自分のように苦しまなくていいように、真っ直ぐ夢を追えるように――ただそれだけで良かった筈なのに。
彼女が踏み間違った理由を聞かなければいけない。全てを彼等のために明かさなくては。
「……初めから殺害するつもりだったんですか?」
「今日、温度計を振り上げるまで殺す気はありませんでした。殺意は……あったんだと思います、だけど現実的じゃなかった」
そう言って右の掌をまじまじと見つめている。罪を犯した筈の掌は綺麗過ぎて、今日のことなんて何もなかったと言われたら信じてしまえそうだった。
「堀のところに行ったのは呼び出されていたからです。話の内容は渡瀬君のことでした。
大人しくしていろと言った筈なのに新垣さんの隣にいつも貼り付いているのが鬱陶しい、どうにかしろとあの子達を離れさせるよう命令してきました」
思わず爪が食い込む程、拳を強く握った。何故そんなことが言えるのか、彼女達のことを一体何だと思っているんだ。同情の余地なんてない。……そう叫びそうになって必死で言葉を飲み込んだ。
そんなことはできない。当然彼女はそう答えた。すると堀氏はそれならいいとあっさり返したのだと言う。だが、案の定それで終わりではなかった。
罰を与えなくちゃいけない、約束だから。そう言われて、約束の存在を知らなかった彼女は問い返した。そして渡瀬君と一方的に交わした約束のことを知った。
「あの男は言ったんです、約束を破ったのはあっちだからって。そう言って笑いました」
心底楽しそうに。
その結果がどうなるか分からない訳がなかった。自身と同じように、もしくはそれ以上に酷く傷付けられる。
「こんな人間、生きていてはいけないと思った。生きている限り全ての人を巻き込んで不幸にしていくから。これからも傷付く子達がどんどん増えていくと思ったら耐えられなかった。だから……」
――殺すしかなかった。
「それが私にできる唯一のことでした。他に何もしてあげられなかった私が皆のためにできる、最大のこと」
吐き出した声が暗示をかけるように彼女自身を包んでいく。それは償いを逃れるためというよりは、寧ろ彼等が苦しまないための言い訳のように聞こえた。
もっと違う形で生徒を守る手段は本当になかったのか、そう思い巡らしてしまう。だって誰かの死でしか解決できないなんて悲しすぎる。その手を汚さなくては幸せにできないなんて、重くて苦しすぎる。
僕が想像するよりもっとその心は険しいのだろう。簡単に理解できるようなものではないことは十分分かる。……それでも思ってしまう。
彼女の言葉は矛盾だらけだ。それを正せる程僕の歩んできた道程は美しくはないけれど、今日だけは意見する。彼女はあまりに見ているものが狭すぎて、けれど目の前はもっと広く、見るべきものがあった筈だから。
僕は決意して、顔を上げた。
僕も彼女も、座ることもせず部屋の端と端で床を見つめる。選ぶ言葉もなく、沈黙に急かされるように渇いた喉を動かした。
「……貴女が、犯人なんですか」
思わず問えば、僕の緊張を彼女は笑う。朗らかに、無邪気に。
「探偵なら「犯人は貴女だ」って、はっきり言わないといけないんじゃないですか?」
「いいんです、僕は探し物探偵ですから」
否定してほしい訳ではない。言い逃れを認めている訳でもない。こう言ってももう隠さないと思えたから。僕が何を言おうが言わまいが、彼女は明らかにすることを決めている。彼等に語った彼女の姿は間違いなく人の前に立つ教師だったから。
「探偵には向いてないですね」
「渡瀬君にも言われました。でも、いいんです」
「探し物探偵だから?」
頷くと、変な人と言って今度は静かに微笑んだ。眼鏡のレンズに蛍光灯が白く映る。
これからどんなことが話されるのか、それを思うと耳を塞ぎたいような衝動に駆られる。受け止められるだけの度量はまだ持ち合わせていない。しかし聞き届けることが今の僕の役目であるなら、逃げてはいけないだろう。ここに居合わせた者として最後まで向き合わなければ。
彼女は壁際に立つとその感触を確かめるようにそっと触れ、自身の過去を語り出した。
「輝英に入学した時にはもう、教師になりたいと思っていました。進学先をここを選んだのは、沢山の夢が集まる学校だから。夢を追う生徒達を間近で見る経験はきっと役に立つと思ったからです」
期待に胸を膨らませて夢への一歩を踏み出した少女。しかしそのその夢を叶えた筈の少女が絶望し、色のない顔で学校について話すのを僕は知っている。
「入学してすぐ、別棟の入口で男の人が言い合っているのを見つけました。ひとりは三年の先輩で、その相手が堀でした。それが堀の存在を認識した最初でした」
言い合いの内容はよく分からなかったと話す。生徒の方はいきり立って感情的に喚いたし、対する堀氏は薄ら笑いを浮かべながら言葉を返していたが、向かいの校舎から覗くように見ていた彼女まではその声は聞こえて来なかった。少しの間そうして言葉を交わしていたのが突然止んだのは、堀氏が生徒に何かを耳打ちしたことがきっかけだった。
「堀はすぐに別棟に入って行きました。それなのに先輩はいつまで経っても動こうとしなくて不思議に思っていると、何とも言えない表情で泣いていました。目を見開いて、驚きや戸惑いを混ぜたような。多分自分が泣いていることにも気付いていなかったと思います」
何があったのかは分からない。それでも何かが起きていたことは明白だった。入学したてで堀氏との面識もなかった彼女にとってその日見た光景は忘れがたく、時折頭を掠めては足跡を残すように暫く胸の中をもやもやと気持ち悪くさせていたらしい。しかしその後も堀氏と関わることは皆無で、月日が流れる内にその記憶も薄れていった。
そして完全に忘れてしまった頃、また堀氏への疑念を持つ事態が生じた。
部活を始めて上級生と関わるようになると、学校の内情が見えてくるものだ。生徒間の関係だけでなく、教師への噂が飛び交うことも多いだろう。ある日堀氏のことが話題に上った。
「三年生の間で堀は相当嫌われていました。前任の先生がとても良い方だったそうで余計かもしれません。
私はその時の会話で初めて、堀という教師がどんな人なのか知りました」
それは同時に、見た記憶を呼び起こし出来事を関連付けられる程度の信憑性があった。
「堀が最低な振る舞いをしているのに他の先生達が見て見ぬふりをしていることについて、色んな憶測が出ていました。親が教育委員会の理事だとか、校長と親族だとか、有名大学の出だからじゃないかというのもありました。
本当のことは今になっても分かりません。ただどうしてだか、横行が許されていたんです」
教師という職業を夢見ていた彼女はその事実を人より重く受け止めただろう。話だけでは信じられなかったとしても、すぐにその目で知ることになった筈だ。何故生徒が守られていないのか、守るべき教師から傷付けられているのか。彼女が夢見た景色はそこにはなく、失望の目で見渡すようになった。
そうしてもまだ信じたい気持ちがあった、と彼女は言う。
「堀と話したこともなかったので、本当に皆が言うような人なのか知りたいと思いました。もしかしたら見られているのはほんの一面で、実際は教師としての誇りを持った良い先生かもしれない。そう思いたかったんです」
行動を起こした彼女は、資格を取りたいと話して堀氏に個人的に近付くようになった。噂については何も知らない、純粋に教えを乞う生徒として。
普通ならそこまでしようとは思わなかっただろう。知らないなら知らないままで良かったし、悪い噂を聞いてまで近付く勇気は僕にもない。しかし彼女は知りたがった。目指す夢のため、そこに付けられた泥を拭い信じきるため、彼女にはそれが必要だった。
だがもしそうしていなかったなら今日の過ちは起きなかったかもしれない。希望的観測に過ぎないが、彼女が歩むべき道を踏み間違えた瞬間があるのだとしたらその時だったのではないかと思う。誰にも相談せずひとりで動き出してしまわなければ、これから話される堀氏との関係も始まらなかったかもしれないのだから。
頻繁に自分の元へと来る女子生徒を堀氏も可愛がるようになった。だから彼女の目に映る堀氏の印象はそこまで悪いものではなかったと言う。幸か不幸か、彼女が訪ねる以外でふたりが偶然にでも会うということはなく、周りから聞いていたような堀氏の素行を目撃することもなかったのだ。
――だから油断してしまった。相手が自分より遥かに体格の良い男であることを、無垢な少女は失念してしまった。
「最初は偶然だと思っていました。堀自身も触れれば必ず謝っていましたし、腰や足が触れるくらいは何ともなかったんです。
だけどそんな状態を一年も続けていると流石に違和感を覚えるようになりました」
「……途中で止めようとは思わなかったんですか? 貴女が行かなければ会うこともなかったんですよね?」
「通い始めて半年過ぎた頃に、目的としていた資格は取ったんです。それで終わりのつもりでした。でも今度は堀の方からこの資格は取っておくべきだと色々と勧められて、断れなかった私は堀の組んだ予定に合わせて訪ねるようになりました」
まんまとあの人の思惑に嵌まっていった、と過去の自分を嘲るように鼻で笑った。
その時の彼女に非はなかったと断言できる。彼女の前で堀氏は善意の人だったんだ。幾ら噂を知っているとはいえ、自分が見ているものを信じるのは仕方ないだろう。それにその時には既に世話なっていたのだから更なる勧めを無下にしないというのは人として最良だったように思う。
彼女が短く息を吐いたのが聞こえて、その両手が握り締められているのに気が付いた。
「決定的なことが起こったのは二年の終わり頃です。
勉強の手伝いをしている代わりに休日付き合ってくれないかと言われました。その一日だけでいいと言われましたし、手伝いの代わりにと言われたらやはり断る勇気はありませんでした」
当日、少しの警戒はしていたものの至って和やかにその日が終わろうとしていた。彼女自身、今まで体験したことがないような特別待遇に心を解いてしまう。それまでに燻っていた不信感は気のせいに思えて、無事送り届けられるつもりで堀氏の運転する車に乗り込んだ。
「着いたのは堀の自宅でした。一気に恐怖心が襲ってきて逃げようとした私を、あいつは殴って、それで……」
震える唇の隙間から歯が鳴り、その顔から色が落ちていく。記憶の波に押し潰されそうになっているのが分かって、だけどどうすることもできない。男である僕に話すことが彼女にとってどれ程の負担になるのかを、今の今まで気遣うことができなかった。彼女が負った痛みを本当の意味で知ることはできない。
どうして分からなかったのだろう、新垣さんの話を聞いた時に理解するべきことだったのに。
「……身体を求められたのはその一度きりでした。でもその一回を、一生負う羽目になった」
浅い呼吸を何度か繰り返してから彼女はそう話す。その後も堀氏は何食わぬ顔で彼女と接し、卒業するまで強制的にその微妙な関係は続いたと途切れる声で言った。
卒業すれば解放される、彼女はそう信じていた。しかし現実は非情で、彼女は絶望の淵に追い込まれる。
――教師になったら必ずここに戻ってこい。あの時のことを忘れた訳じゃないだろ?
にやりと笑って去っていくのを見て、先輩の姿を思い出した。今きっと同じ顔をしている。もう自分の意思で先へ進むことも許されないのだと彼女は悟った。
「それでも同時に、絶対に教師になってここに戻ってこようと思いました。言いなりになるんじゃない。同じ立場に立って必ずその足元を崩してやろう、そんな復讐心からです。
……真っ直ぐに教師を志していた時の気持ちは、とっくに忘れてしまいました」
彼等に告げた言葉を振り返る。それは自分が失ってきたもので、そして過去の自分への戒めだったのかもしれない。
彼女が耐えてきた過去はこれからも背負っていかなければいけないものだ。時間が解決してくれるならどんなにいいだろう。しかし自らそこに罪を足してしまった。それは変えようのない事実で、やはり償わなくてはいけない。教師として、人として、道を外してしまうことは彼女が一番恐れなくてはいけなかったことではないだろうか。
彼女はそれをきっと理解しているだろう。だから今、ここから離れることを決めたのだと僕は思った。
ぎこちない足取りで彼女は机の前に立つ。そして木目に這わせるように指を動かす。本当に戻ってきた、と呟いた表情は思いの外優しい。
本当に忘れてしまったのだろうか、初めてこの学校に足を踏み入れた時の心根を。そうは思えなかった。
「夏休みにあったことは、聞きましたか?」
突然そう聞かれて僕は彼女を見返した。他の誰にも話されていない筈、なのにどうして。
「知っていました。……堀から直接聞いていたんです。
堀にとって私は前の恋人みたいなものだったんだと思います。そんな話をして私が表情を変えると笑っていました」
思わぬ言葉に耳を疑った。堀氏が自分から人に話すことはないと決めつけていたんだ。聞いた話では堀氏の思惑は完全に失敗している。しかしそれすらも人生の余興のように見ていたということなのだろうか。彼等の純粋に人を想う姿もその目には自分を楽しませる駒としか映っていなかった、そう思うと寒気がした。
彼女は椅子の背に手を置く。力一杯握られて指先が白くなっていくのが見えた。
「自分のことをどう思われようがどうでも良かった。ただ新垣さんまで手にかけようとしていたのが許せなかった……!
それでもあの男を追い出す術なんてどこにもありませんでした。だから最悪の事態にならないように願いながら手をこまねいて見ていることしかできなかった」
そこで気付いたんです。そう言って痛みに耐えるように頬に力が入った。
「この学校を変えたい、生徒達を守りたい……そんな風に決意をして戻ってきた筈なのに、実際に立ってみれば私も一緒でした。標的が自分じゃないことにほっとする瞬間だってあった!
……あの頃なりたくなかった教師に、気が付けばなっていました」
事実を知っていながら見て見ぬふりをして、巻き込まれないよう距離を置く教師達。それと本当に同じだろうか。「ほっとする」――彼女のされたことを思えば、そう心が反応してもおかしくはない筈だ。けれど彼女はそうは思わなかった。いつしかその胸の内には、堀氏だけでなく自身への嫌悪感が募っていた。
強い意志を抱いていたからこそ見方を変えることは難しく、できないことにばかり囚われて本当の目的を見失ってしまう。自分のように苦しまなくていいように、真っ直ぐ夢を追えるように――ただそれだけで良かった筈なのに。
彼女が踏み間違った理由を聞かなければいけない。全てを彼等のために明かさなくては。
「……初めから殺害するつもりだったんですか?」
「今日、温度計を振り上げるまで殺す気はありませんでした。殺意は……あったんだと思います、だけど現実的じゃなかった」
そう言って右の掌をまじまじと見つめている。罪を犯した筈の掌は綺麗過ぎて、今日のことなんて何もなかったと言われたら信じてしまえそうだった。
「堀のところに行ったのは呼び出されていたからです。話の内容は渡瀬君のことでした。
大人しくしていろと言った筈なのに新垣さんの隣にいつも貼り付いているのが鬱陶しい、どうにかしろとあの子達を離れさせるよう命令してきました」
思わず爪が食い込む程、拳を強く握った。何故そんなことが言えるのか、彼女達のことを一体何だと思っているんだ。同情の余地なんてない。……そう叫びそうになって必死で言葉を飲み込んだ。
そんなことはできない。当然彼女はそう答えた。すると堀氏はそれならいいとあっさり返したのだと言う。だが、案の定それで終わりではなかった。
罰を与えなくちゃいけない、約束だから。そう言われて、約束の存在を知らなかった彼女は問い返した。そして渡瀬君と一方的に交わした約束のことを知った。
「あの男は言ったんです、約束を破ったのはあっちだからって。そう言って笑いました」
心底楽しそうに。
その結果がどうなるか分からない訳がなかった。自身と同じように、もしくはそれ以上に酷く傷付けられる。
「こんな人間、生きていてはいけないと思った。生きている限り全ての人を巻き込んで不幸にしていくから。これからも傷付く子達がどんどん増えていくと思ったら耐えられなかった。だから……」
――殺すしかなかった。
「それが私にできる唯一のことでした。他に何もしてあげられなかった私が皆のためにできる、最大のこと」
吐き出した声が暗示をかけるように彼女自身を包んでいく。それは償いを逃れるためというよりは、寧ろ彼等が苦しまないための言い訳のように聞こえた。
もっと違う形で生徒を守る手段は本当になかったのか、そう思い巡らしてしまう。だって誰かの死でしか解決できないなんて悲しすぎる。その手を汚さなくては幸せにできないなんて、重くて苦しすぎる。
僕が想像するよりもっとその心は険しいのだろう。簡単に理解できるようなものではないことは十分分かる。……それでも思ってしまう。
彼女の言葉は矛盾だらけだ。それを正せる程僕の歩んできた道程は美しくはないけれど、今日だけは意見する。彼女はあまりに見ているものが狭すぎて、けれど目の前はもっと広く、見るべきものがあった筈だから。
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