あるバーのマスターの話
閑話……『サボテンの花』
芯の強い女だった。
情の厚い女だった。
でも時々悲しげに微笑む女だった。
サボテンのような女だと思った。
バーで離婚届を突きつけられ、家に帰ると、家の中のものがほぼ全て無くなっていた。
婿養子で元々母子家庭の貧乏人。
妻の家は両親と弟がいて、父親は商売人というよりも職人肌の人だった。
その小さな町工場のような会社を、経営学部に通い、経済学を学んだ弟と共に大きくしていったのは元妻だった。
大学時代に奨学金を貰いながら通っていた自分はバイトをしながら生活費を稼ぎ、学校に行っては眠っていた。
「全く。寝てたらダメでしょ。単位取れないわよ。それに試験やレポートもあるじゃない」
「バイトがね。母子家庭で、奨学金を貰いながらだから、母さんに迷惑かけたくないんだ」
「そうなの……」
彼女は憐れみとかそんなものは全く見せなかった。
逆に同級生には『氷の女』とまで呼ばれていた。
自分も好きな方ではなかった。
お高くとまっているお嬢様とかと思っていた。
「じゃぁ、頑張りなさいな。バイトは賄い付きのバイトがいいと思うわ、食事代が浮くでしょう?それに、これ。知り合いの会社で事務に経理とか探しているらしいわ。夜勤もあるけど休憩室もあるしおすすめよ」
「えっ?いいのか?」
「哀れんでるわけではないわ。あなたがどれだけ頑張れるか見ててあげるわ」
「ありがとう……」
「……そ、そんなことはないわよ。普通でしょ」
冷たいんじゃない……不器用なんだ。
そう知ったのは、その時だった。
今まで働いていたバイトを彼女に言われたように、昼間のバイトは賄い付きの時給は低いが時間の余裕が作れるバイトに変えた。
そして、電話をかけ、履歴書を持って会社に向かうと、彼女がいた。
「ようこそ」
「えっ?ここは?」
「私の実家よ。父が社長。まだ小さい会社だけど、必要なのは計算とかネット操作、電話応対ね。ここには奥に小さいけれど部屋があるの。社長に聞いたら住んでもいいって、家を引き払って、ここにすみなさいな。お金を削りなさい。そして、奨学金の返済に充てるのよ。よく聞くの。大学に奨学金で入学した人が、返済に追われて破産してしまうって。それがないように、余分は返済に回したらいいわ」
「いいのか?」
「何が?」
野暮ったいメガネだが優しい眼差しに、あぁと思った。
自分は彼女の事を誤解していたと。
「ありがとう」
昼間には賄い付きのバイトと、夜には彼女の実家の会社の警備や電話応対、ネットの操作をして、晩御飯と朝御飯は彼女の家で食べさせてもらいコツコツ貯金をした。
そして、大学を卒業し、彼女の実家に就職した。
いつの間にか好きになっていた。
いつの間にか愛していた。
だから、プロポーズをして結婚した。
幸せだった……その筈だったのに……。
「……仕事……」
いや違う。
彼女は小さな町工場だった会社を大きくするために懸命だった。
でも、仕事だけじゃなく、自分にも心を砕いてくれた。
愛してくれていた……。
それを壊したのは、自分だった。
甘えていた。
最低な夫だった。
「ごめん……ごめん……」
ただ残されていたテーブルに突っ伏して、拳で殴りつける。
どれだけ傷つけただろう。
どれだけ苦しんだだろう……どれだけ泣いただろう……。
拳が何かの紙に触れた。
顔を上げ、その紙を引き寄せる。
「『妊娠届出書』……?妊娠?」
目を見開く。
最近、物憂げだったこと……。
調子が悪そうだったこと……。
何か言いたげに自分を見ていたけれど、自分は後ろめたさと、逆に、自分の浮気は彼女が悪いと正当化しようとしていたこと……。
「最低だ!」
慌てて電話をかける。
「もしもし!もしもし!唯香!」
電話は発信音はするが、取ってくれる気配がない。
「唯香!」
続いて、唯香の実家に電話をかける。
数コールして出たのは、唯香の弟。
「もしもし?松岡さんですか?」
松岡は旧姓である。
「それとも元専務とお呼びしましょうか?」
「元専務でも、何でもいい。唯香に!会わせてくれ!」
「それはできません。姉さんを悲しませ、苦しませる人に、私が会わせるとお思いですか?それに、姉さんは体調が悪いんです。電話番号も職場の人間だから残しているだけで、営業の仕事が嫌だとか言うなら辞めてください。その方が姉さんにはいいと思います」
「営業でもいい!それよりも会わせてくれ!謝りたい。そして……」
「……謝られても、姉さんには届かないでしょう。それに、離婚を最初に勧めたのは、英樹さんのお母さんですよ。その家に行って、体調を崩して寝付いている姉の側について、面倒を見てくれていたんです。それで、あなたの部屋を探して、姉さんがあえて探さなかったあなたの浮気の証拠を見つけたんです。叔母さんは小さい頃に母を亡くした私や姉さんを可愛がってくれた。叔母さんは、これ以上姉さんを苦しませる貴方を許さなかった。子供も堕ろしなさいとも」
……断罪。
唯香の弟の口を借りた、母の断罪。
「子供だけは赦してくれ!悪いのは俺だ!お願いだから!全部、全部俺が悪いんだ!それに、子供を片親だけにしないでくれ……俺は、一生償うから……」
「……姉さんは産むと言いました。それなら一応、私と父は、『貴方を許してあげたら』と言いました。『子供も生まれるし、子供のことを伝えたら』と。そうしたら、『愛してもないのに結婚してくれただけで十分よ。それなのに今度は子供を理由にあの人を捕まえるの?まるで契約結婚ね。愛情もなく冷たい家庭。それならいらないわ。それに、あの人も離婚したら好きなことをしていられるでしょう。離婚が済むまで黙っていて』……と」
「離婚しない!絶対に!ここに、妊娠届出書がある!父親の名前に俺の名前を書いた!離婚届を提出する前に、これを提出する!私の子供だ!」
「自分は浮気に旅行に散々しておいて、この時ばかりは親と言い張るのもやめませんか?」
「俺が、甘ったれているのは解っている!でも、それでも、唯香や子供といたいんだ!ちゃんと一から働いて、唯香と子供のために生きたいんだ!頼む!会わせてくれ!お願いだから……」
しばらく沈黙が流れる。
そして、
「……愛人と別れたら話します」
「解った!」
英樹はその日のうちに浮気相手と関係を断ち、唯香の父親と弟夫婦、唯香と、自分の母に謝罪した。
怒り狂い、息子の頰を拳で殴ったのは母。
「いい加減になさい!今更、口にする言葉なんか無いでしょう!」
「母さん!唯香と話したいんだ!」
「お黙りなさい!貴方も、父親と一緒!あれだけ必死に育てたのに……」
「お母さん……」
「唯香ちゃんは休んでいなさいね?」
隣の部屋から顔を覗かせた唯香を押し込み、睨みつける。
「離婚しなさい。これ以上唯香ちゃんを傷つけて、苦しめるなら、別れなさい。それに署名捺印したでしょう」
「もう一度やり直したいんだ!」
「どうせ同じよ。一度すればまたするの。それに、貴方は優柔不断で、流されやすい。もう、唯香ちゃんを解放しなさい」
「母さんに聞いてない!唯香!」
必死に頭を下げて頼み込む。
「唯香。俺はわがままばかりだ。でも、もう一度一緒にいてほしい。仕事も営業の仕事から、一からやり直してもっとお前の夫だって自慢できるように頑張るから。頼む。一緒に生きてほしい」
しばらく、静けさが広がり、小声で、
「……時々、病院に付き添ってくれる?子供用品だけじゃなく、貴方の服や私の服も選びに行ってくれる?」
「あぁ!絶対に!今乗ってるスポーツカーも売って、ファミリーカーにしようと思ってる。一緒に選びに行こう。唯香の好きなのを選びに行こう」
家族の目の前で離婚届はビリビリと破られた。
翌日、妊娠届出書を提出しに向かう夫婦があった。
そこに丁度、喧嘩の現場を目撃していたマスター夫婦と会い、二組の夫婦が妊娠届出書を提出し、母子手帳を受け取ったのだった。
情の厚い女だった。
でも時々悲しげに微笑む女だった。
サボテンのような女だと思った。
バーで離婚届を突きつけられ、家に帰ると、家の中のものがほぼ全て無くなっていた。
婿養子で元々母子家庭の貧乏人。
妻の家は両親と弟がいて、父親は商売人というよりも職人肌の人だった。
その小さな町工場のような会社を、経営学部に通い、経済学を学んだ弟と共に大きくしていったのは元妻だった。
大学時代に奨学金を貰いながら通っていた自分はバイトをしながら生活費を稼ぎ、学校に行っては眠っていた。
「全く。寝てたらダメでしょ。単位取れないわよ。それに試験やレポートもあるじゃない」
「バイトがね。母子家庭で、奨学金を貰いながらだから、母さんに迷惑かけたくないんだ」
「そうなの……」
彼女は憐れみとかそんなものは全く見せなかった。
逆に同級生には『氷の女』とまで呼ばれていた。
自分も好きな方ではなかった。
お高くとまっているお嬢様とかと思っていた。
「じゃぁ、頑張りなさいな。バイトは賄い付きのバイトがいいと思うわ、食事代が浮くでしょう?それに、これ。知り合いの会社で事務に経理とか探しているらしいわ。夜勤もあるけど休憩室もあるしおすすめよ」
「えっ?いいのか?」
「哀れんでるわけではないわ。あなたがどれだけ頑張れるか見ててあげるわ」
「ありがとう……」
「……そ、そんなことはないわよ。普通でしょ」
冷たいんじゃない……不器用なんだ。
そう知ったのは、その時だった。
今まで働いていたバイトを彼女に言われたように、昼間のバイトは賄い付きの時給は低いが時間の余裕が作れるバイトに変えた。
そして、電話をかけ、履歴書を持って会社に向かうと、彼女がいた。
「ようこそ」
「えっ?ここは?」
「私の実家よ。父が社長。まだ小さい会社だけど、必要なのは計算とかネット操作、電話応対ね。ここには奥に小さいけれど部屋があるの。社長に聞いたら住んでもいいって、家を引き払って、ここにすみなさいな。お金を削りなさい。そして、奨学金の返済に充てるのよ。よく聞くの。大学に奨学金で入学した人が、返済に追われて破産してしまうって。それがないように、余分は返済に回したらいいわ」
「いいのか?」
「何が?」
野暮ったいメガネだが優しい眼差しに、あぁと思った。
自分は彼女の事を誤解していたと。
「ありがとう」
昼間には賄い付きのバイトと、夜には彼女の実家の会社の警備や電話応対、ネットの操作をして、晩御飯と朝御飯は彼女の家で食べさせてもらいコツコツ貯金をした。
そして、大学を卒業し、彼女の実家に就職した。
いつの間にか好きになっていた。
いつの間にか愛していた。
だから、プロポーズをして結婚した。
幸せだった……その筈だったのに……。
「……仕事……」
いや違う。
彼女は小さな町工場だった会社を大きくするために懸命だった。
でも、仕事だけじゃなく、自分にも心を砕いてくれた。
愛してくれていた……。
それを壊したのは、自分だった。
甘えていた。
最低な夫だった。
「ごめん……ごめん……」
ただ残されていたテーブルに突っ伏して、拳で殴りつける。
どれだけ傷つけただろう。
どれだけ苦しんだだろう……どれだけ泣いただろう……。
拳が何かの紙に触れた。
顔を上げ、その紙を引き寄せる。
「『妊娠届出書』……?妊娠?」
目を見開く。
最近、物憂げだったこと……。
調子が悪そうだったこと……。
何か言いたげに自分を見ていたけれど、自分は後ろめたさと、逆に、自分の浮気は彼女が悪いと正当化しようとしていたこと……。
「最低だ!」
慌てて電話をかける。
「もしもし!もしもし!唯香!」
電話は発信音はするが、取ってくれる気配がない。
「唯香!」
続いて、唯香の実家に電話をかける。
数コールして出たのは、唯香の弟。
「もしもし?松岡さんですか?」
松岡は旧姓である。
「それとも元専務とお呼びしましょうか?」
「元専務でも、何でもいい。唯香に!会わせてくれ!」
「それはできません。姉さんを悲しませ、苦しませる人に、私が会わせるとお思いですか?それに、姉さんは体調が悪いんです。電話番号も職場の人間だから残しているだけで、営業の仕事が嫌だとか言うなら辞めてください。その方が姉さんにはいいと思います」
「営業でもいい!それよりも会わせてくれ!謝りたい。そして……」
「……謝られても、姉さんには届かないでしょう。それに、離婚を最初に勧めたのは、英樹さんのお母さんですよ。その家に行って、体調を崩して寝付いている姉の側について、面倒を見てくれていたんです。それで、あなたの部屋を探して、姉さんがあえて探さなかったあなたの浮気の証拠を見つけたんです。叔母さんは小さい頃に母を亡くした私や姉さんを可愛がってくれた。叔母さんは、これ以上姉さんを苦しませる貴方を許さなかった。子供も堕ろしなさいとも」
……断罪。
唯香の弟の口を借りた、母の断罪。
「子供だけは赦してくれ!悪いのは俺だ!お願いだから!全部、全部俺が悪いんだ!それに、子供を片親だけにしないでくれ……俺は、一生償うから……」
「……姉さんは産むと言いました。それなら一応、私と父は、『貴方を許してあげたら』と言いました。『子供も生まれるし、子供のことを伝えたら』と。そうしたら、『愛してもないのに結婚してくれただけで十分よ。それなのに今度は子供を理由にあの人を捕まえるの?まるで契約結婚ね。愛情もなく冷たい家庭。それならいらないわ。それに、あの人も離婚したら好きなことをしていられるでしょう。離婚が済むまで黙っていて』……と」
「離婚しない!絶対に!ここに、妊娠届出書がある!父親の名前に俺の名前を書いた!離婚届を提出する前に、これを提出する!私の子供だ!」
「自分は浮気に旅行に散々しておいて、この時ばかりは親と言い張るのもやめませんか?」
「俺が、甘ったれているのは解っている!でも、それでも、唯香や子供といたいんだ!ちゃんと一から働いて、唯香と子供のために生きたいんだ!頼む!会わせてくれ!お願いだから……」
しばらく沈黙が流れる。
そして、
「……愛人と別れたら話します」
「解った!」
英樹はその日のうちに浮気相手と関係を断ち、唯香の父親と弟夫婦、唯香と、自分の母に謝罪した。
怒り狂い、息子の頰を拳で殴ったのは母。
「いい加減になさい!今更、口にする言葉なんか無いでしょう!」
「母さん!唯香と話したいんだ!」
「お黙りなさい!貴方も、父親と一緒!あれだけ必死に育てたのに……」
「お母さん……」
「唯香ちゃんは休んでいなさいね?」
隣の部屋から顔を覗かせた唯香を押し込み、睨みつける。
「離婚しなさい。これ以上唯香ちゃんを傷つけて、苦しめるなら、別れなさい。それに署名捺印したでしょう」
「もう一度やり直したいんだ!」
「どうせ同じよ。一度すればまたするの。それに、貴方は優柔不断で、流されやすい。もう、唯香ちゃんを解放しなさい」
「母さんに聞いてない!唯香!」
必死に頭を下げて頼み込む。
「唯香。俺はわがままばかりだ。でも、もう一度一緒にいてほしい。仕事も営業の仕事から、一からやり直してもっとお前の夫だって自慢できるように頑張るから。頼む。一緒に生きてほしい」
しばらく、静けさが広がり、小声で、
「……時々、病院に付き添ってくれる?子供用品だけじゃなく、貴方の服や私の服も選びに行ってくれる?」
「あぁ!絶対に!今乗ってるスポーツカーも売って、ファミリーカーにしようと思ってる。一緒に選びに行こう。唯香の好きなのを選びに行こう」
家族の目の前で離婚届はビリビリと破られた。
翌日、妊娠届出書を提出しに向かう夫婦があった。
そこに丁度、喧嘩の現場を目撃していたマスター夫婦と会い、二組の夫婦が妊娠届出書を提出し、母子手帳を受け取ったのだった。
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