小千の朝倉宮の伝承より【玉響の夢】
大海人皇子
付かず離れずの船団で、一昼夜出産を祈っていた大海人皇子は、波の音しかせず、全く音沙汰のない母の姫天皇の船を見つめ続けていた。
白雉4年(653年)……もしくは大化4年(648年)という説もあり……に、当時の妃の一人の額田王との間に十市皇女と言う娘が生まれている。
その翌年に長男の高市皇子も生まれている。
他にも数人の妃との間に子供もいるが、姫天皇の御子と言う立場の額田王は、女性でも船に乗ることはあるが、跳ねっ返りで、少々我儘なところは、どこぞの誰かに良く似た鸕野讚良皇女とは違い、穏やかで控えめな姪であり妃の大田皇女が、頑固にも付いていくと言い出したのは本当に驚いた。
「貴方さま。連れて行って下さいませ!お願いでございます」
普段はふんわりと微笑むのに、必死に手を伸ばすのである。
「大田皇女。普通の旅なら連れて行くが、船旅だ。それに、そなたは身籠っているではないか。ここで待っていてくれまいか?」
「お願いでございます。付いていきたいのですわ。どうしても……お願い致します。鸕野讚良を連れて行くのでしょう?」
大海人皇子はため息を吐く。
臨月の大田皇女と年子の鸕野讚良皇女は、戦いに行くと言うのに、物見遊山のような気分で一緒に行くと言い張る。
いつまでも子供子供しているのと、気性の激しさと気まぐれな性格もあり、傍に仕える采女や衛士を怒鳴り散らしたり、時には手をあげたりすることもあるらしい。
『兄』である中大兄皇子は、後見のほぼない大田皇女姉妹と共に母の実家の力の弱い二人の皇女を寄越してきた。
8歳になっただろうか可愛い盛りの娘の十市皇女を、額田王と共に連れ去り、現在、十市皇女は大化4年生まれの大友皇子の許嫁となっている。
「貴方さま。何があっても、私が自分で責任を取ります」
「何を言っている。責任とかそう言う意味ではないのだ!……すまぬ」
温厚さを装っていたものの、つい声を荒らげ、慌てて謝る。
「……貴方さま?私が死んでも、良いではありませんか。貴方さまは本当は、私のような者に情けを下さる方ではありません……本当なら、足が遠のいてもおかしくない。今は父の目があるから……」
「それは違う!……いや、最初はそうだった……すまぬ」
幼い妻に謝る。
「いいえ。分かっていますわ。私の母は遠野娘。蘇我一族の者です。それに、共に嫁いだ姉妹も……放逐されてもおかしくない。父に嫁げと言われた時には逆に驚きましたもの……」
「……言うか、姫天皇さまが……」
「姫天皇さまが、何か?」
小首を傾げ、瞬きをする大田皇女は、色香というものはまだないが、本当にあの『兄』の娘かと思うほど可愛らしい。
母親に似ているのかもしれないが、若い頃の姫天皇にも似ているような気がする。
年子の妹の鸕野讚良皇女は、逆に目がきつく、父親にそっくりである。
他の二人も、『兄』には余り似ていないが、大田皇女ほどの愛らしさはない。
「いや、姫天皇さまに一度相談させて頂いたのだ。一度に多くの妃を娶ると言うのは遠慮したいと、一人でいいと。すると、こう仰せになられた。『葛城皇子は、一筋縄ではいかぬ、狡猾な者よ。今の吾の姿を見よ。もし、そなたが一人を選んで見よ。急に意見を翻し、その娘を別の者に嫁がせよう。逆に四人を娶ったとして、鸕野讚良以外は良い娘よ。正式に妃にするもよし、娘たちに好いたものが居れば、そなたの養女として送り出すが良い』と……」
「鸕野讚良は……姫天皇さまに赦されていませんのね……」
「年の近い、姫天皇さまのご寵愛の采女に幾度か暴力を振るったらしい」
「えっ!……も、もしかして、なつ?」
「先年、姫天皇さまの衛士となった伊予国の小千守興の妻だそうだ」
大田皇女は真っ青になる。
「やっぱりなつだわ。なんて事を……。あんな気立ての良い優しい人に……」
「知っているのか?」
「はい。姫天皇さまの傍に侍る采女の中でも、本当に熱心にお仕えしていて……姫天皇さまも自分の娘のように……一度父が迫ったそうです。でも、厳しく拒絶して……」
「は?あの人に?」
「『私は、姫天皇さまにお仕えするために、この地に参りました。幾ら中大兄皇子様でも、私の忠心は捧げられません。そして、一夜限り身を任せろと命じられるのならば、この場で命を絶ちましょう!』と。父の身に帯びていた刀を奪い、自分に突き刺そうと……それを聞きつけた姫天皇さまが駆けつけ、父に叱責と、自分の宮に入ってくるなと」
あの『兄』の命令を拒んだ上に、姫天皇に可愛がられているそのなつという娘の強さに感嘆する。
「でも、頰を腫らしたり、あざだらけだったことが……鸕野讚良だったのね、なんて事を。それに知りませんでした」
「それは、兄上が揉み消したのだろう。嫁ぐ前だしな。外聞に悪い。それよりも、すでに噂が広まっていたという事もある……」
現に、大海人皇子は、婚礼の話が流れると、
「あの皇女と……お可哀想に……」
「まぁ、あの方を娶りたいと申し出る者はほぼないでしょうな」
と憐れまれた。
「そう言えば、小千守興も同行するそうだ。伊予国の者だ」
「では、なつも行くのでしょうね。貴方さま!お願いでございます」
「……解った。無理はせぬように……」
やれやれと了承した。
一応、出港前は何ともなく、大田皇女も、
「伊予国に着いてから生まれるのかもしれませんわ」
と、嬉しそうにお腹を撫でていたと言うのに……。
船を見続ける大海人皇子の背に、実直で誠実そうな若い青年の声がかけられた。
「申し訳ございません。大海人皇子さま……」
「何だ?」
振り返ると、先年より姫天皇の衛士となった守興が膝をつき拝礼をする。
「海風が冷とうございます。しばらくでも中にお入りになられて、お休みくださいませ。代わりに私が見守りますゆえ」
「海風はそなたの体も冷やそうに」
「私は、この海を良く行き来致しますゆえ……それよりもお身体に何かあっては大変でございます。お早く」
ずっと外で待ち続ける大海人皇子の体を心配している様子に、微笑む。
「ありがとう。だが、もう少しここでいさせてくれまいか、大田が心配だ。それに姫天皇さまも……」
「では、こちらをお羽織りになって下さいませ」
差し出した衣を素直に羽織る。
やはり、守興の言っていたように、海風が体温を奪っていたらしい。
「温かいな……ありがとう。そなたに言われなければ解らなかっただろう。感謝する」
「勿体無いお言葉にございます」
「いや、姫天皇さま……いや、母をいつも支えてくれてありがとう。そなたたち夫婦がいてくれるだけで、母は本当に穏やかになられた。辛い立場に、重い責任……本当に、大変な思いをされている。息子として支えられず口惜しい……」
「大海人皇子さまは本当に姫天皇さまを……」
「……いや、大海人皇子など本当は……」
小声で何かを言いかけた大海人皇子は、波の向こうの船から声が響いた。
「皇女さまが生まれましてございます。大海人皇子さま。おめでとうございます!」
「皇女か?いや、男児でも女児でも良い。大田皇女に、良くやったと伝えてくれまいか?」
「はい!かしこまりました」
「皇女、御誕生おめでとうございます」
守興が頭を下げる。
「ありがとう。次は、そなたたちの番だな?」
その言葉に顔を上げる。
頰を上気させ、照れている。
「ご、ご存知でしたか……」
「姫天皇さまが、自分の孫が生まれると私に。もう、何人も私にも子供がいるが、仕事など大変だろうと遠慮していたら、会わせてくれなかったとおかんむりで、大田皇女の子供をすぐに会わせますと何度か頭を下げたのだ」
「左様でございましたか……」
守興は微笑む。
「では、守興。そなたも休むがいい」
「かしこまりました」
大伯海を抜け、船は西に向かって走るのだった。
白雉4年(653年)……もしくは大化4年(648年)という説もあり……に、当時の妃の一人の額田王との間に十市皇女と言う娘が生まれている。
その翌年に長男の高市皇子も生まれている。
他にも数人の妃との間に子供もいるが、姫天皇の御子と言う立場の額田王は、女性でも船に乗ることはあるが、跳ねっ返りで、少々我儘なところは、どこぞの誰かに良く似た鸕野讚良皇女とは違い、穏やかで控えめな姪であり妃の大田皇女が、頑固にも付いていくと言い出したのは本当に驚いた。
「貴方さま。連れて行って下さいませ!お願いでございます」
普段はふんわりと微笑むのに、必死に手を伸ばすのである。
「大田皇女。普通の旅なら連れて行くが、船旅だ。それに、そなたは身籠っているではないか。ここで待っていてくれまいか?」
「お願いでございます。付いていきたいのですわ。どうしても……お願い致します。鸕野讚良を連れて行くのでしょう?」
大海人皇子はため息を吐く。
臨月の大田皇女と年子の鸕野讚良皇女は、戦いに行くと言うのに、物見遊山のような気分で一緒に行くと言い張る。
いつまでも子供子供しているのと、気性の激しさと気まぐれな性格もあり、傍に仕える采女や衛士を怒鳴り散らしたり、時には手をあげたりすることもあるらしい。
『兄』である中大兄皇子は、後見のほぼない大田皇女姉妹と共に母の実家の力の弱い二人の皇女を寄越してきた。
8歳になっただろうか可愛い盛りの娘の十市皇女を、額田王と共に連れ去り、現在、十市皇女は大化4年生まれの大友皇子の許嫁となっている。
「貴方さま。何があっても、私が自分で責任を取ります」
「何を言っている。責任とかそう言う意味ではないのだ!……すまぬ」
温厚さを装っていたものの、つい声を荒らげ、慌てて謝る。
「……貴方さま?私が死んでも、良いではありませんか。貴方さまは本当は、私のような者に情けを下さる方ではありません……本当なら、足が遠のいてもおかしくない。今は父の目があるから……」
「それは違う!……いや、最初はそうだった……すまぬ」
幼い妻に謝る。
「いいえ。分かっていますわ。私の母は遠野娘。蘇我一族の者です。それに、共に嫁いだ姉妹も……放逐されてもおかしくない。父に嫁げと言われた時には逆に驚きましたもの……」
「……言うか、姫天皇さまが……」
「姫天皇さまが、何か?」
小首を傾げ、瞬きをする大田皇女は、色香というものはまだないが、本当にあの『兄』の娘かと思うほど可愛らしい。
母親に似ているのかもしれないが、若い頃の姫天皇にも似ているような気がする。
年子の妹の鸕野讚良皇女は、逆に目がきつく、父親にそっくりである。
他の二人も、『兄』には余り似ていないが、大田皇女ほどの愛らしさはない。
「いや、姫天皇さまに一度相談させて頂いたのだ。一度に多くの妃を娶ると言うのは遠慮したいと、一人でいいと。すると、こう仰せになられた。『葛城皇子は、一筋縄ではいかぬ、狡猾な者よ。今の吾の姿を見よ。もし、そなたが一人を選んで見よ。急に意見を翻し、その娘を別の者に嫁がせよう。逆に四人を娶ったとして、鸕野讚良以外は良い娘よ。正式に妃にするもよし、娘たちに好いたものが居れば、そなたの養女として送り出すが良い』と……」
「鸕野讚良は……姫天皇さまに赦されていませんのね……」
「年の近い、姫天皇さまのご寵愛の采女に幾度か暴力を振るったらしい」
「えっ!……も、もしかして、なつ?」
「先年、姫天皇さまの衛士となった伊予国の小千守興の妻だそうだ」
大田皇女は真っ青になる。
「やっぱりなつだわ。なんて事を……。あんな気立ての良い優しい人に……」
「知っているのか?」
「はい。姫天皇さまの傍に侍る采女の中でも、本当に熱心にお仕えしていて……姫天皇さまも自分の娘のように……一度父が迫ったそうです。でも、厳しく拒絶して……」
「は?あの人に?」
「『私は、姫天皇さまにお仕えするために、この地に参りました。幾ら中大兄皇子様でも、私の忠心は捧げられません。そして、一夜限り身を任せろと命じられるのならば、この場で命を絶ちましょう!』と。父の身に帯びていた刀を奪い、自分に突き刺そうと……それを聞きつけた姫天皇さまが駆けつけ、父に叱責と、自分の宮に入ってくるなと」
あの『兄』の命令を拒んだ上に、姫天皇に可愛がられているそのなつという娘の強さに感嘆する。
「でも、頰を腫らしたり、あざだらけだったことが……鸕野讚良だったのね、なんて事を。それに知りませんでした」
「それは、兄上が揉み消したのだろう。嫁ぐ前だしな。外聞に悪い。それよりも、すでに噂が広まっていたという事もある……」
現に、大海人皇子は、婚礼の話が流れると、
「あの皇女と……お可哀想に……」
「まぁ、あの方を娶りたいと申し出る者はほぼないでしょうな」
と憐れまれた。
「そう言えば、小千守興も同行するそうだ。伊予国の者だ」
「では、なつも行くのでしょうね。貴方さま!お願いでございます」
「……解った。無理はせぬように……」
やれやれと了承した。
一応、出港前は何ともなく、大田皇女も、
「伊予国に着いてから生まれるのかもしれませんわ」
と、嬉しそうにお腹を撫でていたと言うのに……。
船を見続ける大海人皇子の背に、実直で誠実そうな若い青年の声がかけられた。
「申し訳ございません。大海人皇子さま……」
「何だ?」
振り返ると、先年より姫天皇の衛士となった守興が膝をつき拝礼をする。
「海風が冷とうございます。しばらくでも中にお入りになられて、お休みくださいませ。代わりに私が見守りますゆえ」
「海風はそなたの体も冷やそうに」
「私は、この海を良く行き来致しますゆえ……それよりもお身体に何かあっては大変でございます。お早く」
ずっと外で待ち続ける大海人皇子の体を心配している様子に、微笑む。
「ありがとう。だが、もう少しここでいさせてくれまいか、大田が心配だ。それに姫天皇さまも……」
「では、こちらをお羽織りになって下さいませ」
差し出した衣を素直に羽織る。
やはり、守興の言っていたように、海風が体温を奪っていたらしい。
「温かいな……ありがとう。そなたに言われなければ解らなかっただろう。感謝する」
「勿体無いお言葉にございます」
「いや、姫天皇さま……いや、母をいつも支えてくれてありがとう。そなたたち夫婦がいてくれるだけで、母は本当に穏やかになられた。辛い立場に、重い責任……本当に、大変な思いをされている。息子として支えられず口惜しい……」
「大海人皇子さまは本当に姫天皇さまを……」
「……いや、大海人皇子など本当は……」
小声で何かを言いかけた大海人皇子は、波の向こうの船から声が響いた。
「皇女さまが生まれましてございます。大海人皇子さま。おめでとうございます!」
「皇女か?いや、男児でも女児でも良い。大田皇女に、良くやったと伝えてくれまいか?」
「はい!かしこまりました」
「皇女、御誕生おめでとうございます」
守興が頭を下げる。
「ありがとう。次は、そなたたちの番だな?」
その言葉に顔を上げる。
頰を上気させ、照れている。
「ご、ご存知でしたか……」
「姫天皇さまが、自分の孫が生まれると私に。もう、何人も私にも子供がいるが、仕事など大変だろうと遠慮していたら、会わせてくれなかったとおかんむりで、大田皇女の子供をすぐに会わせますと何度か頭を下げたのだ」
「左様でございましたか……」
守興は微笑む。
「では、守興。そなたも休むがいい」
「かしこまりました」
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