召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

◆召しませ後宮遊戯2~小羊女官と皇帝陛下・華仙界への種は遙か~ ④ー②

「明琳…きみのせいで光蘭帝が負けてしまったよ」
「やっぱり…わたしのせいですよね…」

 紅月殿の渡り廊下を歩いている明琳は肩を落としてしまう。あれは光蘭帝と武術大師の勝負であり、路地裏でじゃれている野良犬たちを応援するのとはわけが違った。もしかすると、光蘭帝が勝ったかも知れない。自分の大声が邪魔をしたのは明らかだ。

「光蘭帝さま、素敵だったです。…あんな大きな剣を振り回して戦えるなんて。武将のようにも見えました」
「光蘭帝の元の血筋は武官の出だからな。あれの母親も見事な槍術を持っていたから、血は争えないのだろうな。あの青龍偃月刀を振り回せる武官は少ない。実は光蘭帝は強いよ」
「ええ、わかります。…とってもとっても素敵だったんです」
「それは僕に言わず、本人に言ったら?」

 遥媛公主の眼が悪戯を帯びて前方に向いた。一緒に見上げた明琳にその姿が飛び込む。

 束ねた髪は無残に乱れ、はしたなくも胸を開いたまま、光蘭帝は呼吸を荒げたままようやく聞いた。

「華羊妃…そなた、何故まだ後宮にいるんだ…」
「・・・・・・・・・」
「何故返事しないのか」

「わたしの名前じゃないです」

「あー…明琳…何故、まだ遥媛公主の傍にいるんだ…私は星翅に命じて幽玄送りにしたはずの小羊が何故…」
「わたし、幽霊扱いは嫌でしたから。うふふ、今は紅月殿で、お料理とか手伝って暮らしているんですよ~」

「遥媛公主…どういうことだ……」

 矛先を向けるなよと遥媛公主が袖で口元を隠して目元をにんまりと弛緩させて見せた。

「公主さまは悪くないの!」

「煩い。そなた、白龍公主に何をされたのか忘れたわけじゃあるまいな? 私は滅多に謝らない。その私が「そなたを巻き込んだことを許せ」と言ったのだ!……それにそなた、私の言いつけを護らず、饅頭を作ったな? 料理人、並びに武官全員を処罰する」

処罰?

「ちょっと待って下さい!」

 光蘭帝は踵を返してしまい、明琳が慌てて追いかけてその腕を掴んだ。少し痩せた気がする横顔をじっと見て、明琳は言い返す。

「お約束を破ったのは謝ります。でも、わたしはどうしても、あなたに御饅頭をあげたかったの!美味しいって、笑顔が見たかったんです! また、明琳って呼んで欲しくて、だから幽霊になんてなりたくなかった!」  

 純粋な二つの眼が夜空の星のように、たくさんの耀を称えている。

「邪魔してすみません……」
「邪魔?」

「わたし、屋根の上から大声を上げてしまって……あ、でも、スッゴクカッコよかったんですよ!もう心から応援しちゃったくらい。でも、負けちゃったです」

「元々武術大師には勝てないさ。そもそも、今日の試合は准麗が私が心がなっていないと言い出した口論から始まったのだ。まあ、私も鬱々していたからな……ちょうどいい功夫となっただろう。明琳、武術には心技体を整えるという名目もあるのだよ」

 へえ…と目の前の小羊が尊敬の眼をするのが面白い。光蘭帝はさらに続けた。

「准麗と蝶華、私は共に後宮で育った間柄だ。よくこの紅月殿で遊んだりした。母も優しくて。明琳、そなたがうろうろしていない」

 言葉が繋がっていないまま、光蘭帝は続けた。

「私は華仙人から逃げられない。いずれは人を捨て、桃源郷の住人となる。馬鹿げた野心に囚われた私なぞの傍には置いておけないと思った。だから手早く遠ざけたが、庭にそなたの姿が見えぬ。私は苛々が募る。今では白龍公主を抱くことも憚れる。私自身の恩恵など、ひとかけらとて与えたくはない」

 いつもながら、光蘭帝の言葉は難しい。だけど、何となく分かる。

 皇帝さまは、わたしの姿が見えないと、嫌なんだって言った。


「わたしはここにいます。遥媛公主さまのおそばに生きています」
「それではいやだ」


 いや?
 光蘭帝が明琳の手を強く掴んで引き寄せた。


「そなたは、私の傍に在るべきだ。ウロウロして、私を困らせるのがそなただ。突然現れ、饅頭を食わせ、私を落し、幽玄にと言った私を後悔させ、白龍公主に騙されるなど。そなたはいっつも困らせる。だが、それがそなたなのだろう。それがそなたがそこに在る証だ」

 ふっと光蘭帝の顔が傾き、腕が明琳の手首を優しく掴んで上唇が滑った時、明琳の脳裏にはあの夜の白龍公主との記憶が甦っていた。

 襲われたあの日、冷たく、蛇のような目と冷たい体温。光蘭帝の体温もひんやりとしていて、人の者ではない事に気が付く。そして過去の恐怖を呼び起こした。

『お父さん、お母さんどこ』

 冷たい牢屋。そう、あの牢屋を!


「嫌ぁっ…いやいやいや…っ…」

「うっ?」

 どん!と突き飛ばすようにして、光蘭帝から逃れると、明琳は自分を抱きしめた。がちがちと歯を鳴らして、首を震わせる小羊の前で、光蘭帝が呆然と呟く。

「そなた、私を拒絶した……」

 胸にポカリと風穴が開いた。光蘭帝は屈辱と悲しみで唇を震わせる。

「皇帝たるもの、常に人の上にあれ。特におまえは華仙として生きるべき選民なのだから――――…」

 光蘭帝は震えの収まらない様子で告げた。

「この紅月殿のすべての貴妃以外の、資格を有する女官を処刑する。反逆罪だ」

 明琳が顔を上げた。

「それが嫌なら、謝れ」
「謝りません」

 何だと、と目を剝く光蘭帝の前で、明琳はきっぱりと言った。

「ならば私を片付ければいいでしょ! わたしが悪いのなら、わたしにするべきですっ」

 光蘭帝が言葉を喪った。失語症のように言葉が出て来ない。いや、言葉を知らない。目の前で、小羊が立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。

「怖かったんです。白龍公主さま……それを思い出しただけです。光蘭帝さまと、白龍公主さまのお肌って同じくらい冷たいのです」

「私の肌が冷たい?」

 明琳は頷いて、目を擦り上げて、自分の手を伸ばしたが、まるで足りず、すぐに手を引っ込めた。その手を光蘭帝がぐいと引き上げて、頬に当てさせる。

「ああ、温かいな。温石のようだぞ」

「わたしは子供だから、体温が高いんだそうです。でも、あったかいでしょ?……謝ってください」
「ああ、すまない」
 皇帝が頭を下げる事は、国を放棄するのと同じことだ。
 明琳が小さいので、光蘭帝は改めてしゃがみ込んで、明琳の頭を撫でる。ぽふん、と陽だまりの匂いが鼻をくすぐる。

「そなたはいつも元気だ。日向の匂いがする」
「お日さまの下が好きなんです。……やっぱり、冷たい…」
「そうか。感じた事はなかったが・・・ではそなたを冷やしてしまうな」

「でも、心はぽっかぽかです。……光蘭帝さまが明琳の名前を呼ぶと、心に温石が生まれるんです。それとね、……寂しくないんですか?」

 はて?と光蘭帝が明琳の丸い目を見つめる。高級な上着の龍の眼と明琳の視線が合った。

「大切なものを失くして、そんなに仙人になりたいのですか?…つまんないよ、だって美味しいことも、楽しいことも、嬉しい事も、例えばわたしが死んでも、涙も流さない。そんな光蘭帝さまとどうやって楽しくするの?」

 寝不足の下瞼が蠢いた。

「おかしなことを言うならばそなたに教えよう。私の決められた運命を。華仙人に遊ばれる、我が命を…私は」

 ふと遥媛公主の香を感じた光蘭帝は口を噤んで、嘆息した。

「……幽玄の扱いが嫌か?」
「いや。わたしは光蘭帝さまのために、御饅頭を作るんです」

「では、私は後宮の規則を二つも失くさねばならぬという事か? 幽玄となった貴妃の撤回処置と、食物を生み出す許可についてだ」

「光蘭帝さま」

「そなたとは身長が合わない。私は小柄な貴妃を持ったことがないからその体位も知らぬ。まァ、それについては保留とするが、膝に抱くことは出来る。だが、そなたとくっついていると、いつしか思考が閉ざされる。そうして時間を無駄にし、そなたの顔を見そびれる」

 あー…変な事を言っているな…と光蘭帝は少しだけ少年の表情を見せた。

「無駄なんかじゃないです…光蘭帝さま、くっついてもいいですか?」
「構わないが冷たいぞ」
「平気です。あっためてあげますから」


*****

 ―――――飛翔、寒いね…ごめんね。でも、母様は絶対に貴方を幸せにするから。
 寒いね、寒いね…だが、もうお前に辛い事はない。
 もうすぐおまえは選ばれた天上人となれるのだから―――。


 雪の夜の母親の言葉を急に思い出し、指先が小さく震えた。紅鷹国に辿りつくまでの極寒の往路。
 悪夢を思い出した光蘭帝は目の前の小羊を抱きしめる。温かさを感じても、彼女を温めることなど出来やしない。それでも、心は温めてやれるだろうかと、真に願った。

「私だけの温石だ、明琳…そなたはどうだ…」
「暖かいです。ぽかぽかです」

 うふふ、と明琳がそのしゃがんだ首に腕を回すと、さっき出来なかった口づけが降って来た。やっぱり光蘭帝の唇は雪女のように冷たく、美しかった。


 その後、隙を見つけては、明琳と光蘭帝が寄り添い合う事を、二人の仙人だけは見抜いていた。

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