召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

◆召しませ後宮遊戯2~小羊女官と皇帝陛下・華仙界への種は遙か~ ①ー①

 紅鷹承后殿の牢屋は皇帝の宮殿の真下にある。雪の寒さも手伝って、岩壁は冷え切っている。怯える明琳の前を、蜈蚣が這って消えていった。

 隅っこには鼠が食い散らかしたような黴びたパンが転がっている。その横には……。

 冷たい石牢で、明琳は泣きじゃくっていた。鼠は苦手だ。それだけで帰りたくなる。

『ここに入ってろ!』と衛兵に乱暴に突き飛ばされた。何がどうなっているのかわからず、面食らう明琳の気持ちなど誰も考えてはくれない。だから饅頭は嫌だ。ロクなことがない。

 饅頭なんか大嫌い。

「誤解なんですってば!」

 がしゃがしゃと鉄格子を揺すってみる。『うるせえ!』と番人に怒鳴られて、身体を竦めた。

 ――すぐにコロされそうな雰囲気……。

聞いたことがある。皇帝一族は残忍で、すぐに人を処刑すると。気に入らない商品を持ち込んだ商人は遠慮無く貼り付けられた。だから街では帰ってこない商人はすべて「処刑された」と諦めるしかないのだと。

 それに、この場所には二度と来たくなかった。冷たい牢屋。そこに二度も入ることになるなんてもう二度と嫌だと思ったのに。

(あたし、どうなっちゃうのだろう…)

 お饅頭に毒なんか入れていない。それでも、皇帝さまが倒れたのは事実。

 明琳は手を何度も見る。皇帝の感触は確かにあった。ただ、あまりの冷たさに死んでいるのではないかと、ひととき心臓を跳ね上げた。そのくらい、光蘭帝には体温と言うものがなかった。

「どうなっているの。おうちに帰りたいよ……」

 ぐす…ずず…明琳の鼻を啜る音が聞こえる度に、看守がため息をつく。屈強な男の泣き声には鞭を振るってしまいたいところだが、小羊が背中を丸めて小刻みに震えているのだ。鬼でない限り、困惑するのが人と言うものだろう。

「帰りたいよ……っ」

 めえめえとばかりに小羊がまたしゃくり上げる。その泣き声に看守の声がかぶり始めた。

「この国の刑法の中でも、皇帝毒殺は即死を持って贖う。まさか饅頭に仕込むたぁな。めえめえちゃん。光蘭帝がおめめつぶってたおかげで、保留になったんだとよ」

「わたし、毒なんか入れてません!」

「嘘付け、皇帝さまは未だに目覚めないと言うではないか。西の仙人さまがかんかんだとよ。それに、蝶華ちゃん怒らせちゃ駄目でしょ」

 明琳はぴたりと動きを止めた。

「蝶華ちゃん?」

「頭を蝶々みてーに結ってる第一貴妃さんよ。大層な別嬪さんよォ。光蘭帝の野郎、あの蝶華ちゃんしか夜に呼ばねえのよ。子を孕むのは彼女だろ。ち、つまんねえ賭けすんじゃなかったぜ。ま、そのお方がカンカンでな、お前さんを処刑するって言い張ってんだとよ」

「あたし、何もしてない」

 あっさりと殺されてしまうの?

 明琳はその台詞を言えず、代わりにぎゅっと両目を閉じた。嫌だ、死にたくない。死にたくない。その思えば思うほど、溢れ出る生気を感じる。うん、わたしは死ぬわけには行かないんだと言い聞かせて、鉄格子を握った。

「皇帝さまに会わせてください」

 牢番は頭に来ることにせせら笑った。

「なんで笑うんですか!」

「馬鹿言うなよ。俺は牢屋の番人だぜ? なら今生の別れで俺と熱い夜を過ごすか?…それでいいなら、鍵は俺が持ってるし…ほうら」

 重そうな音を立てて、牢屋の扉がゆっくりと開く。

「あ、開きました」

「だろ?……ふふふ、よく見ればあんた可愛いな」

 なんだなんだ。意味もわからないぱちくりと開いたままの羊の目に、欲に染まったオトコの顔が映る。とぐらりと目の前の男が前のめりになり、白目を剝いて、倒れ掛かって来た。小柄な明琳は逃げる術がない。

 叫びを上げそうな口を手で押さえられ、目を閉じたままの足元がふわりと浮く感触がした。

「これで後宮にて穢れはなしか? 嘘ばかりを。あの門衛」

 キン、とまた剣を仕舞った音で明琳は眼を開け、すぐに片手が眼に当てられたが、しっかりと見てしまった。男は口を貫かれ、鮮血の中で息絶えていた。

「あ…あぁ……」
「大丈夫? 少し我慢して。わたしは公主だ。遥媛公主山君。遥媛と呼べ」

耳元で雅な芳香と共に優しい声が降る。明琳はゆっくりと目を開けた。

「暴れるんじゃない。准麗、ご苦労だった。後始末を」

 は、と礼服を着た男が跪く。明琳は震える体を更に小さくして、しっかりと抱き上げている女性の着物にしがみ付いていた。ここは空中だ。屋根が見える。有り得ないことに明琳は空を飛んでいた。横で女性が笑っている。これは夢だ、これは、夢だ。

「お、降ろしてくださいっ」
「いいから、大人しくしていな。しっかし大胆だねえ。まさか饅頭に毒とはね」
「あ、あたし、饅頭に毒なんか……っ」
「でも光蘭帝は間違いなく倒れたよ?」

 その言葉に明琳が不安そうに遥媛を見上げる。遥媛公主は聖母のように優しく微笑み、明琳をのぞき込んだ。何となく明琳は視線を下に向けて、また戻した。

「それに、あたしは饅頭が嫌い。おうちに帰りたい……。これは夢だ。わたし、死にたくない!」

「心配しなくとも、きみがもう殺される事はないよ。元々あの発布は皇帝の命令じゃない。きみを殺したがってるのは淫乱な龍と、そいつに飼われた憐れな蝶々だけだ。言ってる側からお目見えか。しっかり捕まっておいで」

 言って彼女は天空から鋭い目で地上を睨んだ。その視線の先にはある男がいる。華仙界の白龍公主芙君と呼ばれる男である。長い髪を垂らし、白龍は低く呟いた。

「遥媛公主……」
「白龍公主……」

 二人は憎しみを込めて、同時に呟いた。


「貴様に光蘭帝は渡さぬぞ!」

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