召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

◆召しませ後宮遊戯2~小羊女官と皇帝陛下・華仙界への種は遙か~ Prologue3

 聞けば毎年冬の雪が降ると、饅頭を宮殿に届け続けて来たとの祖父の話。明琳がどうして雪なの?と聞いても、答えは返ってこなかった。それでも、幼少に祖母が雪になると饅頭を入れた手籠を下げ、急いで出て行く後ろ姿は記憶にある。

 ――明琳、おまんじゅうを作るんだよ……。それが祖母の最後の言葉。

 また涙が溢れてきた。早くしないと御饅頭が凍ってしまうと速足で歩いて、息を切らして街道を抜けた。

白雪に覆われた銀に輝く大水法と、凍りかけた噴水。凍った水は太陽の耀を浴びて、きらきらと輝いていた。

 僅かな緑に覆いかぶさった白い雪。金の龍を模した灯篭に溶けかかっている雪の靄。よく行われる氷雪祭りよりずっと美しい雪の庭に明琳は思わず感嘆の声を上げて、口を押えた。いつしか雪は止んでいた。

「豪華な庭園です……っ」

 雪が解ければ更に素晴らしいであろう木々と花たちは今は雪の中で眠っている。明琳は不思議とその春の雪解けを瞼に浮かべる事が出来た。

(春の花々の咲き誇る間を色取り取りの蝶々が羽ばたき、蜜蜂が甘い蜜を零し、更に花たちは甘く咲き誇る……こんなに広い庭園だもの、きっと鮮やかで綺麗)

 庭園にうっとりと想いを馳せていたせいで、後ろににじり寄った人の気配など気づかなかった。蔑むような声が庭園に響いた。

「誰だ…私の目の前に小汚い小羊を連れ込んだ愚か者は。斬る」

 不機嫌を声にしたらこうなります、というような猛獣の唸るような声。
(ヒツジ?)と辺りを見回す。ややして呆れた嘆息の後、また声が響いた。

「そなただ、そなた。眠れぬ私への嫌がらせか」

相手がちょい、と自分の頭の横で拳を作って見せる。目の下にはくっきりとした大きなクマが頓挫しており、顔色は青白い。

 ――不機嫌そう…。

「誰か。庭園の羊を放り出せ。せっかくの白龍との遊戯を。そなた、何をしでかし……」

 眠そうに瞬きを繰り返した後、相手は背中を向けてしまった。その豪華な上掛けに刺繍された赤い鷹の紋章にようやく気付く。赤い鷹は皇族の証。そして上掛けの肩の部分に下げた金銀に気品のある高い鼻梁に、どことなく気高そうな瞳。

 ――もしかして皇帝さま?紅鷹国の第9代の皇帝光蘭帝さま?

 明琳は慌てて籠を差し出した。

「ほ、蓬莱都軒から来ました。お、御饅頭をお持ちしました!」
「饅頭? ああ……母が好きだった……?まだその風習は続いていたか」

 長い髪を鬱陶しそうに揺らし、相手は告げた。

「もうその饅頭を喜ぶ者はここにはおらぬ。……私には不要の産物だ。持って帰るがいい」

「そんな! お、おじいちゃんが腰を痛めて一生懸命作ったんですよ?」
「どこのジジイが作ろうと、私には関係がない。ならば捨てる」

 むっと明琳の眉が吊り上った。羊よろしく束ねた髪を揺らして、ずいっと前に進み出る。

「なんだ」

 更に短い腕を突き出した。

「受け取ってください。一生懸命作ったんです! 私達は毎日一生懸命なんです!」

 ぱち、と相手の眼が僅かに見開かれた後、彼は少しだけ驚いたように明琳を見下ろした。

「そなた、滅法小さいな」
「む、むか…っ。御饅頭!置いて行きますからね!」

 皇帝が優雅な仕草で庭に降りて来た。雪だと言うのに裸足。不思議な事に、それがすごく似合っていて、銀の帯はまるで設えたように雪の中で映えていた。気品があるのに、野性的。そのギャップがまた更に…そして瞳。

 ――何て引き込まれそうな美しい瞳をしているのだろう。

(綺麗ですぅ)

 雪解けの太陽の下で、彼は少しだけ眼を見開いた。

「ああ、あまりに小さいから、羊が迷いこんだかと思ったら人間だったか」

「わ、わたしのことを言っていたんですか!」

「悪い。万年の寝不足のせいか、頭がはっきりせん。それに何故羊が喋る? 蓬莱饅頭は食したことがない」

 言いながら皇帝の手は早速籠をまさぐっている。まさかと思って見ている目の前で、皇帝は不格好な饅頭を掴みあげた。

「あ! それは!」

明琳が伸ばされた籠を引っ手繰るより早く、手が不格好な饅頭を口元に寄せ、光蘭帝は一気にそれをがぶりと獣のように口内に押し込める。

 ばっくん。

「何やら奇妙な味だが」

 皇族には似つかわしくない豪快な齧り方。もしゃもしゃとかみ砕いた後で、彼は眉を潜めて口元を押さえた。

「世界が歪む。そのくせ腹の底から暖かい何かが体内を満たしーーー…………っ」

 ぐらりと大きな身体が伸し掛かるように倒れて来て、明琳は慌てふためいた。

「あ、あの…っ…重い…っ…え?」

 スースースー……耳元に届いたのは安らかな寝息である。

(な、寝てる?)

「こ、皇帝さまですよね?」

そう、弟たちが寝付いた時のような寝息。揺り起こすと、相手は僅かに目を開け、麗しいみずみずしい唇でぼそりと呟いた。

「如何にも。私は光蘭帝飛翔……天命名を光蘭帝、名を…」

 麗しい瞳が優しく細められる。(嘘でしょ)と明琳は驚嘆したが、それどころでないことに気がついた。皇帝と言えば、この紅鷹国の王様で、たくさんのお后様を抱える立場。あきれたコトに、この後宮は紅鷹承后殿の中の女性はすべて皇帝のために集められたと言う。驚く明琳の肩で皇帝は瞼を降ろしてしまい、それは一気に重くなり、小羊の上に影が過ぎった。

「きゃあああ」

 悲鳴と同時にずしゃっと雪に埋もれてしまった。湿った睫が雪の中で僅かに弛緩している。明琳も一緒にしりもちをついてしまった。冷たい。おしりを上げたくても、皇帝は膝に伸びて腕を絡めて動かない。小柄な自分が倍近くある身長を動かすのは無理だった。

しかも髪が長く、触手のように腕に絡んで囚われている。

「え、えいっ……ど、どうしよう……御髪が、こ、皇帝さま、風邪引いちゃいますよ~?」

 駄目だ、起きる気配もない。足がしびれてきたところで、朗らかな笑い声と共に、妃賓たちが通りかかった。そのうちの一人が庭に眼をやり、奇声を上げて見せた。


「誰か! 皇帝さまが! お倒れ遊ばせましたわ!」


「あ、あの…………」

「何を騒いでいるの? おまえ。はしたなくてよ。貴妃としての行動を」

「あ、蝶華妃さま」

 綺麗に染まった桃色の髪は緩やかに、丁寧に結われ、華やかに散らした髪は蝶のように優雅で艶やか。さらにピンクで染料しているのも美しく、可憐に見せている。

「まあ、小汚い羊。皇帝さまったら、どこから、ん?」
「蝶華妃さま!あ、あれを!」

 置き晒された小さな籠から饅頭が転がり出ているのを一人が見つけた。貴妃の一人がそれを拾い、わなわなと肩を震わせている。

「あ、助かりました。あの」

 どうしたのだろう?と首を傾げた前で、高らかに麗しき貴妃は叫んだ。

「白龍公主芙君さま! 我らが光蘭帝さまが! 暗殺ですわ!」

 ――暗殺?違う。皇帝さまはお眠りになってるだけで。

 呆気に取られる明琳の前に、一人の青年が姿を現した。黒い髪はまるで悪魔。その悪魔のような容貌を晒して、白龍公主芙君は気だるげな口調でも、しっかりと命令を下した。

「皇帝毒殺疑義により、この羊を捕獲せよ!」

 ――毒殺疑義?どく?

 衛兵が囲み始め、明琳はようやく立場を理解した。明琳が殺したと思われている。とんだ勘違いだと慌てて食いかかるように言った。

 皇帝は饅頭を口にして、倒れた。だが、毒なんて入れていない。確かに嫌々で作ったけれど、きちんと味見もしたし、できる限りの丁寧さを込めたはずだ。

「誤解です!わ、わたしは毒なんか入れていません…っ………」
「ならばなぜ、光蘭帝は倒れた?…見よ、顔が蒼白だ」
「嘘をお言いでないよ!…………白龍公主さま、何としてもこの小羊を処刑に!」

「ああ、引き裂いて、今夜の晩飯にしてやりたいくらいだ。遥媛に見つかる前に四肢をへし折って郊外に捨てて来いと言いたいが、それには皇帝の署名が要る。小柄な女だ。処刑人は一人で良かろう。俺は血なまぐさいのは嫌いだ。光蘭帝は俺が連れて行こう」

 涙目になった蝶の貴妃がきっ! と明琳を睨み、小柄な芭蕉扇を振りかざした。

「何をしているの! この小羊をさっさと連れておいき!」
「蝶華、光蘭帝は気絶しているだけだ。案ずるな」

 怒りを露わにした蝶華妃は再度声を張り上げた。

「それでも飽き足りませんわっ。反省する間もないですわよ! お達者で!」


 ――誤解ですぅ!助けて!皇帝さまあっ…!

***



 でかい武官三人に囲まれた向こうで、羊の泣き声。その声を(違う)と否定したくても、この身体のだるさが邪魔をする。だるくて、熱いから、雪に埋もれていると気分が良かった。だが、そんな事を悠長にしている場合ではないと光蘭帝は薄目を開けるとやっとの思いで言った。

「遥媛公主山君と准麗をここへ」

 見ていた武官の一人が眉を寄せ、呟いた。

「また後宮遊戯が始まるな? 皇帝?」

 白龍公主芙君と対なる仙人を呼ぶことは、あの狂った後宮遊戯の開始を意味する。

(だが、そろそろ頃合いだろう。私はもう、この世界になど居たくはない。文字通りの犠牲の小羊よ。なぜ瞼が勝手に降りるのだ)


 そして、皇帝光蘭帝は訳もわからず、今度こそ瞼を降ろし、夢も見ぬ眠りに落ちて行くのだった――。



――◆召しませ後宮遊戯2~小羊女官と皇帝陛下・華仙界への種は遙か~ Prologue 了

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