召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

第六章 さらばだ 我が天女⑤

「寿命を迎えるかと思っていたが、もしかして、お前に引導を渡されるのか」
 何百年ぶりかな…と紅月季が嘯く。蓮華の園に立ち尽くした黒蓮華はその真っ黒の双眸で紅月季を睨んでいた。その瞳に静かに笑って、紅月季が告げる。
「お前は本気であの男を愛した…囚われても尚、人間の男をね。だが俺も同じだ。そんなおまえにも、俺にもこれ以上華仙でいる資格はない。逆に引導を渡してやろう」
 手にした長剣が鞘から抜かれる。黒蓮華は目を引き裂く程に見開いて唇を動かした。
 無我夢中でここまで来た。
 ただ一言が聞きたくて。それは紅月季の謝罪だ。それなのに、この後に及んでこの男は冷たい笑い声と剣を自分に向けたのだ。
「人間の男との愛は良かったか?」
 ふるふると頭が左右に揺れる。その時、紅月季は口元を押さえ、屈みこんで、手のひらに大量の血を見た。もう時間がない。それでも―――それでも……。唇を噛みしめる。血を吐こうが、両手をもぎ取られようが、言わなければならない言葉がある気がする。
 ―――――それは何だ…蓮華よ。
 命をすべて賭けても言わなければいけない言葉は何だ。
「抵抗しないのか?奥方…」
 黒蓮華は陰妖を呼び込むが、目を伏せて微笑んだままの紅月季にすべて追い払われてしまう。
「華仙界の掟だ。おまえは世界を滅ぼす。…それほどの原動力がどこにあるのかを知りたかったが、仕方がないな」
「あ、貴方が…いけないの…あたしに愛をくれない貴方が…」
 紅月季の瞳が止まり、弾けるような笑い声が響いた。
「愛情?ッハハ。ああ、そんなこと願ってたのか。可愛いよ、まるで人間だ」
「あ…」
 ようやく蓮華は理解した。紅月季や紫山茶花はむしろ正常だ。愛を知らない華仙界の中で、自分だけが愛や欲を知ってしまったこと。だから紅月季を欲して、それを理解されなかったこと。無理だったのだ。欲した自分の方が、異常だったのだから。
 もう紅月季が愛をくれる事はない。興隆は違った。多少なりとも、自分を愛して、告げてくれた。天女には許されない欲しかった愛情をくれた。だけど、本当に欲しかったものは興隆からではない――。
「もういいか」
 ぼやける視界の中で、紅月季が統治者の持つ黄金の長剣を抜くのを捉えた。ああ、邪魔だから。笑いながら消すのね………。例え愛していても受け止めてなどくれずに。
(もういいわ)
 好きにすればいい。長年の結果は今受け取った。
 黒蓮華の瞳が黒檀の涙を浮かべる。最後に愛おしい夫へ鉄槌を下すつもりで、口にした。
「愛してるわ」
 紅月季の顔が一瞬歪んだが、剣はそのまま大きく掲げられた。ゾクリと背中が震える。謂れのない恐怖が紅月季を襲った。
 剣を握りしめた手の震えが止まらない。
「蓮華、汚らわしい言葉を口にするな!」
「紅月季!待て!」
 ん?と雨の中で剣を構えた紅月季が空中を見上げる。梨艶と愛琳だ。愛琳の顔はかつてのかの女性にそっくりだ。いや、女性というよりは…。
(まさかな…)
「蓮花夫人!受け取れ!愛琳、手記を」
「投げるね!蓮花夫人!受け取るね!」
 靑蘭で逢った時とは違う。黒蓮華はただ茫然と紅月季を見たまま動いていない。その手元に愛琳が一冊の手記を投げ落とした。梨艶は降りながら、静かに言った。
「あなたが追い求めた真実が書いてある。…紅月季、それを読む時間くらい与えるのが統治者たる器だろう。李興隆の手記だ」
「手記?…あァ、そんなものを書いたな…そう言えば」
 梨艶の額に数本の赤薔薇が投げられる。紅月季は後ろを向いてしまった。その呟きは天変地異を起こす程だったかもしれない。
「どうしても天女を捉えておきたくて…馬鹿な地上の男の些末な遺文だが」
 蓮華の手が震えている。前で、紅月季は目を逸らしながら言った。
「俺は約束を護り、おまえを迎えに行ったんだよ。覚えているだろう?靑蘭の湖で言ったはずだ。『そなたは……天女か』と」
 手が震える。余りのことで息が出来ない。
 あれは紅月季だった?
 ――――――何故………では私が恋したのは…私を力強く愛し、抱いたのは…。
 黒蓮華の髪が一気に黒から桃色に変わっていく。紅月季は続けた。
「そうだな。おまえには話していなかったが…華仙界の統治者には二つの発情期が許される。…月季が妖力を蓄え、いつしか俺は生まれた。その瞬間から死ぬまでで、二度程しか発情期は訪れない。それでも、二つの種を預けることこそが、統治者の使命だ。だがおまえは拒絶した。白牡丹から聞いたが、俺が水鏡で女探ししてると勘違いしていたらしいな」
(だってあんたやりそうだ)と思った瞬間、また薔薇が飛んで来た。だが、梨艶にはすべて分かっていた。そうでなければ、あんな手記を書いた理由がない。
 紅月季は肩を竦めて空を見上げた。
「俺は、おまえの影響で、愛と幸せを考えるようになった。それも、この華仙界ではない場所でだ。どこかで幸せにおまえと暮らせることを夢見るようになった。いつか二人でこの世界を捨てよう…そう思ったことがすべての発端だった。おまえが追放された時、俺はこんなチャンスはないと思った。だから、俺はすぐにおまえを追いかけたんだ」
 紅月季は両手を黒蓮華に向けて広げ、髪を揺らす。
「恋愛して、幸せだったな。地上で二人きりで。だが、やはり愛に慣れない俺はどうしていいかわからなくなった。それでも、こんな世界に置いて置きたくはなかった。華仙界にはおまえの求めるものはない。それでも、紅月季の俺には種を預ける義務がある。おまえが拒絶した以上、別の相手を探さねば、統治者は二度と生まれないんだ。だから俺は別の女を探すしかなかった。そうしてその女に種を預け、俺は戻るつもりだった。だが、気がつけば俺は…」
 ―――――まさか。
「貴方…も、なの?」
 答えを察した蓮華が顔を上げる。紅月季は優しく笑って頷いたのだ。
「そう。おまえと同じ。俺は華仙の資格を喪失し、戻れなくなっていたんだ…。そうして俺は紅月季という存在も思い出せなくなり、靑蘭に居続けた。その興隆としての寿命を全うし、天命尽きた時、俺の罪は赦された…何故か統治者の資格は残っていたがな」
 紅月季は顔を覆い、涙声でゆっくりと告げた。握りしめた刃が手を血で濡らす。
「俺はずっとお前の傍にいたんだよ、蓮華」
 つま先がゆっくりと蓮華に向き、それに気が付いた梨艶が叫んだ。
 終わりにしよう。こんな茶番は。
 紅月季の思考が初めて読み取れる。それほど、紅月季は心を滾らせたのだ。
「蓮花夫人!」
「―――――悪く思うな…こうされたかったのだろう…これが俺からの愛の証だ」
 気がつけば、紅月季の剣は黒蓮華の背中に突きたてられていた。その痛みと恍惚の中で蓮華は思い出す。最初にこうして愛してくれた興隆の熱さを。
切っ先は自分の中に優しく入って来て、私を壊した。天女の私は消えて、ただの女にしてくれた。
「あぁっ…」
 蓮華の肩越しに、紅月季が低く囁いた声が黒蓮華の鼓膜を震わせる。
「案ずるな。俺もすぐ逝くことになろう…」
 苦しさと切なさで蓮華の腕が何度も何度も紅月季の肩を滑ってゆく。愛琳は声が出せないまま、梨艶の胸に顔を埋めて肩を震わせていた。
 その震える肩を梨艶がそっと押さえた。

 紅月季は腕に力を込め、握りしめた剣をグ…と更に奥に突きたてる。その度に蓮華の身体は揺れて溶けてゆく。その腕が降りた時、紅月季は目を伏せ、小さく呟いた。
「苦しめて済まなかった」
 その一言を最後に、蓮華の瞼は閉じて行った。

「紅月季さま!」
 蓮華の亡骸を姫のように抱えた紅月季の足が止まる。愛琳が目を強く瞑っては涙を堪えて、震える声で告げた。紅月季は女性を抱いたままゆっくりと振り返る。
「何だ、熊猫娘」
「何で黒蓮華を殺したね……?」
 紅月季はゆっくりと空を見上げ、蓮華を抱いた腕を片方外し、空に大きな円を書いた。
「見ろ。もうこの世界が人間たちの負を浄化する事は適わない。芙蓉国と靑蘭の終焉は近い。たくさんの無念は誰も浄化出来なくなり、世界は終わる。こんな無茶な女華仙の妻を放置していた俺の責任だ―――おまえも母の仇が消えたのだ。地上に帰るがいい」
「紅月季さまはどうするね…っ!」
 俺か?と紅月季が囁いた。ゆっくりと歩いて行くのを梨艶も言葉を出せず、ただ、ついてゆく。たどり着いたのは黒く焼け焦げた蓮華の園だった。
 懐かしそうに紅月季は目を細めた。
「この蓮華の生まれた場所で、終わるつもりだ。熊猫、梨艶。人間共の憎悪がすべての世界の美しいものを無と闇に変えたのだと思っていた。その邪気に囚われた黒蓮華の好きにさせてやりたかった…俺は夫としても失格だったしな…ふ、夫婦がそれぞれ愛を欲し地上に降りるなど前例がなかった」
 動かない蓮華を膝に乗せると、紅月季は何度も蓮華の髪を撫でて見せる。
「馬鹿な女…一言愛して欲しいと言えば良かったのだ…俺には無理だったんだ」
 ぴく、と梨艶の身体が小さく震える。蓮華の最期まで抱えていた香炉が光り、梨艶の持つ蒼い塊に反応した。むにゅ、と梨艶の手が愛琳のしりに伸びてそれを掴んですぐに引っ込んだ。
「むぎゃ!…梨艶!空気読まないにも程が…っ!」
「…わかる…」
 種が芽吹くように梨艶は目を開いて見せた。
「おまえの感触が伝わる――――…そうだ、こんな柔らかさで、温かさだった。紅月季…この香炉は一体…なんなんだ」
「我ら華仙に愛を伝える術はない。だが、蓮華はいつしか人の愛に目覚めて、俺からの愛を願ってしまった。だが俺にそんなものを返せると思うか?だから、香炉でもあれば、伝わるかと思った。
梨艶、俺は人として生きて、人は素晴らしいと思った。自由に愛せて、伝えて支えて行ける。弱きを愛し、大切なものを腕に抱きしめ、ちゃんと頬を寄せて生きている。むしろこの世界を滅ぼすのは華仙かも知れないな…」
 は、はは…そんな笑い声には少し涙が混じっていた。霊峰が揺れている。紅月季はゆっくりと蓮華を降ろした。その中で愛琳が突然叫んだ。
「お母さんだ!」
 紅月季に寄り添うように女性が立っている。
母の特徴ある髪は金色で、いつも金木犀が好きで、大好きだったお母さん。
「金桂花…が母?……やはり愛琳は…」
 ―――――蓮華に言えなかったもう一つの自分の罪は。紅月季の眼から涙が零れ落ちる。
種。
その種は何年をもかけて、ゆっくりと愛に目覚めてゆく。華仙人の子を身ごもった女性はゆっくりと腹で子供を育ててゆく。種の影響で死ねない体を引きずり、紅月季の子供を生み出し…そして黒蓮華に消された。生まれたばかりの小さな薔薇を掴み取ろうとした黒蓮華の眼を潰し、その薔薇を白牡丹に託す―。
時折地上を見ては、胸が痛んだ。
今更名乗り出ることは許されまい…と紅月季の眼が撓んだ。
「熊猫娘…おいで」
 紅月季が愛琳に腕を伸ばしてくる。その大きな腕に抱かれて、頬を撫でられた。目を丸くした瞬間、愛琳の目の前で紅月季の姿はパシンと消え、赤い紅月季の花弁がゆっくりと散り始めた。崩壊した世界に薔薇の花びらが流れて舞い散る。
「紅月季さ…ま?」
 愛琳が慌てて辺りを見回す。さっきまでそこにいた。大きくて、温かくて、優しさに溢れた天帝の姿は、瞬く間に消えていた。
「梨艶!紅月季さま消えた!」
「見ていた。騒ぐ…な…」
 梨艶は顔を背け、肩を震わせている。愛琳が初めてはらはらと頬に涙を零して崩れゆく世界の花弁を見上げてしゃくりあげはじめた。
 ―――――泣きたいよ。富貴后さま…どうして泣くの、だめなの…?

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