召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

第六章 さらばだ 我が天女①

「秀梨艶は墜落して死んだと?自分から足を滑らせた?」
 靑蘭、首都揺籃後宮にて。
報告を受けた黒蓮華は指を噛んだ。
「あそこは遥か昔にわらわが降り立った場所。それを知っていたのか…」
 あの狡猾な男がそう簡単に白旗を上げて世を儚むとは考えにくい。不思議な男だとは思っていたが、白牡丹の血を引いていれば頷ける。
「つくづく華仙たちは邪魔よ」
 黒蓮華は苛立っていた。国境沿いの兵士は間もなくこの靑蘭を襲うだろう。そうしてこの国は国ではなくなり、生きる者はいなくなる。その歪みはあれ程恋い焦がれた華仙界を直撃するだろう。ここが掌握出来れば次は芙蓉国だ。憎き富貴后こと白牡丹に目にモノを見せてくれよう。靑蘭は戦禍を広げようとしている。さあ、戦わねばお前の愛する国が無くなるぞ。結界を張り続けるのももう限界だろう。
黒蓮華は一度だけ天を仰いだ。
 華仙界を引きずり出してやる。還れないならば、この手で同じ高さまで堕としてやる。
 今こそ、裏切った紅月季と華仙界に復讐できると言うのに、この心が哭くのは何故だ。
 欲しいものは負に汚され、もう見えない。
 手を伸ばしても、届かず―――――興隆、どうして私を愛した?
 その時、黒蓮華の指先に皺が寄り、崩れ落ちた。頬もかさかさに乾いて、美貌が崩れ落ちてゆくのが分かる。陰妖を生み出し過ぎたのだ。黒蓮華は双の香から産み出した恨みの念を兵士に吸わせ、操っていたのである。
 ―――天にも戻れず、こんな場所で。美しさを手放して老いてゆく…。
 悪夢でしかない。
「――――――たすけて、…月季……」
 悲鳴が後宮を駆け抜けた。陰妖がすべてを食い尽くした後宮で、黒蓮華はただ、哭いた。

 激しい水音が玉座に響く。水鏡がその水面を揺らし、靑蘭の映像は瞬く間に消失してゆく。その水鏡は水を溢れさせ、ただの窪みが広がっている。まるで枯れたオアシスのように。一度だけ天を見た黒蓮華の瞳は紅月季の心を激しく揺らす。髪の紅色と同じ瞳だからではない。黒蓮華は堕落しても、足掻いて、まだ自分を追い求めているからだ。
 ―――――何故だ?と紅の唇が動く。
 おまえに酷い仕打ちをしたのに。何故にまだあの女は自分の名を呼ぶ?
 ―――――どうして蓮華は華仙の資格を失わねばならなかったのか。その答えは黒蓮華ではなく、あの白牡丹の血を引く男と熊猫娘が導き出してくれそうな気がするのも何故か。
 紅月季は長く伸びた紅色の髪を大きく揺らすと、玉座のある部屋を出、外を眺めることが出来る場所まで歩いた。その途中に込み上げて来て吐血した。
「紅月季さま!いい加減お休みに」
「俺をテラスまで運べ……毎日の日課…だ」
「でも」
「紫山茶花!」
 肩に羽織った上着を引き上げて、手摺に手をかけた。大きな天蓋のある宮。その向こうの高台には枯れてゆく蓮華の園がある。かつては桃色の蓮華が咲き誇っていた。蓮華の生まれた場所だ。華仙界で一番最初に枯れた負の苗床。だが、蓮華の生まれた場所。そこに手を翳し、紅月季は少しでも黒蓮華に届くように、気を贈り続けている。
 何が華仙なのだろう?
 もしかするとこれは寿命ではなく、光龍からの天罰なのかも知れない。愛の解らない人であり、人非ざるものへの。これは予感に近い。きっと黒蓮華はここに戻って来るだろう。その時こそ、この世界は終わる。
「願わくば…もう一度華盛りの華仙界を見たいものだな…紫山茶花」
 統治者は血色になった唇でそっと呟いた。

「一度地上に帰る?」
 愛琳は梨艶の信じられない言葉を聞き返したところだ。蒼杜鵑と別れて、梨艶は唐突に地上に戻ると言い出し、またあの入口付近まで飛んでしまったところだった。
「どちらにしても黒蓮華を殺さないと、この香は解けないのだろう。早い方がいい」
「だめね!」
 愛琳は溜まらずに続けた。
「私、黒蓮華の夢見たよ。夢の中で私、黒蓮華だったね。起きて涙止まらなかった。紅月季さまと黒蓮華…蓮花夫人は愛し合ってた。少なくとも私にはそう見えたよ」
「だから何度も言わせるな。おまえは俺が華仙に操られて「死ね」と言われて死んだら後悔しないのか?」
「…泣くよ、後悔するね。何度も答え探すよ!あの時、ああすれば良かった、こうすれば良かったって。だから私は梨艶を止めてるね」
「言っている意味が分からないのだが」
 愛琳は憤慨したように梨艶の腕を掴んだ。
「そんなことにならない方法あったはずってずっと探すって私、言ってるね。ならばどうして私、黒蓮華の夢を見た?…それはみんなが幸せになれる方法を探すためだよ」
 涙を目いっぱいためて、それでも女官は泣いてはいけないのだ。愛琳は必至で涙を零さないように唇を噛んで見せた。
 ―――みんなが幸せになれる方法…そんなものが存在するのなら、自分だって探したい。
梨艶は暖かいはずの愛琳の頬を両手で包み込んだ。
 この後に及んでも、この娘は幸せなどと口にしてくれる。麻痺した心が憎い。ほら、冷たい。愛琳の暖かさは微塵もない。死体に触れているかのように、冷たいのだ。
「…愛琳…おまえは可愛いな」
 梨艶の唇が頬を滑る。ぱち、と愛琳の眼が見開かれた瞬間、梨艶は羽衣を素早く肩に投げつけ、浮かび上がった。
「申し訳ないが、俺には俺の護りたい矜持がある」
「梨艶!騙したね!」
 愛琳の身体が瞬時に飛び上がった。女官の運動神経甘くみたらいけないね!そう言いながら愛琳は見事なプロポーションで飛び上がり、胸を揺らして空中に踊り出、梨艶の腰に捕まった。「私から逃げられると思ったら大間違いね!」「おまえは蛙か!」「蛙言うの止めるね!」そんな会話を繰り広げながら、二人の姿は完全に真下に広がる異次元へと再び消えてゆくのを上空から二人の華仙が見下ろしていた。
 熊猫の上の蛙がくすくすと笑っている。やがて熊猫と蛙は人型になった。気に入らなげに紫山茶花が言う。
「……無謀な……おまえのせいだぞ、蒼杜鵑」
 聞いた蒼杜鵑は驚いた表情を一瞬見せ、指で口元を押さえると、にこやかに言い返した。
「元気で結構じゃない?…こっちまで元気になっちゃうね、あの愛琳って子みてるとさ。不思議な女の子だよ。可愛いと思わなかった?」
 華仙には紅月季さまと言い白牡丹さまといい、どうも好色が多い。自分も年を重ねればそんな発言をするのかと紫山茶花は人知れず、大きなため息を吐いた。
「何故紅月季さまは二人を迎え入れ、また地上へ向かわせるのか…」
「紅月季さまの眼は確かだよ――――あの二人がきっとこの世界を助けるってね」
「どうでしょうかね」
 そうであってくれればいい。誰も滅ぶことを奨励などしないのだ。やがて元通りの廃墟になりつつある世界に景観は戻り、二人の華仙はしばし地上に降りた二人の天女を眺めることとなった。願うなら、また花盛りの世界を見たいものだ…息絶え絶えに紅月季が呟いた言葉が胸を締め付けて行った。

羽衣の扱いにも慣れてきた。梨艶はしっかりとしがみ付く愛琳の頭を撫でながら、力を抜く。そうすると、抵抗力が弱まり、止まる事が出来るのだ。
「何も考えずに飛び降りたがどこに着くのだ」
 俺は愛琳か、と自分を叱咤しながら、梨艶は空に浮かんでいる。緩やかな落下は光を伴って、空気に溶けるように為され、空圧で身が引き裂かれるような事はなく。
「愛琳…このままくっついていると、靑蘭にゆくことになるが」
「そのつもりだったくせに。軍師はこれだから嫌いね」
 ふわり、と梨艶の方向が西に向いた。見覚えのある橋を見つけた。星祭りの時の橋だ。
「あれ、蓬莱の橋ね!」
「ではこっちか」
 向かう靑蘭の空は蒼を通り越し、闇黒に近い。その中央の闇はかつての萬世だった。
 まず目に入ったのは、食い争ったような貴妃の無残な姿だった。引き裂き合いになったか、皮膚が裂かれ、羽虫が今度はその上で繁殖していた。その隙間に陰妖の数億の筋が見え、瞳は見開かれたまま、無数の陰妖を生み出していた。
「殺し合いでもしたか…愛琳、あまり見るな」
 だが愛琳は足を止め、薙刀を落して一点を見つめている。
「…梨艶…あそこ…」
 梨艶の顔が強張る。闇の中央には老婆がいた。その姿には見覚えがあった。
「まさか…蓮花夫人…?」
 蓮花の眼が愛琳を見つけた。
「この身体はもうだめ………ほほほ、少し悪戯しすぎたか」
 愛琳の心にまた黒いモノが忍び寄る。梨艶が慌てて愛琳の手を引いて、胸に抱きこんだ。
「耳を貸すな――――心を弱めるな」
 ガチガチと歯を鳴らす愛琳に言い聞かせた梨艶が震えを押さえられない様子で黒蓮華となった夫人に言うのが聴こえる。
「フザけた香を充ててくれたものだ……俺の楽しみをよくも」
 腰の青竜刀を突きつけ、銀に光る刃を返して、梨艶は唇を歪めた。
「死ねば魂一つとなり、夫の紅月季の元にも行けよう。憐れな天女よ。我が靑蘭を永きに渡り、滅亡に導いた業は重い!…試してやろう。胴体離れても、天女は首だけで生き永らえるのかを」
「やめて!梨艶!」
 愛琳の声と同時に、黒蓮華の瞳がぎょろりと愛琳の双眸に向けられた。
 ―――――目が…逸らせない。
 愛琳は必至で目を反らそうとした。だが、黒蓮華の黒い何もないような瞳は今や真紅となり、愛琳の瞳をしっかりととらえている。空虚な老婆の口がニィとなった。その奥から優しい声が愛琳に響いた。

私に同情してくれるのですか?愛琳……

「蓮花夫人!」
 心に入りこんだ陰妖がニタリと笑っている。

――――そう、私は朱蓮花です。長い間、天女に踊らされていた、哀れな女です。目を潰され、あまつさえ耳も焼かれそうになり。前王妃に疎まれ、夫もなく暮らしておりました。あなたの明るさは大好きでした。愛琳。
お願いがありますの。
あの梨艶の羽衣を戴きたいのです。
もう、地上に私にとって愛おしいものはありません。還りたい…愛しい人の元へ。
さすれば、梨艶の呪いも解けるでしょう…ほほ。本当の軍師はとてもお優しいのよ?
まだ貴方は見た事がない愛一杯の梨艶がいるわ。
「本当?」
 ええ…。
(梨艶が元に戻れる…愛いっぱいの心を取り戻せる…)
「愛琳!」
 愛琳の手が動いた。これは黒蓮華じゃない。蓮花夫人だ。たった一人、梨艶に嫌われた自分を慰めてくれた。香炉を渡したからこそ、黒蓮華になってしまったあの優しい夫人だ。

蓮花夫人…ごめんなさい。
何故謝るのです?
私が香炉を渡したから―――――私の黒い心が香炉に溜まって、そのせいでみんなが不幸になったんだよ。なんでもする。なんでも…。
ふふ、可愛い子ね。抱いてあげるわ―――――寂しかったのね。お母さんを殺されて。

ゆらりと蓮花が微笑む。目を閉じたままの艶やかな笑顔は、あの夫人以外の何物でもなく。愛琳は嬉しくなった。黒蓮華の手が愛琳をそっと撫で、瞬間夫人は消え、老婆のしわがれた声が梨艶に向かって発されてゆく。だが愛琳は蓮花の夢に囚われ、嬉しそうに微笑んでいた。母親の優しさを蓮花は持って愛琳の心を侵したのだ。
愛琳の心を占める母親への感情。黒蓮華はそれを見抜いていた。
「梨艶!さあ、この女の心を返して欲しくば、その羽衣を寄越せえっ!おまえの纏っているそれだ。それで私は天に還れる!…今こそ天に還りすべてを滅ぼす刻」
 梨艶は呆れたような諦めた吐息をつく。
「愛琳……おまえの突飛な行動は想定内だ。持って行け…」
 梨艶は言うと、纏っていた羽衣をむしり取るように剥がし、それを放り投げて見せる。老婆が慌てて虫のように地面を這い、それをかき集めた。
「おおおお羽衣が…っ」
「――――――…っ」
かつては美しかった彼女の老いて無残で惨めな姿を直視出来ず、梨艶は顔を背けた。
(自分だって同じだ。蓮花夫人だけは、自分の味方だった。いつだって優しく、包んでくれたのだ…)
 それがどうだ。今や美しい髪は禿げ上がり、目元は緩んだ肉で覆われ…醜悪な匂いを発し…見ていられない。
「それを纏って天へ還れ―――――さらばだ。我が天女」

 さらばだ。我が天女。

 その言葉は過去を血色に染めかえる。羽衣を手にした瞬間に美しい天女に戻った黒蓮華の慟哭が走る。
「興隆…っ…」
 一際高い叫び声を上げ、黒蓮華は宮殿の空高く舞い上がり、解放された愛琳は崩れ落ちた。梨艶を見やる。
「梨艶…なんで…」
どうしても心に入られる、護れない。悔しさでとうとう溢れそうになる涙をまたしても引っ込めて、腕を掴んだ愛琳の手を梨艶が握りしめ、声を潰すように言った。
「何も言うな。ただ、俺から離れるな。心を離すな。二度とだ」
 空の上から見下ろす天女とそれを見上げる地上の男。伝承に残っていた絵姿そのものの図式。黒蓮華の後ろには、空間を裂いて現れた時空の黒い渦がゴゴゴゴゴと轟音を立て、そびえている。
「憎き靑蘭よ!全力で戦え!そして死ね!そうだ、全員死ねばいい!どうして私だけがこんな不幸な目に…国もろとも消えてしまえ!黒き時よすべてを飲み込め!」
 恐るべき天女の呪力。あんなものが直撃すれば、この世界は終わる。
 梨艶が愛琳を庇うように覆い隠す。だが、攻撃は来なかった。黒蓮華は静かに天を見上げていた。興隆の姿が瞼に浮かぶ。
 そなたは美しいと口に出来る心を持っていた李興隆。どこで捻じ曲がったのか。
 ―――――蓮華、愛している。
 どうして思い出すのだろう?憎しみの向こうにある最後の愛を。何故、こんな時に。
 空の黒蓮華の姿は消え、黒い翼が羽ばたいた。一羽の黒い白鳥が大きな翼を広げて旋回しているのを瞳に映した愛琳は憎しみと怒りで正気に返った。
 ――あの白鳥!お母さんを締め上げた…っ。
 愛琳の手が震え、薙刀を握るのに気が付いた梨艶が愛琳を抱きしめた。
「離すね!…あの白鳥がお母さんを…っ殺してやるね!お、お母さんを殺した…っ」
「駄目だ。おまえまで黒くなるな!愛琳」
 白鳥は大きく靑蘭を旋回すると、まっしぐらに蓬莱の方面に向かって逃げてゆく。
「何するね!邪魔!」
「暴れても手放さないぞ」
 愛琳を腕に抱きこめて、梨艶はその頭をぎゅうっと抱きしめる。愛琳の背中に回した腕が震えた。薙刀が落ちる。それでも涙を流さない愛琳に困惑して笑って、梨艶はゆっくりと言った。
「おまえの母の仇は俺がやる。手を染めるな。黒くなることは、俺がやろう。そなたは醜くなるな。殺すなどと口にする必要はない」
 梨艶の腕にいくつかの滴が浸み込む。もう富貴后さまも、蓮花夫人もいない。愛琳は顔を上げて、梨艶を見つめた。
「羽衣…なくなった…もう行けないよ…」
 紅月季さまと約束したのに!
 もう富貴后さまに助けを乞う事は適わない。悔しさで唇を噛みしめた愛琳に「待て?」と軍師の眦が動いた。
「羽衣はまだあるはずだろ」
 梨艶は空を睨みながら、言った。
「蓮花夫人自身の羽衣が。香炉が存在していたんだ。可能性はある。だが、探すのは難しいな……せめて何があったか分かればいいのだが。天女はどの男を愛したんだ?」
 ―――――あ。
 愛琳が顔を輝かせた。
「あたし夢見たよ!黒蓮華の…ええと…ええとええと………」
 思い出せない。
 梨艶の瞳がギロと動いた。ああ、また怒られる…と愛琳が肩を落した前で、梨艶は刀を抜き、忍び寄った刺客を切り捨てた。まだ陰妖と化した人間がフラリフラリと歩いている。
「膨大な数になるが、貴妃たちの歴史書が残っている。蓮花夫人の記録から紐解くしかない。だがこんなのがウロウロしていては、調べものも出来ないな」
 ちらりと視線を送られた愛琳は気が付いて、薙刀を振り回した。
「あたし、調べものは苦手だけど、戦うことは出来る。警護は任せるね!…梨艶はその調べものに集中するね!」
 梨艶は信頼の眼差しで頷いて、速足で目的地に向かう。その愛琳の強さには軍師の自分も脱帽だと思いながら。

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