召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

第四章 黒蓮華と呼ばれし悪夢

 ―――――華仙界には夜はないが紅月季は夜を魅せていた。華仙たちが緩やかに時間を過ごしている。

梨艶は水鏡に向かい、愛琳は眠気に勝てず、微睡み始めた。そうして、梨艶もウトウトとし出す。
 身体は限界まで酷使され、疲労は否めない。だが、眠ってしまうわけには…梨艶の手がぱしゃんと水鏡の上に落ちる。頬を擽る水面の冷たさ。愛琳の手を見つけて握るが、温かさは感じない。だが、不思議と安心する。

 傍に居ろ――なんて初めて女に言ったな…。

「梨艶…」
「緩やかな時間だな……愛琳」

 指先から華仙の力が夢渡りの為に愛琳に流れていく。水鏡の不思議な力は手を繋いだ二人にひと時の水主を見せようと、蠢きだした。
 体がふわりと夢に誘われる。愛琳はやがて自分をも手放すような深い眠りに落ちて行った。地上と違う大気は何かを訴えている。

 梨艶―――



 華仙界大局殿。蓮華の園に座っていた自分を撫でる手がある。髪は短いが、少し垂れた目ですぐに解った。紅月季だ。いや、まだ紅の冠は継承していないから、月季か。

「蓮華」

 れんげ?ああ、呼ばれてそうだったわと蓮華は微笑む。私はこの人と結婚したばかりだった。純粋な華仙として、次の種を残す為だけに。ただ、それだけの為に。ただ、どうしても種を残す気にはなれないのは何かが足りないからだ。
 咲き誇る蓮華の園の中で、蓮華は名の通りの桃唇をついと上げて夫から目を反らした。

「いい加減、きちんと役目を果たしてくれないか?種を生んで欲しい。俺はきみを選んだんだ。だから婚姻もしただろう」

 種を生んでほしい。何を身勝手な事を。

「…少し時間を頂戴。種を生み出すのには何年もかかる。そのくらいご存じでしょう?」
「ではしばし待つとしよう」

 蓮華は知っている。この男がそんなに簡単に自分の意志を曲げない性質だという事をだ。毎日毎日月季は地上を映してはその行方を見守っている。それが気に入らなかった。
 自分を見て欲しい。丁度いい言葉を蓮華は知っていた。何故か、生まれた時から抱えている。それをいつ言えば良いかが分からないだけで。

 華仙のお歴々が蓮華を見て、眉を潜める。少しずつ黒くなってきた髪のせいだ。蓮華の髪は桃色から、黒に変化していた。

 ―――――月季は地上の女性に恋をしている。蓮華はいつしかそう思い込んだ。

 そうして羽衣がふと消えた時でさえ。

 ―――――私が地上に降りて、想い人を殺すと思っていらっしゃる…。

 何故か蓮華は思い込んだ。華仙天女にとって羽衣は必需品だ。それを隠すなんてあまりにも酷い仕打ち。それに、その地上の女が好きなら、攫って来て、妃にすればいい。

「月季」

 蓮華が手を差し出す。

「私の羽衣を返して頂戴」
「おまえの羽衣?」

「トボけないで!あたしの羽衣を奪ったのは貴方でしょう?あ、あたしが地上まで行ってあの女を殺すと思ってらっしゃるなんて…華仙人の命の羽衣を奪うなんて酷過ぎるわ」

「待て?何の話だ」

「知らないと思っているの?貴方の種など産まないわ!これが答えよ」

 蓮華の眼が吊り上った。怒りが水鏡を直撃する。割れた破片が飛び散り、鏡はただの水になった。これでいい。もう月季は地上を見られやしないだろう。ふ…ふふ…と蓮華の笑いが響いては消える。

 愛のない男の種など生まない。蓮華の頬に涙が落ちた。


 その夜に蓮華は物音で目を覚ました。新婚のために設えた部屋には月季の姿がなかった。代わりに仙人たちが厳しい眼で蓮華を見つめている。

 ―――――なに…?

 その合間に、愛おしい夫の姿があった。


「蓮華の園が枯れた、蓮華」


 蓮華の園は文字通り蓮華が生まれた場所である。紅月季は辛そうに続けた。

「どういう事かわかるか…蓮華の園から、負のオーラがにじみ出ている」

 蓮華の瞳が大きくなる。

「きみの負の力は園を枯らす程に膨れ上がった。残念だよ。…蓮華、おまえは少し地上で頭を冷やすことになった」

 ―――――地上で頭を冷やせ?ここを追放されるの…?

 醜い地上にゆけと、そう言うの?

「嫌…っ」

 蓮華の細い手首を紅月季は掴むと、胸に引きずり込んで、強く抱いた。

「…たった千年だ。それまで堪えれば、俺が迎えに行ってやる。美しい心で地上を浄化し続ける華仙界にとって、地上に汚された天女など不要だ」

「不要…?」

「これ以上言わせるなよ。いいな?必ず迎えに行く。おまえが純潔の天女でいられたなら必ず戻れるはずだ」

最後の夜を蓮華は紅月季と過ごす許可を与えられたが、触れることは出来なかった。



 ―――――こんなことがあっていいはずはない。私はただ、幸せになりたかった…。


 蓮華は一人、大局殿の宝物台から、二つ並んでいる香炉を手にした。紅月季との婚姻の際に贈られたものだ。二つ並んでいる香炉が何故か憎い。理由が分からないまま、それだけを胸に、蓮華は地上に追放されることになる。華仙界の宝物を持ち出すことは禁忌だと知らない無垢な天女。

 失くしたと思っていた羽衣はすぐに見つかり、言葉もなく、落とされてゆく。桃蓮華ではなく、いつしか黒蓮華と呼ばれながら。

「蓮華…おまえは何故に黒い心を持ち、黒蓮華などと呼ばれる事になったんだ…」

紅月季の涙声は幼少の蒼杜鵑と紫山茶花の心に残ることになった。蓮華は最後の羽衣を与えられ、地上に千年居続ける罰を背負うことになる。この日、華仙界から一人の天女が悲しみを抱え、地上に降りたのだった。

 …どこでもいい。どこか私を愛してくれる場所ならば。未開の土地に僅かに人が集まっている小さな集落。その帳の山の麓に蓮華は静かに降り立った。

 とても綺麗な水。―――――ここで誰にも見られず、ひっそりと悪の心を鎮めよう。そうすればきっと紅月季はあの欲しかった言葉を言ってくれる。
愛している、苦しめて済まなかったと言ってくれるだろう。

 ふと、水音が小さくなった。蓮華は水辺から顔を覗かせた。

(誰?)

相手を見て足が固まる。夕暮れの湖はオレンジ色に染まっており、黒髪すらも金色に見せてしまう斜陽が、同じく相手を照らし出した。


「そなたは……天女か」


 息が出来なかった。その男は月季によく似ている顔立ちで、同じく息を呑んでいる。

 ―――――恋に落ちる。そう思った時には遅かった。蓮華の髪は桃色に戻り、羽衣がふわりと浮いた。言葉のないままの、突然の恋は悪の心を一瞬で染めかえる。浄化されてゆくわ。気持ちがいい。私が私に戻ってゆく喜び。桃色の髪を愛おしそうに撫でる天女に男が近づく。

「私は靑蘭皇太子、李興隆。…そなたを娶りたい。供に宮殿に…」

 言葉が途切れる。目の前の天女は伝承で見た絵姿よりもずっとずっと美しかった。蓮華は言った。

「私は華仙界より追放された身。一千年の業を背負っております故、罪人でございます」

 湖に佇む天女は弱く見えた。その胸にしっかりと抱いている香炉に興隆の眼が止まる。香炉は興隆の感情を即座に読み取り、香しい香気を放って見せた。

「何と言う…雅で気高い香だ…」
「この香炉は感情を吸い、香に変えるもの……私の心を届けてしまいました。でも私は咎人でございます。」
「では毎日ここに来ることとしよう。そなたの罪が少しでも消える事を祈って」

 蓮華は目を見開いた。差し出された手をすぐには取らない蓮華だが、日々心は興隆に惹かれてゆく。

一千年の恋が始まる。丁度その時、靑蘭では凶星期に入るところだったのも知らず蓮華は地上の恋に心躍らせていた。どのみち天に戻るには一千年の時間が必要だ。その頃には紅月季への恋心も収まっているであろうと言い聞かせた。

 ただ愛して欲しかった。拒絶などしない誰かに。愛していると言って欲しかった。

 ―――その後は穏やかに過ぎる。靑蘭の後宮争いは興隆の代を迎えると全くと言って良いほどに止んでしまったが、刃向うものは愛おしい夫のためにすべて消した天女の存在はまだ表舞台には出ない。だが、蓮華が興隆の子供を産んだ辺りから、後宮は俄かに騒がしくなってゆく。太子の地位争いである。蓮華は日々手を黒く染めた。また、そんな煩わしい後宮には夫は近づかなくなるのが通例だ。その夫に振り向いて欲しくて、天女は再び兇刃を振う。争いの種は芽吹く前に自らほじり返し、無に帰す。そうしていつからか蓮華は朱蓮花夫人と呼ばれ、恐れられてゆく。


「民に疫病が流行りだした」

 疫病は天の怒りだと興隆は言う。

「…そなた何とか出来るか、蓮花夫人」
「さしもの私も疫病は…ああ、でも、華仙の中にはそう言った空気を浄化してしまうものもおります。興隆さま、どうか羽衣をお返し下さいませ」

「…未だ不明なのだ。…大人しく後宮にいてくれるか。我が天女」

 蓮華は唇を噛んで頷いた。正妃になるには後ろ盾がなかった天女を、興隆は貴妃として宮殿に迎えて子を為している。だがその子供を後宮の女は殺してしまった。そうしてまた、蓮華は興隆の子を身ごもる。
そして興隆は帝となり、その直後から、興隆の興味は天女を完全に離れた。

 蓮華には理解できなかった。麗しい華仙には、裏切、という感情が分からない。

 その裏には「凶星」という理由もあったのだが、興隆もやがて病に倒れることになった。宮殿の眼が変わらない貴妃に向き始める。


 ―――――凶星だったのだ。あの女の美しさは禍々しいものだ。傍に置けば禍が来る。


そうとは知らない蓮華は一つの答えを出していた。華仙界へ戻り、妙薬を手に入れる事。さすれば興隆の心はまた、自分に還ってくる。

「興隆、興隆…」

 ある夜、病に伏した興隆の元を訪れた蓮華はそっと手を握る。興隆の眼が見開かれた。老いてゆく自分と違い、いつまでも麗しい天女の姿。愛しくも憎くなってきたのはいつからだろうか。興隆の醜い心を知られる前にと遠ざけた。その天女が目の前で嫋やかに笑う。

「私、華仙界に戻りたいの」

 連華がそう言った時だった。興隆は般若のような顔になった。


「おまえはずっと私のものだ…それとも、老いた男など用はないとばかりに、還るのか。そなたが天女だというのを知っているのは私だけだ。天女に種を与えた男も私が初めてであろう。何が不満だ。年老いた私の肉体が気に入らないのか」
「興隆…違う!私、あなたの病気を治す為に」

「そう言っておまえはあの紅月季の元へ戻るのだろうが!…一千年の罰を受けた天女よ。おまえは醜くなったものだ」

 連華の手から香炉が落ちた。

「お願い!羽衣を返して!」

 興隆は冷たく言い放ち、荒々しく口づけを施して、乱暴に天女を奪った。

「我が天女。おまえは永遠に地上から還さぬ。私が死しても…さらばだ、我が天女」

 蓮華は石牢の中でぼんやりと壁を見つめていた。それに、興隆はどうして紅月季の名前を知っていたのだろう――――

 やがて興隆が死んだと聞かされた天女の中で、何かが壊れて行った。

―――私は自由。本懐を遂げてやろう。

それは考えもしなかった自分のもう一つの悪だった。恐るべき力で牢を捻じ曲げ、石牢を破壊した。だが、本当に憎いのは今や後宮から消えた夫を奪った女すべてだ。何としても探し出して、息の根を止めてやる。

 連華の怒りは宮殿を燃やし尽くし、戦禍は瞬く間に広がった。そうして靑蘭を手中にすると、蓮華は自らの足で、蓬莱に向かう。蓮花に報復されることを恐れた正妃金桂花は蓬莱都に逃げ込んでいるのを蓮華は知っていた。

 蓮華は長い時間をかけ、その女を見つけ出した。ただでは殺さない。いつしかまとわりついてくるようになった陰妖がその女の首を絞める。事切れた女の傍の命を奪おうとしたその時、紅蓮の孔雀が蓮華の前を横切り、蓮華はその光で眼をやられてしまう。

 蓬莱都に降り立った時、蓮華はある自分の変化に気が付いた。瞳が真紅に染まっている。麗しかった天女の姿は、今やみすぼらしい捨てられた女性の姿に変わっている。誰も自分が天女だと信じはしないだろう。

 ―――――老いていた。天女には無縁の老いが天罰だった。

 あ…あ…と出る声も老婆のそれで、手は皺だらけになってしまっていた。瞳だけが不気味に爛々と紅月季と同じ色で輝いている。

 過去が過る。蓮華の園で微笑んでいた天女の姿はもうどこにもないのだ。

「……紅月季…っ」

 久方ぶりに見る紅の色。我慢していたものが堰を切るように溢れて行く。心の奥底で紅月季と興隆が交差しては消えてゆく。

 黒く染まった髪を引きずり、天女は蓬莱都を後にした。

その時一羽の黒鳥が目に映る。
 一際大きな陰妖だ。何て美しい翼。蓮華は舌なめずりをした。

…身体を貸すわ。…さあ、いらっしゃい…。

 黒い白鳥はゆっくりと蓮華の中に侵入って来た。興隆と同じ熱さで。身を捩って、その快感を耐えるのも同じ。身体を開かれ、その中央に身震いするほどの快楽をくれたのは興隆だった。抱かれることを知らない天女を穢し、独り冥府に旅立った憎き男。憎しみで身体に満たされる黒蓮華の力が蓮華を黒く染めかえる。

「ならば私は靑蘭を手にいれてやろう。貴方が愛した国など、すべて滅ぼしてやる。ただし、私の手の中でだ。貴方は空から指を咥えていればいい!興隆!」

 靑蘭はやがて復興する。だが、それはすべて天女の陰妖の力であることを知るものは少ない。そうして、天女の香炉と羽衣は永年見つかる事はなく、愛琳の手で黒蓮華には香炉だけが戻る事になったのだ―――――。

 それでも天女は時代の中で、問い続ける。


―――――私が欲しかったものは何…?



 揺ら揺らと魂が宇宙を泳いでいる。元の場所を見つけ、記憶は薄れた。そうして愛琳は目を覚ます。信じられない思いで熊猫娘は口にした。

夢の中で、私、黒蓮華だった――――

ふと隣で微睡んでいた梨艶が目を開ける。

 月が大きい華仙界。愛琳は震えが止まらない指を梨艶の頬に這わせる。その手を逆手で掴んで、梨艶は何度も唇を滑らせた。時折伏せた睫が指の間を擽る。男らしい頬が月光に照らされてかいま見える。愛琳の瞳の震えが落ち着く頃、梨艶はゆっくりと囁いた。

「…明日、蒼杜鵑という仙人を探す。少しでも身体を休めておけ。言っただろう?軍師は最高の状態を維持すると。悪夢で魘されて疲れている場合か。気が済むなら俺に引っ付いて目を閉じろ」
 あくむ。愛琳は目を強く伏せた。


 悪夢なのだろうか。
―――――あれは…と。

梨艶の冷たいままの身体は火照った悪夢を消火するかのように、心地よかった。

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