召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

第三章 華仙界へ

 歩く度、地に薔薇が咲き誇る。愛琳に紅月季とは赤の最高峰の薔薇を指すと梨艶が教えてくれた。紫山茶花が歩いても花は芽吹かない。途中、紅月季がふと愛琳が大切そうに抱いている熊猫に目を止めた。

「熊猫?随分小さいな」
「一緒について来たよ。可愛いでしょ」
「ああ、可愛い。熊猫娘が熊猫を抱いている図はたまらんな…だが」

紅月季は辛抱していたのだがと、薄い光を帯びた眼を切なく煌めかせる。

「何故そいつに抱かせてやらない?」

 びくんと梨艶の肩が震えた。

「その男はさっきから熊猫に触れたくて、いや、以前から笹を持ち歩く程愛おしく眺めているではないか」
「余計な事はいい。それとも、そういう土足で入りこむのが華仙さまの仕事なのか」

 愛琳はまじまじと梨艶を見、ああ!と言うように顔を上げた。

「梨艶、いっつも熊猫みると怖がってた!それって触れたかった自分を知られたくなかったから?」
「違う。熊猫が俺に懐かないんだ。いくら好きでも仕方なく」

 腕にりえんを渡すと、梨艶は目を潤ませて静かになり、紅月季はほっと吐息をついた。

「そいつの心の声が響いてたまらなかったのでね。ここまでで大体の事情は読ませて貰った。黒蓮華め。破天荒ぶりは地上でも尚顕在か。済まなかったな」

 言いながら、紅月季は浮かんだまま、足を組んで見せた。

「ここから黒蓮華の事は見守っていた。ついでに熊猫娘、おまえの罪は重いぞ。なんせ成人男子の唯一の楽しみを奪ったわけだからな」
「唯一だなどと失敬な」

 口を挟んで来た梨艶に向かって紅月季は指をすいっと動かし、何処からか飛んで来た一輪の薔薇が梨艶の額に当たって落ちた。投げた方向を見ずに、紅月季は言い返す。

「俺はこの子と話しているんだ。黙って熊猫と戯れてろ。いじらしいじゃないか、好きなヤツを独占したいって?紫山茶花、なんで華仙界に入れちゃだめなわけ?」

「紅月季さま……見えないわけではないでしょう。この娘の黒い心が」

「見えるが。まぁ可愛らしい欲じゃないか。少女ならむしろ普通だろ。華仙のくせにその根本にある愛情も見抜けないから、いつまでもおまえは紫っ子なんだ」

「違います。見えてないはずがないでしょう?この娘は…」

「紫山茶花。見えていても見えないフリをするものもある」

 紅月季は愛琳を見、優美に微笑んだ。美女でも、男でも、変わらない艶やかな笑みは富貴后さまも、蓮花夫人も持ち合わせていた花開く蕾の笑みだ。

 朱連花夫人―――――。

 人の欲はあそこまで変貌させてしまう程に激しいのだろうか。では欲がなければ幸せか?
梨艶は少なくとも不幸そうだ…。

「…貴方が言うなら、仕方がない。…でもこの娘、羽衣も使えやしない。そんなでどうやって華仙界を渡るんですか。首都大局殿までは遠いですよ」

「俺が連れて行けばいい。…こんなところに少女一人置き去りにするなど、華仙の名折れだ。少し地上で修業する?黒蓮華でも倒してくるか。少しは胆が据わるかもな?」

 滅相もない…と紫山茶花は震えあがった。

「何故僕があの悪女と対面しなきゃいけないんですか」
「悪女、ねえ…俺からしてみれば、白牡丹の方がよほどの悪女だよ。なあ、秀梨艶?」
「何故俺に聞くんだ…」

「おまえが一番よく知っているだろうと思って。まあ、黒蓮華の件は俺にも責任があった。白牡丹はこの際置いておこう。ああ、確かに得体が知れないだろうが、華仙なんてそんなものだ。この世界は表裏一体だ。そしてこの世界はもう終わりかけている。白牡丹は最後の賭けにおまえたちを寄越した。俺の寿命はもうじき終わる。悔い?悔いなどは持ちえない。そうだ、昔、ここは地上に密接していた。靑蘭と芙蓉の闘いは黒蓮華が仕組んだだけではないな。双の香?ああ、確かにある。白牡丹は龍の化身だ―――――もう良いか?」

 聞こうとすると、先に答えを出してくる。思考を読まれてしまうのだ。こっちが言葉にするよりも早く。梨艶の前で、紅月季は綺麗な双眸を更に輝かせた。

「梨艶とやら。おまえの思考はいちいち厄介で多すぎる。しかもまとまりがない。一気に物事を聞いてくるんじゃないよ。今後は全部は答えぬから。さて、娘。飛ぶぞ」

嫌味をしっかりと言って、紅月季は愛琳を抱き、空中に浮かぶ華仙界に身を躍らせた。

「苦しむことも、悲しむことも我らにはない。我らは大気の中にある。地など不要」

 確かに、華仙界は超越していた。入口に僅かに足場があるだけで、あとは霧の中だ。と、同じく世界を見ていた梨艶が呟いた。
 肌に感じる怨念に近いあまり良くない気だ。

「靑蘭と空気が近いな」
「靑蘭は我らの世界に一番近づいているからね…ほぼ靑蘭の民の嘆きだろうよ」

 紫山茶花が寂しそうに言い。愛琳は首を捻った。
どうしてこんなに美しいのに、寂しそうに言うのだろう。空を見上げ、足元に広がるもう一つの空を見下ろした。空は碧いし、花は沸き乱れているし、何より芳香と花香に満たされて、黒いものが少しずつ浄化されていくような冬の朝のような冷たい大気は心地いい。

「こんなに美しい世界なのに?」

 梨艶が愛琳の言葉に反応する。

「どこを見て何を言っているんだ。こんなに悲惨な大気と波動を綺麗とは言えないが」

 ――――何言ってるんだはこっちの台詞ね。

「ああ…入口の記憶が抜けていないのだな」

 紅月季の手が愛琳の眼に当てられた。

「これが本当の華仙界だ」

 愛琳はうっすらと目を開け、すぐに見開いた。眼をぎょろつかせて、何度も周りを見やる。あの色とりどりの花は何処かに消え失せ、枯れた木々が大気を彷徨っている。その上、黒い雲のような靄が辺りで墨のようにとぐろを巻いている。
 紅月季が愛琳を姫のように抱きながら、空中で止まった。こうしている間にも、華は枯れてゆくのがわかる。

「入口の世界は俺が魅せたかつての華仙界の幻だ。嫌だろう?着いて早々こんな風景。本当はこれが現実。人間の憎悪は膨れ上がり、黒蓮華という媒介を使って、こっちまでダイレクトに流れてしまうようになった。我らの祖先はこうなるのを恐れたために、この世界を異次元転送の形にして隠してしまったが、数千年前に、一人の華仙が地上に取り残され、戻らなくなった。その為に浄化できる華仙は生まれず、最後の統治者が俺だ」

 紅月季は静かに世界を瞳に映している。

「この世界ももう滅びる。そうなれば、地上の憎しみや悲しみは行き場をなくす。濾過するはずのこの世界も汚れてしまった……俺もだけれどね」

 何万年の感情を見続けた瞳が愛琳だけを映しているのは、少し哀しくて苦しい。愛琳が梨艶を見つめる。梨艶は静かに受け止めているようだった。

「梨艶、何となく私富貴后さま…いや、白牡丹さまの考え、読めたよ」

―――どうして二人をここに送り届けたのか。知って欲しかったのだ。きっと。この世界を支えていたもう一つの世界を。
 愛琳は紅月季に向かって告げた。

「この世界、救うね!」

 慌てたのは梨艶である。だが愛琳は構わずに続けた。

「私と梨艶がここに来れば何とかなるって白牡丹さまが言ったね。何か方法があるはずなんだ。―――――何か申し訳ないね…」

 あの書状をもしも皇太子さまに届けていれば、少なくとも戦いは終わったかも知れない。そう思うと、胸が苦しくなった。自分が欲にさえ負けないで、あんな香炉を持ち出さなければ、永遠に蓮花夫人は黒蓮華などと名乗らないで済んだのかも。まるで後悔の大水泡だ。また紅月季が先取りして答えを投げてくる。

「蓮花は最初から黒蓮華だった。見せかけの姿で、溢れる力をセーブしていたに過ぎない。地上に降りた際に、ある男に羽衣を奪われ、あろうことか黒蓮華はその男に惚れこんだ。だから華仙界に拒絶された。地上で交わった女華仙など穢れだ。おまえが香炉を渡すように仕組んだのも黒蓮華だ。あの女は策略に長ける。蓮華の花は心の純潔を象徴するが、蓮華は黒蓮華になった時点で華仙の資格を喪失した。熊猫娘が現れなくとも、靑蘭を滅茶苦茶にしたさ」

「羽衣奪われて還れなくなったって言ってたね!」

「そいつは詭弁だ。黒蓮華は還れないのではなく、還らないだけだ。永久にあの男を想い続ける事を選んでいる。そしてその腹いせに今度は国を奪おうとしたのだろう。馬鹿げた話だ。それなら一緒にそいつと添い遂げればいいものを…熊猫娘?」

 愛琳の眼に涙が溢れたのを見つけた紅月季がため息をついた。愛琳はさっきから世界に連動しているようにも見える。確かにこの荒れ模様は女には酷だ。

「大丈夫ね。ただ、悲しさしかない空気に驚いただけね」
「それは重大だな。娘、雪景色は好きか?」
「雪は好き!よく富貴后さまと眺めたよ」

 愛琳の顔が輝いた。愛琳にとって白は憧れの富貴后さまの色だ。それに、世界を綺麗にしてくれる雪景色はむしろ好きな類に入る。

「では」

 紅月季の長い腕が天空に翳された。その刹那、世界は真っ白の雪景色に変わってしまった。想像を絶する世界を操る強大な力。こんな力を持った華仙がもしも人を見捨てたら…。

(いや、見捨てたのだ。彼らは。世界を救え…?何故、見捨てられた俺たちがこの世界に協力する必要がある?)

 梨艶は口には出さず、その思考を素早く消すことにした。紅月季は読んでいるにも関わらず、返答はして来なかった。

 やがて周辺の霧は一層濃くなり、空気が薄くなってくる。華仙たちは構わず宙を泳ぎ、その霧に一行は飛び込む形になった。愛琳は思わず眼を瞑る。肌にピリピリと冷たい空気が刺さるようだ。やがてその霧は晴れ、その向こうに霊峰が見えた。その霊峰の八合目辺りにある黒い建物―――――

「芙蓉国の天壇と同じね!」

 八角形の屋根に黒い漆の柱。あれが赤ければ芙蓉国の象徴、天壇と全く遜色ない建物になる。他の仙人たちがいるにはいるが、全員静かに目を閉じたままだ。

 寝るのが仕事なのだろうか?

「あれは大局殿。華仙界の中心だった」

 ふわりと建物の前に紅月季は降り立つと、「来たまえ」と言い、内部に入ってゆく。

「龍がいるな」

 天井を睨んでいた梨艶が小さく言う。ドーム型の金の天井には大きな光龍が描かれていた。外は深々と粉雪が降っている。愛琳も辺りを見回した。どことなく、芙蓉国と蓬莱に似ている。

「靑蘭の宮殿にも書かれている。黒い龍と白い龍に光龍と呼ばれる大型の龍。それから鳳凰と龍が交尾している図は靑蘭の象徴だ…そこはかとなく酷似していると思わないか?」

「だから言ったでしょう。この世界はかつては貴方たちの世界と共存したと。地上のそう言った類は、全部華仙界が及ぼした影響ですよ。白牡丹も白龍になるでしょう?」

 綺麗な白龍を思い出して、愛琳は頷いた。今もきっと、芙蓉国の空を覆い、国民に耀を贈り続けているのだろう。富貴后さまはきっと大丈夫。思考を読んだ紅月季が人知れず微笑んで見せた。

「さて」

 数段高い階段を飛び越え、紅月季は玉座に座った。龍を背にした姿は統治者なのだろう。長い着物を引きずり玉座に立った紅月季に梨艶が知らず膝をついたので、愛琳も芙蓉国の女官式に両手を合わせ、直立で上半身を倒し、礼をして見せたが、紅月季は片手を振って断り始める。

「あー、いい。そういうの好きじゃないから」
「紅月季さま。仕来りは重要で…」

「先代の天帝はどうだったか知らんがな、俺はかしづかれるのは苦手だ。それに俺に逢いに来た理由は違うだろう。物見遊山にはそぐわない。改めて理由を聞いてやる・話せ」

 立派な椅子の肘掛けは黄金だ。そのぱっくり開いた龍の口元に肘を置き、紅月季はまっすぐに愛琳を見ている。先程からずっと紅月季は愛琳をチラ見しているのだ。

 ―――――何かあたしばっかり見てるよ…。

 不安そうな瞳に気が付いた梨艶が軍師らしい率直な喋りで説明を始めた。

ひとつ、黒蓮華という華仙が自分に呪いをかけた事。香とはいえ、これは一種の呪術のように思える事。ふたつ、靑蘭は華仙ひとりの手に落ちたこと。みっつ、芙蓉国の母、白牡丹の助言により、自分たちは紅月季に逢いに来たこと―――紅月季は黙って聞いていたが、ふと横に立っていた紫山茶花を振り返った。

「双の香か…では黒蓮華は双の香をまだ?」
「恐らくは――――昔はどうであれ、封じるべき邪悪の香炉です」
「おまえも言うね。あれは俺が昔に…」

――――梨艶がたまらずに叫んだ。

「理由はどうでもいい。これ以上靑蘭を破滅に導かせるわけには行かない!…陰妖は蔓延り、人を操作し始めている。蓬莱も、芙蓉も…いや、下手をすれば全世界が黒蓮華の手に堕ちることもあるだろう。それに俺はもっと深刻だ」

 俺にはわかるよ…と愛琳に言って、梨艶は紅月季に向き合った。紅月季が怪訝そうに見ている。

「さっきから思考を閉じている理由はそれか。梨艶。口に出せないならば思考を解放しろ。俺には伝わる。口にはせんと言ったはずだ」

 梨艶は頷いて、目を閉じた。ややして紅月季のため息と「解った」という言葉。梨艶の頬が緩んだ。初めて見る、ほっとしたような顔に愛琳の眼が釘付けになる。甘えた眼。

 ―――――梨艶、安心してる…。

「苦しいんだ。俺の思考は度々邪魔されてしまう。操っているのは愛琳かと思っていた。だが、確信した。愛琳を通して、俺は黒蓮華に操られているんだ」

 指先一つで人の心など。

 そう言ってあの悪女は本当に手に入れたいものを入れられず、一生を地上で朽ち果てるのだろう。紅月季はかつては夫婦だった女性をしばし想った。

 人への愛は止められないのを知っている。軽率だったと後悔を過らせ、噛みしめても。

「梨艶」

 紅月季はようやく言った。

「おまえの香の解決方法を知っている華仙がいる。蒼杜鵑という水辺に生息する華仙の男だ。俺よりも、そいつに聞いた方がいい」
「蒼杜鵑…?」

 呟いたところで、梨艶が目頭を押さえた。眩暈がする。時間の感覚が違うのか、愛琳も眠そうな瞳で梨艶を見つめた。気が付いた紫山茶花がゆっくりと二人の肩を優しく抑える。

「ここの時間はゆっくりと流れます。―――――今日は休んだ方がいいでしょう」

紫山茶花の言葉は正しいようだった。でも…と性懲りもなく、梨艶が食い下がろうとする。梨艶が本音を口にするのは珍しい。縋り付いているようにも見える。

「しつこい男はモテないぜ?…ったく」

 紅月季は壁の一端を指し、指を動かした。瞬く間に室内に大量の水が溢れ、大きな水溜まりになり、それはピンと水面を張って、巨大な鏡になる。その大きな水鏡の反射する光が愛琳を照らす。巨大な水鏡だった。

「気になるようなら、その水鏡で地上でも眺めていればいい。ただし、その水鏡を見られるのは華仙の血を引くものだけだ。熊猫娘、おまえにはただの鏡にしか見えないだろうが我慢してくれ」

「いいよ。髪を直すのに使うね。梨艶、梨艶だけ見ればよろし。心配なんでしょ?あたし、あっちに行ってるね」

 梨艶の手が愛琳を掴んだ。愛琳は首を振る。

「梨艶、私といても感情ない事に苦しんでるね。…梨艶は優しい。だから苦しむね。でも、私はそんな梨艶の事、わかってるよ。だから一人で熊猫と遊んでるのが一番よ」
「傍にいろ」
「いたら梨艶が苦しいんでしょ」
「構わないから。――――今必死で思い出してる。おまえの感触…」

 言うと梨艶は目を閉じた。手を少し動かして、夢うつつに喋り出す。

「頭には浮かぶ。愛琳の暖かさ、乳の柔らかさ…素晴らしい弾力に肌触り…それを現実に出来ないのが辛いだけだ。例えおまえを抱いても、俺は満足というものには程遠いのだろう。それだけで黒蓮華を許せなくなる。俺の楽しみを奪った…」

 聞いていた紫山茶花がちらりと紅月季を見た。梨艶のこういう部分は主にそっくりだ。

「なに?紫っ子」
「紫山茶花です」

紅月季は相変わらず余裕の笑みを浮かべるだけだったが。

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