召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

第二章靑蘭の軍師 梨艶⑤

 ―――――、梨艶。足元緩いよ気を付けて。
 いつかと逆に、愛琳が宮殿を抜けたところから先導して歩いている。途中「待った待った」とばかりにりえんも着いて来て、愛琳と梨艶は禁止区域とされる林の前に辿りついた。
 だがどう見ても…。
「ここが華仙界への入り口?……ただの林ね」
「…いや、何か恐ろしい力を感じるが…そうだ、靑蘭のあの断崖絶壁と同じなんだ…」
「富貴后さまの伝言です。これを渡し、華仙界へ行き、紅月季を探せと…」
「紅月季…そいつに逢えという事だな」
 わかった、と梨艶が呟いた。やがて陸冴は一歩下がり、合掌して見せた。
「どうした」
「俺はこの先へは行けません。愛琳はともかく、国家に禁止区域と定められたこの先に、銀龍楼閣の宦官の俺が入れば処罰されます」
「そうか」
 陸冴が静かに梨艶を見つめる。梨艶には分かっているのだろう。自分の感情…。
「そこの注意散漫女官を頼みます。軍師殿。貴方がいなくなれば、後宮の貴妃たちも静かになるでしょうからね。天女の血筋とは誠恐ろしいものだ」
「騒がせて済まなかった。何等かの謝罪はしよう」
 頷いた陸冴が空を見上げた。雪化粧のようになった空には、富貴后の力が渦を巻いている。梨艶はふっと目を伏せた。すべては策略のまま…か?―――――誠、天女とは恐ろしい。母上。あなたは特に。
「おい、女官…結い直してやる。全くいつまで幼児の髪型を気に入ってるんだか」
「最初陸冴がやってくれてからだよ!」
 ―――――それが聞きたかったよ。愛琳。
 陸冴は髪を揺らすと、解れかけた愛琳の熊猫頭をくるくると修正して見せた。そもそも最初に陸冴が考えた結び方を愛琳はずっと気に入っていたのだ。
「軍師のいう事を聞いて、暴走しないように。…俺のあげた御守りはどうした」
 薙刀の先についていた御守りは梨艶に奪われたままである。愛琳は俯いた。
「靑蘭で失くしたよ……」
「俺の睾丸の欠片が入っていたのにか?」
「そんなもん渡すな!」
「宦官にとっての御守りだよ。そんなものとは失礼な。…仕方がない。もう一つ」
「いらない」
「俺が受け取ろう」
 は?と愛琳が梨艶を疑う。だが陸冴は自分の剣につけていたガラス玉を無言で渡した。
「これで謝礼にさせてくれ。おまえの気持ちは受け取った。愛琳、薙刀を出せ」
 梨艶は震える手で愛琳の薙刀にそれをつけてやった。
「さて。モタモタしていると、富貴后さまが大きな口を開けて炎を吐いてくるぞ」
「有り得る話だ。…愛琳、行くぞ」
 愛琳はちらっと陸冴に目をやると、深く頭を下げた。その頃にはもう宦官は背中を向けてしまい、伝わらなかったかも知れない。
「後宮、頼むね!陸冴」
 その答えにヒラヒラと手を振って、宦官の姿は消えた。涙が毀れそうになる。
「女官は泣かないのだろう?…行くぞ。その男の心を無駄にするな。一生持っているんだな。俺からも願う」
天女の血か、梨艶には宦官の気持ちが読めてしまった。愛琳を男のモノで傷をつけることも、汚すことも嫌だから。愛することを捨てても、心一つで護ってゆくべきだと考えたから、捨てたと。男を捨て、尽す程のおそるべき愛は自分にはない。だから愛琳に持たせてやりたかった。
 梨艶は(様々な愛があるものだな…)と心で呟いた。
 では俺の愛は…そう聞かれるとまだ答えは出せない。心は封じられ、岩のように凝り固まっているのが分かるから。

 国ほどもあると思われた未開の林に潜り込んで、一時間が過ぎる。暗い林を二人は切り進んでゆくしかなかった。先頭の愛琳が無造作に薙刀で枝を切り飛ばすのを梨艶は刀で叩き落として歩みをすすめる。と、愛琳が突然動けなくなった。
「愛琳?」
 小柄な背中が硬直している。もしやあれか、と梨艶は唇を歪めた。
「蛙でもいたか。教えろ。俺はそこを見ずに進むように進路を取る」
「…………梨艶。ないの…」
「ない?」
「なにも…ない…」
 愛琳の背中はぴくりとも動かない。梨艶も続いて、愛琳の横に並ぶと同じく周辺に目をやって…その眼窩に広がる世界に絶句するしかなかった。
空間が途切れている。
真っ白の空間が林の先を埋め尽くしていた。つまり、一切の世界がないのである。底も上もない無の空間がそこに在るだけだった。
白い無。―――――静寂を超えた、無。黒の闇までも喪った、無だ。
「空間自体が消失しているのだ…恐るべき力が充満している…」
 ふと、愛琳が梨艶が持っているものに興味を示した。透き通る、イカの刺身のような…水晶のような不思議なもの。見えなかったそれがようやくうっすらと見えた。
「それなあに?」
「あ、ああ…富貴后から預かったそうだ。…しかし凄いな。こんな場所、翼でもないと飛べないぞ」
 愛琳がぴん、と顔を上げた。
「それ貸すね!」
 愛琳は梨艶からそれを奪い取ると、指先で広げて見せた。不思議な感覚だ。無数の糸が立体的に絡まり、空中に浮いている。それはふよふよと愛琳を取り巻いた。
「これ、きっと羽衣ね。天女さまが使ったものよ。きっとこうして纏えば飛べるよ!」
「愛琳!」
 ふわり…と行くはずの身体はずるりとすべり、危うく愛琳は無の中に落ちそうになった。梨艶が慌ててその腰を抱き上げなければ、まっさかさまに落ちて消えていただろう。なるほど、注意力散漫女官、の言葉は愛琳のためにあると梨艶は陸冴の言葉を噛みしめた。
「面倒を増やすな」
「あ、危な…何で?これ、羽衣じゃないの?透き通ってるし」
「さあ、母上の下着か何かじゃないか」
「そんなはずないね!今度は梨艶が纏うね!」
 梨艶の顔から血の気が引いてゆく。もしも母上の下着だったら笑い話にもならない。何故、こんな敵国で、こんな茶番…と言いかけた口が自然に閉じられる。いつでも一生懸命な熊猫娘をこれ以上無碍には出来ない。それに宦官の心意気を重ねて、梨艶は嘆息した。
「…一度だけだ」
 梨艶はぶつぶつ言いながら(文句の多い男である)その不思議な物体を身体に浮かばせた。大の男の姿ではない。だが、その時梨艶は確かに羽衣が光るのを目の当たりにした。
その羽衣は意志を持ったように硬くなり、柔らかかった感触は今やどこにもなく、翼のように広がってゆくのだ。
 ―――引きずられる!
「愛琳、手!」
 それだけ言うのがやっとだった。まるで飛翔するのが役目とばかりに羽衣は真上、真上に上昇して行こうとする。身体が切り裂かれそうに痛い。空圧だ。掴んだ愛琳の腕を引き上げて、何とか抱きかかえることに成功する。鎌鼬のような風が梨艶の腕を切り裂いた。
「く…」
「凄い勢いね!まだ上るよ」
 吸い込まれるような、空に堕ちるような不思議な感覚の後、それはふわりと風に戦いだ。
 ――――――どこまで登るのだろう。
 足場がない。愛琳を抱きとめた腕がぶるぶると震えはじめる。もしもこの手が緩んだら、愛琳はまっさかさまに落ちてしまう。重い、重い大切なものの重さ。
「もう少し、強く掴まれ!」
 絶対に落とすものか、と梨艶の腕が強くなる。力一杯愛琳を抱きしめて、燕のように風を切り裂いて進む。この白い空間はどこまでも続くと思われた。一際強い突風が吹き、上昇は止まる。もう気流がない。無の空間はどこまでも続き、足場もない。落ちれば奈落。
―――ここまでか…。
 その時身体が空圧を切り裂き、持ち上げられた。目の前を大きな白龍が横切り、その風は再び羽衣を奮い立たせる。
「母上!」
 上空にいた白龍が思い切り尻尾で梨艶と愛琳を弾き飛ばしたのだ。
 その姿もどんどん遠くなってゆく前で、またふわりと羽衣が形状を変え、大きく羽ばたいた。光の洪水が襲ってくる。目が妬き切れる…ザアアと光が降り注いで、梨艶は眼を凝らした。光が溢れている。
「愛琳、どうやら無の終わりだ」
「もの凄い光ね!」
 光の洪水が心身を貫くような勢いで霧散してゆく。梨艶は愛琳の頭を腕にくぐらせるように強く抱きしめ、愛琳はきつく瞼を閉じる。伏せてもわかる光度。その一瞬の突風。の後。

凪。
ゆっくりと揺れる草木が目に入った。風が止んでいる。なんと穏やかな世界だろう?
「愛琳、見て見ろ」
さあああ…柔らかい風と華の香り。梨艶は目を細めて空を見上げた。
太陽は白く、月のように輝く世界。
「梨艶、とっても綺麗!」
 ―――――一面の花の香りに抱きしめていた腕からまず熊猫が飛び降りた。ふわりふわりと羽衣は戦ぎ、また元の糸のような形状に戻ってゆく。腕から抜け出した愛琳がとっくに地面を踏みしめている。その横に梨艶も静かに降り立った。
 どこまでも続いている花畑の絨毯だ。あまやかな香りが鼻をくすぐる。その中央で愛琳がくるりと廻って薙刀を手に振り返った。
 桃源郷だ。天女たちの、華仙人たちの織り成す世界。確かにあったのだ…と梨艶は驚愕したまま辺りを見回した。
「凄いね、こんなに花が咲いているの見た事ないよ!やっぱりあれ、羽衣だったね。でも何で私の時は使えなかったのかな」
「俺の中の白牡丹の血だ。俺は間違いなく華仙の血を引いているようだな」
 紫の霧のような空気の中で、梨艶が足を止めた。切り立った霊峰は時が止まったかのように静かに聳えている。争いも憎しみもない世界。かつては地上に存在した華仙界。
 厳かに、時に埋もれながら、時代を眺め、戦ぎ続ける、最後の桃源郷。驚きで動けない梨艶は更にあるものを見つけて身体を硬直させた。一匹の熊猫が歩いてくるではないか。しかもデカい。
「熊猫~っ♪」
 ぎょ、と熊猫が飛び上がった。愛琳とりえんが追いかけ回し始めた。梨艶はうずうずと手を震わせている。
 ―――――何故こんなところに熊猫?…辛抱しているというのに…。
「や、やめぬか!」
 声がして、ボフンと弾ける音が響く。白煙がもくもくと上がったその先には、紫色の髪を束ねた小柄な少年が呆れた素振りで、浮かんでいた。
「何て人間だ。熊猫は聖なる生き物。それを追いかけ回すとは!我は紫山茶花。この世界の番人を引き受けている。何故人間が」
「……羽衣とやらが勝手に飛翔しただけだ」
「死んだ羽衣を生き返らせるほどの人間がまだいたとは。何しにここへ来た」
「紅月季という人を探している。さる人より逢うように言付かった」
 梨艶はしっかりと白牡丹の伝言を記憶している。そうだった…と愛琳は手を打った。
「……誰から聞いた」
「母…いや、白牡丹から」
「くるがいい。ここからは地面は一切ない。羽衣は持っているな」
 紫山茶花が腕を振うと、霞が晴れた。そこはあの真白い空間と同じで、梨艶はまたしぶしぶ羽衣を取り出したところで、紫山茶花の手から紫の刃が現れた。それはピタリと愛琳に向けられ、そのまま紫山茶花は厳しい声音で言った。
「そこの娘。おまえは華仙界には入れない。…心が黒い。黒蓮華に膨らまされた欲望を捨てない限り一歩もここから入らせない」
 ―――――え?
 愛琳がびくりと足を震わせる。
「黒蓮華に膨らまされた欲望…?私、もう梨艶を独占とか考えてな」
「それでも、この紫山茶花の眼は千里眼だ。娘、腹の底のどす黒いものを追い出せ。何万年かかるか知れぬがな。何か悲願を持ってここに来たな。負の想いは自身を滅ぼすよ」
 …思い当たるのは一つしかなかった。
「お母さんの…仇を討つなという事…?」
 紫山茶花は名前を現すかのような紫の眼を闇色に光らせた。
「羽衣が作用しなかったのは、そのせいだ。ここは最後の桃源郷。母の仇を狙っている殺生を抱え続ける小娘など、受け入れるわけには行かない。さあどうしようか」
「おい!」
「規則ですよ。梨艶殿。――――大人しく待つか、飛び降りるか、どちらが良いか」
 ――――ここまで来たのに!
 追い詰められて、愛琳は唇を噛みしめた。確かに、自分は母の仇を討とうと生きてきた。それが黒い心と言うなら、仕方がない。それでも、私にだって矜持はあるんだ。
「梨艶、私ここで待つよ。…待ってるから」
「愛琳…」
 愛琳は平気な素振りで背中を伸ばして、空を見上げた。
「仙人さんに止められてしまったよ。…待つしかないね。どうせ腹は真っ黒ね。それでいいんでしょ」
 その言葉を聞きもしないで、紫山茶花は冷酷に言った。
「地上の汚れた殺害心を持った人間はこの世界を蝕む。寿命間近の紅月季様に合わせるわけには行かない」
「うん、わかったよ」
「では、申し訳ないが拘束させてもらうぞ」
 愛琳に紫山茶花は蔦を巻き付け、逃げようとすればおまえを締め付ける、と言い残して空を泳ぐ。すぐに梨艶もついていった。

「あたし心が黒いんだって…知らなかったよ」
 残った愛琳はやはり残されたりえんを抱き上げて、世界を見回した。とても美しい世界。なのに自分だけは弾かれた。美しいものの仲間には入れなかった。美しいって何…と愛琳は呟き、気を取り直してもう一度世界を見回した。
「綺麗過ぎて胸が苦しいよ」
「ほう、この世界が綺麗に見えるか?」
 声がして、愛琳は振り返った。だがそこには紫の山茶花が咲き乱れているだけだ。
「違う違う、こっちこっち」
 くすくす笑う女性の声。頭上から降っている事に気が付くと、愛琳は首を上に向けて、遥か上空に浮かんでいる女性の姿を見つけた。
「良くできました~」
 一段と大きな白い羽衣を容易く操り、女性はふわりと愛琳の視線が届く高さまで降りて来た。紅色の髪が長く揺れている。優しい垂れ目。美しい女性の姿に愛琳の眼が釘付けになった。紅の髪に麗しい笑顔……緩やかな雰囲気と気高い芳香。恐る恐る愛琳が聞き返す。
「もしかして…こうしんばら、…さま?」
「えっと…ああ、分かったわ!愛琳ね」
「あ、あの…」
「ずっと水鏡で見ていたわよ。置いてきぼりを食らってるとこから。許してやってね、紫山茶花ってホント神経質なの。酷いわよね。そんな蔦でぐるぐる巻き?…可哀想だから外してあげるわ。あら、凄い勢いで帰って来ちゃったわね」
 紅月季は朗らかに言うと、髪をかきあげた。紅の色の髪に薄い灰色の瞳。真っ白の肌。まるで人形のように美しい。
「紅月季さま!何をウロウロなさって…っ」
「大丈夫よ、そんなに慌てなくても。寿命と言ってもそんなにすぐに消えるわけじゃないもの」
「寿命?」
 愛琳の言葉に、紅月季は「そう、私、もうすぐ消えるの」と笑顔で答えて見せた。
「消えるって…」
 紅月季の名前を持つ女性はその名の通り、薔薇のような唇をほんのりと開いた。ごきゅ、と隣で梨艶が鍔を飲み込んでいる。その美女こそが世界を総べる統治者である。
 紫山茶花が唇を曲げた。
「いえ、僕が言っているのは、その悪ふざけを止めろという話ですよ」
 紫山茶花が窘めるように紅月季にやんわりとだが忠告し始めた。紅月季はかりかりと頭を掻くと、ため息をついた。
「相変わらずアッタマ硬ェよな…紫っ子は」
「紫山茶花です」
 にっこり笑った顔に青筋を浮かばせて、それでも紫山茶花は笑っている。梨艶と同じタイプだ。怒りながら笑えるタイプ。つくづく器用だなと思う。
 紅月季はふっと笑うと、長い手足を伸ばし、目を伏せる。ふくよかな胸は力強いそれに代わり、縊れた腰は男性特有の太い股に変化した。声も高いが、少し抑えたような掠れ声を伴って長く響くようになっていた。
「おら、これでいいんだろう?…女の姿の方が艶やかで好きなんだがな…」
 ―――――お、男の人になった!
 紅の髪は相変わらずだが、紅月季という美女は背の高い男性の姿に戻って、改めて、と口端を上げて見せ、麗しい声を響かせた。
「俺が華仙界の統治者、紅月季だ。歓迎いたすぞ、ゆるりとまいれ」


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