召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

第二章靑蘭の軍師 梨艶④

 靑蘭の芙蓉国への進軍の知らせが飛び込んだのは、一日前だ。靑蘭の関所に様子を見に行かせた隋者が宝珠関洞にて無残に殺されたことから、芙蓉国及び宮殿は一気に緊張に包まれている。武官という武官は天壇周辺と市井の警護の一斉配置につき、富貴后の元、貴妃たちの管理も厳重に為され始めた。口さがなく、「あの愛琳が戻って来てからよね」などと言った噂話に尾ひれが付き、後宮は別の意味で緊張を増している。
 梨艶を手に入れた愛琳への女たちの嫉妬も手伝って、芙蓉の平和は見せかけのように崩壊し兼ねない雰囲気だ。全く天女は国を傾けると言うが、言い得て妙でならない。
 富貴后は時期尚早の言葉を打消し、決意を固めざるを得なかった。まだ早い。だが、ここにいれば恐らく黒蓮華の手が伸びるだろう。
 あの女華仙は心を壊す術に長けているのだ。既に陰妖は貴妃の心をまずは狙った。貴妃という女ほど、心に欲を構えているものはいないと、黒蓮華は知っているのだ。
 皇帝の寵愛を願う欲に、愛琳への嫉妬。冷たい梨艶への憎しみ。それだけで宮殿は砂上の楼閣だった。
 ―――――一刻も早く、あの二人を逃がさなければならないな。間違って殺されるような事があれば、すべて終わってしまう―――。
 富貴后は一人の宦官を呼んだ。
「陸冴はいるか」
「ここにおりますれば」
 恐らく一番の愛琳の味方であろう陸冴―――富貴后は彼を見、顔を背けた。
「おまえは愛琳のために命をかけられると、宦官手術の際に言うたな。おまえのその意志を見せて貰おう。愛琳は梨艶に恋をしているが、それでもその気持ちは変わらぬな?」
「私は宦官ですから、色恋には無縁でございます」
「おまえ自身は変わらぬ。宦官でも、愛おしい気持ちはあるのであろう?…見よ。靑蘭の陰妖は人の欲に憑りつく。おまえの心奥に隠した愛琳への憧れが誠かどうかの良い判断だ。まやかしか、遊戯か…」
「遊戯なんぞで男を捨てたりなぞしません。俺は男として、彼女を傷つけないために宦官になったのです。富貴后さま、どうか御戯れはこの程度に。俺は正常です。陰妖など跳ね返してやりました」
 結構、と富貴后は頷いた。
「では今から梨艶と愛琳を異世界の華仙界へ逃がすその手助けをせよ。おまえにのみ、私の本当の姿を見せよう」
 富貴后は言うと、目を閉じた。陸冴の前で、麗しい黒髪は白髪に、瞳は淡い金の色にゆっくりと変わってゆく。月光を更に輝かせた白光の中で、一輪の牡丹がゆっくりと華咲く瞬間を陸冴は確かに見た。その眩い白光で、天女が目を伏せ、吐露して見せる。
「わたしは華仙人白牡丹。数千年前に地上に残された天女だ。陸冴、手を差し出せ」
 白牡丹は指で自身の羽衣を引きはがすと、陸冴の手にふわりと乗せた。それにしても何と美しい…陸冴は思わず見とれてしまう。ひれ伏したくなる天恍の輝きを纏って、富貴后は牡丹のような大柄で艶やかな笑みで頷いた。
「確かにお預かりいたしましたが」
「やはり…おまえには見えるか。ほんに心が美しい男よ。それを梨艶と愛琳に渡すのだ。そして伝えて欲しい。そなたたちは華仙界の統治者、紅月季を探せと。世界を総べる紅月季に逢えれば何とかなろう。ただ、一つの時代が終わる時、また華仙界も揺れ動く。常に人間界と表裏一体だ。そしてこの地は死しても護る。安心して旅立てと」
「富貴后さまはどうなさるのです?」
わたしか?と大波が波打つような富貴后の髪が一際大きく揺れた。
「言ったであろう?死してもこの国は護ると。陰妖がこの国に来る。黒蓮華の思い通りにさせぬよう、私はここに生きている。それに、一番に陰妖に食われそうな欲深い愛しい夫のそばを離れるわけにはいかぬよ。私は国母だ」
 富貴后の姿がふわりと溶けた。輪郭を失くしてゆく白光の中で、優雅な声が響く。
―――私は白龍となり、結界と同化する。でないと芙蓉国のすべてが陰妖にやられてしまう。陸冴、場所はそなたと愛琳が幼少にこっそり入りこんで、私にシリを叩かれた、あの禁止区域。良いな―――……
「富貴后さま!」
―――もはやこの芙蓉国銀龍楼閣の中で、正気なのはおまえだけよ――
 陸冴に最期富貴后は囁いて天に消えた。
 結ばれることを願わない愛情。それも確かに愛情だ。欲を超えたそんな捨身の愛情だけが、陰妖を退けたのだ。陸冴は唇を噛みしめた。だがそれは悔しさと言うよりも、誇らしさの武者震いのようなものだったかも知れない。

―――――ああ悔しい。女官に負けた。梨艶さまがこっちを見てくれない。ああ、悔しい。私の纏足を褒めてくれない。あんな小娘に貴妃たる私が負けるなんて。梨艶が欲しい。美しくて、強い男。愛されたい。愛されたいの。

言寄った貴妃の眼の中に何百もの陰妖の尾を見つける。
「すまぬな。一瞬で終わらせるから痛みはない」
 梨艶は一言短く言い、刀を抜いたところだった。腹を剣の柄で強く殴ると、貴妃は声なく倒れ、口から黒い蒸気が吐き出されて行く。梨艶はそれを斬った後で剣を鞘に収め、蹲ったままの女官に振り返った。
「大丈夫か、愛琳」
「…大丈夫」
 廊下でいきなり襲いかかられた上、薙刀を振るわなければならなかった愛琳はさすがに言葉を出せない。優しかった貴妃たちが牙を剝き始め、愛琳はどうしていいかわからなくなった。
「陰妖の仕業だ。おまえへの憎しみとは違う。むしろ俺だ。あまりにしつこいので皮肉で追い払った貴妃だった」
「違うね。私が梨艶梨艶言うから。独り占めした気になってたからね」
「何がいけない。…俺はおまえのものだろう」
 あー、いや。梨艶は言葉を止めると、再び剣を構えた。キリがない。つまらぬ事で争いは其処彼処で起こっている。今の諍いもそうだった。
「胸騒ぎがするよ。梨艶」
ふくよかな愛琳の胸が僅かに揺れている。その時、天から白光が差し込んで、争っていた人間たちはピタリと動きを止めた。
「母上の感じがした…何故だ…何故天から…」
 空を睨んだ梨艶が呟く。愛琳がもしやと足を富貴后のいるはずの楼閣に向ける。胸騒ぎがしたのは――――
「どこにいくんだ、注意力散漫女官」
「陸冴…」
「富貴后さまならいないぞ。俺は富貴后さまの伝言を伝えるためにここにいた」
 ―――――伝言…?
 宦官を締め上げるようにして、叫んだ。
「またそうやって宦官のくせに脅すのやめるね!陸冴!本当に捻じ曲がった男ね!」
「ふん…そこの軍師はわかったようだが?」
 梨艶は相変わらず静かな眼をして、陸冴の掲げた手の上に視線を落した。
「何を持っている。宦官殿」
 愛琳にはさっぱり見えない。何をフザけているのだろうと宦官の両手の間に腕を刺し込む。すいと手が降りた。何もないではないか。からかっている。こんな時までも。
「梨艶、この宦官、人をよく馬鹿にするね。相手にしなくていい」
「―――――見えないのか?」
 目の前で、梨艶が同じように腕を差し出した。陸冴から何かを受け取っているように見える。動作だけだけど。
「富貴后さまは天に還られた…俺は陰妖にはやられなかったので、預かったまでだ。来い、華仙界の入り口まで案内するように仰せつかっている」
「愛琳?」
「富貴后さま、どこね。陸冴!」
 薙刀を構えた愛琳がいつもいるはずの寝椅子の天蓋をそれで空ける。
 ―――――どこにも、いない。
 富貴后さま…どこにもいない?
「富貴后さま!かくれんぼやめるね!子供じゃないよ、私」
「愛琳!」
「富貴后さま!」
 愛琳は両手を梨艶に捕まれても、髪を振り乱して叫んだ。その両の瞳が僅かに震えているのを見た梨艶が愛琳をその腕に抱きしめる。
「母上は……天にいる」
「天…」
 ―――――私は華仙人だ。
 愛琳の熊猫頭が左右に振られ始めた。
「嘘だよ!私に何も言わないでいなくなるはずない!ずっとずっと可愛がってくれたね!私、富貴后さまがいなかったら生きてない…ずっと大切にしてくれた。育てて、咲かせてくれたのは富貴后さまね!」
「俺を見ろ」
 混乱して宙を泳いだ愛琳の眼が梨艶に止まった。梨艶はまたぶっきらぼうに続ける。
「俺を見ていろ。いいか?あの母上が簡単に消えるか。でなかったら俺を捨ててまで守ったこの国をとうに滅ぼす。愛琳、おまえの傍にはこれからは俺がいる。だから、母上は消えたのだろう」
「梨艶…でも」
「華仙界に行こう――その桃源郷でおまえを貰うのも悪くない」
 聞いていた陸冴がふっと笑った。富貴后さまにやはり似ている。この方はまごうかたなき息子なのだろう。そして、愛する愛琳を護ってくれる――――…
「と、桃源郷で貰うって!梨艶!あなたどこまで好色ね!」
「言い間違えたな。桃源郷で、本当の桃源郷へ連れてゆく…が相応しい」
 愛琳は言い返そうとして、言葉を無くしてしまった。
 ―――――ほほ、そのころの少年なんてやりたい盛りよ。
 何故か過去の富貴后さまの言葉がとても懐かしい。ぐしっと目元を擦った愛琳に梨艶の唇がそっと乗せられた。それでようやく愛琳は笑顔になって頭上の龍を振り仰いだ。
 大きな龍が空を泳いでいる。まるで護るかのように。人々に希望を失くさせないために。
 泣いてる場合じゃない。愛琳は頷いた。
「では案内させて貰おう。軍師、愛琳、警護は任せる。禁止区域には相当強い陰妖が入りこんだ可能性がある。愛琳、場所は覚えているな?俺とおまえが入りこんで、二人並んでおしりをたたかれた、あの場所だ」
 う…と愛琳はおしりを撫でて、「撫でるなら俺が」という梨艶の手を振り払うと、頷いた。

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