召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

第一章芙蓉国の女官⑪ 芙蓉国への路


 その後は覚えていない。ばしゃんという最初の水飛沫で愛琳は気を失って、その愛琳を抱えたまま、梨艶は滝壺に飛び込んだ。計算通りに見つけた水中の横穴を通って、地下洞窟に辿りつくその途中で愛琳は気丈にも目を覚ましたのだった。

 大きな空洞だ。天井が高い。驚いている愛琳の前で梨艶は上着を脱いだ。愛琳の上着も脱がせて、僅かに透けた胸をしばし眺める。やはりあの狂おしいほどの昂りはない。

「昔、貴妃たちの嫌がらせで落されたことがあったのでね。ところで愛琳」
「私は平気ね。でもその服はお気に入りだから持って行くよ」
「いや、そうではなく、預かった書状がな」

胸元からぐっしょり群れた和紙が千切れて出てきた。

「なんて事するね! 書状!!」

「生きるか死ぬかだったのだ。そんな紙切れ。それに内容は読んだ。皇太子には俺が口頭伝達してやる。生きて戻れればの話だが。俺が責任を持って伝えてやろう」
「約束するね?」
「ああ。おまえを追い詰めた詫びだ」

 梨艶はさて、と愛琳の髪を抓み、元通りのダンゴ頭に結び直した。後でまた難しそうな顔をして、愛琳の胸に手を伸ばす。ぴしゃりと愛琳がその手を叩いた。

「だから! 何でさっきからそればっかり! そもそも貴方、私じゃなくって胸見てる!」

「かつての俺はお前の胸を見るたびに自分を抑えるのに苦心惨憺したものだ。悔しいが、その感動は消え失せた。ならばこうも静かにお前に触れ続ける機会などもう訪れまいと思い直した。好きなだけ見て、触れることも可能だろう?軍師は機会を逃さない」

 愛琳はぽかんと口を開けてしまった。靑蘭で、いや、この地球で梨艶ほど男な性質を持つものはいないのではないだろうか。それを素直に言うのだから、更に性質が悪すぎる。でも、それを嬉しいと思う自分も同じく性質が悪いのかもと愛琳は言葉を呑みこんだ。

「これからどうしよ」

 梨艶は目を細めて、横穴を睨んだ。

「おそらくはこの横穴は芙蓉国に続く。お前はこの通路を通って国に戻れ。書状は敵国に奪われて逃げてきたと言えば良いだろう。そして靑蘭などに関わらず、平和に生きてゆけ」

「やだよ。そんなの」

 愛琳は続けた。

「梨艶とやっと逢えた。なのに簡単に離れるのは嫌。あなたあたしに逢いたかったって言った。あたしもあなたに逢いたかったって言った。なのに離れる理由、どこにある」

「俺はおまえといても、感情が塞がれているんだ。いくらおまえが俺を好きだと言っても、反応しない男なんぞ、置いて行けばいい。どうせ何も出来やしない」

 梨艶の口調の方が子供っぽい。愛琳はにっこり笑った。それなら簡単だ。梨艶の失った分まで、自分がドキドキしたらいい。愛琳はいつもの調子で続けた。

「私、梨艶の分までどきどきすることにするよ。梨艶が出来ない事、いっぱいやる。いっぱい私にときめくよ」

 愛琳は両手で梨艶の大きな手を包み込んだ。

「だからお願い、一緒に芙蓉国まで逃げよう」

「戻る」
「梨艶!あなた相当な分からず屋ね!」

 梨艶はきつく言い返した。

「分からず屋で結構! 俺は芙蓉国だけは世話になどならない! それに、靑蘭に残して来たものたちも気がかりだ。蓮花、いや、黒蓮華は人の心に付け込む術を持っているのだろう」
「うん。凄いネチネチと頭に染み付く。抗えないの」
「華仙の中には不思議な力を持つものも多いと聞く。まさか蓮花夫人がその仙人だとは」

 その言葉は愛琳も同感だ。蓮花夫人は優しかった。だからこそ、あの黒蓮華が蓮花だと信じられなかったのだ。本人が言った以上、真実なのだろうが、信じられなかった。
 凄まじい力だった。そしてあの、一瞬で彼女は宮殿全体を掌握してしまった。

「梨艶、華仙って何?」

「遥か昔に地上にいた仙人たちの事だ。人で在りながら、人間でない超越した人に非ざるものと伝記には残っているな。しかし蓮花夫人が華仙だとすれば、永年靑蘭にいたことになる。靑蘭の歴史は今年で千年。気が遠くなりそうな時間だ」

 その間に黒蓮華は様々な術を身につけたのだ。愛琳は何も悪くない。天女の香を持ち出すほどに苛めた自分に猛省すべきだろうと梨艶は考え、しぶしぶ足を空洞の奥に向けた。泳いで戻ろうにも、あの断崖は登れない。蓬莱で引き返しても、関所は封鎖されているだろう。そして国境の兵は蓮花に操られて戻ってくる。勝ち目はない。

 梨艶は大きな手で愛琳の頭を撫でた。

「芙蓉国まで通じているか分からない。進むしかなさそうだ。水の音がする。何かが来る」

 もしかすると水妖か? と梨艶が剣を抜いた。愛琳も薙刀を構えて、背中合わせになる。その形態を見た愛琳が驚嘆した。緑色の水妖。河童だ。河童が群れとなってこの空洞を目指している。

「そうか。ここは河童たちの住処か。飛び込んだから怒っているのだろう。カエルでなきゃいい。俺はカエルが大嫌いだ」

「奇遇ね!私もアレ嫌い。びょんびょん跳ねてウザいね」
「愛琳、河童は頭を叩け。静かになるはずだ」

 派手な水飛沫に隠れて、深緑の水妖が姿を現した。二人は武器を振って追い払ったが、数が多すぎる。と、愛琳が泉に飛び込んだ。

「熊猫…っ!」

 梨艶の動きが止まる。河童が襲いかかろうとして、愛琳の投げた薙刀に吹き飛ばされて水面に落ちた。

「何ぼけっとしてるね! 貴方熊猫嫌いだったね。…でもどこから…」

 きゅい、と不思議そうに見下ろす愛琳に子熊猫は嬉しそうに鳴いた。

***


――靑蘭首都揺籃。
 今や宮殿はすべて蓮花の放つ陰妖に覆われて為すがままになっていた。宮殿すべては黒蓮華の陰妖に冒されてゆこうとしていた。

「滅べ、殺し合え、滅せよ!」

 黒蓮華は次々人の心を黒く染め上げてゆく。指先一つで染まる人の何という浅ましい心。まるで遊戯のようだ。こんな生き物を護ろうだなんてどうかしている。

 人など独占欲の塊で自己犠牲に悲しみつつも、実は舌を出して自己愛にニンマリ笑う卑劣な生き物だと言うのに。

「我ら華仙が手を貸すいわれなぞない! まして愛するなど有ってはならないっ…」

 黒蓮華は唇を噛みしめた。
 所詮、人と華仙では幸せになどなれない。それが数百年の恋の終わりだった。
 自分の羽衣を奪い、地上に縛り付けた。今も尚、その羽衣は見つからない。あの美しい世界には帰れず、永久に地上に縛り付けられ続ける。
 神話の生贄のようだと黒蓮華は自嘲した。

「紅月季……これが私への罰だというのか」

 久方ぶりに夫の名を口にした。
 かつて存在した地上の楽園とされた桃源郷。人々と華仙たちは共に生きていた。それが数千年前に華仙たちは突然姿を消してしまう。

 その時に華仙界に戻れず、人知れず捕まった天女の話はそこかしこで広まり、後世に語り継がれてゆく。決して美しい話ばかりではない。その苦しみは華仙の自分にしか分からない。

 追放された華仙がいち、名を黒蓮華と言う自分にしか――――。

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