召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

第一章芙蓉国の女官⑩ ここは一緒に一度死すとしよう

「蓮花夫人!」

 後宮の夜は早い。夫人はお休みですよ、と綺麗な女官が宥める前で、愛琳は叫んだ。

「あの香どこにあるね!堅物梨艶にぶっかけてやる。お願い、もう後がない。…あの人、やっぱり私を許してはくれない。だからあの香を」

「誰かこの女官をお連れして」
「蓮花夫人、お願い」

「警護兵は何をやっているの。おまえ、さわぐと妃さまに迷惑が」


「何をしているのです。夜更けですわ」


 かさりと音がして、何重にもかけられた天蓋の中から蓮花が姿を現した。小塔のような部屋の明かりが少しだけ、灯る。

「静かになさい……まあ、愛琳」

 下着姿の蓮花は潤しい。もしかして今から「お仕事」なのだろうかと愛琳は少し赤くなる。富貴后さまも、蓮花夫人も、後宮の女性はみな秀麗だ。女官とはワケが違う。

「梨艶、全く話聞いてくれないね! だから、昼間のあの香、教えてもらいに来たの」

 連花は降ろした髪を片手でどけながら微笑んだ。口元の紅は夜でも引いているのだろうか?蓮華のように儚く見える。

「宝物庫のどこかに転がっているのではないかしらね。ただ、あの倉庫は天女たちが近づけないように、結界が張られているの。近づけないのよ」
「天女?」

「バカバカしい言い伝えでしょう?でも、それを見つけて天女が天に還らないように、かつての皇帝が結界を張ったと言うわ。それは強力で、天女の血筋を持つ靑蘭の人間は近づけない。そう言われて後宮の女は一切ここから出られないの。もしも天女であれば天に還ってしまうからと。確かこんな形よ」

 連花は指で愛琳の掌に香の形を描いて見せた。あれ?と愛琳が今度は蓮花夫人の掌に書いて見せる。縦長で、少し変わった形の香炉。もしかして、昼間躓いたアレか? と愛琳は大きくうなずいた。

「その香あたし見たね! それに躓いて怪我したよ」
「まあ。ではそれを持っていらっしゃい。時間が惜しいわ。私は調合を始めます」

 愛琳の胸に罪悪感が過る。―――本当にいいの?愛琳…と最期の良心が語りかけたが、やがてそれも奥深くに沈んで消えて行った。

***

いつだって争いの種は独占欲だ。それでも、梨艶の心が欲しい。奪って、全部奪い尽くさせたい―――――。

 愛琳の胸にどす黒い感情が生まれてゆく。それは全身をウイルスのように蝕んで、広がってゆく発疹のように膨れ始める。


 香炉は倉庫の一番上に不気味に眠っていた。
それを掃除していた愛琳が落したのである。

「あった……!」

床に転がっていた香炉を掴むと、愛琳はその隣に無造作に置き晒された薙刀を見つけた。

 間違いない。愛刀だ。ほら、芙蓉国の御守りのガラス玉が……紐だけになったそれを愛琳は悔しい思いで見つめる。多分取ったのは梨艶だろう。御守りだと知ってて処分したのだ。

 この腰壺だけは捨てられずに済んだけど…もしも懇ろになって下着をとられていたら、これもきっと奪われたに違いない。

 掃除した時にはなかったから、その後梨艶がここに移動させたことになる。梨艶は軍師だ。軍事国家の軍師なら、相当頭もキレるはず。実際に梨艶は何度も自分を騙している。騙されやすいと言われればそれまでだ。戦い好きの軍師なんてペテン師と呼んでもいい。

(待って。本当に梨艶は私を求めたのだろうか?……芙蓉国をずっとずっと靑蘭は狙っている。たまたま出会った女官は利用しやすかっただろう。――利用され、た?)

 カラーン…香炉が落ちる。否定しても、そう考える方が自然だ。芙蓉の女は嫌いだと言い切れるなら、どんな扱いでも出来るだろう。

  愛琳は香炉を拾って、麻痺したように感情を封じ込めて後宮への道を急いだ。書状はもう届かない。芙蓉国の願いは靑蘭には届かない。それが答えだ。自分はその答えを身を持って伝えろと、惨めな境遇で帰らされるのだ。

 ―――でも、これさえあれば。梨艶を。熊猫娘の口端が僅かに緩む。

 そう、コレサエアレバと。  


「その香炉をお渡しなさい」

 愛琳がその香炉を掲げると、それは不気味に金色に鈍く光った。

(これが、本当に天女さまの?)

「どんな香もこれで焚くと、媚薬になるというわ。いらっしゃい、愛琳」

 蓮花夫人の部屋はいつしか白い布が掲げられていた。こうすると、香りが充満しやすくなるのだと言う。

「蝋を」

 ランプの中の芯を切り取り、女官から蓮花夫人がそれを受け取る。その時愛琳は頭を押さえた。

 ―――愛琳!それを決して渡すな!

 遠くの富貴后の声が聞こえた気がする。愛琳は一度手を止めたが、蓮花は微笑んで、彼女にしては強い口調で愛琳に言った。

「怖気づきましたの? それではあなたは明日、惨めにも蓬莱に追い出されるのでしょう。もしかすると殺されるかも知れなくてよ。秀梨艶軍師は冷酷ですわ」

 ――殺される?

「靑蘭の中に貴方は入ってしまいましたもの。そのまま芙蓉国に無事に戻れるとでも?…ほほ、ここは貴方にとっては敵国なのをお忘れかしら?――でも、梨艶が貴方を愛せば、命がけで守ってくれるでしょうね」

 愛琳は唇を噛む。

 どんなことをしても、果たさなければいけない使命がある。皇太子さまにも会えていない。悩む理由はなかった。その香炉を蓮花に渡した。

「おりこうな子ね。それで良いのよ」

 受け取った香炉を手に、蓮花が微笑む。小さな香炉の蓋を抓んで可笑しそうにコロコロと笑い始めた。

「ほほ、こんなに溜めてそれに礼を言うぞ」

 ようやく開いた蓮花の瞳。瞬間、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が愛琳を襲う。

「蓮花夫人…瞳、開けられたの?」

目を開けた蓮花はまるで別人だ。赤い瞳を持ち、黒髪は濁流のようにたなびき、声は可愛らしいそれから、まるで女王のように腹から響く迫力を持ち――

「奪われし香が我が手に戻った! 感謝するぞ熊猫娘よ」

 低く唸るように彼女は言い、両手を広げた。不穏な紫の靄が蓮花を包む。その異変に気が付いた蓮花の女官が金切声をあげた。

「蓮花夫人?夫人が!」
「不躾な女官。しばし静かにしておれ」

目の前で女官が胸を切り裂かれて倒れてゆく。その血しぶきの向こうで、蓮花はその香を高く掲げた。

愛琳はあまりのことに声が出せないまま、様変わりした蓮花夫人を唖然とした瞳で視界に呼び込むように見やるのが精いっぱいだ。

「さあ、約束の神宝を取り返しましたわ! 今こそ我を美しき天にお還しを!」

 し―――――――――ん。

 愛琳がぼそっと「何も起こらないね」と呟いた。血しぶきを上げた女官の姿は掻き消えてしまい、何も残ってはいない。そこでようやく愛琳は何かがおかしいことに気が付いた。

「蓮花夫人?」
「紅……かくもわらわを愚弄するかぁっ!」

 連花の瞳を無数の黒い影が飛び回っては消えてゆくのを愛琳は見た。妖霊だ。蓮花夫人は何かに憑りつかれたかのようにユラリと立ち上がった。

「ふ…ふふ…それならそれで良い……ほほ、おぬしの心は操りやすそうだ。愛琳」

 ――脳裏に染み付くネットリとした声。すべてを支配しようと蠢き始める。愛琳は逃げる間もなく、妖に囚われて行った。


 闇の女王が微笑んで肩に腕を伸ばしている。耳元に優しい声が滑り込んだ。

 そなた、梨艶が欲しいのであろ?
 想う通りにして、閉じ込めておきたいのであろ?この香はそれを可能にする。永遠に梨艶の心はお前のものになる。華仙界の神宝『双の香』の前には誰も逆らえんのさ。
 さあ、どうだ?
 欲しいだろう……そら、やって来たぞ。

 またあの男はおまえに侮蔑を投げつけるだろう。おかわいそう。心はぼろぼろで、それでも信じてゆくしかない…ふ、フフ…おまえ自身、そんな屈辱は嫌だとわめいているぞ。


ほぅら、捕まえた。



「蓮花夫人…っ」

 異変に気づき、駆けつけたらしい梨艶の姿が視界に飛び込んで来た。

「遅かったな…秀梨艶。この娘は貰ったぞ――さあ、愛琳、あれは誰?」

(あれは)

 私の唇を強引に奪ってしまった人。心を掴んで行ったくせに冷たくする酷い人。

「そう、それをあの男に吹き付けてやるんだ。その瞬間から、おまえのもの―――」
「愛琳。何をしている」

『お前は俺を裏切ったんだ』

 夜の瞳が切なく煌めいた。でもこれ以上、酷い言葉を聞きたくはない。だから。

《さあ、あなたを私に頂戴。あなたはもう私以外を見ないで! 私だけを、愛して!》

 愛琳の感情を吸い取った香炉がぐんぐんと香気を増してゆく。

「ぐぁ…っ」

その光芒の中央で梨艶が潰れた声を上げ、悶絶した。膝をついて身を捩った。

―――梨艶?

(あたし。何を)

苦しそうな声に愛琳が香炉を投げ出して走り寄る。香気は光の粒になって、梨艶に張り付いて消えてゆく。やがて刹那の閃光に貫かれた梨艶は動かなくなり、手を開閉して、はっと愛琳の胸を掴んだ。

「みゃっ」

 何度も愛琳に触れては、梨艶は眉をしかめている。座り込んだ梨艶は両手を見つめ、動かなくなった。様子がおかしい。後ろで蓮花夫人の笑い声が響いた。

「見事よ、熊猫娘愛琳。その男はこれでお前のものになった。丁度いい。わらわを縛り付けた憎き皇族の興隆の血を引く秀梨艶! お前はこれから生き地獄を味わうがいいわ」

 聞いた愛琳が腰を跳ねさせる。また梨艶の手が今度は腰骨を撫でたのだ。

「そんなことしてる場合じゃない!夫人が!」
「……ないんだ」

 梨艶がか細い声で言う。こんな気弱な声音は聞いたことがない。梨艶は両手を床に叩き付けて吠えた。

「お前の感触が何も分からない! 愛琳!」
「かんしょく……?」

 感触って何だ?

 梨艶はごくりとつばを飲むと、蓮花に向き直った。蓮花は楽しそうに香炉に口づけしたりしている。明らかにあの朗らかな蓮花夫人とは違う。梨艶が震える声で聞いた。

「皇帝の第一寵姫、朱蓮花貴妃よ……今こそ聞こう。そなたは誰だ」

 必死に愛琳は触られる梨艶の手つきに耐えていた。然し際どい部分を愛撫されても、梨艶は平常心そのものだ。感情が無くなったように見える。

 ――梨艶の感情が無くなった?……だからあたしだけのものになった?

「この女好きめ! お前はどこぞの紅色にそっくりで嫌になる。名乗ってやろう。我は黒蓮華。かつて地上を支配していた華仙界の華仙のひとりのな」

「華仙界だと?」

 この世にあったとされる桃源郷の目撃録は数えきれないほどに残っている。だが、誰も見たことがない、世界の最期の楽園桃源郷と謂われる華仙界。世界の果てにあるとも、超越した先にあるとも言われる神の世界だ。梨艶が文献の一節を無意識に口にする。


「遙昔的美世界地上一。地上之争蔓延刻、其美世界怒之余、空之何処至消去…」。

(遙か昔に美しい世界と地上は一つだった。だが地上の争いが蔓延した刻、その美しい世界は怒りのあまり、空の何処へかと消え去ったという―――――)


「遙昔的美世界地上一。地上之争蔓延刻、其美世界怒之余、空之何処至消去…」

 再度呟いた梨艶の腕を引っ張った。その言葉は知っている。芙蓉国の天女伝説の一節だ。

「芙蓉国と同じ言い伝えね。……じゃあ本当にあるんだ、華仙界……天女さまの世界…」

「そんなのんきな話じゃなさそうだ」


 見ろ、と梨艶が空を指差した。黒い塊が次々と宮殿に飛び込んでは醜悪な音を立てている。震えあがる愛琳の肩を抱きながら、梨艶はその中央に女王のように立つ黒蓮華と睨みあう恰好になった。

「これはすべて国境からの兵の恨みの念。兵士たちは戦い、死に行く。さぞかしこの国を恨みながらな!その恨みはこの国を滅ぼすに充分。この可愛い陰妖と、この香炉は死への香りを纏う。そうしてこの長き国も滅亡の憂き目を見るであろう」

「まさか……国境の闘いを仕組んで居たのはあなたか!」

 黒蓮華と名乗った天女はうっすらと笑った。

「人の心など、指先一つ、吐息ひとつで導ける。そこの熊猫娘に聞けばよい。ああ、だがお前は暗殺されるのだったか」

「!」

 梨艶の身体が瞬発的に動いた。操られた国兵がユラリユラリと揺れながら現れた。

「命令だ!そこの二人を捉え、処刑せよ!」

 黒蓮華の操る陰妖たちが宮殿を取り囲んでは新たな陰妖を生み出してゆく。まるで病原体だ。

「愛琳!死にたいのか!」

 ぺたりと座ってしまった熊猫娘の手を引くが、愛琳は動かなかった。余りの事に、脳が真っ白になっている。どす黒い自分の心を搾り取られたようで、カラっぽになったそこには黒いものがたぷたぷと満たされて、光など見えない。

 ――私のせいだ。

 どうして富貴后さまや国よりも、梨艶への欲を優先したのだろう。足が重くて動けない。

「梨艶動けない、動けないんだよ」

 舌うちをして、動けない愛琳を抱きかかえると、梨艶は庭に飛び出した。身を隠して辺りを見やると、朦朧とした瞳の兵士たちが徘徊しているのが解った。

「あの一瞬で操られたか」

猛者たちまでもが操られている中、正面突破は難しいと死角に当たる塔の影で愛琳を降ろして地面に座らせたが、愛琳の目はまだどこか遠くに行ってしまっている。

 武官と言えどやはり女かと梨艶は肩を掴んで揺さぶった。

「愛琳、しっかりしろ。おまえは芙蓉国の女武官なのだろう?」

 ぼんやりと愛琳の瞳が動いた。動いた瞬間にそれは水面を溢れさせ、辛うじて愛琳は涙を堪え、飲み込んだ。そうして正気に戻ると、より梨艶の事がはっきりと分かる。梨艶は暖かい。男の人の手は冷たいと言うけれど、梨艶はいつも暖かくて、幸せにしてくれる。それに何て優しい眼で自分を見るのだろう?

 何故疑ったの? ここに答えはちゃんとあるのに見えていなかった。負けた自分が悔しい、悔しい。愛琳は必至で梨艶の袖を握りしめて、訴えた。

「嫌いって言われて悔しかったよ。だから、蓮花さんの言う通りに梨艶に香を向けた」
「ああ、そうだったのか」

「ドス黒い声が頭に響いた。こうすれば梨艶は手に入るって……嫌われるの、嫌だ。梨艶。嫌わないで。私だけ見ないとか嫌だ。だから願った! 私だけ見て欲しいって」

 縋り付くように言う愛琳を梨艶は黙って聞いていたが、低い声音で言う。

「ならば、おまえをそう導いた俺の責任もあるという事だな」

「違う! 私がいけない」

 梨艶がやれやれと嘆息して見せる。

「俺はこの大国靑蘭の軍師だぞ。従って責任を背負うのは慣れている。蓮花夫人が華仙の生き残り。ずっと機会を狙っていたのだろうか」

「梨艶、華仙って」
「危ない!」

 二人の会話を遮るように矢が通り過ぎた。兵士に見つかったのだ。梨艶は愛琳の手を引くと、こっちだ!と宮殿の裏手に走りこんだ。
 向かっているのはあの黒い森だ。

「梨艶、こっちは、不気味な場所だって」

 梨艶は黙って愛琳の手を引き、走り続ける。「眼を凝らすなよ」と一言いい、林を抜けて、崖の上で足を止めた。

 ―――どうするつもりなのだろうかと愛琳が後ろを振り返る。兵士たちが襲いかかってきた。

「戦うね!背中預かるよ」

 泣きたいのを我慢して、薙刀を構える。泣いている場合じゃない。梨艶は頷くと、自身も青竜を巻きつけた刀をスイと抜いた。背中同士がぶつかる感覚。振り向きざまに梨艶が叫んだ。

「悪いが兵を殺さないでくれるか」
「そういう戦い方嫌いね。気絶させるよ」

 梨艶は剣を振いながらも、奈落のような崖の下を必至で見やっているのに愛琳が気が付く。こんな窮地に何をしているのだろう?つくづく軍師の思考は理解し難い。

「梨艶、隙見せたら斬られる! ごめん、貴方寝てるね!」

 がつんと首筋を打たれた兵士がずるりと伸びる。数が多くてきりがないまま、二人は崖に追い詰められた。足場が減る。風が冷たく駆け抜ける。

「確かここに。ああ、あったぞ。愛琳」

 暗くて見えない断崖に目を凝らしていた梨艶が突然愛琳を腰から抱きかかえる。ザアアとかすかな水音がする。抱き上げたまま、梨艶は愛琳を見つめた。

「ここにいたら俺もお前も危ない。所詮人間と華仙では勝負は見えている。負け戦は二度と御免だ。ここは一緒に一度死すとしよう」

 梨艶は愛琳を抱きかかえ、絶壁に立ってみせた。

 腕に大好きな柔らかい感触を感じる。しかし、いつもなら嬉しくなるほどの愛琳の肉体への感触と感動は皆無だ。心に蓋をされてしまった。

(思い出せ、大切なものの感触を。五感が奪われても、どこかに残っているはずだろう?感じた愛しさはそう簡単には消え失せない。ほら、そこにある。理性で理解しろ、梨艶)

 抱きついた愛琳が呟いた。

「梨艶、私を嫌いだって言ったのに助ける?」

「ああ、言ったな。芙蓉国の女というだけで許せないと。だが、お前自身は嫌いではないぞ。今だって性が整えばお前を奪い尽くす気はある。あるのだが」

 梨艶はごほ、とせき込むと、顔を背けた。

「あの香を吸って、一切、は、反応しないのだ。更にときめきや嬉しいという感情が希薄になった感じだ。俺は元々淡泊な性質だ。だからと言って、お前を嫌う理由はない。だが、俺は」

 梨艶は肩を震わせ、唇をきつく噛んで続けた。心の麻痺が痛い。愛おしいものを愛おしいと感じるどころか、遠く感じさせるなど、魔性の香としか言いようがない。
 愛しいとは何だ。愛したいとはどんな感じ方だったのか。 

「女に何も感じない人生など歩みたくない。お前の可愛らしさ、柔らかさ…それがない人生など!男として女に感じないなどこんな悪夢があっていいものか!」

「……あなた、本当に好色ね」

「俺のどこを見れば好色なんだ。人が真剣に悩んでいる答えがそれか!だから芙蓉の女は冷たくて嫌いなんだ」

 愛琳はその会話には取り合わず、静かに瞳を瞬かせた。

 ――お前を嫌いになる理由はない。梨艶はそう言いきってくれたのだ。自分があんなことをしたのにもかかわらず。

「いいよ、どこへでもゆくよ。貴方となら。例え地獄の底だって」

「そんな場所はむしろ遠慮被る。俺に引っ付いていろ。計算が狂わなければ生きられる」

 ずるりと梨艶はわざと足を滑らせて、柔らかい足場は奈落の底へと崩れ落ちた。

不敵な笑みを湛えたままかつての軍師は落ちて行くのを兵士たちはただ、見送った。

 ――しばし、さらばだ。我が靑蘭。どうか、無事で。
 落ちてゆく夜の瞳に一縷、哀愁の光が走った。


(幼少に落とされた時に一度だけ見つけた奇跡の横穴。幼少の自分の身長と己の身長差を計算すればおそらくこの真下にあるはず――)

 滝壺と、その中には逃げ道がある。皮肉にも幼少に暗殺されかけた経験がこんなところで役に立つとは人生は本当にどう転ぶかわからない。二度と逢えないであろう女に再会したことといい、その女への心を亡くした事といい。

(あった、あれだ)

 やがて目論見通りに見つけたそれを確認した梨艶が静かに言った。足元に大きな滝壺が渦を巻いて待ち構えている。

「気を失っていいぞ。水に飛び込んだことなどなかろう」
「そんな弱く見えるか? 大丈夫。河に流された経験あるね! 捨てられてたね、あたし」
「捨てられてた?」
「よく覚えていないよ。何かに浚われて、河に落ちた私を拾ったのが富貴后さまだよ」

 梨艶はそれ以上は聞いては来なかった。

 こんなにひっついていても、梨艶の鼓動は規則正しく脈を打っている。大きな滝壺が現れた時でさえ、梨艶の鼓動が早まることはなく。滝の音が近づいて来た。梨艶の掠れ声がとぎれとぎれになるほど、水音は爆音のように響いている。愛琳の頭を抱える腕に更に力が籠る。  

 鍛えられた胸筋に頬を押し付けて、愛琳は涙をにじませた。温かい暖かいよ、梨艶。

 ―――ごめんなさい。信じてないのは私の方だったね。

 頭を抱きかかえるようにして、水の中に飛び込む。かすかに聞こえた梨艶の声は水に溶けて行った――


飛び込むぞ。愛琳―――と。

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