召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~
第一章芙蓉国の女官⑤ 熊猫
3
「屡紗?どうした?」
と、途中で馬が停止した。愛琳は馬から降りて、その鼻を撫でてやる。屡紗はふん、ふん、とまるで発情期のように鼻を鳴らして竹林を睨んでいる。
「また何かいる?……うん、イイコで待つね」
愛琳は勇ましくも薙刀の柄で竹を退けながら進んだ。ワサワサと生え聳える笹が邪魔なことこの上ない。その中央にぷっくと膨らんだ丸いものが見えた。それはふわふわと毛並を揺らして丸まっている熊猫であった。
「おまえこんなとこで何してるね?あ」
見れば足から血を流している。枯れた竹林の間に足を挟まれ、動けなくなっているのを愛琳は見抜くと、薙刀を構えた。熊猫が怯えたので、「大丈夫ね」と笑いかけて、一気に笹を全部叩き切った。挟まって身動き取れずにいた熊猫はころころと転がって、愛琳の足元に辿りついた。
靑蘭の山西部に生息する熊猫だ。噂では知っている。見るのは初めてだと愛琳が抱き上げる。黒と白の不思議な色合いの動物だ。芙蓉国では生育は禁じられている。なるほど、ちょこんと乗った耳は自分の頭に良く似ている。だからか親近感がわいた。良く見れば、愛らしい垂れ目もそっくりだ。可愛くて、愛琳は旅の御伴に連れて行くことを決めた。
「ふふ、あったかぁい…おまえひとりね?一緒に来るね!」
いや~遠慮します…と熊猫が例え言おうが、女官愛琳の強引さには勝てない。しぶしぶ…かどうかは分からないが、熊猫は愛琳の胸元に落ち着いた。小さな手がもふもふと愛琳の胸元に必死で捕まってカイカイのように後ろ足を跳ねさせている。その感触が梨艶そっくりで、愛琳は思わず言ってしまう。
「りえん、止めるね」
熊猫は純粋そうな眼で見上げている。
「うっかり間違えた。…覚えているものね…」
何を言っているのだろう。何度も口にすればいつしか忘れられなくなるのは分かっていた。小さい頃から「しゅう りえん」の名前はおまじないのように繰り返された。
こつん…と自分の頭を拳で軽く叩く。いけない、色恋に胸を弾ませている場合ではない。こうして小さな供を連れた愛琳の馬は蓬莱都に辿りついた。勝手しったる蓬莱を速度を落して駆け抜けて、ふと馬を止めた。
「ここ…」
五年前に梨艶と出会ったあの茶屋の軒下である。
勿論、茶屋は様変わりしていたが、辺りの区画やその雰囲気は変わっていない。
今頃あの梨艶はどうしているだろう?好色っぽかったあの男は。もしかすると、もうとっくに愛琳の事など忘れているかも知れない。
「…私の唇奪っといて、忘れたなんて許せないね。芙蓉国の女官、みんな純粋ね、梨艶」
「キュゥ?」
思わず噴き出した。どうやらこの子熊猫は名前が決まってしまったようだ。りえん。多分自分の名前と勘違いしたのだろう。
「…ここを抜ければ靑蘭まですぐ。…皇太子さまに逢うね」
靑蘭の目と鼻の先で、愛琳は馬を降りた。目の前には切立った岳が聳え立つ。山地の景色は山のない芙蓉国とは違って雄々しさがある。山と山の窪みに落ちる夕日に目を染めた愛琳は、宿を決めようとして路銀のあるはずの荷物に手を伸ばすが、馬には何も乗っていないのに気が付いた。んー…と額にシワを寄せて考え込んだ。
(そう言えば馬の脇腹を蹴り過ぎて、馬が暴れてた時、何か振り落した気が……)
確かに落した。しかもあの宦官が怒っていたような気が…大きな包みだった。あれは富貴后さまが揃えてくれた旅支度だったのだ!
「何てことね!」
愛琳は無言で青ざめて辺りを見回す。さて困った。無一文で出て来てしまった。あるのは僅かなお小遣いの残りだけ。饅頭十個で終わりそうな金額であった。
「弱ったね…これじゃ夜を越せないね。そういえば何も食べてなかったよ」
高級妓楼の街、蓬莱都の宿は高いのである。「富貴后さまの使い」なんて言えば、靑蘭にバレてしまうかもしれない。かと言って野宿は最後の手段にしたい。きょろきょろと辺りを見回す愛琳に一人の老婆が近寄った。老婆はにっこりと笑ったので、愛琳も笑い返す。
「何かお困りかい」
答えあぐねていると、わやわやと人が集まって老婆を取り囲んだ。
「ばあさん、どうしたんだ」
「この子がねぇ、きょろきょろしていたものだから。何だか熊猫に見えて来てねぇ…これから向かう靑蘭の野生熊猫にそっくりでねえ」
―――――これから向かう靑蘭?
愛琳はその言葉を聞き逃さず、渡りに船とばかりにあまり使わない丁寧語を必至で紡いで言った。
「私を靑蘭に連れて行ってもらえませんか?荷物全部落してしまって困ってるね!」
「屡紗?どうした?」
と、途中で馬が停止した。愛琳は馬から降りて、その鼻を撫でてやる。屡紗はふん、ふん、とまるで発情期のように鼻を鳴らして竹林を睨んでいる。
「また何かいる?……うん、イイコで待つね」
愛琳は勇ましくも薙刀の柄で竹を退けながら進んだ。ワサワサと生え聳える笹が邪魔なことこの上ない。その中央にぷっくと膨らんだ丸いものが見えた。それはふわふわと毛並を揺らして丸まっている熊猫であった。
「おまえこんなとこで何してるね?あ」
見れば足から血を流している。枯れた竹林の間に足を挟まれ、動けなくなっているのを愛琳は見抜くと、薙刀を構えた。熊猫が怯えたので、「大丈夫ね」と笑いかけて、一気に笹を全部叩き切った。挟まって身動き取れずにいた熊猫はころころと転がって、愛琳の足元に辿りついた。
靑蘭の山西部に生息する熊猫だ。噂では知っている。見るのは初めてだと愛琳が抱き上げる。黒と白の不思議な色合いの動物だ。芙蓉国では生育は禁じられている。なるほど、ちょこんと乗った耳は自分の頭に良く似ている。だからか親近感がわいた。良く見れば、愛らしい垂れ目もそっくりだ。可愛くて、愛琳は旅の御伴に連れて行くことを決めた。
「ふふ、あったかぁい…おまえひとりね?一緒に来るね!」
いや~遠慮します…と熊猫が例え言おうが、女官愛琳の強引さには勝てない。しぶしぶ…かどうかは分からないが、熊猫は愛琳の胸元に落ち着いた。小さな手がもふもふと愛琳の胸元に必死で捕まってカイカイのように後ろ足を跳ねさせている。その感触が梨艶そっくりで、愛琳は思わず言ってしまう。
「りえん、止めるね」
熊猫は純粋そうな眼で見上げている。
「うっかり間違えた。…覚えているものね…」
何を言っているのだろう。何度も口にすればいつしか忘れられなくなるのは分かっていた。小さい頃から「しゅう りえん」の名前はおまじないのように繰り返された。
こつん…と自分の頭を拳で軽く叩く。いけない、色恋に胸を弾ませている場合ではない。こうして小さな供を連れた愛琳の馬は蓬莱都に辿りついた。勝手しったる蓬莱を速度を落して駆け抜けて、ふと馬を止めた。
「ここ…」
五年前に梨艶と出会ったあの茶屋の軒下である。
勿論、茶屋は様変わりしていたが、辺りの区画やその雰囲気は変わっていない。
今頃あの梨艶はどうしているだろう?好色っぽかったあの男は。もしかすると、もうとっくに愛琳の事など忘れているかも知れない。
「…私の唇奪っといて、忘れたなんて許せないね。芙蓉国の女官、みんな純粋ね、梨艶」
「キュゥ?」
思わず噴き出した。どうやらこの子熊猫は名前が決まってしまったようだ。りえん。多分自分の名前と勘違いしたのだろう。
「…ここを抜ければ靑蘭まですぐ。…皇太子さまに逢うね」
靑蘭の目と鼻の先で、愛琳は馬を降りた。目の前には切立った岳が聳え立つ。山地の景色は山のない芙蓉国とは違って雄々しさがある。山と山の窪みに落ちる夕日に目を染めた愛琳は、宿を決めようとして路銀のあるはずの荷物に手を伸ばすが、馬には何も乗っていないのに気が付いた。んー…と額にシワを寄せて考え込んだ。
(そう言えば馬の脇腹を蹴り過ぎて、馬が暴れてた時、何か振り落した気が……)
確かに落した。しかもあの宦官が怒っていたような気が…大きな包みだった。あれは富貴后さまが揃えてくれた旅支度だったのだ!
「何てことね!」
愛琳は無言で青ざめて辺りを見回す。さて困った。無一文で出て来てしまった。あるのは僅かなお小遣いの残りだけ。饅頭十個で終わりそうな金額であった。
「弱ったね…これじゃ夜を越せないね。そういえば何も食べてなかったよ」
高級妓楼の街、蓬莱都の宿は高いのである。「富貴后さまの使い」なんて言えば、靑蘭にバレてしまうかもしれない。かと言って野宿は最後の手段にしたい。きょろきょろと辺りを見回す愛琳に一人の老婆が近寄った。老婆はにっこりと笑ったので、愛琳も笑い返す。
「何かお困りかい」
答えあぐねていると、わやわやと人が集まって老婆を取り囲んだ。
「ばあさん、どうしたんだ」
「この子がねぇ、きょろきょろしていたものだから。何だか熊猫に見えて来てねぇ…これから向かう靑蘭の野生熊猫にそっくりでねえ」
―――――これから向かう靑蘭?
愛琳はその言葉を聞き逃さず、渡りに船とばかりにあまり使わない丁寧語を必至で紡いで言った。
「私を靑蘭に連れて行ってもらえませんか?荷物全部落してしまって困ってるね!」
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