気分屋文庫

有賀尋

白狐の常夢

暖かな春の兆しは、我が主の暖かな波動に似ている。

そんな春は、好きでもあるが、同時に嫌いでもある。
年寄りには少し辛い季節だからだ。

天音あまね

神の御使いである我が主が呼ぶ。
既に八尾となる私は年寄りの身。
もうじき九尾となり、生まれ変わり不死身となる。

『呼んだか、あるじよ』

主の膝の上に頭を乗せ、眠ろうとしていた私にとって主の呼ぶ声すらも子守唄のようだった。

「あなたも大分年老いたものですね」

頭を撫でながら、主はそう言った。

『私とて年など取りとうない』

「まぁそう仰らずともわかっていますよ。あなたは長生きですものね。あなたは…たくさんの事を見てこられましたからね」

『人間とは浅はかなものだ。争いの絶えぬ生き物よ…。』

「そのように憂いを帯びた目をして下界を見ていてももう変わらないのですよ?」

もう何度も人間の無様な争いを見てきた。
何度も民達の涙を見てきた。
それを見ては、何もできずにただ見ているしかできなかった自分の立ち位置を恨んだものだ。
大きな戦いで、民に黒い雨が降った時、私はまだ六尾だった。
下界へ行こうとすれば、罵られていたものだ。

ー六尾の分際で何が出来る!
ー力の持たぬ六尾など、行くだけ無駄にすぎよう!

それももう何十年、何百年、何千年前の話だ。
それが今となって蘇るとは。
とうとう走馬灯でも見始めたのだろうか。

『主よ』

「なんでしょう?」

『私は…たくさんの事を見てきた…。下界のたくさんの移りゆく人間の様も、絶えぬことのなかった人間達の醜い争いも。私は何もできなかった…。とうとう私の役目は終わったのだろうか…。私なぞ…いようがいまいが関係なかったのではないだろうか…』

「白狐、天音」

そう名前を呼ぶと、主は私に手をかざした。
主の手から、新たな力が私に注がれた。

『主…!』

膝の上から顔を上げ、居住まいを正した。

「神の御使いである白狐、天音よ。今までの働きご苦労であった。その功績をたたえて、あなたに『九尾』の称を与えよう」

主の力で、八尾だったわたしは晴れて九尾へと昇格を果たした。
尾が一本増え、年老いてくすんでいた白い毛は更に輝きを増した。
嬉しいことのはずだが、私は焦っていた。

九尾になれば、今の我が主は神格となる。
そばにいられなくなってしまう。

『主、私は…!』

主はいたずらっ子のようなあどけない笑みを浮かべた。

「少し早い昇格でしたが、これで良いのです。あなたの頑張りは常にそばで見て参りました。だからこそ、昇格させてあげたかったのですよ」

『しかしそれでは…!』

「ご安心なさい」

主はいたずらっ子のような笑みではなく、柔らかな微笑みを向けてくれた。

「私はあなたと共にあることを忘れているのですか?」

神格となった主は、私に手を差し出して言った。

「これからも私のそばにいてくださいますね?」

『主…!』

私は主に頭を垂れた。

『この九尾、主の命とあらばどこまでも…!』

この誓をたてたのはちょうど100年前の春だ。
今でも鮮明に覚えている。
私はもう何年生きてきたか分からない。
その中で沢山の人間の無様な争いや戦いを見てきた。

もう力の無い私ではない。

「天音」

今日も主の優しい声と共に、私は下界を眺めた。

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