死の花が咲いた日
序章 過去
その部屋は甘い香りで満たされていた。縦に一筋だけ光が差し込み、中では少女が祈祷を行っていた。生い茂る草木のような鮮やかな緑の髪に、白磁のような肌。白と赤を基調にした彼女しか着ることを許されない祈祷専用の服を身に着けていた。
石畳の部屋には彼女しか居ない。それは人間が、という意味では無くテーブルや椅子等の物品も無いことを示している。
石畳の部屋――祈祷の間では静寂を満たすことが基本とされている。基本、ということは例外もあるのかと言われるとそういうわけではなく、最終的にそのルールは遵守されていることとなる。
なるべく足音を立てないように。それは彼女に気付かれないように、ということもあるが、正確に言えばこの空間での祈祷の継続こそが最優先事項ということがあるからだった。
「アルファス。別にしゃなりと歩かなくてもいいのですよ。自然に取り繕ってもらって構わないのですから」
「……祈祷を邪魔してはならない。そう思いまして」
気付かれてしまったことは仕方がない。僕は彼女の言葉に答える。
彼女の話は、さらに続いた。
「祈祷など、もう意味が無いのですよ。この国には、特に」
彼女は溜息を吐いて、立ち上がる。暗い場所だからか、ゆっくりと、かつ着実に一歩一歩僕のほうに向かう。
そして僕の身体に触れて、彼女は安堵したような表情で再び溜息を吐いた。
「えへへ。アルファス、今日も遅くまで頑張ったんだね?」
「そりゃあ、そうですよ。僕は一介の護衛兵です。ただ思し召しがあっただけの……」
思し召し。
神と唯一繋がることを許される存在である祈祷師からのお言葉。正確に言えば、その言葉は神が話している言葉と同一であるから、即ちそれは神の言葉といえる。この国では、その思し召しに従わなくてはならない。たとえそれがどれほど難儀なものであったとしても。
「思し召し。うん、うん、そうだね。思し召しは覚えているよ。まあ、だれがどう話していたかまでは覚えてはいないけれど」
思し召しは発言こそは祈祷師から発せられる。しかし、それは神の意識が移ることによってはじめて発せられる言葉となる。だから、思し召しをしている最中、当の祈祷師にとっては何を発言しているのか知らない。意識が消えてしまっているのだという。
彼女は僕に抱き着いて、離れない。
「……この甘い香りは、どうにかなりませんか?」
「うん。これはどうにもならない。これは祈祷がしやすくなる香り。正確に言えば、意識を移しやすくするための香り。……もしかして、嫌いだったかな? だったら止めることも出来ないことは無いけれど。お香を焚いているわけだからそれを消せばいいわけだし」
「いや……別にいいですよ。あなたが気にしていないのならば」
僕はこの甘い香りが苦手だった。鼻につく、といえばいいのだろうか。苦手な香りだった。拒絶反応を示していた。でも彼女はこの香りが満たされている空間で常に祈祷をしているから、もしかしたら拒絶反応を示さなくなったのかもしれない。
「何だ、今日のアルファスはちょっと不機嫌な気がするよ」
「不機嫌。僕が、ですか?」
彼女の言葉を聞いて僕は失笑してしまう。僕のことをそんな風に思ったことは無いというのに。
いや、もしかしたら。
それは彼女なりの気遣いだったのかもしれないけれど。
「祈祷は、もう終わったのですか?」
僕は改めて彼女に問いかける。
彼女は深い溜息を吐いて、それでも、彼女にやさしく語りかけた。
彼女は僕の身体をぺたぺたと触りながら、話を続けた。
「それにしても、アルファスはいつも頑張っているね。そんなに大変ならば辞めてしまえばいいのに」
「そんなことはできませんよ。祈祷師を守る刀になる。それが僕の目的ですから」
祈祷師はこの世界でも一握りしか居ない。
そしてその祈祷師を守る騎士になることが出来るのもまた一握りに過ぎない。
祈祷師はこの世界の全てを神様から教えてもらうことの出来る職業だ。髪の意識が移ることで得られる思し召しということを通しているらしいけれど、それは常に発せられるわけではなくて、思し召し自体はこの世界の未来を教えてくれるだけに過ぎない。
即ち、それをどのように回避したり実行したりしていくかは、人間に任せられている、ということになる。
世界の始まり。
世界の終わり。
世界の分岐点。
それだけを教えてもらったとしても、結局それを回避することが出来るかは人間にかかっている。そんなことを言われたところで何も変わらない。仮に数年後に伝染病が流行することになり人間の半分が死ぬことになる――そう言われたところでそれを回避することの出来るワクチンがその技術力で開発することが出来るか。そう言われてしまえば元も子もないのだが、結果として、思し召しについてはメリットとデメリットが多いと言われている。
一つの考えとして。
思し召しについては悪くないと考えている人が多い。人間が神様の所業についてどうこう言ったとしても、その神様を皆が信仰しているので特に意味が無いといえば無いのだが。それはただの無意味な抵抗と言えるだろう。
「……ねえ、アルファス? どうかしたの?」
彼女の言葉を聞いて僕は我に返った。どうやら長い考え事をしていたらしい。長い考え事をしていると、いつも僕はどこか遠いところに行ったように見えてしまうようで、彼女はいつも困り果てていた。
彼女を心配させてはならない。そう思い、僕は彼女のほうを向いて頷いた。
「問題ありませんよ。僕は、ただ少し考え事をしていただけですから」
「なら、いいのだけれど」
彼女は溜息を吐いて、目を瞑った。
それを見て僕は一目で理解した。彼女の行動は何度も目の当たりにしているからだ。
祈祷。
神様に祈りを捧げて、思し召しを得る。そのための行為。祈祷は誰にもできることではない。形だけならば誰でも出来ることだと思うが、それを形にすることが出来るのは、紛れもなく祈祷師だけだった。
そもそも。
祈祷師は代々受け継がれている。
その血を、その能力を、その感性を。
祈祷師は代々祈祷師としての能力を受け継いだ形で、そのまま祈祷師として一生を過ごす。だから、祈祷師に至っては生まれた時からすでにその一生が決められていると言っても過言ではなかった。
彼女もまた、僕と出会う前からその一生を運命づけられていた。
そして僕もまた、彼女が祈祷師だと知ってから、その一生を運命づけていた。
彼女を守るために、僕は彼女の剣となろう。
それは僕のエゴかもしれない。彼女はそれを望んでいないかもしれない。
それでも。
僕は剣を構える。剣を振る。敵を切り裂く。
たとえそれが、険しい道であったとしても。
彼女が目を開けて、微笑む。どうやら祈祷が終わったようだった。
「……祈祷はどうでしたか?」
「思し召しはいただけませんでした。……毎回、いただけるものでもありませんけれどね」
「そういうものですか」
「そういうものです」
短い会話を交わし、彼女と僕の間に静寂が生まれた。
本当ならばもう少し居たいところだが、そろそろ稽古の続きを受けてこなければならない。
だから、僕は彼女と別れた。
それは彼女の剣となるためには必要な訓練だったから。
数年後。
僕は祈祷師を守る上級騎士として。
彼女は思し召しを聞く祈祷師として。
僕が望んだ立場での再会を果たすことになるのだが、それはもう少しあとの話になる。
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