終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~
第五章95 【幕間】束の間の休息<リエルとの時間2>
「主様、最後にもう一つだけ……行きたいところがあるんじゃ。儂の我儘に付き合ってくれるか?」
砂塵の試練を終えて、ハイラント王国へと帰還を果たした航大たち一行。
彼らは次なる旅路の前に束の間の休息を楽しんでいた。
今、航大の中で静かに息づく暴風の女神・カガリが紛らわしい行動を取った結果、航大はユイ、リエル、シルヴィアの三人とデートをすることとなってしまい、まだ朝方の城下町を歩く航大の隣には、酷くご機嫌といった様子のリエルが瑠璃色の髪を揺らしてトコトコと歩いている。
「まぁ、時間はまだあるし……優勝のご褒美ってところだな」
「ふふっ、さすがは儂の主様じゃ」
優勝のご褒美。
何気なく立ち入った喫茶店にて、リエルは壮絶なる戦いを繰り広げることとなった。
その勝負は傍から見ればくだらないものだったかもしれない、しかし北方の賢者と呼ばれた少女にとっては引くに引けない戦いだったのである。
「それにしても、リエルのメイド服姿……悪くなかったよなぁ……」
「うっ……そ、そのことは忘れるんじゃッ……今、思い出しても恥ずかしい……」
ハイラント王国の城下町で繰り広げられたのは、店員たち総出のメイド総選挙だった。何故、そんな戦いが勃発したのかは割愛するが、フリル満載、太腿と胸元も大胆に露出したメイド服を身に纏い、リエルは堂々と戦い抜くことに成功したのだった。
彼女が見せた姿は航大の脳裏に色濃く残っており、恥ずかしさのあまり頬を真っ赤に染めるリエルの姿に、航大は不覚にも胸を高鳴らせてしまったのである。
「忘れろって言われてもなぁ……難しいかもしれん」
「うぐッ……わ、分かった……主様は覚えててもいい……しかしじゃな、あやつらには絶対に秘密じゃぞッ!」
頬を赤く染めたままリエルがいうあやつら、それがユイたちを指すことはさすがの航大にも理解することが出来た。もし、この世界に写真という技術が存在していたのであれば、きっと航大はリエルの可愛らしい写真をメモリーいっぱいにまで撮り溜めていたであろう。
「分かったって、じゃあ……これは俺とリエルだけの秘密って奴だな」
「……二人だけの秘密。くくっ、そういうのも悪くはない」
航大の言葉を噛みしめるようにして満面の笑みを浮かべるリエル。
彼女と出会ってからそこそこの時間が経過したが、リエルがこれだけ楽しげな笑みを浮かべた姿を見るのは初めてかもしれない。
何故か、この時の航大はこの瞬間がとても大切で、とても儚いものであると感じていた。色々とやることは山積みだし、世界を混沌に陥れようと動く影が存在するのも事実であり、しかしその全てが片付いたのならば、彼女たちとこういった平和な時間だってたくさん待っているはずなのに。
「……色々と心配をかけて悪かったな、リエル」
「うむ……まぁ、こうして二人だけの時間を過ごすことが出来ているのだから、良いとしよう」
「そういってくれると助かるよ……」
「もし、あのまま主様が戻らなかったのならば、儂は自分自身を誰よりも恨んでいたじゃろうな」
「自分自身を恨む……?」
「……自分が従う主様。それを二度も目の前で失ったとなれば、儂は自分を……自分の無力さを決して許すことができなかったじゃろう。事実、あの戦いにおいて儂は主様の力になるどころか、自分の身でさえ守ることが危うかったのだからな」
「…………」
「最初は我が姉様がその中にある……ただ、それだけの理由で守ると決めた。それは儂が儂であるための理由を、主様に押し付けたかっただけなのじゃ」
「ふむ……」
「しかしそれも、今では少し変わってきている」
「変わってる?」
「姉様は関係ない。儂は今、神谷 航大……貴方を守る騎士になりたいのじゃ」
航大の数歩前に飛び出したリエルは、くるりとその場で回転して笑みを浮かべる。
その顔はやはり今までに見たことがない純粋なものであり、不意に見た彼女の笑みに航大の胸は高鳴ってしまうのであった。
◆◆◆◆◆
「そういえば、これはどこに向かってるんだ?」
「んー、ちょっと昔の顔馴染みに会おうかと思ってな……」
「昔の顔馴染み? これまた急だな?」
「ふむ、砂漠で試練を受けてな……それで久しぶりに思い出したんじゃ……その、懐かしい存在を……」
「なるほどなぁ……まぁ、かなり長生きもすればそういうこともあるのかもな……」
「主様にはないか? 昔懐かしい友人に会いたくなることが」
「うーん、そうだなぁ……そう言われると、元の生活が恋しくなることもあるけど……俺は今が楽しいからいいかな」
異世界にやってきて、そこそこの時間が経過してしまった。
なので元の世界を思い出すことも少なくなってきたのだが、不思議と航大は帰りたいと強く願うことはなかった。異世界で剣と魔法に囲まれる生活も悪くはない……と、彼も無意識の内にそう思うようになっているのであった。
「いつか、主様の故郷にも行ってみたいの」
「……あぁ、いつかみんなでな」
賑やかな城下町を歩く航大とリエル。
外の喧騒とは打って変わり、航大とリエルの間には穏やかな時間が流れている。
「そういえば、昔の顔馴染みって言ってたけど、いつぶりに会うんだ?」
「うーん……ざっと、百年といったところかの?」
◆◆◆◆◆
「ここって……」
リエルと二人で歩くこと十分ほど。
航大たちはハイラント王国の城下町で最も人で賑わう一番街を歩いていた。ハイラントの一番街といえば様々な商店が立ち並び、城下町への入り口と王城への入り口が存在する唯一の場所であり、昼夜問わずに人で溢れているような場所である。
そのはずなのだが、航大たちが歩いているのは一番街の喧騒から一步外れた場所であり、陽の光も差さない裏路地なのであった。
表は相変わらず人で溢れていて賑やかな声が聞こえてくる中で、建物の間にひっそりと存在する裏路地は静寂に支配されている。
「おい、リエル……本当にこっちであってるのか?」
「うむ、儂の記憶が間違っていなければ……目指す場所はこの先に存在しているはずじゃ」
「存在しているはずって……この先には……」
一番街の裏路地。
前に一度だけ、航大はこの場所を訪れたことがあった。
それは彼が異世界にやってきてすぐのことであり、航大が持つ異能の力を宿した魔導書を調べてもらうためにこの場所にやってきた。陰湿とした空気が支配する裏路地の先、そこには変な少女が経営する魔導書店がある。
「おっ、ここじゃココッ!」
「……やっぱりか」
人影すら見つけることができない裏路地でリエルは目的地を見つけることができたようだ。
「ん、主様は知っているのか?」
「あぁ、この場所で俺は……お前のことを教えてもらったんだよ」
ハイラント王国の一番街、更にそこの裏路地を進んだ先に『魔導書店』はひっそりと存在していた。どうやって経営が成り立っているのか、考えれば考えるほどにそれは航大にとって謎なのだが、今もこうして在るということは何かしらで儲けているのだろう。
「てか、ココって数百年前から存在してるのかよ……なんでありだな、異世界……」
「どうした、主様? 行くぞ?」
「あ、あぁ……」
古びた木製の扉を開く。
久しく開けられたことがないのか、僅かな埃が虚空を舞うのを確認しつつ、航大とリエルの二人は一步を踏み出して書店の中へと足を踏み入れる。
「うっ……埃が凄いの……」
「うわぁ……相変わらず、ここは汚いなぁ……」
魔導書店の中は前回来たときと何も変わってはいなかった。
店内は航大が生きてきた世界でよく見た図書館のような内装をしていて、見渡す限りの本棚がどこまでも続いていた。この本棚が結局どこまで続いているのか、航大はその全容を把握していないのだが、外観からは想像できないほどに内部は広い様子だった。
この店はいつでも不思議な魔力に包まれていて、女神をその身に宿した今の航大はそんな微弱な魔力すらも敏感に感じ取ることが出来るようになっていた。
「全く……少しは掃除すればいいのにな……」
「うむ……儂の記憶では、こんなに汚い場所ではなかったんじゃが……」
魔導書を扱う書店は外以上に静かだった。自分が刻む心臓の鼓動すら聞こえてきそうなほどに店内は静かで、しかしその静寂が航大にとっては心地よかった。
「ふむ、今は留守じゃったかの?」
魔導書店という体裁を整えているのならば、店員の姿があっても良いようなものなのだが、キョロキョロと周囲を見渡す限りは人の姿を見つけることができない。
「こういった魔導書って高いんじゃないのか? それなのに、こんな無防備でいいのかね……」
「主様の言葉は正しいぞ。魔導書というものは、その名の通り魔法について記されたほんのことを指す。魔法というものは、己の想像力と魔力を組み合わせることで生まれる。これは分かっているな?」
「まぁ、よく分からないけど続けて」
「うむ。 魔法を想像する。言葉だけで表現するのなら簡単そうなことでも、それを実際に形にすることは相当に難しい。しかし、魔導書といわれるものはあらゆる魔法についての知識を深めることができるのじゃ」
「ふむ……まぁ、魔導書っていうだけはあるな……」
「人間が想像もできない魔法が記されており、それを読んで頭に叩き込むことでその魔法を使うことができるようになる……それが魔導書と呼ばれるものじゃ」
「……想像の部分を助けてくれるってことか?」
「その通りじゃ。更に魔導書にはその魔法を使うためには、どれだけの魔力が必要なのかもご丁寧に書いてることが多い。まぁ、いうなれば魔法の教科書といったところかの」
「なるほどねぇ……」
「自ら魔法を生み出すには相当な鍛錬と時間が必要になる。それをスキップして、お手軽に強力な魔法を使えるようにするのが、魔導書なのじゃ」
分厚い魔導書が散乱する書店の中を歩きながら、リエルは饒舌に語り尽くす。魔法と呼ばれる超常の力について航大は圧倒的に知識が不足していた。魔法のない世界からやってきたのだから、それは当然のことであるのだが、今やその世界に生きる人間の一人なのだから知識を深めようとすることは間違ってはいない。
「――おやおや、お客様とは珍しいですねぇ」
静かな書店を歩いていると、そんな声音が航大とリエルの鼓膜を震わせた。
「おっ、この声は……」
声がしてきた方向に目を向ければ、そこには全身をローブマントで覆って杖に跨って虚空を漂う少女の姿があった。それはかつて航大がこの店を訪れた時と全く同じ光景であって、あれからそんなに時間も経っていないのに航大にとっては酷く懐かしい光景に思えた。
「こんにちは、私はこの書店で店主をしております、ユピル・リリラです」
杖からおりてペコリと頭を下げる少女。
その顔の全容を把握することは難しいのだが、声音で少女であることは推測することはできる。しかし、航大の記憶が正しければ彼女は数百年を生きる魔女であり、十数年しか生きていない航大にとっては人生の大先輩なのである。
「えーと、今日は魔導書をお探しですか?」
「あー、いや……ここに用があったのは俺じゃなくてだな…………って、リエルの奴どこにいった?」
「お連れの方でしたら、さっき凄い速さでどこかに行きましたよ?」
「はっ?」
後ろを振り返ると、そこには瑠璃色の髪が特徴的な少女の姿はなかった。
「おい、リエル……どこにいったんだー?」
何故、このタイミングで姿を消してしまったのか、それが分からずに航大は戸惑いながらも少女の姿を探す。
「…………」
「きっとあっちの方に居ますよ」
「……分かるんですね?」
「そりゃ、あれだけの魔力を持つ人間ですから、この店にいる限りは見つけることなど造作もありませんよ」
「……そうか」
再び杖に跨り書店の店主である少女が動き出す。
きっとリエルの元へ案内してくれるということなのだろう、航大も黙って少女の後をついていく。
「…………」
静かに歩き続ける中で、航大は僅かな違和感を覚えていた。
ユピル・リリラ。
そう名乗った少女との邂逅はこれで二度目である。前回からはそんなに時間も経過していない。それなのに少女は航大の姿を見ても何ら特別な反応を見せることはなかった。
航大と話したのは短い時間だったため、覚えていなくても仕方はないのかもしれないが航大が引っかかっているのは、ユピルがリエルを見ても特別な反応を見せなかったことである。
リエルはデートの時間を削ってでも、この場所に来たいと懇願した。
きっとそれは、航大には分からぬ二人だけの時間があったからこその願いだと思ったのだが、ユピルはリエルを見ても再会を喜ぶような様子は見せなかったのである。
「…………」
ユピルが姿を見せた瞬間にリエルの姿は消えてしまったので、よく見えていなかっただけかもしれない。リエルを見つけることができれば、二人は感動の再会を果たすことが出来るのだろう。
「全く、自分でこの場所に来たってのに……」
変なところで人見知りを発動したリエルに航大はため息を禁じ得ない。
「あ、発見しましたよ」
「うぐッ……」
しばらく歩くとそんなユピルの声音が響く。
航大とユピルが向ける視線の先、そこには身体を小さくしているリエルの姿があった。
「なにやってんだよ、リエル。ほら、ちゃんと話をしろよ」
「久しぶりに会って緊張しただけじゃ……大丈夫、心の準備はできている」
バツが悪そうに軽く咳払いをするリエルは立ち上がると、魔導書店の店主であるユピルと真っ向から向かい合う。
「……お、お久しぶりです、ユピルさん」
僅かに頬を朱に染めて、感動の再会にリエルが選んだ第一声はそんな言葉であった。
彼女たちの間にどんな物語があったのか、それを航大が知ることはないのだが、二人の間にはそんな短い言葉でも通じるものがあるのかもしれない。百年という時は、航大にとっては気が遠くなるような時間に感じられるのだが、永遠にも似た命を持っている人間からすれば、百年というのは存外あっという間なのかもしれない。
「…………」
しばしの静寂が書店を支配する。
リエルが発した第一声にユピルは無言を保っている。
今、何かを思い出そうとしているのかもしれない。次にユピルが発する一言を航大とリエルはただ黙って待ち続けるのみである。
「――私たち、会ったことありましたっけ?」
「――――」
少なくともそれは、リエルにとって衝撃的な一言であったのは間違いなかった。
瞬間、リエルの瞳が大きく見開かれて、次には悲しげに歪んでいく。
「…………」
百年。
航大にとっては気が遠くなるような時間が流れて、最も危惧していた懸念が現実のものとなって襲い掛かってきた。やはり、百年という時は人の記憶を風化させるには十分過ぎる時間だったのだ。
リエルとユピルがどれだけの時間を共にしたのかは分からない。
二人が過ごし、確かに築いたであろう時間も、百年という時が風化させてしまったのだ。
今、その事実にリエルは打ちのめされている。
信じたくない。
嘘であって欲しい。
彼女の脳裏には様々な感情がごっちゃ混ぜになっていて、しかしそれでも永き時を生きる賢者が表情を歪ませたのは一瞬であった。
「……いえ、私たちは初対面です。ははっ、儂も長生きをしてボケてしまったのかもしれんな」
リエルはその顔に笑みを浮かべた。
それが精一杯な強がりであることを航大は理解している。
「……なんか、ごめんなさい」
「いいえ。突然、押しかけてきた儂たちが悪いのであって、貴方が謝ることはありません。儂はただ顔が見たかっただけで…………行こう、主様」
「え、いいのかよ……?」
「あぁ……これで儂の願いは果たされた」
航大の手を引いて、リエルは出口へ向けて歩き出す。
「…………」
店を出るまでの間、リエルは言葉を発することもなければ、振り返ることもなかった。
あまりにも悲しい再会。
それを目の当たりにして、航大は掛ける言葉を見つけることができない。
木製の扉を開き、魔導書店を出る。
再び遠くから人々の喧騒が聞こえてきて、しかしリエルは魔導書店の前で足を止めると俯いたまま動くことはなかった。
「あー、リエル……その……大丈夫か……?」
「……あの人は、儂の原点……みたいな人じゃ」
「…………」
「あの人に出会って、あの人に魔法を教えてもらったから……今の儂は存在している。きと、あの時……出会うこともなかったのなら、儂は姉様と共に戦うことも、賢者として生きることも、こうして主様と出会うこともなかったんだと思う……」
「…………」
「百年ぶりの再会じゃった。一緒に過ごした時間は短い……覚えていなくても……仕方はない……」
「リエル、お前……」
「だから、さっきの言葉は本心じゃ。あの人の顔を見ることができた。元気そうでよかった……儂はそれが分かればいい」
チラッと航大を見るリエルは笑っていた。
色んな感情が混ざりあったその顔を見ると、航大は酷く胸が傷んだ。
きっとリエルの言葉は正しいのだろう。
リエル・レイネル。
賢者と呼ばれ、女神と共に戦った過去を持つ彼女の原点は、確かにこの書店にあったのだ。
「…………」
彼女たちの物語を航大は知らない。
しかし、二人の間にあったはずの『絆』の存在を感じ取ることはできた。
「……戻ろう、主様。そろそろ時間じゃ」
「あぁ……」
「…………」
再び航大の手を取ってリエルは歩き出す。
その足はハイラント王国の王城を向いている。
「主様、一つだけ……約束をしてはくれないか?」
「…………」
「主様は……主様だけは儂のこと、覚えていてくれると、儂は嬉しい」
「当たり前だろ」
「…………」
「百年、二百年……どんなに時が経ったとしても、俺はお前のことを忘れねぇよ」
「……それが聞ければ、儂は満足じゃ」
リエルは笑う。
過去を振り返るのは今日、この瞬間までだ。
笑う少女の目尻に涙の姿があって、それが消えた時、瑠璃色の髪を持つ少女は前を向いて進むことができるようになっているのだろう。
強く握りしめてくるリエルの手を、同じくらいの力で握り返しながら、航大はそんなkとを考えるのであった。
束の間の休息。
一人目のデートが幕を下ろそうとしているのであった。
◆◆◆◆◆
「…………」
場所は魔導書店。
今日もこの場所は喧騒から隔離されて悠久の時を過ごそうとしていた。
この店に人影はひとつ。
店の店主である少女は窓の外に広がる薄暗い路地の光景を黙って見つめている。
「ごめんなさい、リエルさん」
呟かれた言葉は虚空に消えて、誰の鼓膜も震わせることはない。
「ちゃんと覚えていますよ、貴方のことは……」
目を閉じれば、すぐ昨日のことのように思い出すことができる。
野宿をしようとしている少女を見つけたのは、本当にただの偶然であった。瑠璃色の髪が珍しくて、つい声をかけてしまったのだ。
魔法の鍛錬をして、彼女が最終試験で壮絶な戦いを繰り広げたのもちゃんと見届けていた。初めて、弟子と呼べる存在を作った瞬間であって、出会った頃は飛ぶことも知らない小鳥のような存在が、目の前で大きく翼を広げて飛び立った瞬間を、彼女はしっかりとその目に焼き付けている。
「ごめんなさい、リエルさん……」
何度、謝罪の言葉を漏らしても自らが決めた未来は変えることはできない。どんなに彼女が魔法の才能があったとしても、過去をやり直すことはできないのだ。
「まさか、あの少年もあそこまで成長するなんて……やはり、貴方たちは運命を変えることができる存在なのですね」
久方ぶりに書店を訪れた二人の人物。
書店の店主は彼らが店に立ち入った瞬間に、すべてを思い出し、そして久しぶりの再会に胸を躍らせていた。しかし、それと同時に脳裏を過ぎったのはある使命感だった。
「貴方たちは前を向いて歩きなさい。過去の遺物である私なんかのことを考えることはありません。過酷な運命を戦う貴方たちには、私のような存在は不必要なのですから」
店主の顔には僅かな笑みと、寂しげな色が浮かんでいた。
「これでまた一つ、破滅の運命を避けることができた。後は、貴方たちの力で進みなさい。私はそれを見届けます」
破滅の運命。
その分岐点が再会の瞬間だった。
過去を蘇らせれば、彼らはそれを無視することができなくなってしまう。
結果的に世界が破滅してしまうのならば、再会を喜ぶのは今じゃない。
「いつかの未来で、再び貴方たちと運命が交わる日を、私は楽しみにしてますね」
それが最後の言葉だった。
魔導書店は再びの静寂に包まれる。
来たる破滅の時に向けて、彼女は歩み出す。
願わくば、平穏な世界が訪れますようにと祈りを込めて。
砂塵の試練を終えて、ハイラント王国へと帰還を果たした航大たち一行。
彼らは次なる旅路の前に束の間の休息を楽しんでいた。
今、航大の中で静かに息づく暴風の女神・カガリが紛らわしい行動を取った結果、航大はユイ、リエル、シルヴィアの三人とデートをすることとなってしまい、まだ朝方の城下町を歩く航大の隣には、酷くご機嫌といった様子のリエルが瑠璃色の髪を揺らしてトコトコと歩いている。
「まぁ、時間はまだあるし……優勝のご褒美ってところだな」
「ふふっ、さすがは儂の主様じゃ」
優勝のご褒美。
何気なく立ち入った喫茶店にて、リエルは壮絶なる戦いを繰り広げることとなった。
その勝負は傍から見ればくだらないものだったかもしれない、しかし北方の賢者と呼ばれた少女にとっては引くに引けない戦いだったのである。
「それにしても、リエルのメイド服姿……悪くなかったよなぁ……」
「うっ……そ、そのことは忘れるんじゃッ……今、思い出しても恥ずかしい……」
ハイラント王国の城下町で繰り広げられたのは、店員たち総出のメイド総選挙だった。何故、そんな戦いが勃発したのかは割愛するが、フリル満載、太腿と胸元も大胆に露出したメイド服を身に纏い、リエルは堂々と戦い抜くことに成功したのだった。
彼女が見せた姿は航大の脳裏に色濃く残っており、恥ずかしさのあまり頬を真っ赤に染めるリエルの姿に、航大は不覚にも胸を高鳴らせてしまったのである。
「忘れろって言われてもなぁ……難しいかもしれん」
「うぐッ……わ、分かった……主様は覚えててもいい……しかしじゃな、あやつらには絶対に秘密じゃぞッ!」
頬を赤く染めたままリエルがいうあやつら、それがユイたちを指すことはさすがの航大にも理解することが出来た。もし、この世界に写真という技術が存在していたのであれば、きっと航大はリエルの可愛らしい写真をメモリーいっぱいにまで撮り溜めていたであろう。
「分かったって、じゃあ……これは俺とリエルだけの秘密って奴だな」
「……二人だけの秘密。くくっ、そういうのも悪くはない」
航大の言葉を噛みしめるようにして満面の笑みを浮かべるリエル。
彼女と出会ってからそこそこの時間が経過したが、リエルがこれだけ楽しげな笑みを浮かべた姿を見るのは初めてかもしれない。
何故か、この時の航大はこの瞬間がとても大切で、とても儚いものであると感じていた。色々とやることは山積みだし、世界を混沌に陥れようと動く影が存在するのも事実であり、しかしその全てが片付いたのならば、彼女たちとこういった平和な時間だってたくさん待っているはずなのに。
「……色々と心配をかけて悪かったな、リエル」
「うむ……まぁ、こうして二人だけの時間を過ごすことが出来ているのだから、良いとしよう」
「そういってくれると助かるよ……」
「もし、あのまま主様が戻らなかったのならば、儂は自分自身を誰よりも恨んでいたじゃろうな」
「自分自身を恨む……?」
「……自分が従う主様。それを二度も目の前で失ったとなれば、儂は自分を……自分の無力さを決して許すことができなかったじゃろう。事実、あの戦いにおいて儂は主様の力になるどころか、自分の身でさえ守ることが危うかったのだからな」
「…………」
「最初は我が姉様がその中にある……ただ、それだけの理由で守ると決めた。それは儂が儂であるための理由を、主様に押し付けたかっただけなのじゃ」
「ふむ……」
「しかしそれも、今では少し変わってきている」
「変わってる?」
「姉様は関係ない。儂は今、神谷 航大……貴方を守る騎士になりたいのじゃ」
航大の数歩前に飛び出したリエルは、くるりとその場で回転して笑みを浮かべる。
その顔はやはり今までに見たことがない純粋なものであり、不意に見た彼女の笑みに航大の胸は高鳴ってしまうのであった。
◆◆◆◆◆
「そういえば、これはどこに向かってるんだ?」
「んー、ちょっと昔の顔馴染みに会おうかと思ってな……」
「昔の顔馴染み? これまた急だな?」
「ふむ、砂漠で試練を受けてな……それで久しぶりに思い出したんじゃ……その、懐かしい存在を……」
「なるほどなぁ……まぁ、かなり長生きもすればそういうこともあるのかもな……」
「主様にはないか? 昔懐かしい友人に会いたくなることが」
「うーん、そうだなぁ……そう言われると、元の生活が恋しくなることもあるけど……俺は今が楽しいからいいかな」
異世界にやってきて、そこそこの時間が経過してしまった。
なので元の世界を思い出すことも少なくなってきたのだが、不思議と航大は帰りたいと強く願うことはなかった。異世界で剣と魔法に囲まれる生活も悪くはない……と、彼も無意識の内にそう思うようになっているのであった。
「いつか、主様の故郷にも行ってみたいの」
「……あぁ、いつかみんなでな」
賑やかな城下町を歩く航大とリエル。
外の喧騒とは打って変わり、航大とリエルの間には穏やかな時間が流れている。
「そういえば、昔の顔馴染みって言ってたけど、いつぶりに会うんだ?」
「うーん……ざっと、百年といったところかの?」
◆◆◆◆◆
「ここって……」
リエルと二人で歩くこと十分ほど。
航大たちはハイラント王国の城下町で最も人で賑わう一番街を歩いていた。ハイラントの一番街といえば様々な商店が立ち並び、城下町への入り口と王城への入り口が存在する唯一の場所であり、昼夜問わずに人で溢れているような場所である。
そのはずなのだが、航大たちが歩いているのは一番街の喧騒から一步外れた場所であり、陽の光も差さない裏路地なのであった。
表は相変わらず人で溢れていて賑やかな声が聞こえてくる中で、建物の間にひっそりと存在する裏路地は静寂に支配されている。
「おい、リエル……本当にこっちであってるのか?」
「うむ、儂の記憶が間違っていなければ……目指す場所はこの先に存在しているはずじゃ」
「存在しているはずって……この先には……」
一番街の裏路地。
前に一度だけ、航大はこの場所を訪れたことがあった。
それは彼が異世界にやってきてすぐのことであり、航大が持つ異能の力を宿した魔導書を調べてもらうためにこの場所にやってきた。陰湿とした空気が支配する裏路地の先、そこには変な少女が経営する魔導書店がある。
「おっ、ここじゃココッ!」
「……やっぱりか」
人影すら見つけることができない裏路地でリエルは目的地を見つけることができたようだ。
「ん、主様は知っているのか?」
「あぁ、この場所で俺は……お前のことを教えてもらったんだよ」
ハイラント王国の一番街、更にそこの裏路地を進んだ先に『魔導書店』はひっそりと存在していた。どうやって経営が成り立っているのか、考えれば考えるほどにそれは航大にとって謎なのだが、今もこうして在るということは何かしらで儲けているのだろう。
「てか、ココって数百年前から存在してるのかよ……なんでありだな、異世界……」
「どうした、主様? 行くぞ?」
「あ、あぁ……」
古びた木製の扉を開く。
久しく開けられたことがないのか、僅かな埃が虚空を舞うのを確認しつつ、航大とリエルの二人は一步を踏み出して書店の中へと足を踏み入れる。
「うっ……埃が凄いの……」
「うわぁ……相変わらず、ここは汚いなぁ……」
魔導書店の中は前回来たときと何も変わってはいなかった。
店内は航大が生きてきた世界でよく見た図書館のような内装をしていて、見渡す限りの本棚がどこまでも続いていた。この本棚が結局どこまで続いているのか、航大はその全容を把握していないのだが、外観からは想像できないほどに内部は広い様子だった。
この店はいつでも不思議な魔力に包まれていて、女神をその身に宿した今の航大はそんな微弱な魔力すらも敏感に感じ取ることが出来るようになっていた。
「全く……少しは掃除すればいいのにな……」
「うむ……儂の記憶では、こんなに汚い場所ではなかったんじゃが……」
魔導書を扱う書店は外以上に静かだった。自分が刻む心臓の鼓動すら聞こえてきそうなほどに店内は静かで、しかしその静寂が航大にとっては心地よかった。
「ふむ、今は留守じゃったかの?」
魔導書店という体裁を整えているのならば、店員の姿があっても良いようなものなのだが、キョロキョロと周囲を見渡す限りは人の姿を見つけることができない。
「こういった魔導書って高いんじゃないのか? それなのに、こんな無防備でいいのかね……」
「主様の言葉は正しいぞ。魔導書というものは、その名の通り魔法について記されたほんのことを指す。魔法というものは、己の想像力と魔力を組み合わせることで生まれる。これは分かっているな?」
「まぁ、よく分からないけど続けて」
「うむ。 魔法を想像する。言葉だけで表現するのなら簡単そうなことでも、それを実際に形にすることは相当に難しい。しかし、魔導書といわれるものはあらゆる魔法についての知識を深めることができるのじゃ」
「ふむ……まぁ、魔導書っていうだけはあるな……」
「人間が想像もできない魔法が記されており、それを読んで頭に叩き込むことでその魔法を使うことができるようになる……それが魔導書と呼ばれるものじゃ」
「……想像の部分を助けてくれるってことか?」
「その通りじゃ。更に魔導書にはその魔法を使うためには、どれだけの魔力が必要なのかもご丁寧に書いてることが多い。まぁ、いうなれば魔法の教科書といったところかの」
「なるほどねぇ……」
「自ら魔法を生み出すには相当な鍛錬と時間が必要になる。それをスキップして、お手軽に強力な魔法を使えるようにするのが、魔導書なのじゃ」
分厚い魔導書が散乱する書店の中を歩きながら、リエルは饒舌に語り尽くす。魔法と呼ばれる超常の力について航大は圧倒的に知識が不足していた。魔法のない世界からやってきたのだから、それは当然のことであるのだが、今やその世界に生きる人間の一人なのだから知識を深めようとすることは間違ってはいない。
「――おやおや、お客様とは珍しいですねぇ」
静かな書店を歩いていると、そんな声音が航大とリエルの鼓膜を震わせた。
「おっ、この声は……」
声がしてきた方向に目を向ければ、そこには全身をローブマントで覆って杖に跨って虚空を漂う少女の姿があった。それはかつて航大がこの店を訪れた時と全く同じ光景であって、あれからそんなに時間も経っていないのに航大にとっては酷く懐かしい光景に思えた。
「こんにちは、私はこの書店で店主をしております、ユピル・リリラです」
杖からおりてペコリと頭を下げる少女。
その顔の全容を把握することは難しいのだが、声音で少女であることは推測することはできる。しかし、航大の記憶が正しければ彼女は数百年を生きる魔女であり、十数年しか生きていない航大にとっては人生の大先輩なのである。
「えーと、今日は魔導書をお探しですか?」
「あー、いや……ここに用があったのは俺じゃなくてだな…………って、リエルの奴どこにいった?」
「お連れの方でしたら、さっき凄い速さでどこかに行きましたよ?」
「はっ?」
後ろを振り返ると、そこには瑠璃色の髪が特徴的な少女の姿はなかった。
「おい、リエル……どこにいったんだー?」
何故、このタイミングで姿を消してしまったのか、それが分からずに航大は戸惑いながらも少女の姿を探す。
「…………」
「きっとあっちの方に居ますよ」
「……分かるんですね?」
「そりゃ、あれだけの魔力を持つ人間ですから、この店にいる限りは見つけることなど造作もありませんよ」
「……そうか」
再び杖に跨り書店の店主である少女が動き出す。
きっとリエルの元へ案内してくれるということなのだろう、航大も黙って少女の後をついていく。
「…………」
静かに歩き続ける中で、航大は僅かな違和感を覚えていた。
ユピル・リリラ。
そう名乗った少女との邂逅はこれで二度目である。前回からはそんなに時間も経過していない。それなのに少女は航大の姿を見ても何ら特別な反応を見せることはなかった。
航大と話したのは短い時間だったため、覚えていなくても仕方はないのかもしれないが航大が引っかかっているのは、ユピルがリエルを見ても特別な反応を見せなかったことである。
リエルはデートの時間を削ってでも、この場所に来たいと懇願した。
きっとそれは、航大には分からぬ二人だけの時間があったからこその願いだと思ったのだが、ユピルはリエルを見ても再会を喜ぶような様子は見せなかったのである。
「…………」
ユピルが姿を見せた瞬間にリエルの姿は消えてしまったので、よく見えていなかっただけかもしれない。リエルを見つけることができれば、二人は感動の再会を果たすことが出来るのだろう。
「全く、自分でこの場所に来たってのに……」
変なところで人見知りを発動したリエルに航大はため息を禁じ得ない。
「あ、発見しましたよ」
「うぐッ……」
しばらく歩くとそんなユピルの声音が響く。
航大とユピルが向ける視線の先、そこには身体を小さくしているリエルの姿があった。
「なにやってんだよ、リエル。ほら、ちゃんと話をしろよ」
「久しぶりに会って緊張しただけじゃ……大丈夫、心の準備はできている」
バツが悪そうに軽く咳払いをするリエルは立ち上がると、魔導書店の店主であるユピルと真っ向から向かい合う。
「……お、お久しぶりです、ユピルさん」
僅かに頬を朱に染めて、感動の再会にリエルが選んだ第一声はそんな言葉であった。
彼女たちの間にどんな物語があったのか、それを航大が知ることはないのだが、二人の間にはそんな短い言葉でも通じるものがあるのかもしれない。百年という時は、航大にとっては気が遠くなるような時間に感じられるのだが、永遠にも似た命を持っている人間からすれば、百年というのは存外あっという間なのかもしれない。
「…………」
しばしの静寂が書店を支配する。
リエルが発した第一声にユピルは無言を保っている。
今、何かを思い出そうとしているのかもしれない。次にユピルが発する一言を航大とリエルはただ黙って待ち続けるのみである。
「――私たち、会ったことありましたっけ?」
「――――」
少なくともそれは、リエルにとって衝撃的な一言であったのは間違いなかった。
瞬間、リエルの瞳が大きく見開かれて、次には悲しげに歪んでいく。
「…………」
百年。
航大にとっては気が遠くなるような時間が流れて、最も危惧していた懸念が現実のものとなって襲い掛かってきた。やはり、百年という時は人の記憶を風化させるには十分過ぎる時間だったのだ。
リエルとユピルがどれだけの時間を共にしたのかは分からない。
二人が過ごし、確かに築いたであろう時間も、百年という時が風化させてしまったのだ。
今、その事実にリエルは打ちのめされている。
信じたくない。
嘘であって欲しい。
彼女の脳裏には様々な感情がごっちゃ混ぜになっていて、しかしそれでも永き時を生きる賢者が表情を歪ませたのは一瞬であった。
「……いえ、私たちは初対面です。ははっ、儂も長生きをしてボケてしまったのかもしれんな」
リエルはその顔に笑みを浮かべた。
それが精一杯な強がりであることを航大は理解している。
「……なんか、ごめんなさい」
「いいえ。突然、押しかけてきた儂たちが悪いのであって、貴方が謝ることはありません。儂はただ顔が見たかっただけで…………行こう、主様」
「え、いいのかよ……?」
「あぁ……これで儂の願いは果たされた」
航大の手を引いて、リエルは出口へ向けて歩き出す。
「…………」
店を出るまでの間、リエルは言葉を発することもなければ、振り返ることもなかった。
あまりにも悲しい再会。
それを目の当たりにして、航大は掛ける言葉を見つけることができない。
木製の扉を開き、魔導書店を出る。
再び遠くから人々の喧騒が聞こえてきて、しかしリエルは魔導書店の前で足を止めると俯いたまま動くことはなかった。
「あー、リエル……その……大丈夫か……?」
「……あの人は、儂の原点……みたいな人じゃ」
「…………」
「あの人に出会って、あの人に魔法を教えてもらったから……今の儂は存在している。きと、あの時……出会うこともなかったのなら、儂は姉様と共に戦うことも、賢者として生きることも、こうして主様と出会うこともなかったんだと思う……」
「…………」
「百年ぶりの再会じゃった。一緒に過ごした時間は短い……覚えていなくても……仕方はない……」
「リエル、お前……」
「だから、さっきの言葉は本心じゃ。あの人の顔を見ることができた。元気そうでよかった……儂はそれが分かればいい」
チラッと航大を見るリエルは笑っていた。
色んな感情が混ざりあったその顔を見ると、航大は酷く胸が傷んだ。
きっとリエルの言葉は正しいのだろう。
リエル・レイネル。
賢者と呼ばれ、女神と共に戦った過去を持つ彼女の原点は、確かにこの書店にあったのだ。
「…………」
彼女たちの物語を航大は知らない。
しかし、二人の間にあったはずの『絆』の存在を感じ取ることはできた。
「……戻ろう、主様。そろそろ時間じゃ」
「あぁ……」
「…………」
再び航大の手を取ってリエルは歩き出す。
その足はハイラント王国の王城を向いている。
「主様、一つだけ……約束をしてはくれないか?」
「…………」
「主様は……主様だけは儂のこと、覚えていてくれると、儂は嬉しい」
「当たり前だろ」
「…………」
「百年、二百年……どんなに時が経ったとしても、俺はお前のことを忘れねぇよ」
「……それが聞ければ、儂は満足じゃ」
リエルは笑う。
過去を振り返るのは今日、この瞬間までだ。
笑う少女の目尻に涙の姿があって、それが消えた時、瑠璃色の髪を持つ少女は前を向いて進むことができるようになっているのだろう。
強く握りしめてくるリエルの手を、同じくらいの力で握り返しながら、航大はそんなkとを考えるのであった。
束の間の休息。
一人目のデートが幕を下ろそうとしているのであった。
◆◆◆◆◆
「…………」
場所は魔導書店。
今日もこの場所は喧騒から隔離されて悠久の時を過ごそうとしていた。
この店に人影はひとつ。
店の店主である少女は窓の外に広がる薄暗い路地の光景を黙って見つめている。
「ごめんなさい、リエルさん」
呟かれた言葉は虚空に消えて、誰の鼓膜も震わせることはない。
「ちゃんと覚えていますよ、貴方のことは……」
目を閉じれば、すぐ昨日のことのように思い出すことができる。
野宿をしようとしている少女を見つけたのは、本当にただの偶然であった。瑠璃色の髪が珍しくて、つい声をかけてしまったのだ。
魔法の鍛錬をして、彼女が最終試験で壮絶な戦いを繰り広げたのもちゃんと見届けていた。初めて、弟子と呼べる存在を作った瞬間であって、出会った頃は飛ぶことも知らない小鳥のような存在が、目の前で大きく翼を広げて飛び立った瞬間を、彼女はしっかりとその目に焼き付けている。
「ごめんなさい、リエルさん……」
何度、謝罪の言葉を漏らしても自らが決めた未来は変えることはできない。どんなに彼女が魔法の才能があったとしても、過去をやり直すことはできないのだ。
「まさか、あの少年もあそこまで成長するなんて……やはり、貴方たちは運命を変えることができる存在なのですね」
久方ぶりに書店を訪れた二人の人物。
書店の店主は彼らが店に立ち入った瞬間に、すべてを思い出し、そして久しぶりの再会に胸を躍らせていた。しかし、それと同時に脳裏を過ぎったのはある使命感だった。
「貴方たちは前を向いて歩きなさい。過去の遺物である私なんかのことを考えることはありません。過酷な運命を戦う貴方たちには、私のような存在は不必要なのですから」
店主の顔には僅かな笑みと、寂しげな色が浮かんでいた。
「これでまた一つ、破滅の運命を避けることができた。後は、貴方たちの力で進みなさい。私はそれを見届けます」
破滅の運命。
その分岐点が再会の瞬間だった。
過去を蘇らせれば、彼らはそれを無視することができなくなってしまう。
結果的に世界が破滅してしまうのならば、再会を喜ぶのは今じゃない。
「いつかの未来で、再び貴方たちと運命が交わる日を、私は楽しみにしてますね」
それが最後の言葉だった。
魔導書店は再びの静寂に包まれる。
来たる破滅の時に向けて、彼女は歩み出す。
願わくば、平穏な世界が訪れますようにと祈りを込めて。
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